2013年5月29日水曜日

2013年4月23日火曜日

ガルデル、日本に登場する


日本国内のタンゴフアン界にカルロス・ガルデルが登場したデータを探したのだが不思議な事に余り詳しいデータを発見できないのである。小生がタンゴを知った時期、昭和35年頃であるが、当時のベテラン・タンゴフアンの間ではガルデルはタンゴの歌唱スタイルの創立者で神様扱いされていた。又、彼達により神秘性が作り出されていて、タンゴを知ったばかりの知識に乏しい者にとっては近寄り難い存在であった。その上にレコードの入手も困難で儘にならず(当事オデオンとビクターでLPが出ていたが)、小生にとっては、ましてや歌われる言葉自体も理解できぬ有様であった。そうこうしている内に少しずつタンゴの自分なりの好みが解るようになり、ディ・サルリやトロイロと果てはアストル・ピアソーラにのめり込んでしまった自分を発見した(ガルデルは益々敬遠する存在になった)。その挙句にモダンタンゴなるジャンルに夢中になり、ピアソーラの活躍しているとだろうと思われた本場ブエノス・アイレスに行ったのであるが、、、図らずしもピアソーラにはめぐりあえず。2年後に再度挑戦した挙句の197412月にブエノスアイレスのコリセオ劇場でピアソーラの演奏を目の前に見届ける事が出来た。そして、それなりに本場のタンゴを楽しみ希望の大部分は達成出来た。そこで帰国する事にしたのであるが、本来のボヘミオ逼が頭を覘きだしたのでブエノスから鉄道でボリビアに向かいペルー、エクアドル経由でコロンビアに着いた。カリ市でテレビ工場に就職が決まり、技術的市場調査の命令が下り、コロンビア国内の主な都市に派遣される事になる。そこで初めて訪れたのがメデジンであった。そこはカルロス・ガルデルに深く関わる土地であるのを知る。まず出会ったのはオラージャ飛行場の片隅にあるガルデルの記念脾。タンゴを聞かせる店の入り口あるガルデル像、サン・ペドロ墓地のガルデルの墓標。そこ彼処に彼の面影が残るメデジン。やがて、首都ボゴタを訪れると、ここでもカフェやレコード店の店先で彼の歌に迎えられる。そして、偶然にも小公園にたたずむガルデル像の前にいた我が姿。そこで嫌が故にもガルデルの足跡を辿るデータを集める今日この頃に至るのであるが、そしてブログ“カルロス・ガルデル物語”を20091122日から【ガルデルの遺言状】を最初に載せた。次に【ガルデルの誕生の秘密】から今日まで足掛け3年を費やして、ガルデルの足跡を辿り続けてきたのだ。ここで、ふと本邦でのガルデルの資料を探し始めたのだが、不本意にもたいした成果を得られない。そこでGoogle探索で見つけたLuis Alposta Mosaicos  Porteños(ポルテーニニョのモザイク)という名前のブログサイトの中で“日本のガルデル”の記事を見つけたので参考資料を加えながら文章にしてみました。





 
本邦でのカルロス・ガルデルの登場は昭和初期にタンゴ評論家で知られる高橋忠雄氏がフランスから輸入したSPレコードで“ラモーナ(Vals 19281011日録音、レコード番号#18252B)”と“エル・カレーテロ(御者)(Cancion 19281011日録音、レコード番号#18251B)”の2曲が紹介されていた。そして、ガルデルの映画が昭和7年に日本初上演されたのはフランス・パラマゥント(193151日)製作の“ルセス・デ・ブエノス・アイレス(~の灯)”である。これは本邦最初に上映されたスペイン語版トーキー映画である。この映画に関して高橋氏の証言によるとより多くの観客に絶賛されたのは主演女優のソフィア・ボサンだった。ガルデルの歌は“トモ・イ・オブリゴ(M Romero-C Gardel)”が注目をう受けたが、“エル・ロサル(Julio Romero-G M Rodriguez)”はサウンド・トラックのシンクロの調子が悪く、歌手の唇の動きが音とずれたために聴くに耐えられない状態で、映画館内の大方の暴笑を誘い散々であったらしい。これ等はトーキー初期時代の初歩的な技術不足を露呈した現象であって、本邦におけるカルロス・ガルデルの真価には全く関係の無い事であるが、その6年後にはレコード販売が事実的に増販されるにいたり徐々にタンゴフアンの心を虜にしたのである。
追記:ルセス・デ。ブエノス・アイレスについては当ブログ【ガルデルと映画】もう一つの次元の伝記(2010425日)を参照下さい。


 

2013年2月8日金曜日

2013年2月6日水曜日

ガルデルと映画

2010年5月6日木曜日

ガルデルと映画

ニューヨークのエル・モローチョ(ブロードウエイのタンゴー2)
1935年1月に“エル・ディア・ケ・メ・キエラス(思いの届く日)”が新しい監督、北米人ジョン・リチャ―ルドにより撮影が遂行された。彼は又ソルサルの最終映画となる“タンゴ・ばー”の撮影の任務を託される事に成る。これらの二つの制作と“カサドーレス・デ・エストレージャス”は同時に1935年6月24日、メデジンでの飛行機事故発生で“歌手”の夭折後に上映された。“エル・ディア・ケ・メ・キエラス”はメキシコ女優ロシータ・モレーノが準主役を演じ、多くの場面に関し避けられない思い出に向けさせたレパトリー、“ボルベール”、“スス・オホス・セ・セラーロン”、そして、勿論“エル・ディア・ケ・メキエラス”、この最後のテーマはその瞬間に強烈な衝撃の原因になった。イタリア人ディレクター、マルコ・フェレーリの映画『Nitrato d'argento(1996年)』この観衆反響の背景源を再現した{a}。又、この映画のガルデルの幾多の映像の中の一つに、少年アストル・ピアソラが登場し回想に残る一場面もあり、この未来のアルゼンチン大バンドネオンニストは合衆国で無声映画と多少接触していた{b}。“タンゴ・バー”は‘35年2月にロング・アイスランドにて前回制作と同じ仲間キャストとディレクターでより少ない悲劇主張で撮影された。この映画の配役にあの‘20年代にエル・モローチョといくつかの演劇披露をした俳優エンリケ・デ・ロサの参列が勘定に入れられていた。ガルデルの不慮の死を越えて、おそらく何れにしても“タンゴ・バー”の関わりは外国での最後の映画になった公算が高い。“人は常に初愛に戻る”とはいえ、ガルデルが出演した全ての長編映画は外国制作である。想定だけれど国内映画のためにアルゼンチンでは封切りと同時に途方もない推進力をもたらした。アルゼンチン映画の歴史において、ドミンゴ・ディ・ヌビラはこれらの映画は“アルゼンチントーキー映画初期時代において最終的に決定的な普及助力の構成要素をなしたと”断言する{c}。ガルデルの確信はこれらの情勢を無視せず、“タンゴ・バー”撮影の終了のあとに、外国での国内芸術のアイデンティティ維持をする事の困難を知ってから、南米公演旅行開始した後に、彼自身の映画を作るためにブエノス・アイレスへ戻る考えで、“共同制作映画を作る大映画撮影スタジオ”建造する望みであつた。又、アルゼンチン映画のよりポピュラーな監督として横顔を描いた彼の“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”書いたシナリオライター、マヌエル・ロメーロのオーダーのフイルムを作る為に、ルミントン・スタジオと契約調印をしていた。あのコロンビア悲劇でこの帰還は阻止されたが、何れにせよこのフイルムは若いフアン・カルロス・トリーが主人公役で作られ、-多分商業方針で-運命の巡り会わせか“エル・カバ―ジョ・デル・プエブロ(大衆の馬)”は“タンゴ・バー”の一週間前に上映が行われた。カルロス・ガルデルの演技適性について多数が議論したが、モナ・マリースは“彼自身俳優として多くの困難を自覚し、又羞恥心無しでそれを認めた”と断言した。彼自身の行動は全で完璧主義者であり、エル・ソルサルは映画撮影演技の向上を追求したが、しかし、時には彼の自己制御から逸する事情状況と衝突した。“俳優達と仕事しながら私自身がより最善に優られると信じ、誰でも駆け出し側にいて怖気尽きる酷い思いを君は想像出来ないだろう、自己成長するためには過不足なき習得が必要である”とディフーノ・マネージャーに手紙で話していた。しかしながら、完璧な演唱歌手としてのガルデルの映画への出現は俳優の様な質を探求しなければ成らない事は無く、彼の才能は唯一の声だけでなく、単に、詩歌讃賞感覚をする表現才能、この特性はモレーラの短編でディセポロにより強調されている。何故ならば歌詞の語義を深く理解した、ガルデルが“見事な”フォームで歌うタンゴ“ジーラ、ジーラ”を賛美したからだ。唄った各テーマにおいて、この息を呑む心を注いた発声美質は同時に演唱抜粋の際だって洗練されている。一つの模範はこのタンゴ“シガ・エル・コルソ(行列に続く)”で声域の調子を変化させる事により、二人の人物を登場させ、歴史に心に焼きつく主役が演じられた。彼は達人と言う事で作品を描き出すための意義を深く把握でき、この理由のため異なる言語で歌いたがらなかったが、にも拘らず時にはそれをも実行した。英語発音で歌う事を説得された時に“どうして、感じられない言い回し、理解できない言葉で歌うのか”こう断言した。ガルデルが得た異なるディレクター達は映画でこの天賦の才を生かす知識を持たず、大演唱者がミュージカルテーマにて登場し、歌わなかった時の舞台で変貌させられなかつた。-例として-、悲痛な嘆きの“スス・オホス・セ・セラーロン(閉じられた瞼)”、映画芸術は全ての解釈的次元を救出する成すべき術を知らず終い、だが今日我々はソルサル・クリオージョの(比類のない芸術を音響と映像で観賞ができる事を感謝すべきである。

注:
{a}観衆達はフイルムに注意を向けず、彼ら同士の間で討論始める始末。しかし、ガルデルが歌い始める瞬間に全員平静になる。
{b}ガルデルが住んでいた建物にアストル少年が彼の父親の以来でガルデルを訪問した時に偶然エレベータで会ったアルベルト・カスティジャーノに頼まれて窓からガルデルを起こしに侵入した時のエピソード。ナタリオ・ゴリン著『A Manera de Memorias』80ページより 
(c)ドミンゴ・ディ・ヌビラ『Historia del cine argentine I:La epoca de oro』

映画データ:















映画エル・ディア・ケ・メ・キエラス(思いの届く日)
製作社:パラマゥント
撮影:ウイリアム・ミジェール
シナリオ:アルフレッド・レ・ペラ
音楽ディレクター:テリグ・ツチィー
閲覧技術:サムエル・ピサ
ディレクター:ジョン・レインハールド
原作国:アメリカ合衆国
制作年月:1935年1月
上映時間:82分
出演俳優:カルロス・ガルデル{フリオ・アルゲジェス/フリオ・キロガ}、ロシータ・モレーノ(マルガリータ/マルガ)、ティト・ルシアルド(ロカモーラ)、ホセ・ルイス・トルトサ(セニョール・ダビラ)、メヌエル・ペルホ(サトゥルニーノ)、デル・カンポ(ダビラ)、フエルナンド・アデランタンド(アルケージャ、父親)、スザンネ・ドゥリエル(ペピータ)、セリア・ビジャ(フアニタ)、アグスティン・コルネホ(ギター奏者)、アルベルト・インファンタ(警官)、アストル・ピアソラ(新聞売り子)

ガルデル歌唱テーマ:
“スエルテ・ネグラ”、“エル・ディア・ケ・メ・キエラス”、“スス・オホス・セラローン”、ギターラ・ミア”、“ボルベール”、
全曲作詞:アルフレッド・レ・ペラ、
全曲作曲:カルロス・ガルデル
“ソル・トロピカル”作詞:アルフレッド・レ・ペラ
作曲:テルグ・ツチィ
撮影所:ロング・アイランド
アルゼンチン初上映:1035年7月16日、グラン・ブロドウエイ

映画タンゴ・バー
制作社:パラマゥント
撮影:ウィリアン・ミジェール
シナリオ:アルフレッド・レ・ペラ
音楽ディレクター:テリグ・ツチィー
検閲技術:サムエル・ピサー
ディレクター:ジョン・レイハールド
原作国:アメリカ合衆国
制作年月1935年2月
上映時間:62分                                  

出演俳優:カルロス・ガルデル(リカルド・フエンテス、ロシータ・モレーノ(ラウラ・モンタルバン)、ティト・ルシアルド(フアン・カルロス・プチーニ)、エンリケ・デ・ロサス(セリージョ指揮官)、マヌエル・ペルホ(マヌエル・ゴンサレス)、ホセ・ルイス・トルトサ(キャプテン)、フアン・ディベガ(ラモス)、スサンネ・ドゥリエル(ラウラの養女)、ホセ・ニエト(アギラール捜査官)、ウィリアン・ゴードン(ミスター・コーエン)、カルメン・ロドリゲス(ミセス・コーエン)、

ガルデルの歌唱テーマ:
“ポル・ウナ・カベサ”、
“ロス・オホス・デ・ミ・モサ”、
“レハーナ・ティエーラ・ミア”、
“アラバル・アマルゴ”、
全作詞:アルフレッド・レ・ペラ、
全作曲:カルロス・ガルデル
撮影場所:ロング・アイランド
アルゼンチン初上映:1935年8月22日、スイパーチャ映画館

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2013年2月4日月曜日

2013年1月14日月曜日

読者の皆さん、新年おめでとう。

一月も半端になり新年おめでとうとは大変失礼ですが。 自分のブログに投稿できず、悪戦苦闘の末に書き込み ができました。このブログの読者の皆さん方には改めて お詫び申し上げます。