2012年7月29日日曜日

ボルヘの描いた世界







“ハシント・チクラーナのミロンガ”はホルへ・ルイス・ボルヘが1900年代をモチーフにした詩にアストル・ピアソラが作曲した作品で、あの太く低い歌声のエドムンド・リべーロがブエノス・アイレスの昔,ある夜の下町情景を歌つた詩である。遠く過ぎたバルバネーラのあるカフェティン沿いの歩道通り、歌と酒のパジャーダ(騒ぎ)が一時終わりについたその時。薄暗いガス灯の灯火に浮かび上がる様に店の外に出てきた一人の常連の不良仲間が石畳の歩道に歩み出た所、その場に起きた嵐の如き激しい喧嘩争いに巻き添えの末、グループの何者かに鋭い一刃に刺され影の如く崩れ落ちる。その男の名はハシント・チクラーナ。いや、誰も知らない輩だったかもしれない。この詩は貧困と異口同音のポンチョに隠された犯罪行為や盗人がカモフラージュした所のブエノス・アイレスやモンテビデオの社会の底層に属す下層階級の人物達の憎しみ抱く者や喧嘩好きな輩達の陰謀や欲望により活気ずけられた普遍的リリシズムの失敗をも飲み込んだ世界。それは後進的なリオプラテンセ芸術を描写する産物その物。それは詮索好きなクリオージョ、ずる賢い無精者、優秀な怠け者達のグループ、“ミーナ(女)”を絞り取る腹黒い売春宿のべてん師達の息付く世界。いわゆる場末の歌手達とパジャドール達の活躍が引き続く時期の事で、港町、下町、そこのカフェティンの環境に育まれたミユージック、初めの頃は歌詞も無く歌われない。薄暗い街角の広場や歩道脇でバンドネオンやギター、時にはフルートが混じり奏でる単純な曲に合わせて男同士か怪しいタイプの女性と踊る不純なダンスが幅を利かせいた。それは所謂、上流階級からは隔たれ蔑み評価されていた場末の音楽。そこに“冒険好きのトレードマーク”その物のハンカチをなびかせながら相棒のギターを脇に抱えた若き“アバストのモローチョ”も偶然にそこに居合わせた時代。さまざまな音楽的ジャンルの中にタンゴが産声を上げたばかりの頃の事である。社交サロンと闘牛で浪費するカチャファス、カフェ・パウリンを遠巻きに立ち尽くす退屈した連中、粗野な眼差し流しつける物悲しき輩、空に近いワインをぐい飲みするガジェーゴ、急ぐことなく、のんびりと物思いに耽け狭い窓辺に肘付きマテ茶を飲む隣人、旨そうなアサードと振る舞い酒が常連達を呼び寄せる殺風景な中庭、カフェティンのトロバドーレスとバイロンゴ達、人目を引く喧嘩事を解説する輩、それは日毎の不幸事の歌い手、場末から湧き出した歌い手、ごろつき達に無言にも賛意され、ささやかな人情にもらい涙、さらに高ぶった夢想的抒情詩が随一の光の中で舞う。そして,好感、微笑み、不屈の、“アバストのモローチョ”はこのやり方で市場のナポリ人達の前で歌う。あらゆる種類の歌い手達を招集させる純銀の流れの様な溢れ出る声を聴きながら、この様なカフェティン、不思議なカフェ・オ’ロンデマン、そこはモローチョが好んだ舞台。リオプラテンセの場末精神と強い混迷芸術の故に生まれ出てきた魔術師的歌手“アバストのモローチョ”カルロス・ガルデルのデビユー時代をボルヘの詩“ハシント・チクラーナ”のミロンガからのモチーフにより詩風的に回想した。『エル・ボヘミオ記』

2012年7月13日金曜日

ホセ・アギラールの回想(1 )



ガルデルの思い出(1)ホセ・アギラールの回想から
1935年6月のメデジンの惨事から奇跡的に生存したガルデルのギタリストの一人、ホセ・マリア・アギラールは度重なる不運で16年後の1951年12月21日、ブエノス市中心地の繁華街のビリヤード場から出たところで、前の車道を横断中に車に跳ねられ、その傷の元で肺炎を併発して60歳で没した。その1年前の1950年7月頃に、ホセ・アギラールがあの当時の思い出を雑誌『アンテナ』へのインタビューで語たった。その回想をここに再現しよう。:

メデジン、あの場所、あの日付け、あの日、あの瞬間、、、
血生臭い炎に照らし出された黒い堆積物。火炎が鎮火した。
突然ある夜によみがえる。
世界中に名前が渡り響く、
メデジン、、、ガルデル、、、アギラール、、、
かの運命は飛躍した気紛れ。
かの運命は神々の。全能な。絶対な。
ニュースをついに論じる誰かがいる;
嘆く誰かがいる。
怒りに握りこぶしを固め振りあげ、涙におぼれた誰かがいる。
影の間で‐夜が落ち途方も無い悲嘆と痛み‐消えた炎、離れ、
苦しいしかし生きた化身、一人の男の亡霊。
彼はアギラール。彼はアギラール、その彼。
その彼は生存
即死当然の、炎から助け出され、
犠牲者の、、、いや犠牲者ではない、いや違う。
このたびに苦痛が開始される。
生気に至るでも無く、苦痛は再び留まり、
死亡に至らない長くひどい苦痛‐痛みの全て終わりと、ひと休み‐。
繰り返しの悪霊の痛み、全ての残酷の先向こうの、
処罰の肉体に激痛が執拗に捕られて。
苦痛、一日、次の日、痛みは過去を彷彿させ;
痛みは瞑想の未来。
惨事から生き延びて様に、アギラールは苦痛に生き延びる。
しかし惨事はかの苦痛は痕跡を残す。
そして、全てにも拘らず、苦痛は気高く。
それだから、暗黒の夜の彼の黒眼鏡の後ろから、
全てのハーモニーの持ち主だった手を損いの身振りから、
生存者の魂が心を動かされる言葉の申し出、
誠実な、決定的に高尚な。
ギター、紳士よ!
そこにある、抜け殻と仮し、いく他の時の過ぎ日々の、
親愛の指々で愛撫する、弦の元で耳に快く響きわたるべき、
ギターは腐り果て。

アギラールは我々が見るのを確かめる、
我々が見るのを無言にて、その一警を感じ届け。
ギターとギタリスト、それは同じ物体。
重々しい声のアギラールが断言、我々の思いつきを見破る;
ギター、紳士よ!
だとすれば、このギター。
このギターがガルデルを伴奏した。
彼の永遠に消え去る事なき声の響きを結びつけた、このギター。
心を迎えにいき、ハーモニーと語りが共に行く。
唯一つ、肘掛け椅子の腕の上に支えられて、
弦を引き絞り、、、だけれども音も無く!、、、

アギラールはゆっくりと歩む。近ずき見詰め、
おそらく、我々の様に見詰める。
しかし夢の世界の、思い出の、
とはいえその黒い眼鏡の裏に隠される、
回想は彼の視覚を過ぎていく。

今なんと言ってよいだろう?:
でもいいだろう、、、
我々は何も一握りの質問の答えを探す気はない?
しかし、何を質問できるだろうか?
アギラールは腰掛ける。タバコに火を点けるのを探り。
その後でゆっくりと燻らし。
壁には数々のガルデルの写真がある。
思い出、記念額、あれは、見捨てられて、忘れたよう、
だがこの様な悲劇の中を命が生き延びている!、
それはギター。

今なんと言えるだろうか?
不可侵の沈む静粛な黙想が存在する間、我々は沈黙のみ。
何も言うこともなし、何れかの都度、
多分早々に、アギラールは思い出を満たすだろう、
数々の逸話を、過ぎ去った同房愛への見解を。
我々に数多くの沈黙の事柄を伝えるだろう、
我々に何人へも語らなかったさまを語るだろう。
何故かつて、その年のガルデルが全盛を極め、
素晴らしい人格を明かにした。
彼の脇に、あそこに誰もいなかつた;
その年の奇妙な異質な観衆達の人の心を捉え;
その年の祖国の郷愁心情-街、街路、末端片隅の-
極小の全て凝固させた、制限無しの勝利の満足を結び着け。
そして、彼といっしょの親密な業績。
リハーサルにて。
創作にて。
レパートリーの選択にて。
繰り返し試みて。
群集の心を揺さぶる、
感動の感触で各詩節を探し出す。
そして宿命的の瞬間。

最後の瞬間まで:
この様に生じなければなら無い様に文面に書かれていた、、、
その様に成るように、、、
宿命論的諦観?
出来事、多年にわたる彼の脇で。
あの日も一緒に居ないわけは無い?、、、
いっ、時が過ぎ、意識を回復し、ただ一つの質問が起こる:
カルリートスは如何した?、、、“真実の答えは無く”。
私は死んだのも当然、、、
死に神に取り付かれた我が身に力も願望も無く、、、
断言できるは騙されて逃げ出した、、、
彼の元に帰り、彼と私は共に歌い付き添うのを信じていた、、、
(午後の窓は紫色に染まり始めつつ)
その後で真実を知る、、、命は新しく私の両腕の中にあり、、、
如何しよう?、、、生きる、、、更に深い嘆きと共に、、、孤独の男に過酷な苦悩。
彼に道案内された我が全人生。
多くの事を理解到達できた日々の仕事にて、、、
彼の性格の特微、彼の心理学;限界なき情け深き表情、、、
何故かつてカルリートスは根本的な善良人、、、
根本的な善良人?
その通り、、、情け深きは彼自身の一部分、、、
その情け深さが彼の洗練された親交を生む;
全ての上に親交を優先した。
彼は寛容な性格;親切で、親交で、
何故かつてその様に気持ち良く乱費し、財産も乱費し、、、
所有財産も、所持品も重要せず、、、
彼が惹きつけるのではなく、
彼が休み無く仕事するのでは無く、
突然にキリストの様に昇天した、、、

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2012年7月12日木曜日

77年前の飛行機事故



当時の新聞記事【事故の見出し】

不運な事故の発生:
1935年6月の時は過ぎ去って行く...その夏の24日,アントケーニャのアブラー渓谷に囲まれた丘陵に位置した都市メデジンは涼しい春が終り告げ,夏の季節に入り,むっとする風が南から北へと時折流れ込むラス・プラジャス飛行場(現在名オラージャ・エレーラ)。そこへガルデル一行はコロンビア最後の巡業地カリ市に向かうべき、ボゴタを正午ごろスタンレイ・ヘビー米人パイロットの操縦するSACO便で出発した。(別のデーターではサンペールが操縦幹を握っていたとある)機は午後2時ごろにラス・プラジャス飛行場に着き、ガソリン補給とカリ市ホルへ・イサック劇場でガルデルと同時公演する映画フイルム(映画の題名は“人生の悪ふざけ”)の積み込み待ちのため乗客達全員は待合室で待機する。一方、エルネスト・サンペール氏はグランッ・フリィンと共に双発機でボゴタを先に出発、メデジンでガルデル達を出迎える。その後にサンペール氏に操縦を任せたフオードF-31機は、カリのバランケーラ飛行場に向かう為に滑走路の南端から北へ滑送を開始した。その後、機は最後の100メートル位滑走中に突然機後部を横すべりさせながら右側の車輪の跡をくっきりと描きながら滑走路中心を右へ30度の方向へそれた。機は上昇できずに真っ直ぐ待機していたSCADTA便三発機F-11“マニサレース号”の真前から衝突炎上した。時は24日午後2時56~8分ごろ。SCADTAの乗員7名全員とSACO便の乗客と乗務員の内8名は即死。アルホンソ・アザフ(秘書)は翌日死亡。アンヘル・リベロール(ギタリスト)は翌々日26日に入院した病院で死亡。 

*事故の生存者:
SACO便の乗客の中で生存者が三人いた。ギタリストのホセ・マリア・アギラールは安全ベルトを締めていなかった為に直ぐに機外への脱出に成功して助かった。彼はウルグァイ人でメデジンとボゴタの病院で火傷の治療回復のため長い期間滞在している。そして、ホセ・ラサーノと電報での連絡のやりとりの上、ガルデルの遺体をモンテビデオに送る手配を試みたが失敗した。この人アギラールは不運な人で1951年にブエノス・アイレスの中心街で交通事故のために60歳で命を落としている。(別項でアギラールの語りによる,生々しい回想を載せてある)二人目のホセ・プラハスはガルデルの英語教師とマネージャーを勤めていた。彼はスペイン国ムルシア出身。フランス、シェルブール港から1929年5月11日出航、5月27日にニュー・ヨーク到着後,弟と商業に従事していたが事業に失敗して、ガルデルに仕える。故郷アンパルダン・デ・へローナに帰る。プラハス氏は40年後のあるラジオ番組へのコメントでは、『あの事故はもう時効になった。何も話たくないと』かなり素気のない返事をしている(当筆者はその時のインタビューでのプラハス氏本人の肉声を録音したテープを所持している)。彼は1982年9月11日82歳で死亡した。 三人目のグランッ・フリィンは米国人で1904年12月22日生、当時29歳。SACO航空の運航担当者で操縦士の脇に立っていたので、墜落の際にすぐ飛び降り、無傷で命拾いした。彼は身を隠し、関係者の誰もが彼の行方を探した形跡もない隙に、9月3日にカリブ海岸の都市バランキージャの隣の港町プエルト・コロンビアから脱出して、9月11日にニュー・ヨークに帰り着いた。後 にフロリダ、ジャクソンビルに住み着いた末に、1983年10月26日に79歳で死亡している。この人の証言が全く無いのが残念であると前章で書いたが。この時点ではフリィンの書いた【ガルデル生存説】を発見していなかった。 この暴露は50年後にされるのである(2012年6月25日付けの当ブログ記事を参照ください)。

*事故の原因の真相は:
この事故の原因については、ラス・プラージャス飛行場での自然現象の航空条件の欠点として、午後に発生する瞬間的な南東向け強い突風に巻き込まれたか、サンペールパイロットがマニサーレス号へ目掛けて急降下のアクロバット飛行を試み、失敗して墜落したとか、機内で喧嘩騒動があり、誰かがパイロットに向け拳銃を発砲したという憶測が語られていた。しかし、後年アギラールとプラハス両氏らはそれらの“ドラマチィクな騒動”は起きていないと否定している。また事故後50年経ってグランッ・フリィンが刊行した著書の中で“そうした騒動は無かった”と証言しているが。彼は機の下の方から強い衝撃のショック音を受けた時に機から飛び降りて無傷で生存した。この衝撃音は離着陸装置の車輪を支える機構の右側が破損した為の音と思われた。その為に機は急に滑走路の中心から右側へ進路を反れた。事故後の焼失したF-31機の操舵ハンドルが極端に左側一倍に回されていた現象はオバンド氏の撮影した写真による検証で判明させられた。それはパイロットが機の滑走進路を立て直そうと努力した証拠の形跡が認められた。SACO航空F-31機はエルネスト・サンペール・メンドサ(33歳)が操縦幹を握り,アメリカ人ウィリアンム・ホォスター副操縦士(18歳),運行係のグランッ・フリィン(29歳)達の乗務員。乗客はガルデル,レペラ,チリー人興行師のバラシオス,映画プロモーターのスゥワチィズ,ギター奏者達のアギラール,バルビエリ,リベロール,秘書アザフ,モレーノ,マネージャープラハス等の10人。乗客席配置は右側7席左側6席となっていた。積荷は通路に楽器類,舞台幕,数不明な(60個余り?)スーツケース,その上にカリ市の映画館で上演する映画フィルム12個の数巻と燃料450ガロンの総て800kg。これらはサンペール機は荷物の積みすぎと乗客定員過剰が疑われている。1984年にオラシオ・フェレール氏がメデジンを訪問した際に、当時の現場に居たアントニオ・エナオ新聞記者とのインタビューによると、『サンペール機は200m位の距離を滑走後,進路を右側にそれてマニサーレス号に直進の果てに衝突した』と語っている。これらの数々の原因を上げられているが、二つの航空会社のライバル的紛争から事故は起こるべきして起きたのではないかと思われる、その騒動が4日前に起きている。それは、重要な観客(ガルデル達)を横取りされたSCADTAのドイツ人ハンス・ウリッチ操縦士がサンペール機に向かって急降下飛行を行い、脅かした事件がそれだ。SACO社の関係者の中には、サンペール氏が仕返しをメデジンではなく、カリのパランケーロ飛行場で行う積りでいたと予謀していたらしい。1969年、丁度24年後に雑誌記者がプラハス氏にインタビューした際にSACOのモーリソン氏が事故の前日に『カリへ行くにはアンデス山脈の樟高4000m級を越えるために燃料を満タンにして、霧の出ない朝早く出発する必要がある。もし、遅く出発する場合は燃料を半分にして、メデジン経由でカリに向かう空路をとる予定』との報告を受けていたと、コメントをしている。この証言は重要で、SACO便は何故、ボゴタから最短距離(510km)の南南西方向のカリに行く空路をとらず、北北西方向の399km先のメデジンに向けて空路を取ることにしたのか理解できる。まず、何かの理由で出発が遅れた(前の晩にサンペールは友人達とトランプのポ―カー賭けに熱中していたらしい)。パイロットは既に霧の発生しているアンデス山脈越えが不可能だと判断し、霧の出ていない方向のメデジン経由でカリ行きルートを選ぶ。メデジンから真南方向へ456km先のカリ行きはカウカ川の上空を上流に向けた空路をとれば、由り安全であると判断したわけだ。(現在もボゴタからアンデス山脈を越えてカリ、ネイバ、イバゲの各都市へ行く小型航空機は霧の出てない朝早く6~7時ごろに出発する)。このコース変更がガルデルを事故に巻き込んだ、運命のいたずらだったのだろうか。



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