2012年1月19日木曜日

ナショナル劇場

1914年1月9日、“アルノンビージェ”で再会した俳優アリアス・アリピッの劇団に参加する事になる。アリピッの回想よると彼とガルデルとは1907~08年ごろのボヘミアンの夜毎に笑顔を称えたガルデル“ソルサル(鶫鳥)”と“ナショナル”劇場の舞台楽屋ですでに知り合いであったと語っている。では,ガルデルと深い結びつきのある俳優家族が創立した歴史ある“ナショナル”劇場の生い立ちを簡単に説明しよう。その昔のブエノスアイレスには“ナショナル”と名づけられた劇場は三ヶ所存在した。先ず最初の“劇場”はフロリダ通りのバルトロメ・ミトレとカンガージョの間に1882年2月3日落成したが,1895年12月18日火災の為に破壊された。ほとんど同時期にスイパーチャとカルロスス・ペジェグリーニの間のコリエンテス通りに再起を誇らしげに出現した。落成当時はカジャオ通りとリオバンバの間サンタフェ大通に位置する(豪華な映画館グラン・スプレンディが有った場所)その同名の“ナショナル・ノルテ(北の~)”と区別する為に“アルテス(芸術)”と名称された。“ナショナル”劇場は1904年コリエンテス大通の最も正確に示すと960番地になる場所に素朴なクリオージョ・サーカス“エル・ガウチョ・フアン・モレイラ”の上演に精通したヘロニモ・ポデスターとその家族により,競馬飼育場が配置されていた場所を購入して,2年後に最上の出し物サイネテ・ポルテーニョとして劇場を幕開け落成させた。事実外この創意主役はラ・プラタに所有する不動産全財産を売り払い劇場落成に情熱をつぎ込んだ。当時の新聞はこの行為を“キホターダ”即ちドン・キホーテ的馬鹿げた行為と評論した。亜国演劇界における伝説的名声高い,その家族群に最も密接した兄弟達の例えばブランカ,アルトゥーロ,ホセ,マリア・エステール・ポデスタ(サムエル・リンニング作ミロンギータ役を演じた)達はその“新しい試み”後に偉大なアルゼンチン劇作法の発案者達による「その舞台を上演させる熱意」により劇団を支援した。家族達はヘロニモの俳優経歴を獲得する為に自己資本総てを投資した行為を評価し,落成した劇場新ホールにヘロニモの名前を命名しようと試み,また建物前面にヘロニモ・ポデスターのイニシアルを入り口緞帳をも張り出そうと試みたが劇場の名目を獲得すべき本人に断固拒否され上に,クリオージョ出演俳優達と力強い作家達に支援された。また,ひとたび熱狂した民衆観客に支援された我々の演劇芸術を敬意して“エル・ナショナル”と呼ばれる様に準備を整えた。競馬飼育場の跡地は劇場ホールに作り変える建設計画はオルティサルとポウレッ両人の土木技師により行なわれた。ポダスタの不確実な経済資産にも拘らず,彼等達は洗練された建設環境を与えた。プラテアス(一階前席),パルコス(舞台前両脇席),テルトゥリァ(後方の立見席)と天井桟敷には940人観客を収容可能で紛れの無い華麗な時代のイタリー時世を彷彿させる際立つ入場ロビーと共に快適なホールを備えていた。1906年4月5日,かの“ナショナル”(劇場)の玄関扉の通路前は初演プログラムを観る為に優雅に着飾ったポルテーニョ達の群集が近づき過ぎたので混乱していた。この興行はリカルド・レベネ創作の一幕物“リサス・デ・カレタ(仮面の笑い種)”とグレゴリオ・ラフェレーレ作“夏の狂気”の初演により亜国国民のペリコン(舞踏とその音楽で盛装した全同伴者達とダンスを舞う)で開催された。忘れがたい歴史的なあの夜のステージに出演した俳優達はヘロニモ,アルトゥロ,とホセ・ポデスタ兄弟達とエンリケ・アレジャーノ(*),ギジェルモ・バタグリア,エンリケ・ムイニォ(*),エリアス・アリピィ(*),フランシスコ・ドゥカッセー(*),パンチョ・アラナス(*),フリオ・スカルゼージャ,アルベルト・バジェリーニ,アルトゥール・マリオ等とブランカ,アニータ,マリア・エステール・ポデスタ姉妹,オルフィリァ・リコ(*),アンヘラ・テサーダ,アダ・コルナーロとリナ・エテベスの女優達はリオ・デ・ラ・プラタにおける長期にわたる時代と共に演劇界のアンソロジー的に名前の間にその他多数共に列記されるに到った。
初演の“カラス・デ・カレタ(仮面の笑い種)”は“最終幕にはプラテア席を初めに満場全員起立の熱狂的な拍手喝采で上演終了した”と数日後の週刊誌に指摘された。最初は決定的に幸先良く幕が落とされ,その瞬間以来劇場は長期時代に渡りクリオージョ演劇作家達を忠実に支援する要塞に変貌した。あそこで多くの彼達の優れた作品類に密生されたレパトリーが初演された。また,しかしながら,その頃同時の1906年8月にかの“ナショナル”劇場に出演した時に波紋をもたらした“ラ・ベジャ・オテーロ(美貌のオテーロ)”として有名なカロリーナ・オテーロのような評判なインターナショナル・スターも出演した。公式開幕の一年後,ヘロニモ・ポデスタは彼の劇場にてサイネテ(一幕物風俗喜劇)のコンクールを促進した。結果として優勝者達はアルベルト・バカレレツァ(**)と二人のウルグアイ人劇作家達のルイス・ビトネ(*)とセグンド・ポマール(*)が獲得した。その時から舞台ではサイネテ一筋か演じられた。そして,“エル・コンパドリード(ヤクザ者)”においてホアキン・ボルタの位置づけによると人々達はこの劇場は余りにも舞台環境と登場人物が“それの通俗的にカジャオ團外(*)”だと非難した。その頃の年の間にネメシオ・トレホ,ガルシア・ベジョソ,カルロス・マリア・パチェコ,フロレンシオ・サンチェス,ヒメネス・パストール,ホセ・ゴンサレス・カスティージョ(**),ロヘリオ・フアレス,アベラルド・ラストラ,アルベルト・バカレッサァ達の作品群が上演封切りされた。かの初期活動時代の最初に上演された劇作群はアルベルト・バカレッサァ作“ロス・エスクルチャンテス(泥棒集団)”,ホセ・ゴンサレス・カスティジョ作“ラ・セレナータ(小夜曲)”,アルベルト・ウィスバチィ作“レサカ(吹き溜まりの住人)”とロベルト・ゴジャル作とアルトゥーロ・バッシィ(*)音楽の“エル・カブレー”などの我々の演劇歴史上に絶大なヒットを成し遂げた。1913年と1917年の間,劇場はこの時代にサイネテ劇又は風俗ドラマ劇を代表した偉大なタレントと尊敬されたパフロ・ポデスタとカミラ・キロガ一座の公演を広告版に装飾を施した。しかし,1914年には劇場ホールの習慣には等々異例な最初のレビュー興行が上演される出来事が発生したのだから。ナショナル一座の喜劇俳優フランシスコ・ドゥカッセーとエリアス・アリピィ達を筆頭にして軽喜劇と挑戦的な最初のレビュー題名“レ・パラティス(天国の様な)”を一瞬にして上演した。「プログラムに記述によるとパリで600回連続夜上演されたとある」そのコンサートにはこの部門の最も重要な二重唱を組む“カルロス・ガルデルとホセ・ラサーノ”が出演すると大々的に広告大型ポスターに宣伝された。かくて,“ナショナル”劇場は1982年に不振な火事により焼滅するまで演劇とタンゴに纏わる数々のエピソードは絶える事が無いのだが...これらのエピソードは別の機会に述べる事としようと思う。

注記:
(*)印を付けた人物はガルデルと共演した俳優達。
(**)印の付いた人物は劇作家でありタンゴの作詞家でもある。
(*):カジャオ團外とはブエノスアイレス市のカジャオ大通りは最も洗練された場所。
その團外とは下町の雰囲気がある場所を指す。