2012年6月25日月曜日

『ガルデルは生きていた !』:( 1 )




あの時,77年も前の事。その6月のメデジンの事故に戻るが,ギター奏者ホセ・マリア・アギラールとガルデルのマネジャーのスペイン人ホセ・プラハの二人は火傷が酷かったが生存した。もう一人のSACO航空の運行担当者アメリカ人グランッ・ジェツマン・フリィン(a)も生存していた。グランッだけが一人行方を晦ましたと言うストーリーでした。しかし,このフリィンは行方を晦ましてはいなかった。ではたった一人の無傷生存の彼はその時どんな行動をしていたのか?...そして,フリィンが80歳近くになった老後(あの時から50年後の1985年)に北アメリカのネブラスカ州で突然Sky Corp.Ed.,から”Zorzal’s True”なる本を出版した(1985年頃)。遅まきながら,この恐ろしい暴露記事の本の提供者は週刊誌「クロモ」の記者で,内容は「アントケーニョ東部地方(c)にガルデルは隠れ生きていた」と信じられないが信憑性溢れた恐ろしき記事で話題にすべき迫力のある内容に満ちていた。ではその内容はいかに...その話はしごく簡単な事。

とはいえ,それは世にも信じられないぞっとする発見事。
「フリィンはガルデルを見つけていた...ガルデルはあの地獄から生存していた!」
彼は顔を酷く火傷していたが命を取りとめ救出された。そして,市内のあるクリニックに救急車で運ばれ入院した。退院後フアン達の前に決してその傷跡で現われる事は無かったと言われていたが...ミスター・フリィンがこの一枷的困難な出来事をどの様に処理したのか?...フオードF-31機は離陸間も無く,追い風に呷られたかのように突然飛行安定を失い低空から北右側に機先を向け待機のマニサレース号の上に急降下した。機が墜落する寸前に彼は危機一発の瞬間に機から飛び降りた。そして彼は擦り傷も負わずに無事であった。

そして,「その真実は」:彼はこの決定的瞬間をこう述べる//
『三発機同士が衝突して起きた火炎の真只中から俺はレ・ペラを救出しようと試みたが...
F-31機が爆発した後で当然な混乱があり,俺は機から飛びのけ降りた。
しかし,恐怖の叫びを聞くと再び突進したが客室の中でレ・ペラが押しつぶされて助け嘆願を見届けたので心深くぞっとした。助けようと試みたが,彼の髪の毛と睫毛は炎が付き,挙句の果てに俺の洋服に火がつき始めた。そこでガルデルの姿を機内の中に一瞬注意深く捜し掛かった。しかし,ほんの少し前までレ・ペラとおしゃべりしていた筈だったが,何処にも見届けられない。あぁ,彼は助かったと安心して機から離れるとサイレンを鳴らさない救急車が全速力で滑走路を離れ退くのが見えた。救急車には誰を運んで行った?...
この質問は誰にも応えられない50年間の謎だった。この窒息しそうな秘密にはもう我慢できない』(65ページより)。

「誰もが事を隠そうとする」:
フリィンは苦悶の物語をこう続ける//『痛ましい出来事の3日後に驚きから回復して,すでに隠されたソルサルの奪回に報えられなかった悔しさに涙ぐみ。遺体検証の指揮した医師のアントニオ・ホセ・オスピーナ氏に救急車が現れた事と機内にガルデルの姿が無かった事について厚かましく尋ねてみた。ドクター・オスピーナは顔を赤面して訳の分からない言葉を口ごもり,それを俺は彼の言い訳と理解した。しかしながら,オスピーナ医師は何も知らない事は間違いないだろうと見えた。しかし,彼の動揺は俺に疑問の種を芽生えさせた。翌日,悲しい事件の同じ日の午後には無かった物品が不信にも現われた後で,ジャーナリストにガルデルの証明書や宝石類を展示されていた。俺の好奇心は市内のクリニックを捜索する決心を促した。何人も不幸な怪我人を入院させたとは認め様とはしなかった。勿論,あの怪しいクリニックの証言には満足しなかった。そこで,そこの隣人に助けを求める事にしたが首尾は上々の結果となる。ソルサルはメデジン旧市街パラセー通りの優れた外科医と評判かつ大盛況なドクター・ソラーノの私設診療所へ入院した事実を突き止めた。次の日の午後に何かの用事で診療所から出て来た看護婦に近寄りそれと無く様子を尋ねて見た。彼女はドクターに“この秘密”を口外するなと釘を刺されていたにも拘らず渋々ガルデルの所在を明かしてくれた。当然ながら尋ねに行けば門前払いは承知の上だ。と言う訳でそのクリニックの目の前に部屋を借りる事で解決した。そこでモローチョの出入りを常時休み無く監視する。しかしながらボリビア通り(ボリーバルの間違い)側の裏口から出入りすれば取り逃がしてしまうのは当前だ。そして,態屈な3日過ぎたところ奇怪な黒メガネの美貌な貴婦人(c)がそこから現われ歩道で林檎とブドウを買い込んでいった。その女性は紛れも無くF-31機が滑走路に入る寸前にガルデルに愛に溢れ美しき瞳を向けながら別れの投げキスを送っていたあの黒装の貴婦人に違いない事に気が付く。俺の髭は伸び放題と監視に疲れ果てて,俺の不眠はソルサルの出し抜けな出現により褒美を受ける。それは6日目の明け方の事。診療所の前に一台の車が横づけされたので俺は監視にフラッシュを取り除いた望遠レンズ付のカメラを用意据付した。ASAS400フイルムを装着してクリック!! この瞬間,あえて見せられる写真の盗み撮りに成功した。すべて矢継ぎ早に車は行く先不明の場所へと高速で走り去った。』(68と69ページ)

「あぁ,全く退屈だ...ここを立ち退くとするか!」』
(グランッ・フリィンの本は4ヶ月以上に及んだ疲れと虚しい捜索の細部に渉って詳しく綴っている。)『この様にして調査は終結した。調査を満たせられない退屈に疲れ果て,貴重な秘密情報を所持しながら暴露出来ない。その理由は未完であり,涙を流した泣きべそ的内容は無駄になった。俺は真実を墓穴に理葬してコロンビアに置いて行く事にした。挙句の果てにネブラスカの子供達からの帰れとの催促。』(208ページ)
そして,ミスター・フリィンは4ヶ月を費やした捜索を涙ながら終結させて,同年の9月3日に妻のマルタ夫人と共にバランキージャの隣接するコロンビア港から客船に乗り込みニューヨーク(9月11日到着)へ向かい,後にネブラスカ州マゥント・キスコに落ち着く。メデジンの事故編で述べたグランッ・フリィンのコロンビア脱出の時期にぴたりと合う事になる。

追記:(a)ここでミスター・グランッ・ジェツマン・フリィンの簡略経歴を述べておく。彼の故郷はフロリタ州ジャクソンビジェ。1904年12月22日に誕生。1915~19年の間にキューバ滞在。1923年からフランス,イタリー,スイスとコロンビアを訪問した後にコロンビアのサンタマルタからニューヨークに行く。彼とSACO航空の創立者エルネスト・サンペル・メンドサとの関係はアメリカ合衆国でもたされた。30年代の頃で時期が過ぎる過程で彼等は友情を育む。そして,彼はSACO航空の常時メンバーの一人として参加していた。サンペールがフオード三発機F-31を購入してコロンビアに空路輸送した時に同伴する。メデジンの悲劇とガルデル生存を明かそうとしたが失敗したので途中で1935年9月3日の事故から3ケ月後にコロンビアを去る。『あの事故の時,フォードF-31機の滑走が始まると乗客全員は恐怖に包まれていた。憶測されていた機内での発砲騒動は無かった。』とフリィンは著書で証言している。コロンヒアを出港,1935年11月11日にニューヨークへ上陸。モゥント・キスコに定住する。4歳年上の妻マルタ夫人(メキシコ系)が亡くなると1977年10月(73歳の時)にフロリダ州パルムビーチにてレオーナ・ウイニフレッド・ポーテルと再婚した。彼は1983年10月26日にフロリダ州サラソタにて79歳で没した。

注記:1986年メデジン:ルシアーノ・ロンドーニョのブログ記事を参考に他の情報を加えて文章の構成にした。(b)アントケーニョ東部地方とはメデジン市から車で30分ほどホセ・マリア・コルドバ飛行場に行く途中に広がる湖と森林に囲まれた農園地帯のリオネグロとエル・レティーロの周辺である。(c)F-31機の滑走真近くでガルデルに別れ告げていた黒装の貴婦人はフランスからガルデルの後を追ってきたハンガリー貴族出の女性ではないかと思われる。当ブログ「ガルデルの恋愛遍歴編(3)』を参照ください。


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