2012年6月28日木曜日

ガルデルのCDシリーズ:CD-4//10~18曲

⑩:アイ・ウナ・ヴルヘン(聖女がいる)/カンシオン/作者:“ロルド・バイロン”(*)-マヌエル・フロレース-マリオ・パルド/歌:ガルデルソロ/1919年9月26日録音/原盤#18022B/この詞はイギリス人“ロルド・バロイン”の英文詩をマヌエル・フローレス(メキシコ人/1840~1885)が翻訳した詞が基になっている。


Una hermosa declaración al amor /可憐な愛への告白 
Hay una virgen de alma cariñosa ,/優しい心の処女がいる 
tan tiernamente al corazón unida , /なんと優しい結ばれた心
que separar mi vida de su vida /彼女の命とわが命は離れぬ
(*)“ロルド・バイロン”の本名はジョージ・ノエル・バイロン・ゴードン, (1788~1824)ロンドン出身である。詩人,劇作家“ドンフアン”,“マンフレッド”のドラマを劇作。ポルトガル,スペイン,ギリシアとトルコに旅をした時に著名な詩”Childe Harold’s”を発表する。滞在先のギリシヤで没。
この曲を作曲したマリオ・アルベルト・パルド(1887~1986)はガルデルの若き頃からの友人である。作曲家,歌手及びギター演奏家でもあった。幼少時にはサンテルモの“ウイリアム”音楽院に寄宿生として入学。少年期になると彼の父親はマリオをイタリアに行かせた。ナポリのサンペドロ・ア・マイエリャ音楽院で音楽              と詩や管楽器を習得。帰国後ウルグアイ軍隊音楽バンドを指揮する。1918年にあの“アルメノンビジャ”の会合でカルデル-ラサーノ達に巡り会う。この時在席していたマックス・グルクスマーン氏の“ナショナル”レーベルで歌とギター演奏の録音契約を結ぶ。彼 の作品“リンダ・プロビンシアニータ(美しい田舎娘)”,“エル・トロピージャ(家畜の群れ)”,“ラ・マレーバ(悪党)”,“ガヒート・デ・セドロン(セドロンの子猫)”などをガルデルは録音している。ある日,バルドに向かってガルデル曰く「お前さんの様にギターを奏でられたらな...!」,パルド応えて!「俺もあんたの様に歌えたらな...」人は色々悩みがあるものですね...

⑪:ミ・ティエーラ(我が故郷)/サンバ/作者:クリスティーノ・タピア/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年9月26日録音/原盤#18023A/
Yo que adoro a mi tierra , /俺の溺愛の故郷
cuna de mis cantares … /わが歌い手の源...
yo que adoro a mi tierra , /俺の溺愛の故郷
cuna de mis cantares … /わが歌い手の源...
Porque tu disminuyes , nana /何故貴女は怖気る,お姉さん
Todos mis males , /すべてわが不幸に
porque tu disminuyes , nana /何故貴女は怖気る,お姉さん
todos mis males … /すべてわが不幸に...

⑫:ポブレ・ミ・マドレ(哀れな母)/エスティーロ/作者:アンドレス・セペダとガルデル/歌:ガルデルソロ/1919年9月26日録音/原盤#18023B/
ガルデルが1912年に初めてレコード録音した4曲目の同名曲“ポブレ・マドレ”の原盤T729Aと同じ曲。

Ven lira bella y gloriosa/栄光と高尚の琴座来たれ
no me niegues tu armonia/お前のハーモニーを断らないで
dame con tu melodia/メロディーを授けたまえ
una inspiracion grandiosa;/華美なインスピレーション
tu que siempre bondadosa/常なる善良なるおまえ
fuiste con todo cantor/歌い手すべてと共に行き
no le nieguen un favor/好意を拒絶せず
a un alma abatida y triste/悲しみと魂打ちし枯れ
tengo madre y como existe/そして、生きるように母が居る
cantarle quiero mi amor./愛しき人に,讃歌を授けたく

⑬:ルモーレス(噂話)/バンブーコ/作者:ガルデル-ラサーノ/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年9月26日録音/原盤#18024A/
ガルデルはこの曲を随分と気に入っていたらしく3回も録音した。そのうえ,事故死の前日ボゴタ市における政治的中心地のボリーバル広場にあったボス・デ・ラ・ビクトル(ビクターの声)の公開実況放送で“ラス・アグァ・デ・マグダレーナ(マグダーナ川の水)”として歌ったが,原題はボゴタの東側にある丘陵地帯をモチーフにしたとも思われる“トラス・デ・ラス・コリーナ・ベルデ(緑の丘陵の後ろに)”と言われ,原作者は作曲アレハンドロ・ウィリス,作詞フランシスコ・レストレポ・ゴメスで“ウイルスとエスコバル”の歌手達の二重唱によるレコード録音が1915年頃になされている。彼等の二重唱は1924年頃ブエノスアイレスで公演したのだが,ガルデルは二重唱の歌うオリジナルの“ルモーレス”を聴く事が出来たのだろうか?。

⑭:イベッティ/タンゴ/作詞:パスクアル・コントゥルシ/作曲:コスタ-ローカ(本当の作曲はホセ・フリアン・マルティネス,ガジェゴである)/歌:カルデルソロ/1919年9月26日録音/原盤#18024B/

“Ivette(イベッティ)”とは女性の名前、ではコントゥルシの詞の内容は。
En puerta de un boliche/居酒屋の入り口にて
un bacan encurderado,/酔い潰れた伊達男
recordando su pasado /過去を回想して
que la china lo dejo, /去った可憐な乙女の、
entre los humos de cana /地酒のいきれ唯中で、
retoman a su memoria /記憶を呼び戻し
esas paginas de histria /その物語のページに
que su Corazon grabo, /心に刻まれた

Bulin que ya no te veo /もう、おまえの姿の無い部屋
catre que ya no apolillo, /俺の寝姿無いベット
mina que de puro esquillo /怒りおぽい女 
con otro bacan se fue; /あの別の伊達男と去って
prenda que fuiste el encanto /魅力的だったあの装い姿
de toda la muchachada /全ての若者達にも
y que por una pavada /挙句の果てにあの愚か事のために
te acoplaste a un no seque /おまえとの和解は引き起こせず
Que te ha de dar ese otro /あいつがおまえに施しに
que tu viejo no te ha dado /実の親父も与えられ無った物も
No te acordas que he robado /思い出さないかい、俺が盗んだ物を
pa que no falte el bullon? /食べる糧不足に成らない為に
No te acordas cuando en cana /思い出さないかい、あの時に俺が牢屋に居た時を
te mandaba en cuadernitos /おまえに届けた小いノート
aquellos lindos versitos /あの綺麗な散文
nacidos del Corazon ? /俺の芽生えた真心の?
コントウルシ作のタンゴ“ミ・ノーチェ・トリステ”に雰囲気が似ていますが...
この曲の明細は『ガルデルとタンゴの詩人達』を参照の事。作者について種明かしを書いておきました。

⑮:エン・ヴァノ,エン・ヴァノ(空しき故に,空しき故に)/作者:アンドレス・セペダ-ガルデル/ヴルス/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年9月26日録音/原盤#18025A

Es en vano, no puedo olvidarte, /それは空しい,忘れ得ぬ君
por tu amor he perdido la calma , /君の愛ゆえ安らぎも失う
ya no puedo vivir sin hablarte /君と語らぬともう生きられない
tus fríos desdenes, torturan el alma . /君の冷たい蔑み,心を苦悶に

He pensado olvidar tu cariño /君の慈しみを忘れよう
imposible, no puedo aunque quiera , /それは不可能,未だに愛してるゆえ
mi pasión con pureza de armiño /清き純白のわが情熱
trocose de pronto, de ti pa´ la hoguera./直ぐに変わっておくれ,激情のごとく

(再記載)アンドレス・セペダ:教養ある若き頃、悪交友のために学問を放棄の末.どの様な悪事を侵したのか不明だが、それを数回働いた後に。結局“国立刑務所”に行き着く境遇になる。彼はブエノス・アイレス州田舎町コロネル・ブランデセンで1879年5月18日に生まれる。大ブエノス・アイレス平原の自然を放浪したすえ。全ての境遇のオリジェーロ仲間達と相和し、彼の全ての詩作は牢獄服役の遭遇時に書き上げられ、ポルテーニョ街の古いトロべーロ(牧童)達の声にて広められ大衆化された。それ故、彼は“聖なる監獄の詩人”と呼ばれるに至る。カルロス・ガルデルはアバスト地区のカフェ・オ‘ロデルマンで歌い始めた頃にセペダ作の“ポンチョ・デ・オリビード(亡却のポンチョ)”をレパトリーにしていたが,セペダ作品類を最初にタジーニ商会の『コロンビア』レコードに吹きこみ、世に広く伝達を成し遂げる。善良な同房(?)なる詩人アンドレス・セペダはコロン街区のインデペンデンシアとエスタドス・ウニードス通りの間のカフェ『ラ・ロバ』(現在のビエホ・アルマセンの近くに当る場所)の歩道側の椅子に座って居た所に、一人のコルニェス(スペインの一地方)出身者の悪刺客が彼に近ずき刃物で胸元を深く一突き、即座に命を落とす。その夜、極親しい友人仲間達により通夜がソリスとエントレリオス間のサン・フアン通(現在の地下鉄E線,エントレリオス駅の極近く)で行なわれた。その場に官警が現われ、通夜の会葬参列者の中の数人が殺人罪容疑で逮捕連行された。1910年3月30日の若干30歳の命であり、遠きブエノス・アイレス暗黒時代の出来事である。(ボルへの詩に出てくる“ばら色の街角”の様だ)

⑯:ラ・カテドラティカ(競馬通)/ミロンガ/作者:フランシスコ・マルティーノ/歌:ガルデルソロ/1920年6月10日/原盤なし/この原盤は何らかの理由により発売されなかった。(通常ガルデル自身の判断により気に入らない録音は没にしたらしい),によって原盤リストにも記載されていない。このCDで初公開された訳である。

Aunque hay mucha mishiadura /全くの貧困だが
yo manyo un gran movimiento /すばやく動きを見抜ける
hay que ver en las carreras , /レースの様子を見届け
el afano y las palmeras , /落ちこぼれ仲間と俺は慌てる
el afano y las palmeras /落ちこぼれ連中と俺は慌てる
y de donde sale el vento /金は何処から捻り出す.

Con catedráticos de ojo , /競馬通の眼差しとも
que abundan como la yapa /ほんのおまけの様に溢れてる
con el programa en la mano , /手に取ったプログラムとともに
a todo pobre cristiano , /みんな哀れなクリスチャン
a todo pobre cristiano , /みんな哀れなクリスチャン
le dicen , tengo una papa , /人がいうが,俺は幸運ものだと.

Es ir a cobrar la plata , /金を払い戻しに行くには
le juro por mi salud , /俺の健康に誓うが
es llenarse hasta las botas /ブーツまで一杯に
porque es una refijota , /なぜかってそれは“レフィホタ(*)”
porque es una refijota , /なぜかってそれは”レフィホタ(*)“
que la traigo del stud . /バドックから持ってこよう

Jueguele fuerte señor , /旦那さん賭けれよ目一杯に
mire que es una papusa , /見ろよあれは美ぴんさん
mire que es una papusa , /見ろよあれは美ぴんさん
y con el mayor descaro /おっと,最大な厚かましいさ
lo hacen entrar por el aro , /降参させる
lo hacen entrar por el aro /降参させる
Dios te libre, que carpusa . /助けておくれ,ずるい奴

El mismo jockey me dijo , /ジョキー自身が俺に言うには
andá sin miedo a jugar , /躊躇無く賭けろ
que se las voy a dar seca /おれがマークする
y Mingo es la gran muñeca /ジョキーは凄い腕利き
y Mingo es la gran muñeca , /ジョキーは凄い腕利き
hay que creer o reventar . /信じるか酷い目に遭うか

Con Domingo Torterolo , /ドミンゴ・トルテローロといっしょに
soy camarada y demás , /俺は仲間とその他大勢
soy camarada y demás /俺は仲間とその他大勢
y si al fin se la pilla , /お仕舞いにはスカンピン
lo arrastra a la ventanilla , /窓口を這い回る
lo arrastra a la ventanilla , /窓口を這い回る
hecho el juego, no va más . /賭けは終った,此れまでだ

Largaron, venimos bien , /皆消えうせた,うまく言ったぜ
ahora verán que papita /ベっぴんさん今度はどうする
y aunque sea una macana , /たとえ狂気ざたとはいえ
y en el que el caballo afana , /盗んだ馬だろうが
y en el que el caballo afana , /盗んだ馬だろうが
y el pato se armó de guita . /レースで損した奴に金をあてがい

Y al largarse la carrera , /レースに負けて
el caballo viene mal , /あの馬は脱落
el caballo viene mal , /あの馬は脱落
el rana sale piantando , /抜け目の無い奴は逃げ切り
y el gil se queda esperando , /愚か者は取り残され
y el gil se queda esperando , /愚か者は取り残され
la atropellada final . /最後の追い上げで結末
ジョキー・ドミンゴ・トルテローロはガルデル同郷人である。

⑰:リンダ・プロヴンシアニータ(可憐な田舎娘)/サンバ/作者:マリオ・パルド/歌:ガルデル-ラサーノ/1920年9月26日/原盤#18026A

Linda provincianita reina del pago /村の女王可憐な田舎娘
capullo en flor /花盛りのつぼみ
para ti son mis cantos /わが抒情詩は貴女の為に
y mi guitarra de trovador /わが韻文ギター
y mi rancho también /わがランチョもそれ然り
son todos para ti . /それらは総て貴女のもの

Para hablar de tus labios /貴女の口元に呟くための
no hallo palabras que caigan bien /相応しい言葉を見つけられない
más rojos que las guindas /奪い取るには赤すぎる
que los corales y que el clavel /サンゴ色かカーネーション
labios que al sonreír /微笑みの口元
dejan adivinar /占いゆだねる
que saben los secretos /秘め事さとり
y las ternuras para arreglar . /息合わす優しさ

⑱:ムニェキータ(お人形)/タンゴ/作詞:アドルホ・カルロス・へルチェル/作曲:フランシスコ・フアン・ロムート/歌:ガルデルソロ/1919年9月26日録音/原盤#18026B
この曲は1918年に“サン・マルティン”劇場にてマリア・ルイサ・ノタールにより初披露された。

Donde estara … /何処にいるのだろう
Mi amor , que no puedo.hallarlo.. /私の愛する人,見つけ出せない
Yo no hago mas que buscarlo /私はあなたを探すただのみ
porque sin el ya no es vida ; /彼の不在は私の命は無い
probe la fruta prohibida /禁止された果物を口にする
probe encanto de amarlo .. /愛惜の魅惑を口にする...
Donde estara … /どこにいるやら...
Mi amor , que no puedo hallarlo . /私の愛する人,見つけられない
作詞者のヘルチェルは詩人,ギタリストでアマチュアの歌手。彼は若巻20歳頃の学生にして“ムンド・アルゼンチン(~世界)”と“エル・オガール(家庭)”誌に繊細な韻文を記載していた。その後クリオージョ的事がら(郷土音楽)に魅了され歌とギターに専念する。実際に歌とギター演奏は優れいた。それにガルデル自身も認めたほど甘く優しい歌声の持ち主であったが残念な事に父親の反対に合い公衆の前では絶対に歌もギター演奏も披露しなかったが身内の集まりなどでは一人で歌とギターを奏でたり居わせたガルデル,ラサーノ,マルティーノとタピア達とも唄いあう事も常だった。スペインから持参した真珠貝殻模様と金色に輝くギターを所持していたのたが長く持ち歩く末に紛失させてしまっている。“エル・バガブンド(放浪者)”(*),“ポブレ・ガジョ・バタラス(哀れな安雄鶏b)”,“ミ・カバジョ・イ・ミ・ムヘール(俺の馬と俺の女)”,“アタルデセール(日昏)”と上記の曲“ムニェキータ(人形)”などをガルデルが取り上げている。ヘルチェルは1892年8月17日ラプラタに生まれ1941年7月12日チリーにて没した。
(a):コロンビアの民謡バンブーコなのだがガルデルはスペインのパソドブレ風に歌っているのはロドルホ・ヘルチェルやフェリクス・アラメーダ達などの着想を取り入れた為と思われる。(b):白と黒の混ざったはの鶏//バタラスとは古い1ペソ札を指すのだが,この場合は“安物”の意味になる。

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2012年6月27日水曜日

『ガルデルは生きていた!』(2)


ここのところ10数年,しばらくラジオ放送にガルデル追悼番組が無かったのだが,今年は77回目になり,また数局のFMのタンゴ番組にそれが登場した。しかし,当然の事に1985~95年頃の番組に比べて真新しいニュースは無かった。と言う訳で50年前の雑誌「クロモス」の回想記事だが,ここに再現するとしよう。

メデジンの飛行機事故から少し時が過ぎた頃。
我々(クロモ誌記者)の行動する時が来た//
といっても些か時が過ぎているのだが...
あの事故の時,飛行場は騒動の最中だった最中にガルデルの遺体が発見されていないニュースに我々は当惑したと共に遅まきながら行動をとる。そこで,我々は独自にガルデルを見付ける為に仕度を整えた。たとえ,彼等の軽薄な経済が破産するまで...我々は徹底的にガルデルを探し出す覚悟を誓いきめた。ソルサルが連れて行かれたと思われるクリニックを我々は発見できなかったが,彼はメデジン市郊外のアントケーニョ東部地方に隠れていると推論の先を決めて,193512月から翌年の1月に掛けて我々は怪しい様子の何処かのフィンカ(農園)を疲れも無く捜索する為に人員5人を振り向けた。
突然,誰かが“...ある日,布で顔を隠したガルデルが白色の自家用車に乗り込むのを発見する”。
「電話のベルがけたたましく鳴り響く」//
410日の朝,“軽率な奴”の電話が鳴る。
カルメンシータ・オルティス,我々の事務所の魅力溢れる秘書嬢が何時もの様に優しく受話器を取ると電話口の反対側から田舎丸出しの声が言う事には:
“お嬢さん,俺はあんた方が捜している怪しいフィンカを知っているぜ!!!
ただし約束のお駄賃をくれるならばね...“
我々はエル・レティーロに一目散に出向くべき車を走らせた。着いたフィンカの家は森に囲まれた蒼い水を湛える湖が見下せる高台の昇り途中にあった。そのフィンカはただ田舎風の藁葺き屋根とアドベ壁で建てられたうらぶれた徒住まい,入り口の門も変わり栄えしない木柵の扉とありふれた普通の作り,だが周囲の情況が風変わりで好奇心を誘われる。先ず警備員さんに挨拶を交わし,我々の希望であるフィンカの住人と話をしたい申を伝えると答えは頑なに拒否された。大統領すら入れるなと命令されているから...とカービン銃の安全装置を外した。
「我々は見た!ガルデルの姿を...」:
我々の編集長が目で戻ろうと合図して来たので,ここを立ち去り一旦メデジンに全員で帰ろうと考えたが...しかし,自然に納得される事だが我々は号外的ニュースを手中にしたのも同然。だから,順番に偽装しながらその場所に見張り配置する事にした。三匹のドーベルマンと一匹のセバードで,あのフィンカは監視されていた。その広さは300平方メートル位いと思われる。そうした田舎の静寂の中。突然犬の吼え声か遠くからと車のエンジン音が聞えて来る。我々は常時少しの空腹感に襲われと不安感情の高ぶりに身震いする。
仲間の誰かが警備員を買収してしまおうとそれと無く仄めかした。しかし,警備員はもしかしたら金をくすねるだけでカルリートスに警戒を促すのみに終わる可能性もある。我々皆疲れきっていたが...しかし,この不愉快は我々に戦慄感を誘った。
とうとう,425日の午後に彼の姿を見る事に成功した。
ガルデルが見えた!
ソルサルが居た!
まったく嘘みたいだ!...
「ガルデルが日光浴」//
あの日,黒メガネをかけた喪服の一人の女が犬を二匹連れて緑色のルノーに乗ってフィンカを出て行った。残ったのは一人の男と二匹の犬,事は多少行動するのには容易になる。我々の編集長はフィンカの脇の方に火をつけ,カメラマンは火の燃えている反対側に一匹のウサギを離した。核心は即座に犬達を引き付ける。警備員は火が燃えている場所に駆け寄る。カメラマンはソルサルの“偽の死”の後に初めての写真撮影に成功した。

(メデジン,1986//ルシアーノ・ロンドーニョのブログ記事を参考にした)
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2012年6月25日月曜日

『ガルデルは生きていた !』:( 1 )




あの時,77年も前の事。その6月のメデジンの事故に戻るが,ギター奏者ホセ・マリア・アギラールとガルデルのマネジャーのスペイン人ホセ・プラハの二人は火傷が酷かったが生存した。もう一人のSACO航空の運行担当者アメリカ人グランッ・ジェツマン・フリィン(a)も生存していた。グランッだけが一人行方を晦ましたと言うストーリーでした。しかし,このフリィンは行方を晦ましてはいなかった。ではたった一人の無傷生存の彼はその時どんな行動をしていたのか?...そして,フリィンが80歳近くになった老後(あの時から50年後の1985年)に北アメリカのネブラスカ州で突然Sky Corp.Ed.,から”Zorzal’s True”なる本を出版した(1985年頃)。遅まきながら,この恐ろしい暴露記事の本の提供者は週刊誌「クロモ」の記者で,内容は「アントケーニョ東部地方(c)にガルデルは隠れ生きていた」と信じられないが信憑性溢れた恐ろしき記事で話題にすべき迫力のある内容に満ちていた。ではその内容はいかに...その話はしごく簡単な事。

とはいえ,それは世にも信じられないぞっとする発見事。
「フリィンはガルデルを見つけていた...ガルデルはあの地獄から生存していた!」
彼は顔を酷く火傷していたが命を取りとめ救出された。そして,市内のあるクリニックに救急車で運ばれ入院した。退院後フアン達の前に決してその傷跡で現われる事は無かったと言われていたが...ミスター・フリィンがこの一枷的困難な出来事をどの様に処理したのか?...フオードF-31機は離陸間も無く,追い風に呷られたかのように突然飛行安定を失い低空から北右側に機先を向け待機のマニサレース号の上に急降下した。機が墜落する寸前に彼は危機一発の瞬間に機から飛び降りた。そして彼は擦り傷も負わずに無事であった。

そして,「その真実は」:彼はこの決定的瞬間をこう述べる//
『三発機同士が衝突して起きた火炎の真只中から俺はレ・ペラを救出しようと試みたが...
F-31機が爆発した後で当然な混乱があり,俺は機から飛びのけ降りた。
しかし,恐怖の叫びを聞くと再び突進したが客室の中でレ・ペラが押しつぶされて助け嘆願を見届けたので心深くぞっとした。助けようと試みたが,彼の髪の毛と睫毛は炎が付き,挙句の果てに俺の洋服に火がつき始めた。そこでガルデルの姿を機内の中に一瞬注意深く捜し掛かった。しかし,ほんの少し前までレ・ペラとおしゃべりしていた筈だったが,何処にも見届けられない。あぁ,彼は助かったと安心して機から離れるとサイレンを鳴らさない救急車が全速力で滑走路を離れ退くのが見えた。救急車には誰を運んで行った?...
この質問は誰にも応えられない50年間の謎だった。この窒息しそうな秘密にはもう我慢できない』(65ページより)。

「誰もが事を隠そうとする」:
フリィンは苦悶の物語をこう続ける//『痛ましい出来事の3日後に驚きから回復して,すでに隠されたソルサルの奪回に報えられなかった悔しさに涙ぐみ。遺体検証の指揮した医師のアントニオ・ホセ・オスピーナ氏に救急車が現れた事と機内にガルデルの姿が無かった事について厚かましく尋ねてみた。ドクター・オスピーナは顔を赤面して訳の分からない言葉を口ごもり,それを俺は彼の言い訳と理解した。しかしながら,オスピーナ医師は何も知らない事は間違いないだろうと見えた。しかし,彼の動揺は俺に疑問の種を芽生えさせた。翌日,悲しい事件の同じ日の午後には無かった物品が不信にも現われた後で,ジャーナリストにガルデルの証明書や宝石類を展示されていた。俺の好奇心は市内のクリニックを捜索する決心を促した。何人も不幸な怪我人を入院させたとは認め様とはしなかった。勿論,あの怪しいクリニックの証言には満足しなかった。そこで,そこの隣人に助けを求める事にしたが首尾は上々の結果となる。ソルサルはメデジン旧市街パラセー通りの優れた外科医と評判かつ大盛況なドクター・ソラーノの私設診療所へ入院した事実を突き止めた。次の日の午後に何かの用事で診療所から出て来た看護婦に近寄りそれと無く様子を尋ねて見た。彼女はドクターに“この秘密”を口外するなと釘を刺されていたにも拘らず渋々ガルデルの所在を明かしてくれた。当然ながら尋ねに行けば門前払いは承知の上だ。と言う訳でそのクリニックの目の前に部屋を借りる事で解決した。そこでモローチョの出入りを常時休み無く監視する。しかしながらボリビア通り(ボリーバルの間違い)側の裏口から出入りすれば取り逃がしてしまうのは当前だ。そして,態屈な3日過ぎたところ奇怪な黒メガネの美貌な貴婦人(c)がそこから現われ歩道で林檎とブドウを買い込んでいった。その女性は紛れも無くF-31機が滑走路に入る寸前にガルデルに愛に溢れ美しき瞳を向けながら別れの投げキスを送っていたあの黒装の貴婦人に違いない事に気が付く。俺の髭は伸び放題と監視に疲れ果てて,俺の不眠はソルサルの出し抜けな出現により褒美を受ける。それは6日目の明け方の事。診療所の前に一台の車が横づけされたので俺は監視にフラッシュを取り除いた望遠レンズ付のカメラを用意据付した。ASAS400フイルムを装着してクリック!! この瞬間,あえて見せられる写真の盗み撮りに成功した。すべて矢継ぎ早に車は行く先不明の場所へと高速で走り去った。』(68と69ページ)

「あぁ,全く退屈だ...ここを立ち退くとするか!」』
(グランッ・フリィンの本は4ヶ月以上に及んだ疲れと虚しい捜索の細部に渉って詳しく綴っている。)『この様にして調査は終結した。調査を満たせられない退屈に疲れ果て,貴重な秘密情報を所持しながら暴露出来ない。その理由は未完であり,涙を流した泣きべそ的内容は無駄になった。俺は真実を墓穴に理葬してコロンビアに置いて行く事にした。挙句の果てにネブラスカの子供達からの帰れとの催促。』(208ページ)
そして,ミスター・フリィンは4ヶ月を費やした捜索を涙ながら終結させて,同年の9月3日に妻のマルタ夫人と共にバランキージャの隣接するコロンビア港から客船に乗り込みニューヨーク(9月11日到着)へ向かい,後にネブラスカ州マゥント・キスコに落ち着く。メデジンの事故編で述べたグランッ・フリィンのコロンビア脱出の時期にぴたりと合う事になる。

追記:(a)ここでミスター・グランッ・ジェツマン・フリィンの簡略経歴を述べておく。彼の故郷はフロリタ州ジャクソンビジェ。1904年12月22日に誕生。1915~19年の間にキューバ滞在。1923年からフランス,イタリー,スイスとコロンビアを訪問した後にコロンビアのサンタマルタからニューヨークに行く。彼とSACO航空の創立者エルネスト・サンペル・メンドサとの関係はアメリカ合衆国でもたされた。30年代の頃で時期が過ぎる過程で彼等は友情を育む。そして,彼はSACO航空の常時メンバーの一人として参加していた。サンペールがフオード三発機F-31を購入してコロンビアに空路輸送した時に同伴する。メデジンの悲劇とガルデル生存を明かそうとしたが失敗したので途中で1935年9月3日の事故から3ケ月後にコロンビアを去る。『あの事故の時,フォードF-31機の滑走が始まると乗客全員は恐怖に包まれていた。憶測されていた機内での発砲騒動は無かった。』とフリィンは著書で証言している。コロンヒアを出港,1935年11月11日にニューヨークへ上陸。モゥント・キスコに定住する。4歳年上の妻マルタ夫人(メキシコ系)が亡くなると1977年10月(73歳の時)にフロリダ州パルムビーチにてレオーナ・ウイニフレッド・ポーテルと再婚した。彼は1983年10月26日にフロリダ州サラソタにて79歳で没した。

注記:1986年メデジン:ルシアーノ・ロンドーニョのブログ記事を参考に他の情報を加えて文章の構成にした。(b)アントケーニョ東部地方とはメデジン市から車で30分ほどホセ・マリア・コルドバ飛行場に行く途中に広がる湖と森林に囲まれた農園地帯のリオネグロとエル・レティーロの周辺である。(c)F-31機の滑走真近くでガルデルに別れ告げていた黒装の貴婦人はフランスからガルデルの後を追ってきたハンガリー貴族出の女性ではないかと思われる。当ブログ「ガルデルの恋愛遍歴編(3)』を参照ください。


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2012年6月24日日曜日

『ガルデルは生きていた!』プロローグ



ガルデルはあの呪われた飛行機事故から生き延びていた?...
これは誰も信じえない事実!!!
アルゼンチンではこの貴重な情報を得られるのは不可能だろう。小生の居る所はコロンビアなのだ。メデジンの飛行機事故は77年前の今日624日現地時間午後3時頃(日本時間25日の午前5)に起きた。“あの時に焼死”したとされて「世に別れを告げた事になっていたガルデル」。ところで彼の遺体は財産管理人デ・フィーノの手により偽装された遺言書を介してサン・ペドロ墓地から発掘された。そして,メデジンからカリ市を経由して太平洋側に位置するブエナベントゥーラ港へ運ばれた後,そこから海路パナマ運河を経由後ニューヨークに到着した。後日にかの地の教会で通夜が壮大に開かれたが。その時参列したガルデルの友人や映画に共演した俳優達は遺体を礼拝した時に,ガルデルの遺体の歯形に疑問を持った人物がいた。その人は音楽家ドン・マジョ氏で他にも数人が確認したらしい。このガルデルでは無いらしい遺体は19362月にチャカリータ墓地に着き,盛大に行なわれた葬儀の後に理葬されたのだが,前提のデ・フィーノは翌年(1937年)に再びメデジンに出向きサン・ペドロ墓地からもう一つの遺体(誰の遺体?)をガルデルが理葬されていたとされる墓地(a)から運び出した摩訶不思議な行動をしている(アントニオ・エナオと名乗る新聞記者が目撃していた) ガルデルの遺体は何処に?...こうした謎に包まれたチャカリータ墓地のソルサルの遺体は本物では無い疑問が髣髴してくる。この同じ頃にバルビエリとリベロール,レ・ペラの遺体も墓霊から取り出され,それらはそれぞれの遺族によりブエノスに移された。この時に秘書アザフの遺体は発見されなかった不思議。初めに運び出されて遺体はアザフのものと墓守が混同したのでは無いのか,二度目に発掘した遺体は誰の物なのか。謎は明かされないまま長い時が過ぎて,80年代の頃にサダイクがガルデルとベルタ夫人のDNA分析検査(b)を試みたが,如何な判定結果が出たのかジャーナリストには公表されていない。余りにも時が過ぎ今となっては土壌化して検査は困難だ。そして,この謎は絶対に世には明かされる事は無いだろう。アルゼンチンではガルデルは“フランス人”という固定観念で認められているから,これを覆す訳には行かないのである。しかし「ガルデルはメデジンの郊外に80歳頃まで生きていた」との新聞記事を見掛けた事もあったが余り信憑性がないと判断していたのだが...!。
しかし,ガルデルは確かに生きていたのでる...
 注記//(a):サン・ペドロに有ったガルデルの墓地。現在,墓標は残っていない。1995年に博物館として落成の記念碑があるのみである。b):ガルデルとベルタ夫人とは血の繋がりが無かった事は証明されているのでDNA分析は不可能だろう。


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2012年6月7日木曜日

ペルリータとガルデル(3 )


ペルリータとガルデル(3)


“我々の愛は益々激しく”ここ古きスペインでペルリータ・グレコの最良の運命を知る事になる。
ガルデルはペトロッシの紹介斡旋の手紙によりフランス興行(アギラールの回想より)が実現する。そこでギタリスト達のアギラール,バルビエリ,リカルドとその弟ラファエル及び公演代理人ルイス・ピエルティーと共にブエノスを出発。1928年9月24日にバルセローナ港へ到着下船後フランスのニースへ向かい,同じ月の30日にグアダラルペ島の台風災難者向け慈善コンサートに出演。その後パリのフロリダキャバレー,オペラ劇場にそれぞれ出演。1929年2月8~9日はカンヌのカジノ,2月22日~3月7日はパリのエンピレー劇場,4月にはバルセローナへ23日にプリンシパル・パレセー劇場で歌う。1929年5月,カルロス,四度目のマドリードでペルリータと再開する。そして彼女は芸能人生の苦い酒(最大な危機)に見舞われたカルロスを励まし助ける役を果たす事になる。ペルリータ・グレコはレアル劇場に4月15日から出演中。一方のガルデルは通りの直前のアベニーダ劇場に出演。レアルとアベニーダの両施設のディレクター同士は商業的冷戦状態にあったので,“両者にとっては当然その人達のロマンスの宣伝をする訳には同意できなかった。彼等アティーストは公衆へ尽くす事欠かせない約束の義務がある”とばかりに二人のロマンスは公衆の目の届かない所で楽しんでいた。“ブエノスで始まった二人の隠されたあの愛は楽しかった。快楽,ボヘミアン,賭け,それに魅惑な愛惜の奪還,我々独自な甘く親密な秘密事”とペルリータ自身によるロマンスの告白により巷の人々は知るに至るが,その上にコーラスガール二番手のアンパリート・サラが舞台装置の裏で彼等二人が抱擁している現場を見ていた。その挙句マガジン“エル・タンゴ・デ・モーダ(流行のタンゴ)”のパパラッシー攻勢に遭っていた。ところが迷い誘う意外な状況が彼等の再会に異なる状態に落とし込む。既に述べたようにガルデルはアベニーダ劇場で5月16日にデビューしていたが,驚くべき成功。彼等観衆の熱狂に応えて各ショーの予定より二倍に近い歌をこなす羽目になる。そして20日の舞台中“イ・エスタ・ノチェ・メ・エンボラチォ・ビエン,メ・マモ・ビイエン...”と歌い始めたところで...次の歌詞を続け無くなる...声が全くでない!突然予期せぬ事態になる。ギタリスト達は即興に“ラ・ンバルシータ”を演奏始めガルデルの様子を見届けるが,やはり歌えない,全く声が出ない!。ここで演唱舞台を退場する事態になってしまった。当然残りの出演予定は全部中止。同伴の皆心配と悲しみに巻き込み,本当の大惨事だと感じられた。アギラールはガルデルを元気づけ様と試みたと白状していたが...我々仲間では“厚かましくも無く,これでお仕舞い...もう歌えない...”と断言したが(アギラールの回想より)。一方のペルリータは何時もの陽気さでカルリートスを励まし二人の絆を強化すべくその危機から救い出す手を差し伸べている。次の金曜日にギタリスト達が見舞いに行くとカルリートスは顔を下向き加減に迎え出て何時もの陽気な表情も無く,陰気な沈黙と共に我々に向かい椅子に座れと身振りで示した。そこで我々は部屋の中へと一歩踏み込んだ瞬間...“メ・マモ・ビイエン・ママオ...パ’・ノ・ペンサール!”とばかりに強い声で歌い始めた。そこで一瞬,皆は安堵と歓喜の叫びを挙げる!。と言う訳で25日(土)26日(日)の両日とも目出度く公演の幕仕舞いを果たしてスペインを後にする。そして我々の愛も別離の運命となるかのように“ガルデルは映画撮影の為にフランスに経った”とペルリータは述べている。