2012年2月13日月曜日

ガルデル,モンテビデオに凱旋

1915年6月15日~7月9日、モンテビデオに凱旋する:ローヤル劇場(Calle Bartolome Mitre y entre Buenos Aires y Reconquista)でデビユー、友人マヌエル・バルカ(*)がガルデル-ラサーノをローヤル劇場の経営者のビスコンティ・ロマーノに紹介し、そこに彼等の出演が実現する。「ここに登場したメンバーはオリエンタル(*)出身者。一人はホセ・ラサーノと呼ばれ,もう一人はお喋りで好漢な少年容貌の肥満タイプ。それでも同輩に厄介な契約担当を任せ平然としていた人物が,カルロス・ガルデルその者であった」。ガルデルもラサーノも彼自身達の真価をも自覚すらしていなかった。この時期(1914年頃)の彼等の活動範囲はブエノスアイレス沿岸の安酒場や近郊の臨時ステージで歌うクリオージョ歌謡に限られたレパトリーであったが,それ以後キャバレー“アルノンビージェ”や“ナショナル”劇場に出演したりで世間の評判も上昇途中であった。モンテビデオにやって来て,各所の壁に彼の名前が貼り出されているポスター広告を見取どけたガルデルはびっくり仰天。“チェ・バルカ! 俺をカルーソと勘違いしているみたいだぞ!”と叫んだ。ローヤルのデビューの日は針の入る余地も無いほどの満場で,ドゥオはサリーナ作の“ラ・パストーラ”から歌い始め,続いてラサーノの得意な彼の“シフラ”,ガルデルは“エル・パンガレー”“アィ,アィ,アィ”“アキ・テネス・センタード(**)そこに座っていろ)”と歌い続け...カルリートスもっと歌え!観衆連は熱狂のまた熱狂の坩堝と沸き返る。明け方になってもそこを立ち退く者も居ない。“一方ではバルカが祝福をしようと楽屋に入ると感激の余り泣いているガルデルに出会う”そして興奮に鬱積しながら“バルカ兄弟よ!これはすべて...すべてお前さんのお蔭だ!とかろうじて呟く”。この際立った新しい局面の始まりが...この情況は実際に何か異例な起こり事。後年マヌエル・バルカが“エル・アチェロ(松明立)”誌の記事に書いている。1915年6月19日のラ・ラソン紙によると「ガルデル-ラサーノ“ドゥオ”のデビューは素晴らしいヒットであった。エル・ロヤールは盛況に湧き上がり,彼等は的確な調音と上質な声の田舎風トローバを彼等独特の“歌いスタイル”で郷土趣向のセンチメント溢れる快い二重唱の歌唱で正当な拍手喝采に値する観衆の魂を征服した」。別の新聞のローヤル紙は「疑う余地のない事,ビスコンティ氏の劇場のポスターに注意すると主要な意義は若い“同房”達のガルデルとラサーノが名乗り上げた;この二人は我々のクリオージョ歌を的を得た選り優れる歌唱を演じた...」。ここで新聞記事の二人の若い“同房”と論じている事に注意すべきである。即ちウルグアイ・ジャナリズムはガルデルも“ウルグアイ人”であると判断したのである。そして,彼等は故郷に凱旋公演を成し遂げたのである。
注記:(*)オリエンタルとは東方又は東洋人を指すのだがウルグアイの正式の国名は東方国ウルグアイ共和国と呼ぶ。
(**)この曲はガルデルによるレコード録音は存在しない。

2012年2月10日金曜日

パレー・デ・グラス

この章ではガルデルの芸能活動とは関係の無い出来事だが...ガルデルが危うく命を落とす事になる事件に巻き込まれたのだから...

1915年12月11日の事、ブエノス・アイレス中心のサン・マルティン劇場出演後,エスメラルダとサルミエント角でアリピィ,モルガンティ,アベランダ,アルフレッド・デフィラリ等の友人達と集合して誰から共にキャバレー『パレー・ド・グラス』へ行うと言い出したが当時あの場所は騒々しい不良若者達の間で大盛況の評判だった。デフェラーリとラサーノはそこへ行くより“アルメノンビジェ”へ行こうと提案したが,ガルデル初め取巻きはシャンパンとタンゴとミロンガ(サロン・デ・バイレ)で有名なキャバレー『パレー・ド・グラス』へ繰り出して行った。ガルデルの誕生日(?)の宴会騒ぎの後、エリアス・アリピィは出口である若者達の塊団に遭遇の際に挨拶したが彼達は挑戦的に拒否した。それに構わずアリッピィとカルロス・モルガンティ,ベランダらと馬車でアルベアール大通からパレルモへ向う途中、アルベアール広場に近づいた頃に先ほどの若者達が3台の馬車で後をつけてきた。挑発的なその一人の若者(*)“二ニョ・ビエン(お坊ちゃん)”が馬車を降りたアリピィに拳銃を向けた。そこでガルデルが庇う様にアリピィの背後に回った所へ、ガルデルはごく近くから背中に銃弾を受け,肺に達する瀕死の重傷を受け歩道に崩れ倒れた。傷の手当てをした医師は肺の近くに進入した銃弾を適出せずに放置したが奇跡的に命を取り留めた。この事件はアリピィと不良達との喧嘩の巻き添えか,それとも誰かの企んだガルデル暗殺犯行であったのでは?... いささか想像的な説だが「当時,ガルデルはキャバレー・チャンテクレールのオーナー及び暗黒界の黒幕フアン・ガレシオの愛人ジャネッー“ラ・リターナ”とロマンス関係を維持していた。ガレシオがその関係を嗅ぎ付けるとガルデルを復讐する為に刺客を差し向けた」。そして,ガレシォが後日悪功の達成を企てない様にとアルベルト・バルセロー保守派政治家の右腕フアン・ルジェーロが仲裁に入ったと言うおまけの説まである。いずれの説も満更空想でもないらしい。このジャネッーとのロマンスは本物でガルデルがパリに行くまで続いていた。その後ガルデルは傷の癒す為にタクアレンボー郡のサンタ・ブランカ農園に引き込む。(後年のメデジンで飛行機墜落事故の遺体からこの時の銃弾が発見され,その時機内で誰かに撃たれたと誤報道された)。しかしながら重傷にも拘らず回復は早く一ヶ月も経たないうちにモンテビデオにてカムバックを果たしたのである。注記:発砲した犯人はチェ・ゲバラの祖先に当る人物であったとか?
処であの古き有名な『バレー・ド・グラス』はエンリケ・カディカモによりタンゴとして偲ばされている。

Pale de Glas del 920, /920年代のパレー・デ・グラスは
no existes mas /もう存在しない
con tu cordial ambiente /いごごち良いムードと共に…
alli baile /あそこの踊り
mis tangos de estudiante /学生のタンゴ
alli son ese con los /あそこはそういう連中と共に
muchachos de antes /かってのムチャーチョス.
Noches del Pale de Glas ! /バレー・デ・グラスの夜
Ilusion de llevar luz el compas /光に辿る幻想のリズム

Tu recuerdo es emocion /お前の思い出それはエモーション
y al mirar que ya no estas /そして,ご覧よもうすでに影も無く
me encoge el Corazon… /心がちじむ如く
Llega un tango viejo al evocar /古きタンゴが
desde el ayer… /昔のかなたから  
このタンゴはリカルド・マレルバのオルケスタ,オルランド・メディーナの歌で
1944年9月8日にオデオン・レコード録音されている。

パレ・デ・グラスはパリの『パライス・ド・グラセー』を見本としてホセ・レイとベサドレにより市有地借用の形で1911年にレコレータ街ポサーダ通り1725番にアイススケート場とソシアルクラブとして落成した。アイススケート場はサロンを中心に直径21mのアイスリンクが位置し周囲にはパルコ(桟敷席)と会合サロンが配置されていた。一階(二階に当る)には更にパルコとコンフェテリーア(喫茶店),さらにオルガンが設置された。建物はスケートリンクに採光を考慮する為に屋根はガラス張り丸天井風のクラシック天井で覆われ完了されていた。タンゴは早くも1912年にバレー・デ・グラスを急襲した。それはアントニオ・デ・マルチィ男爵(**)が企画したポルテーニョ上流階級達を招待して開催されたタンゴダンスパティーの特別夜間公演で“ターノ”ヘナロ・エスポシトのオルケスタとタンゴダンサーのエンリケ・サボリード達が出演参加した。開店後5年あまりでアイススケート場は早くもブームが下火になりリンクはダンスホールに改造された。当時の最も重要なオルケスタティピカのフランシスコ・カナロ,ロベルト・フィルポや後の20年代には“セステート”フリオ・デ・カロが専属オル
ケスタに選抜されている。丁度ガルデルが訪れた時期はこの場所は不良人物達の溜まり場になり環境が退廃していた頃に当る。1932年頃から近代に入りバレー・デ・グラスは市の公共施設に返還され美術館として一般公開されたが1954~60年7チャネルの国立TVスタジオに改修された後に1992年以降は博物館として機能している。
注記:(**)アントニオ・デ・マルチィ男爵は当時の亜国大統領ローカの娘婿である。

(原文エンリケ・エスピナ・ラウンソン記と他文からの混合要訳した)



2012年2月5日日曜日

ガルデルとカルーソ

1915年8月15日、ウルグアイの公演は成功に終わり,エンリケ・アレジャーノはガルデルとラサーノにエキゾックなブラジルの未開拓市場に挑戦すべく劇団に参加を熱心に勧めたが彼等は余り乗り気に成れず返答を渋っていた。彼等がブエノスアイレスに戻るとナショナル劇場のマネージャー・ホンタニジャによる外国公演の確実な可能性のアイデアを示される。この野心的な経営者はコメディアンのアルフレィド・ドゥアウを雇い入れて,挙句の果てに一座結成に白紙的全責任を任せた。ドゥアウはエンリケ・アレジャーノとアリピィ以下アンヘラ・テサーダ,カミラとエクトル・キロガ,マティルデ・リベーラ,エンリケ・デ・ロサスとロシータ・カタ等を召集して“ドラマティカ・リオプラテンセ(劇的な~ラプラタ川流域の住民による)”一座を結成した。そしてガルデル-ラサーノ“ドゥオ”達はその後で参入した。そして,いよいよ一座は1915年8月17日に客船インファンタ・イサベルに乗船した。ブエノスアイレス出航後この客船の航海にはアチースト達に格別な興味深い出来事が起こった。それはガルデルが思春期に憧れていたオペラ・テノール歌手エンリコ・カルーソが彼等達と同船していたからだ。カルーソはブエノスアイレスとモンテビデオでの公演期間を成功に収め帰国途中であった。ある夜“ドゥオ”に誰からとも彼を紹介されるとカルーソはガルデルに何か歌えと求めた。ムチャーチョ達は初め怯えたがアチィーストの好意的な態度に勇気づけられ歌い終わるとカルーソは感激と卒の無い声で”Guarde,caro la bella voce del morettino! ” とリリコ歌手サルマルコと共に賛辞讃えた。ガルデルはそのチャンスを利用して古き歌劇で知ったアリアの一部分を歌うとカルーソは一瞬当惑した後に拍手勃発させた。”Molto bene! ….Bella voce(素晴しい!甘美な声だ)”とテノールの同伴者一人コロン劇場オーケストラ常時トロンボーン奏者サルバドール・メリコも拍手喝采に加わっていた。“かの全時代最大のテノールは俺を快く褒めてくれた”。又,歌唱学を勉強した事が全然ないといっても信じてはくれなかった。とガルデル自身が後年に思い出している。そこに居合わせた人物によると,カルーソはガルデルに幾つかの温情的な助言を与えたという。それは“まやかしの判断や安直な人気に当惑されない事。自分の声域より一,二高い音程を手に入れようとしない事。もしそれを達成しようとするならば(喉を潰し)身を滅ぼすだろう。しかるべき音調に如何なる一語一語の忠実さを再現可能出来る声の他に貴方は天の恵みの独特性の所持者であり,純粋な発声法,あくまでも明白な,完全な...歌唱。これらはこの上ない貴重...だ!”と絶賛した。後日の事:ナポリターノ(カルーソ)は劇団のピアニスト伴奏従えアリア“ロス・ウゴノテス”のリハーサルをするから聴きに来る様にと船客のサロンに我々を招待してくれた。その時を音楽家達は絶対に忘れられないだろう。とラサーノは回想している。後年の新聞記者のインタビューでカルデルが語った事によると,カルーソはアメリカの声楽教師を紹介してくれたと言うが,今となっては真実を明かす証拠はない。しかしながら,カルーソとガルデルとの出会いは起きた事は真実である。これは歴史中のほんの一場面に過ぎない出来事...。
ガルデルの伝記より:(作者不明?)

1915年8月25日~9月14日、サン・パウロ:ムニシパル劇場(市立劇場)、フリオ・サンチェス・ガルデル著作“ロス・ミラソレス(ご機嫌取り)”の出し物でガルデル-ラサーノ“ドゥオ”により終幕を飾る。9月4日ガルデル-ラサーノは劇団と別行動で“オ・ピラニォ”ゼミナーの四回目記念公演に出演した。
1915年9月14日~19日:サン・パウロ:パレセ・シャアター劇場に出演。
9月23日,サンパウロ:亜国大使館にて私的公演をした。
1915年9月24~29日、リオ・デ・ジャネイロ:ムニシパル劇場、観衆多く入らず、あまりヒットしなかつた。(この時期まではガルデル、ロサーノ自身がギター伴奏をも受け持っていたらしい)ブラジル公演はエスティーロ,サンバやカンシォンといった当時のレパトリーでタンゴは披露されなかった。また1933年にリオのあの有名な“コパカバーナ”で6日出演の話があったが客船寄港期間が3日間の為に交渉が合わず,この公演は実現していない。

2012年2月3日金曜日

カフェ・デ・ロス・アンへリートス

(*)ガルデルが頻繁に出没した有名な“カフェ・デ・ロス・アンへリートス”の前身はカフェ“バー・リバダビア”の名前でリバダビア大通りとリンコン(現在の国会議事堂の裏近く)の角に1890年の頃バウティスタ・ファシォが営業を始めた。そこは倉庫跡で床は貧弱のむき出しの土間であった。ガビーノ・エセイサやホセ・ベティノティ,イヒニオ・カソォン等の有名なバジャドール達か出入りした痕跡を留めていた。そして,彼等のパジャーダ実演を目の前に聴く事ができた時代で,町團外に住む人々の隠れ家的な場所であった。後の1919年にアンヘル・サルゲーロなるスペイン人がこの場所を買いとった時はバジャドール風のトローバは威力を失う過程で,その角はタンゴの味と色に染まり変わった。“カフェ・デ・ロス・アンへリートス”の新主人は彼自身の名前アンヘルをこの店の名とした。持ち主は石膏で二つのエンゼル像を店の入り口上に飾りつけ,店全体を修繕仕上げた。この場所は昔のスピネットー市場に近接していて,かの“カフェ”は直ちに常連タンゲーロやマレーボ達と大胆なペンを振るう作家連中の溜まり場と変貌した。カルロス・ガルデル,ホセ・ラサーノ,フロレンシオ・パラビチーニ,エリアス・アリッピィ,フアン・フスト,とアルフレッド・パラシオ(左翼政治家)が常時テーブルを占めていた人物達であった。この亜国風土料理プチェーロを料理給仕する場所にフロレンシォ・パラビチィーニ,ロベルト・カスアー(俳優)やカルロス・デ・ラ・プーア(マレボ・ムニョスと呼ばれた詩人*)の人物名も欠かす故には行かない存在であった。この古いカフェの思い出として早朝に夜食を取るのが習慣のカルロス・ガルデルの足跡も回想に加えねば成らない。


ソルサルは1911年頃から既にここの前身のカフェ“バー・リバダビア”に頻繁に出没していた。そして,ガルデルは持ち馬ルナティコがレースに勝利を勝ち取った日曜日の夜は取巻き連中や他の客達全員にプチェーロを振舞うのが常であった。まさに1917年4月の時の夜,ここの“カフェ”でオデオン・レーベルのマネージャー,マウリシオ・ゴルダーが栄光を勝ち得んとして朝日も射落とす勢い余る快進撃の“ガルデル-ラサーノ”二重唱に初めてインタビューした上に彼等とレコード録音契約を結ぶのに成功する。そして,モローチョとエル・オリエンタル達の歴史的最初の写真が出現由来した場所でもある。その後ここへ出入りする人物はアニバル・トロイロ,オスバルド・プグリーエセ等も常連の名に連なっている。1944年カトゥロ・カスティジョは不滅の名声タンゴとして,その名ずばりの“カフェ・デ・ロス・アンへリートス”を創作。曲はホセ・ラサーノが受け持ちトロイロ楽団演奏,アルベルト・マリーノの歌で同年12月19日録音された。こうして繁盛してきた店は近年になり営業的危機に這い込まれた末に1992年1月27日に持ち主はこの店を閉鎖した。以前に市当局はこの場所を文化遺産として宣言していたが,建物は退廃が進み2000年には崩壊初めた為に解体の運命になった。


カトゥロ・カスティジョのタンゴは...古き昔の“カフェ”をこう歌う

Yo te evoco perdido en la vida /お前の失った命を思い起こす
y enredado en lo hilos del humo, /そして,もつれた一条の煙
frente a un grato recuerdo que fumo /一喫の快い思い出
y a esta negra porcion de Café… /この黒い一塊のコーヒー
rivadavia y Rincon, vieja esquina /古き街角,リバダビアとリンコン
de la antigua amistad que regresa /古き親交の回帰
coqueteando su gris, en la mesa,/卓の上に,その灰色に媚び,
que esta meditando en sus noches de ayer./かの日の夜に瞑想ふける


Café de los Angelitos! /カフェ・デ・ロス・アンへリート
Bar de Gabino y Cazon…/ガビーノとカソンのバー
Yo te alegre con mis gritos /わが叫びとお前へのほろ酔い
en los tiempo de Carlitos, /カルリートスのあの時代
por Rivadavia y Rincon. /リバダビアとリンコン.
Tras de que suenos volaron? /その上に夢は塵ごとき散り?
En que estrellas andaran? /運勢の漂いは?
Las voces que ayer llegaron /きのうとどいた噂
y pasaron y callaron, /そして,通り過ぎ,そして,沈黙
donde estan? /何処へ行った?
por que calle volveran? /何処の通りに戻りくる?

この詞の最後に“何処の通りに戻りくる?”と有る様にこの“カフェ”は見事に再現されたのである。そして,ほとんど昔の場所近くの同じリバダビアとリンコン370,再びタンゴの響くあの“カフェ”として...古き昔のブエノスアイレスを引き戻す如く甦った“カフェ・デ・ロス・アンへーリス”。  



2012年2月1日水曜日

ガルデルとアリアス・アリピィ

(*)処でガルデルを“ナショナル”劇場への出演の橋渡した俳優及び劇作家アリアス・イサック・アリピッを簡単に紹介したいと思う。アリピッは渾名“フラコ(やせぽっち)”と呼ばれ,1883年1月20日に誕生,奇しくもガルデル(*)とは一歳年上である。彼はリオブラテンセ演劇界中で最も優秀な俳優に位置付けられると評価された。アリピィは1903年に“ナショナル”劇場創立者ヘロニモ・ポデスタが指揮する劇団に参加して“コメディア”劇場でデビューする。後日,フランシスコ・ドゥカッセー,ホセ・ゴンサレス・カスティージョとエンリケ・ムイニョ達と共に観衆達に忘れ得ない存在の亜国の演劇界中一流劇作家としても評価された。彼独自のムイニョ-アリッピィと名付けた劇集団を結成した。また,俳優として名声を博しアゥグスト・ガリード協力作サイネテ“フレスコ・エル・アンダリン(生き生きした風来坊)”やその他多くの劇作を発表している。ホセ・ララ共作“エル・インディオ・ルビオ(金髪のインディオ)”,“エル・ドロール・アヘノ(他人の悩み)”とかエンリケ・マロニとサンロマ合作“ビバ・レプブリカ!(共和国バンザイ!)”また,マロニとアルベルティ共作劇“アイ・ケ・アセール・アルゴ・ポル・ラ・レビスタ(レビューの為に何かしなければならない)”アントニオ・ボッター共作“ノ・セ・フビレ・ドン・パンチョ!(ドン・パンチョよ引退するな!)”,“ミ・ムヘール.・キエレ・カサールセ(俺の女は結婚したいって)”,“エル・カンタール・タンゴ(タンゴを歌う)”,ガルデルも歌ったエンリケ・マローニとの共作“ラ・ボラチェーラ・デル・タンゴ(タンゴに酔いしれる)レコード番号#200065”など多数。バスクアル・コントゥルシ合作“デル・タンゴ・アル・チャルレストン(チャルストンからタンゴへ)”もある。ガルデルの事故死後,アリッピィが語った処によると彼等二人して若き青年期のボヘミアン的な1907年頃のあの夜々すでに“ナショナル”劇場の楽屋で知り合いであったが。“カルデルは何か魅了を引き付ける口元の笑顔を湛え,何時も上機嫌だった。と彼の姿に好感感動を得た”と回想している。1915年にアリィピィとガルデルはブラジルへと興行に出るが公演は好みの違いかにより余り良い反響を得られずに終わった。アリッピィは1942年5月3日,ブエノスアイレスに没した。