2014年6月30日月曜日

カルロス・ガルデルの愛の物語 【イボンヌとガルデル】


 夜の眠れないひと時にガルデルのCDに聞き入る中、突然“ノ・メ・アブレ・デ・アモール(愛の話をしないでおくれ)”(1)との歌声に一瞬,彼に叱られた気持ちに落ち込んだが。
 このシリーズの途中なので無視する事にして次のロマンスへ移るとする。
ガルデルはフランスのパリ郊外にあるサン・マウリセのパラマウント映画撮影所にやって来た。
 そして,映画“ルセス・デ・ブエノス・アイレス(~淡き光)”の撮影に入る。
当然ペルリータとの愛沙汰はまたも途切れる。
 

 これから述べるロマンスはこの時期のフランス滞在の頃に起きたのだが、当時は全く人目には触れずにいた。ガルデルがボゴタに公演した前後に、フランスからソルサルの後追いして来たと思われる謎に包まれた女性イボンヌ・ギテライが,かの歌手の友人で当国映画界社主二コラス・ディアス氏に彼女自身の秘密を明かした物語を載せよう:

 『私の家族は滅亡ハンガリー王国の上流社会に所属した。何所か名前を出したくない有名な都市で私の母は女子神学校の学長を勤め、エリート育成していたが。第一次大戦後のトリアノン条約(2)で数千人の犠牲者の中で戦後の動揺した政権の波乱時代になると,私の家族は財産を殆んど失なったが、私自身の若さと美貌と高等教育が粗末なタイピストに成り下がるのを妨げ、人生の進路を見失い、どの道を選択するか迷っていた。
 その時、私の人生に突然にヨーロッパ・リゾートのコスモポリタン上層世界貴族階級の一人の素敵なプリンスが出現した。私の若さと彼は外国人のため家族は結婚を反対した。だが、私は彼と結ばれ、私達は宗教的巡礼をするかの様に極東帝国日本、ジャワ、エジプトなどを彷徨した末に,シャンパンの祭り騒ぎに偽の喜びの嘆きの果てに魂の破滅を一掃しようと努めた。

 時は過ぎて行き‘27年に我々夫婦はコート・ダジュールに落ち着く。コスモポリタン社交界群に属す競馬場、ダンス・サロン、カジノを私は強くもちあいの美貌で社交界を支配していた人達の間の何人からは些細だが敬意を得てた。

 ある夏の華麗な日に私は『離婚』の最終的な決心をする。

 富豪華に微笑む春のパリー、
花咲くカーニバルのニース、
カンヌのミモザ花の祭りと愛の歌、空、
海の自然は花咲き視野が開き
青春賛歌の世界の中に家庭を捨てて一人飛び出した。

 それは18歳の頃、
パリーに孤独に住み明確な目的もなく。
1928年の古きパリー、
パリーの放埓と贅沢なシャンパン。
価値無しのフランコのパリー。
外人パライソのパリー。

 小王様金持ちヤンキーと南米人で充満していた、パリー。
1928年の豪華なパリー,
外人の財布を空にせしめる新しい興奮、
毎日新しいキャバレーが誕生していたパリー。
パリーの若き18歳、金髪、青い瞳、一人孤独。
 その不幸の苦しみを和らげ様と快楽の深みにのめり込んで行く私。
キャバレーでは常時人目に注目の元。
金額に疎く、踊り子に振舞うシャンパン、
給仕に与える高額な心ずけ、何時も一人で現れる。
何時か、あの国際性豊かな環境にて徘徊する,
一つのあの要素に秘密の罪を発見する。

 それは忘却するための手段を誰かに薦められてコカイン、モルフィーナ、ドラッグ、奇怪な様相の踊り子、褐色な色合いの豊富な毛髪の南米人、エキゾチックな場所を探し。
 
あの時代に『フロリダ』に今着いたばかりのデビューしたキャバレーの歌い手。
エキゾチックな言葉で歌うエキゾチックな唄で盛大な拍手受け成功の人。
その時まで未知の場所にて不思議な衣装で唄う。
 アルヘンティーナのタンゴ、ランチェーラ、サンバ。
彼は白い歯、痩せ型、少しモローチョ青年。
美しいパリーの誰かの注意を満たす人。

 彼の名はカルロス・ガルデル。
全魂で唄う泣き節タンゴ、観衆の心を何故か知らず虜にする不思議。
モダン・タンゴでなくそれは古いアルヘンティーナの唄。
真髄のパンパのガウチョの魂、
カミニート、ラ・チャカレーラ、アケル・タパド・デ・アルミニョ、
ケハ・インディアーナ、エントレ・スエニョ、
彼ガルデルは流行最先端にいた。
 

 ロンジュシャン・ホテルの常連客、キャバレー、劇場、ミュージック・ホール、競馬場。
全ての処でその顔モローチョ、白い歯、輝く清々しい笑顔。
しかし、ガルデルは彼の仲間内サクールのみでの興じる方法が好きだった。
あの時期に南米人が独占的に出入りしたクリシェ通にある。
“パレルモ”と呼ばれたキャバレーがあった。
そこで私はガルデルに知り会う。
彼は全女性に興味を示したが。
でも、私にとってコカイン、、、とシャンパン以上に関心を持てなかった。
 パリーでめぐり遇う日々の男達と淑女間のアイドル的の私に女性らしい虚栄心をくすぐるが。
しかし,私の心には全たくの反応は無い。
あの時の親交はあの夜、あの散歩、あの内緒事、花庭園の眺め越しにパリーの冴えない月光下に再確認。
 このロマンス利害関係に幾多の日々が過ぎていく。
誓いは絹のように美辞麗句は冷淡な岩のような心に深く食いこみ。
 あの男は私の魂の中に入り込んでくる。
私は気が狂い、私の華麗なピシート(秘密部屋)は喜びに満たされ,
今は淡い光の充満の中にいる。
 もうキャバレーには戻らない私。
私の華麗な灰色の部屋。
電気スタンドの煌めき。
モレーノ姿に確固たる調和した金髪姿。私の青い部屋。
行き先不明の魂のノスタルジー。
全て知り,今、真の愛の巣。それは私の初愛。』
 とイボンヌはガルデルとの束の間の恋を告白した。

どの位の時が過ぎたのか告げかねないが...時は果かなく激流ごとき過ぎ去り。
パリーを眩惑させた風変わりな金髪女、高貴な香水、シャンパンとロシア・キャビアや日々の手堅い皿を飾る慇懃なパーティーは姿を消した。数ヶ月過ぎ、パレルモ、フロリダ、ガロンなどの永遠の常連客は新聞記事によって,前代見聞きの厚かましき金髪と青い目の若き踊り手は,花咲く青春の全ての官能美により,ポルテニョの若旦那を熱狂させた事を知る。』
 

 その人、イボンヌ・ギトライ。
そして、数年後舞台は南米アンデス山脈の小都市ボゴタに“メレニータ・デ・オロ(金髪)”の優麗婦人、その彼女は現れる。この地に度の様にやって来たか何人も知れず。時はガルデルが丁度公演中か、彼の後追いパリーから遥々長旅。密かに彼と蜜会か、それも適われずか。自殺未遂でボゴタ世間の話題にのり。そして、ガルデルと恋物語の告白。無事にパリーに帰還したか。その後の彼女の消息を知る人物はいない。

コロンビア,ボゴタ:マリオ・サルミエント・バルガスの記録から
(Nota:Mario Salmiento Vargas en el ciudad de Bogota Colombia)

注:(1)“ノ・メ・アブレ・デ・アモール(愛の話はしないでおくれ)”のせりふが出てくる曲は“ベサメ・エン・ラ・ボーカ(唇にキスして)”作詞:エドワルド・カルボ、作曲:ホセ・マリア・リスティー、#18169A、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらのギター伴奏で‘26年録音
注:(2)トリアノン条約は1920年6月4日に第一次世界大戦の敗戦国、ハンガリー帝国と勝戦連合国がフランス、ベルサイユ宮殿大トリアノンにて結んだ条約。
Wikipediaの『トリアノン条約』を参考ください。

El Bohemio記

2014年6月29日日曜日

ガルデルは生きていた(3)

タンゴバー「エル・アバスト」の出来事    前章のフリィンの証言による“ガルデル生存説”を読み,スクラップしてあった古い新聞のコラム記事を思い出した。    その記事は都市計画により公園化されたメデジン市庁舎脇のグアジャキル街のタンゴバー「エル・アバスト」に現われた「謎の男」の物語の記事が載っていた。あの街区は小生が訪れた時期(1976 年頃)は密輸入品マーケットが密集した混沌とした場所で夜になると周辺の数件のバーに火が灯り何処からともなくタンゴが響き流れてくるが...しかし,そこは場末の犯罪巣窟の様な不気味な雰意気さえ感じられた。そこの一角の半地下に「エル・アバスト」はあった。  店は決して高級な店構えでは無く,誰でも気楽に入れそうだった。ここは常時タンゴ(主にガルデルのテーマ)が歌われ演奏の実演ショーが売り物であると聞いていた。店内は極質素な椅子とテーブルにビールや地酒のアグアディエンテにほろ酔い加減の労働者風の人物達がジュークボックスから流れるタンゴを聴きもしないで大声でサッカーの話題に夢中になっていた。連れてきてくれた人には悪く思ったが,小生はショーが中々始まらないので落ち着けず,そこを逃げ出したい気持ちを我慢するのに苦労した記憶がある。    「この新聞のコラム記事を読んでみると...」  
『物語は40年代半ば頃。この“バー”に帽子を深めに被りレインコートの襟を立て顔面を隠し気味にした孤独な男が“この場所”へ頻繁に出入りしていた。 この男は一人でバーの薄暗い角の隅に座るのが常で,聞こえてくるタンゴに酔い気味なのか,それとも何か深い思索に没頭する様子だった。酔っ払い客の喧嘩争いや騒動がしばしば起こるにも関わらず,この男は冷静に振舞った。その上,奇怪な事に客の誰もが挑発を挑むどころか言葉も交わそうとしなかった。 ある夜の事...彼は突然タイミング悪く椅子を立ち地酒のボトルが置かれたテーブルを後にすると,たった今アントケーニャ地方の民謡トリオのメンバーが引き上げたステージに向かったと思うとギターの即興演奏をしながらマイクに向かい郷愁を誘うあの歌を... 「Yo adivino el parpadeo/de las luces que a lo lejos/van marcando mi retorno./Son las mismas que alumbraron/con sus pálidos reflejos/hondas horas de dolor. (おれは彼方を占う/遠くに輝くほのかな光を,/おれは帰えるべき導として..、/瞼に微かに見とどける.../深い苦しみの刻限を、、、)」 とばかりに“ボルベール(帰る)”を一気に歌い上げた。    店内の騒動や喧騒は一瞬,教会のミサ礼拝の如く静寂に包まれる。酔いに醒めた客の皆は「謎の男」の見事な歌いぶりに唖然している間にステージにはすでに男の影形も見当たらなかった。その姿はカルロス・ガルデルの容貌に余りにも似ているだけでなく,独特の声に気を揉ませるほど似せる能力だと,そこに居合わせた全員が一致して指摘した。タンゴに精通した人々はその夜の独特の“比類の無い歌声”は単なる物真似ではなく,真に迫る本物に違いないと断言した。正確に示すと,あそこで彼の姿を見届けたのは「1945年6月24日」の夜が最後だった。  そして「エル・アバスト」のオーナーもスタッフ達すら「謎の男」が誰であったか名前も何処から来たかも知らなかった。忘れられない夜更けにあのタンゴ“ボルベール”を紛れも無くガルデルの“その物ずばりの演唱”で居合わせた全ての観衆を驚かせた人物。とはいえ,ありきたりの感動を誰が必要としたのか?...  かの男は単に10年目の年忌を自分自身で祝った幽霊だった。』とコラムの著者ダビー・ヒメネス氏はこの事件の様子を生々しく書いているが,彼はカルデルが“ラ・プラジャ飛行場”の事故から奇跡的に生存した事実を知らなかったと思われる。  ミスター・フリィンが報告した様にガルデルは生きていたのだ!!!... そして,週刊誌「クロモ」の記者達が突き止めたエル・レティーロのフィンカ(農園)から誰からも咎められる事無く秘かに度々“エル・アバスト”に現れていたのだ...事故後,彼は唯一の機会に極少ないフアンの前で歌ったのである。そうだ,彼ガルデルは自分の“偽りの死”から“エル・マゴ(魔法使い)”の本領を発揮して生存を果たした10年目(60歳)を確認したい為に敢えて人前に現われたのだ。しかしながら,ガルデルのその後の消息を知る手段は無い。それは余りにも時が過ぎたから... 注記:1994年9月11日,エル・エスペクタドール紙日曜版のタンゴ特集コラム記事を参考にした。

2014年6月27日金曜日