2012年5月28日月曜日

ガルデルのCDシリーズ:CD-4/1~9曲

しばらく横道にそれていたがまたCDシリーズに戻る


ガルデルのCD-4(原盤録音:1919~20年)/1919年からの続き“ナショナル-オデオン”,“クリオージョ-オデオン”レーベルによるアコスティク録音/全曲ともホセ・“ネグロ”・リカルドとホセ・ラサーノのギターで伴奏されている。


①:エル・カルド・アスール(蒼いアザミ)/エスティーロ/作者:ガルデル-ラサーノ/歌:ガルデルソロ/1919年3月19日録音/原盤#18018B/
この曲はガルデルの初めてレコード録音(1912年)をした時の5曲目の“ポーブレ・フロール(哀れな花)”と“エル・カルド・アスール”は同じ構成にしている。そして,女流詩人イサベル・セリア・カナベリが1899年11月にキルメスで発表した“フロール・デ・カルド(アザミの花)”の詩から初めの部分の二節が抜粋されている。この詩のオリジナル作者はブエノスアイレス郊外のキルメスで1882年生まれ,1945年2月28日ラ・プラタで亡くなった。彼女は我々の知らない小冊子に幾つかの散文詩を載せているだが,その素晴しい才能に反して経歴は淡い霧の中の謎に埋まれている。詩作“フロール・デ・カルド”はモンテビデオで発刊された“エル・フォゴン(焚き火)”誌の1899年11月30日52号に記載されていた。

Entre mil flores silvestres , /野性花々に埋まれて,
en un campo muy gallardo , /いかに気高くも野原で,
se alzaba un vistoso cardo /鮮やかなアザミを高くささげ
con sus penachos de tul , /チュール共にたなびく,
y del rocio las perlas /真珠を撒き散らし
blanquicinas parecian , /まるで白く磨かれ,
y banadas se veian , /一浴びに似た
las hebras del cardo azul. /蒼いアザミの髪

②:サンファニーナ・デ・ミ・アモール(わが愛のサンファン娘)/作者:アンヘル・グレコとフランシスコ・マルティーノ/トナーダ/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年3月19日録音/原盤#18018A/
作者の一人,アンヘル・グレコはタンゴ界の名門家族の一員でビセンテ(タンゴ,アルマ・ポルテーニャなど作曲),ドミンゴ,エレーナとマリア達兄弟姉妹が含まれいた。彼等の名声は歴史中黄金の活字で彫まれている。彼はナショナル劇場創立者ペペ・ポデスタが創めたサーカスにデビューしたがテアトロの歌手として転向に成功。1916年にガルデルのギタリスト,アンヘル(従兄弟)のウルグアイ歌手イグナシオ・リベロールと二重唱を結成した。後にフランシスコ・マルティーノともドゥオを1921年頃まで組む。彼等はポルテーニョ界の多くのステージに上る。そして“アトランタ”レーベルにレコード録音も果たしている。ガルデルとは青年期よりの友情関係にあり最初から歌手として競争相手としての阻害を与える事無く,逆にこの曲や“ミ・パニュエロ・ボルダード(刺繍されたハンカチ)”,“エル・カント・デ・ラ・セルバ(密林への歌)”,“チニータ・リンダ(可愛い女の子)”,“カルティータス・ペルフマーダス(香水香る手紙)”,“ナイペ・マルカード(印のあるトランプ)”などのその他多くの曲をガルデルが取り上げ歌っている。グレコは1893年3月9日サンテルモに生まれ,1938年10月4日同地にて没した。フランシスコ・マルティノはガルデルの友人て在ると共に最初の二重唱を組んだ相手である。彼については『ガルデルとフォルクローレ』で解説してある。

③:ラ・コルドベサ(コルドバ女)/作者:クリスティーノ・タピア/サンバ/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年3月19日録音/原盤#18019A/
この歌はコルドバ賛歌でこの様に始まる。Estas es la zamba linda , mi vida !/ これは美しいサンバ,わが命!/que cantan los cordobeses, /コルドバの人々はこう歌う/タピアはコルドバの出身。ギター奏者,クリオージョ音楽の作曲家,ガルデルは彼の12作品を録音した.“ミ・ティーラ(我が故郷)”,“ラ・トゥプンガニータ”,“セバ・セバ(行く,いく)”,“テンドラス・ケ・ジョラール(泣かなければならない)”,“ロサル・ビエホ(枯れたバラの木)”他多くの作品あり。タピア-ジャネス,タピア-カルトス,タピア-アルマーダ,タピア-オレジャーナ(彼の妻)との二重唱を組む。1972年8月7日コルドバで没。



④:パヴァーダス(馬鹿らしい)/シフラ/作者:ガルデル-ラサーノ/歌:ホセ・ラサーノソロ/朗唱:カルロス・ガルデル/1919年3月19日録音/原盤#18019B/『エラ』レーベル60975(*)
原作はアルベルト・アウレリアーノ・ノビオンに帰属する。この曲は小生が参考にしているハイメ・リコ・サラサールの“ガルデルの原盤リスト”から漏れているのだが別のデータから前曲の“ラ・コルドベサ”と原盤番号が同じ対でレコード化されているのを発見した。これはオラシオ・ロリエンテが監修してウルグアイで発売(時期不明)されていた“ガルデル-ラサーノ達のアクスティク時代”のLP盤Vol.④(URL18018/18023)A面4曲目にリストアップされている。『エラ』レーベルは1910~17年に存在した。タジーニ商会のホセの兄弟のフアン・バウティスタ・タジーニが1913~4年にかけてすでに録音済みの他社のレコードをこの『エラ』から再発売したものである。

⑤:エル・ヴガブンド(放浪者)/バンブーコ/原作詩:フルヘンシォ・ガルシア/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年3月19日録音/原盤#18020A/
この曲はコロンビア民謡で作者不明とあるデータもあるが,オリジナル詩はコロンビア人フルへンシォ・ガルシアに帰属する。この詩歌の最終部分はアンダルシアのバラードの一部に類似しているがメロディーの作者は不明だと言う。ガルデルはこの曲もスコラッティの編曲を基したフラメンコ調にアレンジしている。また,オリジナルの“エル・ヴガブンド(放浪者)”はコロンビア人レオネル・カジェとエウセビオ・オチョアが歌うリラ・アンティオケ―ニョのレコード録音(1910年6月)がメキヒコに存在する。

⑥:デ・ヴェルタ・アル・ブリン/タンゴ/作詞:バスクアル・コントゥルシ/作曲:フランシスコ・マルティネス/歌:ガルデルソロ/1919年3月19日録音/原盤#18020B/

Percanta que arrepentida/後悔した魅惑女
De tu juida/逃げ出したあんたが
has vuelto al bulin /,逢引部屋にそのあんたは戻って来た
con todos los despechos /妬みの全てとともに
que vos me has hecho,te perdone…./あんたが俺にした事々を、俺は許した...
Cuantas veces contigo /あんたと幾たびか
Y con mis amigos/そして俺の仲間等とともに
me en curdele,,/酔い潰れ明かし
y en una noche de atorro/あげくにある夜...
/ガルデルの声は極限歌手の名を裏切らない新鮮な美声眩く煌めきが冴える。

⑦:ミ・チーナ(俺の可愛い子)/ファド/作者:ロドリゲス(a)-ロルダン(b)/歌:ガルデル-ラサーノ/1920年9月26日録音/原盤#18021A/
このポルトガル民謡の甘美切ないファドを彼等は最高の歌解釈にこなしている。
.(a):本名フアン・ロドリゲス/ピアニスト,作曲家,ブエノスの音楽学校“ガイト”に入学。その後両親とバルセローナへ移住する。そこでナショナル音楽学校に学び,そこでピアノと和声法を専攻した後にパリへ演奏公演した時にその上品な演奏を認められる。1914年帰国後ポビュラー界に参入。アグスト・ベルトと“アトランタ”にレコード録音。フアン・マグリオ・パチョと“コロンビア”にも録音。あの華やかな“アルメノンビジェ”,“バリシエン”,にも登場。その後モンテビデオのソリス劇場にも出演した。ガルデルは“ミ・チーナ”とタンゴ“ケハ・インディアーナ”を録音した。彼ロドリゲスは1895年10月19日アバストに生れ1928年4月4日没。
(b):本名ルイス・ペドロ・ビクトル・ロルダン(ルイス・カンデーラ)/1894年5月13日生~1943年8月7日没/詩人/夕刊評論紙に記者として30年間勤務する。ガルデルは彼のタンゴ“カルネ・デ・カバレー(キャバレーの肉体)”,“ラ・トリステサ・デ・ブリン(ブリンの悲劇)”を録音している。

⑧:アマネセール(夜明け)/シフラ/作者:ガルデル-ラサーノ/歌:ガルデルソロ/1919年9月26日録音/原盤#18021B/
この著作について異議を称える者は出ていないのだが,ウルグアイ詩人アリアス・レグレスの詞にガルデルが曲を付けた作品である。レグレスについてのデータは『ラプラタ地方のフォルクローレ』を参照の事。

Que lindo es ver por el llano ! /平原から見るのはなんと美しい!
Que lindo es ver por el llano ! /平原から見るのはなんと美しい!
Ande se va un pollero /スカート姿が過ぎ行く
que partica , y altanero va su viguela portando /バルティカ,高慢なほほに風受けて
para los perros ladrando /犬が吼えながら
y un resuello y un maceta ; /苦しそうなよぼよぼに

⑨:(エル)ミロンゴン(主題?:カンシォン・アグレステ/ひなびた歌))/ミロンガ/作者:パシャドール,アンブロシオ・リオ(渾名カピチェラ)/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年9月26日録音日同上/原盤#18022A/
二重唱の際立った歌とホセ・リカルドの完璧な技巧演奏によるギター伴奏が冴える。

Lindo es el primer albor , /初めのあけぼのは美しい
que viene anunciado el dia /生存を告げに遣ってくる
y tras de las cerrania /丘陵の彼方から
repunta el astro mayor . /偉大なスターの前触れ.

アンブロシオ・リオは1900年の18歳頃からバジャドール,ラモン・ビェイテのコントラプントに参加して歌い始める。彼独特の天真爛漫と我々のフォルクローレへの愛惜が滲む歌うスタイル。有名になる前からガルデルとは親交を交わしていた。“エル・バイサーノ・コントレーラ(同郷人~”,“エル・サイノ・コロラド(赤毛の子馬)”,“リオハーナ・ミア”,“ポーブレ・ミ・ガウチャ”などガルデルが録音した曲がある。リオはイタリア,ナポリに1882年生まれ,生後50日にしてアルゼンチンに両親に連れられ移住した。1931年6月9日ブエノスにて没した。

にほんブログ村 音楽ブログ ワールドミュージックへ
にほんブログ村

2012年5月27日日曜日

ペルリータとガルデル(2)



ペルリータとカルデル(2):余り気が進まないのだが,ここからカルデルの私生活に踏み込んでいく事になる。

曖昧だが1926~7年頃の時期にガルデルはアスセーナ・マイサーニを介してペリータと知り合う。ペルリータはエル・モローチョと知り会い間も無くお互い気に入り意気投合し合いロマンスに溺れていく。それは必然的だった様で“二人はボヘミオで陽気の似たもの同士。その上に生きる喜びと味を引き出す冒険を楽しむ人生観の持ち主”とペルリータは認めていた。それは夜毎事のブエノス・アイレス巷のレストランで夕食をしたり,バー・ロス・アンへリートスで二人がカクテルの杯を交わす姿が見られた。グレコはエル・モローチョの親友ホセ・アントニオ・サルディアス作のタンゴ“ムチャチータ・デ・モンマルトル(モンマルトルの乙女)”に歌われている人物“一時の相手”の其の役を演じた訳だ。カルロスは何時も彼女の公演仕舞いに待ち合わせてタンゴ、“ロ・アン・ビスト・コン・オトラ”の如くパレルモ公園を散歩したり,リンコン通り137番地に所有していたピシート・デ・ソルテーロ(青い部屋)に入り込む二人を見かけられた。このような噂は当時のタンゴ界では知る人ぞ知るという有様だったらしい。二人揃って音楽,演劇,映画愛好の外に競馬に気狂わせた。“私は軽快な良い血統の子馬を操るのが大好き”だと言うほどの騎手。それに“レースに強力に賭けるのが好み”で,競馬は感動的で秀麗な催し物とペルリータは言い切る。皆が反対する忠告にも拘らず自立のバドックを組織するべくガルデルはすでに有名な“ルナティコ”を手に入れていた。彼は1925~27年にかけてこの持ち馬で30~40レースを賭けたが勝負には余り恵まれなかったようで,この経験で受けたのは経済的に失地に負い込まれた事。カルロスと知り合った時にはすでに金に困っている様子だったとペルリータは語っていた。しかしながら何時も事ながらガルデルにはあの競馬“パレルモ”に夢中で心を奪われ勝ち,月並みな事だが翌日の朝早く行われる競馬レースに居る為に土曜の夜は早くベットに着くが眠れぬ夜を過ごした挙句パレルモのレースに遅刻。その同じ日曜日の夜の劇場に彼女を迎えに行くのを忘れ,たびたびのデートにも現われない機会も増した為に二人の関係は中断するに至る。そしてペルリータはバンドネオニスト,フアン・バウティスタ・デアンブロシオに誘われて歌手としてスペインへ,彼女はタンゴとは別の世界で活躍していたが余りにも誘惑的であったので誘いを受ける。それはカルロス・ガルデルと友人のセリア・ガメス等の助言か彼女自身の経験故かそのキャリアに跳躍を与えた。それは1928年8月の事であった。オルケスタ“バチィチャ”で最初のヒットはメロドロマティク風脚色のスペイン産タンゴ“シエギータ(盲目少女)”である。ペルリータはやがて祖国スペインの雑誌に彼女が途方もない評判と勝利を獲得した人物と記事が載る。それはマドリード界で知らない者もいないほどに、終わる事無く起こる真の暴露現象であつた。ガルデルとのロマンスから離れた様だがペルリータのスペイン以後の芸歴を述べる事にしよう。1931年にスター・フイルム製作映画題名“ジョ・キエロ・ケ・メ・ジェベン・ア・ホリウッド(ハリウッドに連れて行って)”俳優フェデリコ・ガルヒアと共演する。ペルリータは情熱的、陽気な、活動的な、好意的な、親しみ易く、素朴にキャリアを的とうした。又、フランスと北米でも活躍し、キャフィアスピリーナ・オーディーションでニューヨークNBC放送にも出演したり。又、“エル・モローコ”なる人物、アルサテ・ウンズエと知り合い、“エル・モローコ”のピアノ伴奏で唄い、ガルデルの作曲に協力したテリグ・トッチーの伴奏で唄う機会にも恵まれた。最終的にキューバに落ち着き住み着いたが、海外生活8年後にブエノス・アイレスへ母親孝行する為に探しに帰る。そして、ハバナの家に母親を連れて行くのを試みが成功したか否か、このレポートに明記は無い。又,彼女ペルリータ・グレコのガルデルとの果かない束の間の愛の存在も,何人の記憶の元にすら面影は残っていない。と前回の『ガルデルの恋愛遍歴』(2)(2010年3月29日)ではグアダルーペ・アバジェ女史の作品を参考にしたが。ところがガルデルとのロマンスは終わっていなかった。この物語はスペイン,フランス果てはニューヨークまでと続くのです。次回からマルセーロ・マルティーネス氏の『ガルデル・エス・コン』のコラムを編集した記事を載せます。

にほんブログ村 音楽ブログ ワールドミュージックへ
にほんブログ村


2012年5月22日火曜日

ペルリータとガルデル( 1 )


ペルリータ・グレコ編-1(再編集)


カルロス・ガルデルとロマンスを宣告した数々の女性の内の一人。“幻想か真実か?”単なる想像か唯宣伝の為の策略の産物か彼女のみ知るのだが。いや、確かにかの偉大なタンゴ歌手との愛惜関係に束の間に生きたのである。

ペルリータの“告白”は:ペルリータは大盛況に終わった舞台を後に毎夜の如く楽屋へ戻る。
その日は1935年6月24日の夜...舞台衣装やフアンに贈られた花束に埋まった化粧台。鏡に映る壁に貼られたアナ・パブロウア,マウリセ・チバリェール,ラ・ゴジャ,カルロス・ガルデル等の写真。そこに待っていた雑誌レポーター,ホセ・モンテーロ。彼に見せられた新聞の大きな見出し記事。“カルロス・ガルデル,コロンビアで飛行機大惨事にて死ぬ”。それを読み恐れおののくペルリータ...インタビューの瞬間に女神の如き眼差しを引き寄せ止めた。“可哀想なカルリートス!15日ばかり前に受けたアメリカからの最新の便りには私に書いた「プロジェクト,仕事は総てうまく行っている」と彼の話。そしてこの突然死のニュースは恐ろしい!それゆえに,わが命におきた多くの出来事ゆえの思い出”と泣きくずれながら挫折したアイドルとのロマンスのよき瞬間を告白した。前期のペルリータの告白の情報は度々繰り返されたが,その全体は公表される事は決してなかった。彼女の告白はここまで...ではペルリータ・グレコとは実際に何者なのかその経歴は?まず関連した芸能から再現して見よう。疑われたレスビアン,素敵なピアニスト,しとやかな声,上品な知的能力と当惑させる美貌に魅惑させる人と完璧な錬金術の持ち主...軽薄と純真な乙女如き風采と社交界に軽薄と異端と非難が生じたシンボル的存在。彼女、ペリータ・グレコの本名はアルホンシーナ・グレコ・コンスタンティーニ,1906年5月11日にスペイン,マドリードに生れた。母はイタリー中心部山岳地方のアブルソーの小都市カサカゥデテリャの出身である。母に連れられて多くのイタリー人の例に漏れずにアルゼンチンにやって来た。幼年期はサグラード・コラソン修道院付属学校に入学を果たす。そこで16歳までカトリック修道女の下で教育を受けたが其処で早くも芸能への才能を育ませる。そこで歌とギター及びダンスを身に付けた。その上に習得したピアノはずば抜けた芸であった。やがて多く少女達が夢見るように彼女ペルリータも同じ様に経済的社会的向上へ向けて演芸世界へ道を探す為にロサリオからブエノスの中心街のペンションに母と共に移り住む。時は1924年の事であった。また,彼女の随一の目的は“世界一有名なアーティストに伸し上る”ために演劇界へとデビューする事。一方の母ジオビーナはタンゴ“ラ・ビオレテーラ”の唄のようにポルテニョ街のカフェティンやバーからバーに魅力的な微笑みと共に花売りに励み,また芸能興行に関連する男女に生粋の好感で接しペルリータが演劇界に入るコネの獲得に常に努力する程の良き理解者であった。それは娯楽産業と近代性の運び台に攀じ登る為に衝動的野心を伴う場末のぬかるみの存続する狂乱の場所。それはブエノスアイレス狂乱時代の出来事であった。タンゲーロ,タンギスタ,カンシオニスタ,トナディジェーラ,サイネテーラに成るためには美声を所有する事は助けになるが,だが絶対的不可欠な要素になる事は無い。反対に声技巧の過剰は演技プロットを曇らせる。これらの条件は歌手に要求されるほんの些細な事だが...その通り一口に言えば...詩節それぞれの確認を許すニュアンス。感傷的か悲劇的,滑稽か劇的に成りうる。しかし,常に超過する事無く,自然な仕方の技巧を物にする。そのもっと複雑な自然性を手に入れる。より明白な例としておそらくアルゼンチンではティタ・メレーロだろう。つつがなくわずかな例外として(彼女の様な“俳優兼歌手”を語るのがより好ましい)彼女の青春の美貌と健康の大部分をゆだね茨の道に入り込む。大部分の彼女達は慎ましい家庭に由来するが,そして貧困から抜け出す為に勇敢にもステージに飛び込んだ。ペルリータは邪悪したシステム論理を壊す為にトリックを活用した...適切なチャンスを待ち,抜かりなく粘りとうした。好機はこの様に生じた:ラ・コメディア劇場の出し物“ラス・コルサリアス(海賊女)”の主人公コーラスガールのセリア・ゴメスが父親と共にスペインへ帰るために新しいアミ―ガに主役の欠員埋めさせるチャンスを与えてくれた。ファストラに生まれ変わるペルリータ・グレコ“このデビュー名で舞台に”...偶然の気紛れとある一部の人は言うが“相応しいポストと機会に居る為の嗅覚を持ち合わせる”と評価した人もいた。ミゲル・ラマスと神聖な俳優連との共演の主役の様な初舞台は話題になり,芝居の優れ者に変豹した。性欲の渇きの為の男を誘拐に励む美貌のアマゾーナ役にめがけて精通。パソドブレ“ラ・バンデリータ”は本物の賛歌に変換させた。これらの音楽は甘ったれ気味且つ感動的でグラナダ出のフランシスコ・アロンソが装飾している。ブエノスアイレスにてこの出し物は3千人以上の入場者で埋まれた。

ペルリータとマイサーニ:ペルリータはレビュースターの様に目覚しい経歴で登場した。“ラス・コルサリアス(海賊女)”のラ・コメディア劇場からポルテーニョ,マイポーへと舞台の場所を変えて行く。ぺぺ・アリアスの“カベシータ・ロカス(狂った頭)”のオペレタや“モリーノス・デ・ビエント(風力製粉機)”,“ドニャ・フランシスキータ”などのスペイン抒情詩スタイルの作品類にも解釈的演劇にも手短に浸入した。1926年歌手アスセーナ・マイサーニと知り会い友情を交わす。噂では二人のアティーストは同性愛好みがあると非難されたがそれはむしろ曖昧であると判断された。マイサーニは男装で演技するが“ミロンキータ”,“モコシータ”の節をつけて歌う時にはグレコも同じ様相を取り入れた。しかしながら,タンゴにおいては双方とも評価されるのを何時も避けていた。
1928427日マイプー劇場で初演されたイボ・ペライ,ルイス・セサル・アマドーリ,ウンベルト・カイロ合作オリジナル作品の“カサス・ソンリエンテス(微笑の家)”レビューの舞台にペルリータはマイサーニとカルメン・オルメード達と共に共演した。また,6月8日初演の同作者の作品で同共演者と“エストレージャ・デ・フエゴ(炎の星)”に出演。翌月の7日“フベトゥー,ディビーノ・テソーロ(青春,素的な宝)”の舞台にアンヘラとビクトリア・クエンカ姉妹,カルメン・オルメド,ビオレタ・デスモン等と共演した。

にほんブログ村 音楽ブログ ワールドミュージックへ
にほんブログ村

2012年5月17日木曜日

タンゴ「エボカシオン」


エボカシォンとは回想と訳すのだが.
若き日の苦き失恋の回想。
暖炉の炎のゆれと共に思い出した痛恨。
それを生々しく回想したタンゴ“エボカシオン”。

EVOCACION(回想)
La lama alientas en la chimenea /暖炉に鼓舞する金糸
y el crepitar de leÑas encendidas /火がついた薪がバチバチと音をたて
me atormentan con llagas de fuego /達する炎が俺を苦しめる
reabren en mi alma, hondas heridas /傷深く,わが心のなか再びあける
la llama loca corre y piruetea / 狂った炎は駆け回り,飛び跳ねる
y en el delirio de la noche oscura /そして,くらい夜の妄想に
reviven aÑos de intense amargura /強めた悲嘆は年々よみがえる 
que triste me acompaÑan en mi soledad /わが孤独に付きまわる悲しみ

Crepitan las leÑas, revive el pasado /過去が蘇えり,懲らしめがバチバチと音立てる
del fondo del tiempo como una vision /幻のような時の深みへ
y me trae el viejo perfume aÑorado /郷愁のふるき香りをもたらす
de la que fue un dia mi sola ilusion /影のみのわがある日がすぎ
crujen las leÑas, la llama agonize /きえうせかける炎,焚きつけが泣きわめく
mis manos persiguen aquella vision /幻のあれがわが腕を追う
en vano se alargan, no hay mas que cenizas /灰のみ残り,延びた空虚に
ceniza en las leÑas y en mi corazon/わが心にはまきの灰

Leve la estrella de tus claros ojos /きみのさわやかな瞳の輝やぎ微か
diafana luz de sempiterna andanza /旅の永遠の光は曇りなく
que en las rutas de mis aÑos mozos /わが若き年の道筋に
fue mi suspiro, fue mi esperanza /わがのぞみ,わがためいき過ぎて
ahora mi senda llena esta de abrojos /我の行く道は茨満ちた今
mi vida mustia ya no tiene llantos /もう涙撒かれて萎れるわが人生
y el corazon zozobra de quebrantos /そして,衰えの不安心
de verme indigno de tu inefable virtud /言葉絶する高潔な貴女の相応しからぬ眼差し

このタンゴはガルデルがビクターに最後の録音をした後に現われた曲で,彼はレコード録音しなかった。
いや,ニューヨークに戻れぬ不可抗力により歌えなかったタンゴである。作詞は当然,アルフレッド・レペラ,作曲はカルロス・ガルデルでテリグ・トゥクシが協力参加している。この曲は1960年タンゴ歌手のアルベルト・バルディがロペス・バレート等とニューヨークを訪問した際にコロンビア・ブロードキャスティングのディレクターであったピアニストのマエストロ・テリグ・トゥチィに巡り会ったのだが,その時彼曰く「これは我々の幼稚な考えだが聴くに値する。この楽譜はバレートに託すのが相応しいと俺は確信するが,ガルデルもこうあって欲しいと思ったに違いない。」とそのタンゴの楽譜をラファエル・ブロウンに見せた。彼ブロウンは“この死後の作品”は本物かどうか疑わしいと考えた。ロペス・バレートはアルフレッド・レペラの弟ホセに聞けばと助言してくれたので,彼ホセに訊ねた所,彼は確かに兄とカルロスは何らかの作品の試案を持っていたらしいと言う答えであった。このタンゴ“レコルダンド(思い出す)”或いは“エボカシオン”は流布されていないと思われたがアグスティン・イルスタの歌う“エボカシオン”のタイトルの録音がデッカ・レベールに存在するのが判明している。ここではアルベルト・バルディの歌がtodotango.comのmp3で聴ける。

http://gardelweb.com/music/Evocacion-Tango-1989-Alberto-Bardi.mp3


にほんブログ村 音楽ブログ ワールドミュージックへ
にほんブログ村





2012年5月14日月曜日

ガルデルのルーツは?





左の写真はバルセローナ近郊のサバデリ地方の新聞記事である。ガルデルのルーツを話題にしたコラムである。アルゼンチンではガルデルの生れはフランス,トゥールーズとされている。処が彼の芸能才能にはフランス文化の遺伝的影響が全く無い。一方のウルグアイは彼の少年期から郷土民謡を歌いパンパに放浪の挙句にパジャドール達と親交を結び詩や歌にたしなむ環境に育んでいる。またタクアレンボーのカウディージョ(地方政治のボス)であった彼の父親とされるカルロス・エスカジョーラ大佐はギター演奏と民謡を歌い,挙句の果てに本格的な劇場まで作りオペラを楽しんだ。だからガルデルは彼のそうした趣味や才能を受け継いでいる。当然,ウルグアイが“彼の出生地”はわが国だと強力に主張しているのは一理有ると思う。ではソルサル・クリォージョのルーツを探るとしよう。先ず彼の誕生地ウルグアイも牧場が広がり放牧された大群の牛とガウチョとフォルクロール音楽の世界がある。そして首都モンテビデオはブエノスアイレスにも負けずにタンゴも盛んである。そして隣国アルゼンチンと同様にヨーロッパ移民を多く受け入れた国である。ところがガルデルもその移民の血を引くガウチョの世界から誕生したといきなり言われると不釣合いな違和感に襲われるだろう。彼の出生地はウルグアイ北部タクアレンボーの農園であるが。先ずは祖先のルーツを追っていくとスペインのカタルーニャ地方バルセローナ出身の祖父フアン・エスカジーラに行き着く。その祖父フアンは1838年23歳の時,ウルグアイにやって来る。彼は大都市バルセローナ海岸地方西部20kmのサバデジェニンセス(サバデリ地方人)の石灰手工芸家一門エスカジョーラ家系に属していた。彼の職業はバルセローナで訓練された船大工であった。(マサッゲー街道のベントゥーラ店においてエスカジョーラ陶工達の物だった巨大なセラミック窯が最近発見されている。)偉大なタンゴ歌手カルロス・ガルデルは『スペイン,サバデリ出身のある一人のエスカジョーラ家系の孫』であった事になる。ずっと後年になるが...その血の繋がった祖国,家系由来の土地で彼は数年に亘る滞在を完璧に享受した上にそのバルセローナで凱旋を選ぶ。これらの理由によりカルリートスがいかにこの地への本能的に愛着を示していたのは理解できると言うものだ。それは百万倍も確信的な事実である。これがガルデルのルーツ先に到着した最終駅である。

注記:ガルデルの父とされるカルロス・エスカジョーラについては『ガルデルの出生の秘密』編を参照ください。


にほんブログ村 音楽ブログ ワールドミュージックへ
にほんブログ村

2012年5月10日木曜日

蓄音機で聴くガルデル



ガルデルは“ビトローラ”で聞くのが最適だ!!


ビトローラ(ビクトローラ)とは古い蓄音機の事である。今更最先端のCDプレーヤーで最新録音を聞く時代に今更SPレコードなどを引っ張り出す事もあるまいと思うのだが...。ましてガルデルのSPレコード盤などは入手も聴くのも至極く困難な時代なってしまった今日この頃である。これらの録音を名機“クレデンザ”と名の付く古い蓄音機で聞くと“生のガルデル”の歌が迫って来るらしい。らしいと書くのは小生は残念ながら“クレデンザ”なる蓄音機の本物を見た事も聴いた事も無いからだ。レコード盤に蝋管の先に鉄針をそっとのせると朝顔に似た大きなラッパからかなりの音量の音楽や歌が聞こえてくる。と幼年の頃簡単な蓄音機を聴いた記憶がよみ返って来たが。ところで今,古い蓄音機と数枚のガルデルのレコードが手元にあるとしよう。しかし,この装置を聴くには然るべき神聖な準備と儀式がいる。先ず蓄音機のゼンマイをハンドルで巻き上げ,レコード針の調整をした上に。そこで慎重にレコードに針をそっとおとしてみると想像しうる喪失とひずみ音とスクラッチから聞こえてくるあの当時其のままの“ガルデル”が浮かび出てくる。「ガルデルは蓄音機で聴くべきだ」とただちに納得するだろう。それはアコースティック録音特有の自然その物に再生された音がかもし出されてくるからだ。ガルデル初期の年代の舞台からラサーノとドゥオで,また,古い屋敷のサグアンから登場する様に“ラ・コルドベセサ”,懐かしの“ミ・ティエーラ(我が故郷)”,と滑稽な“エル・サポ・イ・ラ・コマドレハ(蛙とイタチ)”の歌々。そしてギターのバチバチとした金属音を従えて強くひねりに満ちた独唱がラッパに映える。ある夏の宵のマテの一時に聞こえてくるラジオからのカルデルの快い歌声に思いを映えらせ...“ミ・ノーチェ・トリステ”,“マノ・ア・マノ”,“カミニート”を初めにアコースティックの響きが部屋に広がる...,その声は彼の栄光に一致するものだ。そして今でもガルデルが恰も生き帰り歌っている様な幻想の世界に引き込まれるだろう。

注記:サグアンとはブエノスの邸宅の玄間入り口の石たたみ通路に石作りの噴水があったりする。テレビのタンゴ番組の舞台の背景に出てくる。

にほんブログ村 音楽ブログ ワールドミュージックへ
にほんブログ村

http://ping.blogmura.com/xmlrpc/re52tgngkqxm

2012年5月6日日曜日

ガルデルとフアン・“トローラ”エスカジョーラ
















ガルデル,“メレヌード(メレーナと同じ意味,即ち長ろ髪)”とはガルデルが青年時代に呼ばれていた仇名であるが...彼がウルグアイからアバストに帰りトラベルソ一族の経営するフォンダ(酒場)オ‘ロンデマンに出入りし,そこで歌いはじめる。年代はタジー二商会で初録音した5年ほどの前になるが。トラベルソの末弟“シェリート”が殺人を侵す。まもなく彼が釈放されるとガルデルの手助けでウルグアイのタンボレースのアマンダ・エスカジーラの農園へ亡命する。1915年末キャバレーミロンガ“パレー・ド・グラス”の帰り道でガルデルは背後から銃弾を打ち込まれた事件は有名だが。彼は傷の回復の為に翌年早々パイサンドゥーとタクアレンボー境にケグイ川のエスタンシア・ビエハ“タンボーレス”地帯のコロニーに位置するエチェガライ農園に引き込む。その年の1916年にフアン・“トローラ”・エスカジョーラが発行する新聞“ペリオディコ・ガゥチェスコ(ガウチョ文化新聞)”にタクアレンボー郷土の有名人“片腕”アレホとフアン・エスカジョーラ当人宛にある“ペンネーム”による敬意の韻文詩が載せられた。


この詞は...
ギターを呼び寄せ,
マテ茶を手元に...
さえずる小鳥等とともに...

Marca de la estancia
vieja /古いエスタンシアの烙印
cayo parando la oleja /聞き耳を起てて気づいた
el taita no Manco Alejo ! /マンコ・アレホ様!
apriete esos cinco viejo /五人の老いぼれ押し付けて
que el gustazo que me ha
dao /俺にくれた気紛れ
no es para ser explicao /説明なんて野暮な
sino en un abrazo juerte /そうでなく強い抱きつき
ya que me ofrece la suerte /俺に幸運の約束を
el tenerlo a nuestro lao /我々の脇に居ておくれ

Lo vide no Juan Torora /フアン・トローラ旦那様あれを見ろよ
y he cumplido con su
encargo /貴兄の頼まれごとは果たした
mientras tomaba
un ”amargo” /“苦いもの”を飲んでいる間に
y hacia vibrar la ”sonora” /“鳴り物”が響き渡る方へ
le manda esa ave cantra /そのさえずり鳥を向こうに放つ

un abrazo tan estrecho /凄く真じかに肩寄せて
que la hara fruncir el
pecho /胸もと澄ましととのえ
p adir recto al Corazon /心にまっすぐ合い間める
y yo le envio un apreton /俺が届ける抱きしめを
que lo dejara
maltrecho … “/痛みを捨て去る...

その“ペンネーム”はエル・ガウチョ・メレヌード(長髪のガウチョ)”との著名サインが見とめられた。これは紛れも無いカルロス・ガルデルのペンネームであった。この詩に出てくる人物フアン“トローラ”エスカジョーラ・メンデスはアルゼンチンでは余り話題にされない。というより,彼はガルデルの従兄に当る為でガルデルフランス人説を主張する人々にとっては不都合なガルデルがウルグアイ生まれの証拠に結びつくからだ。
フアン・“トローラ”・エスカジョーラ・メンデス:彼はガウチョ詩人“エル・フォゴン”誌発刊協力者の他に自力で文芸新聞を発行していた。カンセラ・デル・ティエンポ(倦怠なる時)なる本に“アンデ・メ・ジェベ(歩けよ俺のジェペ)/ラ・ボルンター・デ・ミ・カバジョ・モーロ(俺のモーロ馬の意志)”の道程の韻文詩も発表している。この本はミーナ,パイサンドゥー,リベーラ,コンセプション・デ・ウルグアイ,モンテビデオ,ドゥラスノの各都市に滞在した時に書いた50余りの詩作が収録されている。ドゥラスノ滞在時には詩作のほかに先祖代々由来のブランカ派の政治活動にも首をのめり込ませている。ガルデルは1912年初録音した“ソス・ミ・ティラドール・プラテアオ”のレコード盤をこの従兄“トローラ”に進呈したらしい。カンセラ・デル・ティエンポに記載されている詩はガルデルが歌った“ソス・ミ・ティラドール・プラテアオ”であると一部の研究家や随筆家等が断定しているが,それはオロスコ作詞と同名“レトゥルコ”で詩の内容は違うと前項で説明してある。


にほんブログ村 音楽ブログ ワールドミュージックへ
にほんブログ村

2012年5月4日金曜日

ガルデルの一世紀前の初録音曲 ( 2 )


ガルデルが初録音した“ソス・ミ・ティラドール・プラテアオ”の生れた経緯...

ガルデルが初録音した“ソス・ミ・ティラドール・プラティアオ”の元になった詩“レトゥルコ(反論)”を作った人物がオスカル・オロスコである。彼はウルグアイ国パイサンドゥー1878年6月6日生まれ,マルドナード地方に於ける女流詩人の母ドリア・カステリ・デ・オロスコの“エル・ロメリージョ”農園で育つ。モンテビデオの学校で修学優秀表彰を受けた。そこで老練な小説家カルロス・レイレス(1868~1938)に知り会い,彼と共にエキスポ・イベロアメリカのウルグアイ代表としてセビージャに派遣される。晩年はコロラド派(右翼)の政治活動に参加した。1937年6月26日モンテビデオにて没。彼のもう一つの業績は田園地方生活の印象をモチーフにしたクリオージョ韻文詩の作品を多く残している。その一つの“レトゥルコ(反論)”又は“チーナ・ミーア(俺の可愛い人)”はデリア・ロドリゲス・ソーサ嬢に宛てた恋文の一部であった。(彼女とは1903年8月30日に結婚式を挙げて居る)

この詩“レトゥルコ”は1900年1月15日に発刊された雑誌“エル・フォゴン”58号に記載された。このオリジナル詩の導入部はガルデルが省いてるので下記に再現する。

Estamos en el pintado /我々はそっくり
con la tropa en pastoreo , /放牧されている家畜と
porque el paso esta muy feo /それは道の余りにも酷い
y aqui me tiene embretao , /そして,ここは俺を柵にのなかに押し込めた,
Te escribo sobre el recao /伝言としてお前に託す
tan solo por noticiarte , /唯一つお前さんに知らせるため,
donde me encuentro ,y pa`hablarte /おれに出会う処で,そしてお前と語るため
de aquellas cosas queridas , /愛しき事ごとのあの出来事,
Pa’ que veas mi fino amor , /我が優美な愛をどうか理解しておくれ,
con todo esmero y primor /繊細と出来る限りの細心と共に
que he dejado alla perdidas /あの迷いにおちこみて
al tener que abandonarte . /お前を置き去りにしなければならず.” 

これは“レトゥルコ”の一節目だが,まだ後に二節目があり三節目から“ソス・ミ・ティラドール...”の詩節が始まる。後に二節あり全体で五節あるのだが長くなるので一部だけ紹介した。ガルデルはオロスコの詩の三節目を“エスティーロ”スタイルで彼風にアレンジを施して仕上げて初録音のデビュー曲にした。ガルデルはこの“ソス・ミ・ティラドール・プラテアード”の作者はフアン・“トローラ”・エスカジョーラだと名指していた。この人“トローラ”氏はガルデルの従兄弟に当る人物であるが“レトゥルコ”なる詩を1899年9月7日のエル・フォゴン誌に載せていた。その詩の一部を書いてみると...

El final ya lo presiento /最終的には今やその予感がする
si a tiempo no me descarto ; /そうだ時は逃れできない
como verlo , que me ensarto /それを見解る様な
si voy en su seguimiento /そうならば彼の後追い
pa’ cantar con sentimiento . /歌うためには悲嘆と共に

この節にも後に続く節にもミ・ティラドール...なる言葉は出てこない。この詩は偶然にも同じ題名だが内容は全く違うテーマである。ガルデルは何か勘違いしたのだろう。それにしてもガルデルにはウルグアイに親族を持っていたのだ。幼少からモンテビデオに住み10才頃養母ベルタにブエノスに連れて行かれたが少年になるとモンテビデオに独力で舞い戻っている。その後生地タクアレンボーに行きバジャドールとガウチョの仲間入りの末にエスティーロ,カンシオン,ビダリータなど土地の民謡を身に付けて歌いはじめる。この環境により“ソス・ミ・ティラドール・プラテアオ”は生まれベくして極自然に彼の口から歌と成りえたのだ。これは世間万人の知らないウルグアイ郷土に生きたガルデルの生い立ちの成果である。



左の写真はウルグアイ文芸誌“エル・フォゴン”の表紙である。フォゴンの由来はガウチョ達が夜張りに三々五々集まりパジャーダやガウチョ風民謡を歌たった憩いの場所に炊かれた“焚き火”らしい。この文芸誌は1895年にアルシデス・デ・マリアとオロスマン・モラトリオらが設立した。エリアス・レグレス,フアン・エスカジョーラ(*),マリティアーノ・レギサモン,ドミンゴ・ロンバルディの面々が協力参加している。主にラ・プラタ地域のガウチョ文化のジャンルを中心テーマに編集されている。(*)印を付けた人物は紛れもないガルデルの従兄弟“トローラ″エスカジーラ氏である。
にほんブログ村 音楽ブログ ワールドミュージックへ
この歴史的一世紀前の録音した14曲の他の曲は昨年7月31日1~5曲
/8月1日6~10曲/8月3日11~14曲と紹介してありますのでそちらを参照ください。