2014年11月11日火曜日

ガルデルの遺体の行方


 前編では悲惨な事故の経過とその一年後にアギラールの告白によった真相を明かしたが、ガルデルの遺体の行方を追う事にしよう。
 カルロス・ガルデルの遺体はメデジン市内のサン・ペドロ墓地北側の回廊2番墓地に埋葬された。

 そうこうするうちにカルロス・ガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノはガルデルの手書きの遺言書(*)を持参して遥遥ブエノスアイレスから航路ニューヨーク経由バランキージャへ、そこから空路を使い長旅の果てにやつとメデジンに着いた。それは事故後二ヵ月にも成らない1935813日だった。 
 それにしても、数々の複雑な問題を如何に解決したか不明だが、結局は1211日にデフィーノは教会に遺言書(偽証)を見せて故人は亜国出身者と語り、カルロス・ガルデルの死亡証明書の入手した彼はサンペドロ墓地からガルデルの遺体を掘り出しに成功(?)する。
 
  彼デフィーノはボゴタの病院で火傷の治療の為に入院していたホセ・マリア・アギラールを苦労の末にみつけだした。そして事故原因や偽の遺言書を他人に明かさない様にと多額の金を払う約束を取りつけるのに成功した。
 

 彼はボゴタから空路カリへ、そこから鉄路ブエナべントゥラ港でガルデルの遺体を待つが、荷物は待てど暮らせど到着せず痺れを来たした彼は先に航路でニューヨークへ発ったのである。

 その年の1229日にガルデルの遺体は再び御棺に入れられた後、メデジンから鉄道を使い南の村落ラ・ピンターダまで行き、そこから馬車でバルパライソまで行く、先は道路が途切れているため、ロバ数頭を仕立て、カラマンタ、マルモトの村落を通過、スピーアで村民にガルデルの遺体であることが知れ渡り、村の中心広場の教会で追悼ミサが捧げられた。スピーアから馬車でリオスシオ、アンセルマと続きペレイラに到着した後。今度は鉄道でカリ市の近くの太平洋岸に在るブエナベントゥラ港へ到着した(この旅は5Km余りの行程を8日間費やした)。
そこからは汽船でパナマ運河を経由して、1936117日、ニューヨークに到着した。
 ここで壮大な通夜と葬儀が行われたのだが、葬儀礼拝に参加したガルデルの映画に共演した俳優がこの遺体はガルデル本人の物ではないと言い出しているのを代理人デフィーノは知る由も無く、1936125日、8日後に豪華船パンアメリカーナでブエノスアイレスに向かうべき出航した。
 

 途中モンテビデオに24日到着したガルデルの遺棺は旧友ホセ・ラサーノ、フランシスコ・カナロらに迎えられ、ブエノス・アイレスまで同行する。

  193625日、午前11時、ブエノス・アイレス到着。ダルセーナ北岸壁には三万人の群集が出迎える中を、ここでも旧友レギサモを初めにフランシスコ・マチオ、リベルター・ラマルケ、ソフィア・ボサンらが葬儀馬車まで御棺に付き添いルナパークへ向かう。   
 
 

 ルナパークではカトリック宗教上の習慣による祭壇が祭られ、フランシスコ・カナロとロベルト・フィルポのオルケスタの演奏でロベルト・マイダが“シレンシオ”を二回繰り返し歌う。
 

 翌6日に壮大な葬儀が行われ、ルナパークからチャカリータまでの道のりは別れの群集で渦リ、群集の中には葬儀馬車からガルデルの御棺を降ろし、彼等で肩に担ぎ行進を試みる輩さえ出る始末で、チャカリータ墓地への到着は非常に難儀を強いられた。

 当初、遺体はパンテオンに安息納骨収まれたが、翌年‘37117日に現在の募樟に祭られた。ただし、今日現在誰もこの遺体に疑問を持つ者はいない。

 チャカリータのガルデル墓地には彼の“本物の遺体”は無い。
それは未だにコロンビアのメデジンにある。

 

2014年10月10日金曜日

Enigmaの真相


「ガルデル一行が興行先のコロンビア、メデジンの飛行場で事故死した事件は多く語られているがほとんどが結末をぼかしている。小生は推理小説並みのとんでもない真相を見つけたのである」

  『事故原因の真相は』
 『フオードF-31機の搭乗は後ろの席からセレドニオ・パラシオ氏(プロモータ、バランキージャの映画館主)、その次はヘンリー・シュワルツ(コロンビア・ユニバサール・ピクチャーズのマネジャー)、アルフレッド・レ・ペラ、ギジェルモ・バルビエリ、コルパ・モレーノ、アンヘル・リベロール、ガルデルの英語教師兼マネージャー、ホセ・プラハ、前の席にカルロス・ガルデル、続いて私(ホセ・アギラール)、操縦席にエルネスト・サンペール(パイロット)と副操縦士ウイリアム・ホスター(18才)等の順で乗り込んだ。今思い出すが搭乗する瞬間に、カルロスが顔を振り向き際に-いいかい、インディオ、後1時間15分だ、その後、カリに着いたらこの奇怪な怪鳥を壊してやろう、もう絶対に乗るもんか-と私に言つた。可愛そうなカルリートス! ほんの瞬間の後に灰に変わる姿を夢にも想像できず !。最後にフリィンが搭乗する前に昨夜のガルデルの同時公演のフイルム12巻を持ち込み、彼が機のドアーを閉める。サンペール・パイロットはその運搬を頑固に拒否した。三発機に重量過剰だと言い切り強烈に反対したが、仕方なく決心をきめて持ち込ませた。運行係りフリィンは直ちに安全ベルトの装着を全員に課す。ただ一人私が抵抗したが;だから機から脱出に成功した。ガルデルの最後の言葉はキャラメルと耳につめる少しの綿を私に求めた。「おまえ何を噛んでいるだ」と警告気味に‐「インディオ、何を食べているんだ?」‐、私は‐チューインガム‐と答える。オーケー、それくれ。綿を持っているか?それを耳につける間もなく、飛行機は滑走路から動き初め、地面から中々離陸できず。ガルデルいわく、なんだブエノスを走るチンチン電車みたいだとつぶやいた。全員大惨事の虫の知らせを感じる不吉な予感がした。我々全員はお互い視線を合わした。』
 ここまではガルデルのギタリストの一人、ホセ・マリア・アギラールの回想である。

  エルネスト・サンペールは離陸するのに絶望的な努力したのだが、三発機F31は超大型飛行機マニサーレス号に向かい衝突した。衝撃音が耳を寸裂き、二機の“鳥類”は瞬間的に燃え上がった。
 ラ・プラジャー飛行場での自然現象の航空条件欠点として、午後に発生する瞬間的な南東向けの強い突風に巻き込まれたのか、サンペールパイロットが離陸待機中のライバルSCADTA社のマニサーレス号へ目掛けて急降下で脅かしアクロバット飛行を試み、下からの銃弾が彼の喉から脳天に到達したために操縦できなくなり墜落したとか、ガルデルとパイロットと口論のための喧嘩騒動があった説など、これ等は全部真相をそらす為の作り話だった。

 ところが1984年にオラシオ・フェレール氏がメデジンを訪問した際に、当時の現場に居たアントニオ・エナオ新聞記者のインタビューによると、
 『サンペール機は200m位の距離を滑走後右方向へ向かいマニサーレス号に直進の果てに衝突した』と語っている。 とするとSACO機は離陸できずにエンジンを全開待機していたマニサーレス機に直接正面衝突した事になる。(アギラールは衝突直前にサンペールの絶叫を聞いたと証言していた)パイロットに何かの不都合な事態が起きたのだ。機内騒動の疑いは誰かがパイロットに向け拳銃を発砲したらしい。その上に検死解剖で、ガルデルの肺に銃弾が発見されていたのは、メデジンの警察の正式な調査で公表されていた。アルゼンチンから態々事故処理に来たガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノは空港の事故の真相を闇に葬るために高額な金を使い警察を贈賄した。そうして証拠は焼却末殺されたのか、事件の真相は全て原因不明と処理された。そしてコロンビアでは迷宮入りとなった。
 サンペールの甥ダニエル(新聞記者)は“伯父がガルデル一行を地獄に落とした”と、ボゴタの有名紙に投稿している(*)

 そのうえ、ガルデル死後しばらくして伝記作者フランシスコ・ガルシーア・ヒメーネスが魔法使いのような巧みな文章を駆使して書かれた次の物語を小生はまんまと信じてしまい、次の様に書いたのである。「ガルデルから嫡出された銃弾は彼の青年時代のある夜に友人達と誕生日祝い後にキャバレー・パレー・ド・グラスを出た時に後を追いかけて来た人物にいきなり拳銃で撃たれた時の銃弾で、医者が摘出せず放置した為である」とガルデル物語(2012210日)の「パレー・ド・グラス」で詳しく書いたが、考えてみれば20年以上に亘り肺近くに異物が埋まる体であの声量と美声を保つなどはいかなる頑丈な肉体でも無理な話。この文は飛んでも無い捏造記事であつた。要するに事故の時に死体から発見された銃弾の証拠隠滅の為に一つの物語をデッチ上げたのである。

 ではガルデルの肺に食い込んでいた銃弾とサンペールにあつた銃弾貫通の痕をどう説明すれば良いのか。(銃弾はサンペールの喉から貫通していた説はマニサレース機から発砲された様に見せかける為と判断する)それは後部席から誰かが拳銃を発砲した殺人に由り起きた事故だったのである。一発はガルデルの肺に食い込み、ニ発目はサンペールのうなじに命中して脳天を貫通。では誰が犯人だろうか。生存者のホセ・プラハ、ホセ・マリア・アギラールとフリィンと三人居たがフリィンは無傷だったが行方をくらました。プラハは頑なに口をあけなかった。アギラールの証言はころころ変わり誰かに口封じされた疑いが見届けられた。

  ホセ・アギラールは事故直後、メデジンとボゴタの病院を転々とした後、長旅の果てに帰国したが、ショックで錯乱状態から抜けられなかった。いつも「奴は頭にきてる」といわれるタイプの輩で、目の前で殺人、そして事故という断末魔を見た為に、精神的にも肉体的にも、打ちのめされ、やけどの後遺症で手も不具になりはて、ギターもままにならず、ほとんど目も見えなくなっていた様だった。自宅に長い間隠れていたのだが、或る日、あのデフィーノが約束を果さないから「カンズメ(秘密)の蓋を」開けるぞとばかりに逆キレしたらしく、アギラールは興奮・混乱して、ガルデルの自称婚約者であるイサベル・デル・バージェにあの呪わしい事件の犯人を明かしていたのである。それは事故後一年目の19367月の雑誌にインタビュー記事として載つたのである。

 


イサベルが雑誌「カンシオン・モデルナ」に語ったアギラールの証言は:
『アルフレッド・レ・ペラはボゴタ最後の公演でカルロスをボリーバル広場の野外で歌わせた。音響装置の無い時代の事ゆえ、後方の観衆はガルデルの歌が良く聞こえず、騒ぎを呼び起こした。この出来事でガルデルはレ・ペラに悪感情をもった様で彼と訣別する決意をしたらしく、その事で機内で口論になった際にレ・ペラが行き成り拳銃を発射した。
銃弾はパイロットの後ろ首に命中。 機はコントロールを失い、右前に離陸待機中のマニサレース号に衝突炎上したのである』(*)。


参考データ:
(1) La Cancion Moderna Julio 1936
http://www.tangoreporter.com/nota-aquella-tarde.html
Tomado del libro “Repatriación de Gardel”, de Ricardo Ostuni
CAPITULO XX

(2) LA TRAGEDIA Y EL MITO
TANGO Reporter --- Nro 157 - Junio 2009.               
http://www.tangoreporter.com/nota-aquella-tarde.html
Aquella tarde de Junio
Por Ricardo Ostuni

2014年7月8日火曜日

謎の侵入者


時は1935623日深夜のボゴタ:

カルロス・ガルデル一行はコロンビア諸都市のバランキージャ、カルタヘナ、メデジン、ボゴタ公演を盛況な成功を飾り、その夜コロンビア映画会社社主二コラス・ディアスの招待による晩餐会のフレンチ料理のメインデッシュが終り、給仕が皿を片ずけ初め、最後のワインを支度し始めているほんの一瞬の出来事。

ニコラス・ディアスはそこに現れた少女にとっさに注意をはらった。彼女は香水の香りも身なりも垢抜けているわけでもない極質祖な容姿でガルデルの関心を引くにはほど遠かった。その神経質そうな様子は不帰知な予告すらした。興行師は近ずきながら彼女に向かい、

「お嬢さんすみませんが私的な会合なんですよ」

「旦那さん、貴方はお解かりじゃない、彼と話がしたいんです。
早急に言ずけしたいんですよ。お願い...」

ディアスが一瞬、躊躇した隙に彼女は脇をすり抜けガルデルがおいでと手振りするテーブルに近ずく瞬間に数人の同席人が遮るように引きとめた。

「お嬢さん、ご用件は?」とガルデルは丁寧に訊ねる。

「ガルデルさん、それは危険なんですよ! 旅立ちは控えて。」

「お嬢さん、心配下さるな、我々は旅馴れしているんです。」とガルデルは答えた。

「貴方はお分かりしてい無い。涙声で“貴方はあの飛行機には乗ってはいけません!”
私は貴方を助けに来たのよ」と、乙女は手こずらせる。

ガルデルはこんな事には慣れていた。他の国でもあつたことだから、(旅立ちの時前に災難を予告する新聞記事を見せられるなど)そして、その乙女に向かい邪魔者を追い払うようにいくばくかの札を感謝の気持として手渡そうとしたが、むっとした彼女に阻まれてしまう。そこへボーイが丁寧に出口まで送りだした。

.=遥か方なたのある夜の些細な出来事の後、何事も無かった如くガルデル一行はカジノに繰り出しトランプ賭けに没等した。その為に全員が朝寝坊してしまう有様。慌ててテチョ飛行場に駆けつけるが予定のカリ行き飛行は霧の発生で断念するとパイロットに告げられる。そして目的地をメデジンに変えざえられなくなったのだ。この進路変更が魔の事故に繫がる原因になるとは誰も知る由も無く…。

注記:(A PASIÓN SEGÚN GARDEL por Julian Barsky)による。

2014年7月5日土曜日

カルロス・ガルデル、ボゴタの公演








【19356月カルロス・ガルデルはボゴタにいた】

 1935年のボゴタ市は33万の人口を満たし、アルホンソ・ロペス・プマレホ大統領とホルへ・メルチャン市長の下に4百年誕生記念の用意に追われていた。当時は世界的経済不況の真只中であったがボゴタ市は多くの劇場で行なわれていた数々の音楽演劇興行や映画ロードショーがかかりメインストリーは市民が溢れていた。
 巷を流すサービスの良いタクシー、市電、バス等の市内交通網も完備されていた。新聞発行部数も多く、記載広告に溢れていた。市はオリンピア、レアル、ナリーニョ、落成真近のファエンサ(*)、その他アポロ、アルハンブラ、リヴォリ、ボゴタ、国立劇場コロン(*)などの数箇所の映画館や劇場を備え、映画“エクスタシス(恍惚)”、“ラ・ビウダ・アレグレ(嬉しそうな未亡人)などの常時ロードシヨー及び演劇興行で栄えていた。そこえコロンビア・ピクチャーの招弊により当時ニューヨークで大人気のタンゴ歌手カルロス・ガルデルがメデジン経由でドイツ系スカダタ航空に15人の乗客の一人として614日(金)にボゴタ市のテチョ空港に到着した。タンゴの王様ガルデルには主催者側から当時最新型の豪華乗用車「アーブルン」が手配されいたのだ。彼等ガルデル一行を迎えた群衆の数は凄まじく、3万人とも数えられた群衆野次馬群の一部は暴徒と化し滑走路に進入する有様だった。挙句の果てに一行の進行を阻むに及び市内までの数距離を行列行進を組んで市内中心地にある滞在先のグラナダホテルまで押し寄せた。

 ガルデルはコロンビア映画配給会社の専属興行によりレアル、ナリニョ、オリンピア映画館で当時の習慣であつた上映される映画の後で出演したのである。
カルロス・ガルデルが出演した劇場のスケジュールの記録を再現してみると:

614日夜1030; レアル劇場=タンゴの王様デビューする。映画“ラ・バタージャ(戦闘)”の後でガルデル登場。(入場料特別料金$1.43ペソ)
615日(土);レアル劇場=映画“ヘンテ・デ・アリ-バ(目上の人)”午後と夜間の部の二回興行。
616日(日);レアル劇場=映画“ヘンテ・デ・アリーバ”夕方6時、夜9:15、二回興行。
617日はガルデル休み
618日(火); サロン・オリンピア=映画“ヘンテ・デ・アリーバ”同時出演(上等席077ペソ、一般席0.33ペソ)
619日(水);ナリーニョ劇場=映画クリメン・デ・ヘレン・スタンレイ(~の犯罪)入場料が下がる0.75ペソ(ナリーニョ劇場の詳しいデータは残ってい無いく、当時の劇場で再現維持されている劇場はほとんど無く、21番通りの脇にあるファエンサ劇場だけが現存するがガルデルはこの劇場に出演してい無い)
620日(木);レアル劇場=映画“エル・レモリーノ(竜巻)”入場料上席075ペソ、サロン・オリンピア=映画パレン・ラ・プレンサ(印刷機よ停まれ)
621日夕方6時(金);何処の劇場でもガルデルの出演はなし。ボゴタ市公共劇場にてエリサ・ウルンチュルッー(ピアノ)指揮による子供達のタンゴコーラス演奏が招待されたガルデルに捧げられた。ガルデルへの敬意コンサートには彼はひごく感激の意を示した上にコンサート主催者一同を彼一行の宿泊先のグラナダホテルに感謝の礼を尽くす為に祝杯の場を設けた。
私のレパトリーを純真さと清く歌う子供達の姿に感嘆させられました。又子供達から受けた感想では先生の忍耐ある指導がにじみ出ている。それは芸術家本業の生活に稀に見られる様にアチーストへの憧れと献身的な作業です。先生と子供達のお蔭によりボゴタへ来た良い褒美を頂いた。感謝いたします。】カルロス・ガルデル 1935621日                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

622日(土);レアル劇場=映画“メロディア・エン・アスール(青にてのメロディー)”今日がガルデル最後の出演と告示されたが観衆の強い要求で翌日に特別興行を約束する。
623日(日);レアル劇場=映画“メロディア・エン・アスール(青にてのメロディー)”、入場料上等席0.75ペソ。ガルデルのボゴタ市公演は全部で12回。(グラナダホテル近隣にあつたレアル劇場9回、コルパトリア塔近くにあつたサロン・オリンピアで2回、大統領官邸の南にあつたナリーニョ劇場で1回、現在これ等の劇場は跡形も無い)。

623日午後1115ボリーバル広場の脇にあつた“Voz de victor(栄光の声)放送局のお別れ番組に出演、5千人の観衆が外にも溢れた。まずは“インソムミニォ(不眠)”から歌い始め、“クエスタ・アバホ(下り坂)"と"テンゴ・ミエド・デ・トゥス・オホス(お前の瞳が怖い)”を。そして、ホセ・アギラールのギターソロ(曲不明)"エル・カレーテロ(御者)”で一部を締めくくり。二部は“カタマルカ”、“メロディア・デ・アラバル(場末のメロディー)”、“アガラーラ・シ・ポデス(出来たら捕まえろよ)”、“テンタシォン(惑わせ)”、“シン・ソン(ソンも無く)、最後に“シレンシオ(静けさ)”、“ルモーレス(うわさ、コロンビア民謡)”、など数曲続けて歌い終わり、観衆に感謝とお別れのメセッージを告げて、最後に“トモ・イ・オブリゴ()を歌う。グラナダ・ホテルでの夜のお別れ晩餐会の席で、“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード(わが郷愁のブエノスアイレス)”を歌ったという記録もあるが確かではない。 

(ガルデルは各公演に備えて事前にプログラムを組む事をせず、その時の雰囲気で即座に閃きに任せてタンゴを歌う習慣だったそうです)

そして、ガルデルは次ぎのメッセージで観衆に別れを告げています。
 『最後のタンゴを歌う前に、貴方たち皆さんに絶大な感銘を受けた事を心に納めつつ、ボゴタの皆さんに別れを告げます。そして、私に向けた拍手の中に子供達の微笑み、(故郷の子供達の郷愁を誘います)と淑女達の心温かい眼差しの出会い。もしも、誰かに私のこの長い生存の内に最良の配慮を授けられた経験があるかと尋ねられたら、当然の事ながら忘れることなく必ず貴方達の名を指摘します。絶大な好意を感謝します。ありがとう!友人たちよ…、この地に戻る事はわかりません。人は希望を託し、神が運命を授けるからです。  私の友人たちよ、ごきげんよう!さようならとは言えません。何故ならこの魅力的な皆様の歓迎と貴方達の息子同然の別れの扱いを受け、言葉もありません』の言葉を最後に、“トモ・イ・オブリゴ”を歌う。この公演後グラナダ・ホテルでのお別れ晩餐会で“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード”を歌ったとの記録があるが、この歌がガルデル生存最後のタンゴになったわけだ。

(ガルデルが“ビクターの声”で歌った曲で“テンゴ・ミエド・デ・ツゥス・オホス”は、ホセ・アギラールの作曲“テンゴ・ミエド”19281215日パリで録音と同曲ではないかと思われる、レコード番号は18934Aである) 
 (*)ファエンサ劇場は復元された、コロン国立劇場は今でも国内外の重要なアチーストの公演が行なわれている。

参考資料:
(1)「 Gardel en Bogota」EL Blog de GHNB
(2)「La vida y las canciones de Carlos Gardel 」
Jaime Rico Salazar

2014年6月30日月曜日

カルロス・ガルデルの愛の物語 【イボンヌとガルデル】


 夜の眠れないひと時にガルデルのCDに聞き入る中、突然“ノ・メ・アブレ・デ・アモール(愛の話をしないでおくれ)”(1)との歌声に一瞬,彼に叱られた気持ちに落ち込んだが。
 このシリーズの途中なので無視する事にして次のロマンスへ移るとする。
ガルデルはフランスのパリ郊外にあるサン・マウリセのパラマウント映画撮影所にやって来た。
 そして,映画“ルセス・デ・ブエノス・アイレス(~淡き光)”の撮影に入る。
当然ペルリータとの愛沙汰はまたも途切れる。
 

 これから述べるロマンスはこの時期のフランス滞在の頃に起きたのだが、当時は全く人目には触れずにいた。ガルデルがボゴタに公演した前後に、フランスからソルサルの後追いして来たと思われる謎に包まれた女性イボンヌ・ギテライが,かの歌手の友人で当国映画界社主二コラス・ディアス氏に彼女自身の秘密を明かした物語を載せよう:

 『私の家族は滅亡ハンガリー王国の上流社会に所属した。何所か名前を出したくない有名な都市で私の母は女子神学校の学長を勤め、エリート育成していたが。第一次大戦後のトリアノン条約(2)で数千人の犠牲者の中で戦後の動揺した政権の波乱時代になると,私の家族は財産を殆んど失なったが、私自身の若さと美貌と高等教育が粗末なタイピストに成り下がるのを妨げ、人生の進路を見失い、どの道を選択するか迷っていた。
 その時、私の人生に突然にヨーロッパ・リゾートのコスモポリタン上層世界貴族階級の一人の素敵なプリンスが出現した。私の若さと彼は外国人のため家族は結婚を反対した。だが、私は彼と結ばれ、私達は宗教的巡礼をするかの様に極東帝国日本、ジャワ、エジプトなどを彷徨した末に,シャンパンの祭り騒ぎに偽の喜びの嘆きの果てに魂の破滅を一掃しようと努めた。

 時は過ぎて行き‘27年に我々夫婦はコート・ダジュールに落ち着く。コスモポリタン社交界群に属す競馬場、ダンス・サロン、カジノを私は強くもちあいの美貌で社交界を支配していた人達の間の何人からは些細だが敬意を得てた。

 ある夏の華麗な日に私は『離婚』の最終的な決心をする。

 富豪華に微笑む春のパリー、
花咲くカーニバルのニース、
カンヌのミモザ花の祭りと愛の歌、空、
海の自然は花咲き視野が開き
青春賛歌の世界の中に家庭を捨てて一人飛び出した。

 それは18歳の頃、
パリーに孤独に住み明確な目的もなく。
1928年の古きパリー、
パリーの放埓と贅沢なシャンパン。
価値無しのフランコのパリー。
外人パライソのパリー。

 小王様金持ちヤンキーと南米人で充満していた、パリー。
1928年の豪華なパリー,
外人の財布を空にせしめる新しい興奮、
毎日新しいキャバレーが誕生していたパリー。
パリーの若き18歳、金髪、青い瞳、一人孤独。
 その不幸の苦しみを和らげ様と快楽の深みにのめり込んで行く私。
キャバレーでは常時人目に注目の元。
金額に疎く、踊り子に振舞うシャンパン、
給仕に与える高額な心ずけ、何時も一人で現れる。
何時か、あの国際性豊かな環境にて徘徊する,
一つのあの要素に秘密の罪を発見する。

 それは忘却するための手段を誰かに薦められてコカイン、モルフィーナ、ドラッグ、奇怪な様相の踊り子、褐色な色合いの豊富な毛髪の南米人、エキゾチックな場所を探し。
 
あの時代に『フロリダ』に今着いたばかりのデビューしたキャバレーの歌い手。
エキゾチックな言葉で歌うエキゾチックな唄で盛大な拍手受け成功の人。
その時まで未知の場所にて不思議な衣装で唄う。
 アルヘンティーナのタンゴ、ランチェーラ、サンバ。
彼は白い歯、痩せ型、少しモローチョ青年。
美しいパリーの誰かの注意を満たす人。

 彼の名はカルロス・ガルデル。
全魂で唄う泣き節タンゴ、観衆の心を何故か知らず虜にする不思議。
モダン・タンゴでなくそれは古いアルヘンティーナの唄。
真髄のパンパのガウチョの魂、
カミニート、ラ・チャカレーラ、アケル・タパド・デ・アルミニョ、
ケハ・インディアーナ、エントレ・スエニョ、
彼ガルデルは流行最先端にいた。
 

 ロンジュシャン・ホテルの常連客、キャバレー、劇場、ミュージック・ホール、競馬場。
全ての処でその顔モローチョ、白い歯、輝く清々しい笑顔。
しかし、ガルデルは彼の仲間内サクールのみでの興じる方法が好きだった。
あの時期に南米人が独占的に出入りしたクリシェ通にある。
“パレルモ”と呼ばれたキャバレーがあった。
そこで私はガルデルに知り会う。
彼は全女性に興味を示したが。
でも、私にとってコカイン、、、とシャンパン以上に関心を持てなかった。
 パリーでめぐり遇う日々の男達と淑女間のアイドル的の私に女性らしい虚栄心をくすぐるが。
しかし,私の心には全たくの反応は無い。
あの時の親交はあの夜、あの散歩、あの内緒事、花庭園の眺め越しにパリーの冴えない月光下に再確認。
 このロマンス利害関係に幾多の日々が過ぎていく。
誓いは絹のように美辞麗句は冷淡な岩のような心に深く食いこみ。
 あの男は私の魂の中に入り込んでくる。
私は気が狂い、私の華麗なピシート(秘密部屋)は喜びに満たされ,
今は淡い光の充満の中にいる。
 もうキャバレーには戻らない私。
私の華麗な灰色の部屋。
電気スタンドの煌めき。
モレーノ姿に確固たる調和した金髪姿。私の青い部屋。
行き先不明の魂のノスタルジー。
全て知り,今、真の愛の巣。それは私の初愛。』
 とイボンヌはガルデルとの束の間の恋を告白した。

どの位の時が過ぎたのか告げかねないが...時は果かなく激流ごとき過ぎ去り。
パリーを眩惑させた風変わりな金髪女、高貴な香水、シャンパンとロシア・キャビアや日々の手堅い皿を飾る慇懃なパーティーは姿を消した。数ヶ月過ぎ、パレルモ、フロリダ、ガロンなどの永遠の常連客は新聞記事によって,前代見聞きの厚かましき金髪と青い目の若き踊り手は,花咲く青春の全ての官能美により,ポルテニョの若旦那を熱狂させた事を知る。』
 

 その人、イボンヌ・ギトライ。
そして、数年後舞台は南米アンデス山脈の小都市ボゴタに“メレニータ・デ・オロ(金髪)”の優麗婦人、その彼女は現れる。この地に度の様にやって来たか何人も知れず。時はガルデルが丁度公演中か、彼の後追いパリーから遥々長旅。密かに彼と蜜会か、それも適われずか。自殺未遂でボゴタ世間の話題にのり。そして、ガルデルと恋物語の告白。無事にパリーに帰還したか。その後の彼女の消息を知る人物はいない。

コロンビア,ボゴタ:マリオ・サルミエント・バルガスの記録から
(Nota:Mario Salmiento Vargas en el ciudad de Bogota Colombia)

注:(1)“ノ・メ・アブレ・デ・アモール(愛の話はしないでおくれ)”のせりふが出てくる曲は“ベサメ・エン・ラ・ボーカ(唇にキスして)”作詞:エドワルド・カルボ、作曲:ホセ・マリア・リスティー、#18169A、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらのギター伴奏で‘26年録音
注:(2)トリアノン条約は1920年6月4日に第一次世界大戦の敗戦国、ハンガリー帝国と勝戦連合国がフランス、ベルサイユ宮殿大トリアノンにて結んだ条約。
Wikipediaの『トリアノン条約』を参考ください。

El Bohemio記

2014年6月29日日曜日

ガルデルは生きていた(3)

タンゴバー「エル・アバスト」の出来事    前章のフリィンの証言による“ガルデル生存説”を読み,スクラップしてあった古い新聞のコラム記事を思い出した。    その記事は都市計画により公園化されたメデジン市庁舎脇のグアジャキル街のタンゴバー「エル・アバスト」に現われた「謎の男」の物語の記事が載っていた。あの街区は小生が訪れた時期(1976 年頃)は密輸入品マーケットが密集した混沌とした場所で夜になると周辺の数件のバーに火が灯り何処からともなくタンゴが響き流れてくるが...しかし,そこは場末の犯罪巣窟の様な不気味な雰意気さえ感じられた。そこの一角の半地下に「エル・アバスト」はあった。  店は決して高級な店構えでは無く,誰でも気楽に入れそうだった。ここは常時タンゴ(主にガルデルのテーマ)が歌われ演奏の実演ショーが売り物であると聞いていた。店内は極質素な椅子とテーブルにビールや地酒のアグアディエンテにほろ酔い加減の労働者風の人物達がジュークボックスから流れるタンゴを聴きもしないで大声でサッカーの話題に夢中になっていた。連れてきてくれた人には悪く思ったが,小生はショーが中々始まらないので落ち着けず,そこを逃げ出したい気持ちを我慢するのに苦労した記憶がある。    「この新聞のコラム記事を読んでみると...」  
『物語は40年代半ば頃。この“バー”に帽子を深めに被りレインコートの襟を立て顔面を隠し気味にした孤独な男が“この場所”へ頻繁に出入りしていた。 この男は一人でバーの薄暗い角の隅に座るのが常で,聞こえてくるタンゴに酔い気味なのか,それとも何か深い思索に没頭する様子だった。酔っ払い客の喧嘩争いや騒動がしばしば起こるにも関わらず,この男は冷静に振舞った。その上,奇怪な事に客の誰もが挑発を挑むどころか言葉も交わそうとしなかった。 ある夜の事...彼は突然タイミング悪く椅子を立ち地酒のボトルが置かれたテーブルを後にすると,たった今アントケーニャ地方の民謡トリオのメンバーが引き上げたステージに向かったと思うとギターの即興演奏をしながらマイクに向かい郷愁を誘うあの歌を... 「Yo adivino el parpadeo/de las luces que a lo lejos/van marcando mi retorno./Son las mismas que alumbraron/con sus pálidos reflejos/hondas horas de dolor. (おれは彼方を占う/遠くに輝くほのかな光を,/おれは帰えるべき導として..、/瞼に微かに見とどける.../深い苦しみの刻限を、、、)」 とばかりに“ボルベール(帰る)”を一気に歌い上げた。    店内の騒動や喧騒は一瞬,教会のミサ礼拝の如く静寂に包まれる。酔いに醒めた客の皆は「謎の男」の見事な歌いぶりに唖然している間にステージにはすでに男の影形も見当たらなかった。その姿はカルロス・ガルデルの容貌に余りにも似ているだけでなく,独特の声に気を揉ませるほど似せる能力だと,そこに居合わせた全員が一致して指摘した。タンゴに精通した人々はその夜の独特の“比類の無い歌声”は単なる物真似ではなく,真に迫る本物に違いないと断言した。正確に示すと,あそこで彼の姿を見届けたのは「1945年6月24日」の夜が最後だった。  そして「エル・アバスト」のオーナーもスタッフ達すら「謎の男」が誰であったか名前も何処から来たかも知らなかった。忘れられない夜更けにあのタンゴ“ボルベール”を紛れも無くガルデルの“その物ずばりの演唱”で居合わせた全ての観衆を驚かせた人物。とはいえ,ありきたりの感動を誰が必要としたのか?...  かの男は単に10年目の年忌を自分自身で祝った幽霊だった。』とコラムの著者ダビー・ヒメネス氏はこの事件の様子を生々しく書いているが,彼はカルデルが“ラ・プラジャ飛行場”の事故から奇跡的に生存した事実を知らなかったと思われる。  ミスター・フリィンが報告した様にガルデルは生きていたのだ!!!... そして,週刊誌「クロモ」の記者達が突き止めたエル・レティーロのフィンカ(農園)から誰からも咎められる事無く秘かに度々“エル・アバスト”に現れていたのだ...事故後,彼は唯一の機会に極少ないフアンの前で歌ったのである。そうだ,彼ガルデルは自分の“偽りの死”から“エル・マゴ(魔法使い)”の本領を発揮して生存を果たした10年目(60歳)を確認したい為に敢えて人前に現われたのだ。しかしながら,ガルデルのその後の消息を知る手段は無い。それは余りにも時が過ぎたから... 注記:1994年9月11日,エル・エスペクタドール紙日曜版のタンゴ特集コラム記事を参考にした。

2014年6月27日金曜日