2012年10月3日水曜日

ガルデル、カラカスに着く

ガルデルはプエルト・リコ公演中から模索していたキューバ公演行きを諦めて、急遽旅先を南米べネゼーラとする。77年前の4月25日の事である。プエルト・リコから汽船“ララ”号に乗船したガルデル一行はべネゼーラ国の首都カラカス市近郊プエルト・ガイラ港に着く。岸壁には朝9時から3千人以上の群集が前日の新聞記事に“ディビーノ・カルロス”と名ずけられた彼の姿を一目する為に押しかけていた。ガルデル一行は午前11時7分に下船した。一行は興行師ルイス・プラシード・ピサレジョ氏に出迎えられる。(氏はべネゼーラに長年住むアルゼンチン人でガルデルの公演を実現させた人物である)岸壁の接岸地には豪華なリムジンがギタリスト達と作詞家レ・ペラを従えたガルデルを待ち受けていたが熱狂暴動化した群衆の一部はリムジンの天井キャンパスをナイフで切り裂く暴行を行ない行く手ふさぐ始末。一行は近くのガラス工場に逃げ込み冷たい飲み物を振舞われ一息つくがフアン達をほうほうの体に逃げ出した一行はマクトのミラマールホテルに到着した。このホテルミラマール短い滞在時の様子が当時としては非常に音の良い“ゴロンドリーナス(ツバメ)”を歌うガルデルの姿と美しい景色の中のホテルミラマールの建物や多数のフアンの姿を映した貴重な画像がYOUTUBEで見られる。 

2012年9月28日金曜日

ガルデルの銅像

ガルデルのモニュメント 2年ほど前のある日、ボゴタ市のチコノルテ街区の住宅地の名も無い小さな公園の中を通り抜け様とした時ある銅像に目が向いた。普通銅像は大抵英雄か政治家に相場が決まっていて、対外注意して見ようとしないものだが、、、その銅像はカルロス・ガルデルであったのだ。こんな所に如何してと自然な疑問が湧いてくるが、ガルデルはメデジンで飛行機事故に会う前にボゴタ市には10日余り公演滞在していたのだ。後で多少調査して見たらこの銅像は1999年8月31日にカラコルラヂオTVによりガルデルの声で“トモ・イ・オブリゴ”がスピーカから流され記念碑の序幕されたが、いつの間にか理由不明で撤去されていたらしい。この小公園は“ガルデル公園‘と名とあるのも知らずに横道を常時行き来していたのに全く気が付かなった我をあきれ返るが、、、ガルデル追悼70年記念として2005年6月24日、当時のボゴタ市長ルイス・エドァルド・ガルソン氏と在コロンビア亜国大使マルティン・バルサ氏ら立会いの下に再びこの銅像がここに据付された。製作者はフアン・カルロス・フェラーロ氏(亜)である。銅像の台には二つの記念プレートが貼り付けられている。これには当時のウルグアイ大使の名も明記されているので注意したい。何故か? 近年、ガルデルはウルグアイ人であるとの証拠を証明していた記念碑なのである。フェラーロ氏の作品でこの銅像と瓜二つに等しい銅像がブエノス市地下鉄D線ゴングレソ・デ・ツクマン駅にある。2912年9月7日【エル・ボヘミオ記】                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                       

2012年8月25日土曜日

躍進する”歌い手”(3)

ガルデルは都会や場末に宿している社会的不条理の問題テーマを描いたタンゴも広いレパートリの中で少なからず取り上げている。それらは労働法に縛られた男の老いた妻が祈るイエスキリスト“アル・ピエ・デ・ラ・サンタクルス(サンタクルスの足元で)”又、たった一つのパンを盗んだ挙句の判決は、、非情に詠う作詞家のセレドニオ・エステバン・フローレス作の“パン”、シャンパン、花、女に囲まれたキャバレーで銭無しで賭けをする“アクァフォルテ(銭無しで賭ける)”、働き者の靴工の息子は牧場主の娘と結ばれたが、、、貧しい“ギゥセプペ・エル・サパテーロ(靴工の)”見捨てられた無産者民衆、しかしながら、ガルデルの歌うこれ等のタンゴ歌詞には反逆心や苦悶が欠如しているのは奇妙な感覚に落ち込まされる。有名な作詞家達は世の中に幻滅した“ディセポリン”が取り上げた政治家による労働者階級の不当管理や文盲者を搾取る牧場主等が行う資産分配のばかげた模範的不平等の社会層を軽蔑した彼の“全テーマ”に繋ぎ通された皮肉感あふれた作品に驚かされた果てに一部の作家は自分を省みずに批評のみに専念の上にタンゴ界から除外したが、、、ガルデルはエンリケ・サントス・ディセポロ“ディセポリン”の作品、ひもを追い出す強い女の“ケ・バチャチェ(どうするつもり)”を始めに、今宵の悲しみに酔いどれる“エスタ・ノチェ・メ・エンボラチョ(今宵、俺は酔う)”、俺を破産させた“チョーラ(泥棒女)”、伊達男を哀れに見る“マレバヘ(やくざ仲間)”(注)、と女房が出て行き勝ち誇る“ビクトリア(勝ったぜ!)”や裏切られた“ジーラ、、、ジーラ、、”とお前の別れで消えた夢、バルス“スエニョ・デ・フベントゥー(青春の夢)”など8曲を取り上げている。今宵の麻薬的な魅力なガルデルの歌集はリオプラテンセ家庭の全てを肩に並べ、極普通にもっともらしくする限り、彼らには余り関係の無い問題の“意味”の歌詞もマテ茶とマテ茶の間のひと時に好まれた。しかし、ガルデルの芸術は真実と虚実の遥か彼方に存在し、彼のむき出しの芸術的な証の為に価値ずけられ、真の解釈により受け入れられて、それらの歌詞は熟慮の上にルンファルド(タンゴ語)化された。そして、過分に彼独特の他の歌手群に抜きん出たスタイル化上に威力ずけられ、それら全ては千曲ほどのタンゴ、バルス、ミロンガやカンシオンなどの多数のスタイルにより、ポピュラー歌集に載せられている。それはガルデル故に多大な群集に受け入れられた一つの語幹を課し、彼の“歌の才”の質により受け入れられたのだが、、、 注;マレバヘはフィリベルトが曲をつけている。 http://youtu.be/9L7HS8j82bc

2012年8月19日日曜日

躍進する”歌い手”(2)

ガルデルが一世紀前にタジーニ商会所持の“コロンビア”レーベルにアコースティク録音した14曲がレコード化されたのがプロ歌手としての第一段階のデビュ-である。少年期からパンパを放浪した頃にレパートリとしていた牧場の情景を歌った田園風あふれる“ジョ・セ・アセール”、“ポーブレ・フロール”や愛馬を回想する“エル・モーロ”、“エル・パンガレ”、ビジョルドに敬意をこめて“カンタール・エテルノ”から初めての本格的タンゴ“ミ・ノーチェ・トリステ”、ルンフアルドの世界“マノ・ア・マノ”、“ソーロ・グリス(銀狐)”、“パトテロ・センティメンタル(嘆きの不良者)”、おどけ素振りのカーニバルの情景を歌った“カスカベリート(子鈴)”、“ラ・ガルゴニエーレ(独身部屋)”、余りにも有名な妖しい甘い情緒を“ア・メディア・ルス(淡き光)”と初期録音時代を飾った。彼は歌手としての第二段階に入り、スタイル形成の完成に一役を引き受けたのはラジオ放送の番組と提携した計算が見事に当った事に他ならない。時の流れはその時を転換し今日歌う事は明日の民衆に歌うこと。ガルデルの初期時代は長い伝統に閉鎖された歌手達の群れの中の雑草に過ぎなかったが、陳腐なメロディーで街角の路上ダンスが栄える時代、次にタンゴの自尊心を変えさせる歌による挑戦、それは論ずるまでも無く現れべくして現れた巷の“マゴ(魔法使い)”的な仲裁者そのもの。昨日、より優れた“場末の歌い手”であった彼は教師無き教育の極地であり、民衆の憧れの鏡であった。その時、彼は無数のリオプラテンセ・フアンの好む地方風や都会風の歌唱と歌唱タンゴの明らかな模範人で神聖な“歌手”である。円熟した“ソルサル”ガルデルは語り歌い、ラジオ放送のアイドルになり、映画初期時代の論議余地なき俳優でも成功。図らずも、タンゴを好む小社会の音楽的文学の学問を広げ、人生と俗界演唱の多様性により、ポピュラー界大衆を受け入れた歌唱技巧の恵みを受ける。この思考と感情のごたまぜの矛盾と浮動性は次の“ノーチェ・デ・レジェス(賢士達の夜)”や“コトリータ・デ・ラ・スエルテ(幸運の御神籤)”らのタンゴの典型的極端な悲劇を明らかにする。感傷中心な“セ・ジャマ・ムヘール(妻と呼ばれる)”、“ロ・アン・ビスト・コノトラ(別の彼女と居た)”、“ビエハ・レコバ(過ぎた不快)”、“カルタス・ビエハス(古い手紙)”。厳格なマレーボの頂点“デ・プーロ・グアポ(真の勇気者から)”、“マラ・エントラニャ(根性の悪い奴)”、“エル・シルーハ(ゴミ漁り)”、“タコネアンド(威張り散らす)”など。又、放蕩青年達、大いに遊ぶ派手な奴、あえて不幸な“ミロンギータ(注)”や“マドレシータス・ブエナス(注)”は余りにも在り来たりなテーマなのでそれを熟慮して避けたが。“オロ・ムエルト(光沢の無い金、無価値)”の典型的な人物や巷群の郷愁的な絵巻を誰が忘れよう。これ等のタンゴはガルデルが豊富多彩な表現力を駆使した歌唱ドラマのほんの一部に過ぎない。  

2012年8月16日木曜日

躍進する”歌い手”

ガルデルが円熟且つ熟練した年代に入り、彼独特のスタイルは次の時期を開めるにあたってラプラタ流域都市住民達から芸能的には多大な賛同をすでに獲得していた。それは主観性ナルシストから逃避できない華々しい表情の豊かさを演出する俳優的能力とつつしみ深いフレージングを手段に装飾する達越した声法を学んでいた。彼はもう唯の“場末の歌い手”ではなく、大都会の価値論文化に構成する為にすでに場末の歌い手達の仲間より抜け出し、宵ぱり者の謂れよい愛想、パンパ牧場のコラーロレラス(簡単な柵で囲まれた広場)での牛の臓物焼肉と地酒により恩恵を受けた“ファーラ(酒と踊りの楽しい騒ぎ)”や政治集会での歌い、“エル・マゴ(魔法使い)”に変身したガルデルはカフェティンやボリーチェの出演による商業運用の利益を上げる反復者に変化した。彼はわずかな“俗衆のアイドル”を放棄する事無く、大西洋沿岸をこちらあちらと越えて遥かチリー、ブラジルやウルグアイの南米文化諸国のメトロポリタンの聴取者を獲得する計画を開始し、巷民の称賛も慎ましき鳥籠から“ソルサル(歌い鳥)”が飛楊して行った。ガルデルの音楽的妙技は形を変えた“アバストのモローチョ”を思い出す、今は“エル・マゴ(魔法使い)”の生まれ変りだ。彼の歌声は濃厚且つ豊かになり、若々しいテノールは年豊かになる毎にバリトン化し、ゆっくりと確かに学びあげ、堂々と独特のタンゴ歌唱スタイルを築き上げた。ガルデルの影響の恩恵によって、この変化はディセポロが注釈した様にタンゴは足(ダンス)から唇(歌)に昇らせた彼は最盛期を決然と迎える。リオプラテンセのダンスは“上品”な家庭から追放されていたが、とわいえ、そこで、初期時代の場末で人目を避けた激しいリズムも無い“姉妹タンゴ”が踊られていたがドイツから持ち込まれたバンドネオンにより制動され,グレコ,マフィアやミノトーのイタリー人子孫達が支配していた。充実且つ深み与える人間味の歌声に和まされたタンゴはその時のメロディーの隠された乱れ髪をのびのびさせた。そうして、ガルデルの歌声は昨日の“場末の歌い手”個々のスタイル違いの適切な概括のほかに“フエジェ(蛇腹)”の豊かなフレーズに順応させボーカやアバストで歌手群の地位を奪い合った。ほのめかし者が満ちただされ柔らか味ある“アバンデオノナ(捨てられた物)”されたとは、もし、この言い回しが説明できる余地があるとすれば、彼等が経験していた時代の冒頭の“ブリン・ミストンゴ(哀れな四帖半)”や“メディオ・ペロ(古い五百ペソ札)”を盗む泥棒が好んだ“歌詞”は鋭いタッチですばやく、その時を描写できない。ガルデルが取り上げた新しいテーマはキャバレーでの感性により耐えられ、専門の作詞家により優美にルンファルド(タンゴ独特語)化され、情調を添られ強調の上に、ドラマチック化或いはサイネテ(喜劇)化に従って奥行きある低音を探る発声スタイルに口実ずけられる様にタンゴ歌唱“アグアホルテ(ただでする博打)”や“チョーラ(泥棒)”のレパートリーに深く奨励した。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                

2012年8月8日水曜日

場末の”歌い手”

>前章に引き続き、タンゴが現れた当時の前世紀のブエノス・アイレス場末に活躍した歌い手達を描いて行くとしよう。その下町の場末には二つのタイプの“歌手”,すなわちミロンゲーロ(ミロンガを歌う人)、あるいはパジャドール(即興詩人)と、すでに言明した本来の場末の“歌い手”が存在した。まず初めに都会風即興師と混ぜた合わせた田園風パジャドール。その語彙のガウチョ言葉や大衆の言葉使いのルンファルド(隠語)といわれるイタリア訛りと、その俗語表現と共に地方巡りを押し分けた彼等は上品な騎士タイプではなく、場末周辺を縫う如くボリーチェ(酒場)からボリーチェへ足かせに通う。ただ延泊に冴えた夜、“安易に”、“首尾よく”モッソ(酒場の親爺)が請け負った時。街中の揺れる光に誘われて自惚れ野郎の召使の様に陰気にギターを抱えて、きしむ馬車の硬い椅子に腰掛けて場末から不意に現れる。これらのミロンゲーロス(べティノティとデ・ナバ、エセイサ等を思い出す値打ちがあるが、、、)は独創的な機知のある即興者達は生まれつきの天才を発氣させ、地方の先祖とそのモデルとも等しく、伝記に登場するガウチョの英雄“マルティン・フィエーロ”の中にも又描写され、単なる歌手達より抜き出ていると自尊していた。パジャドールやミロンゲーロは俗界の創作詩や、ごまかしの質問に答え、長く張り合うオリジナル創造者の我を張り、柔軟なルディズム精神のフォルクロ―レの恩恵による厳しさを逃れる。一方のかの“歌い手”はその反対に当たり,かの音楽性にて、優れた音楽的感覚、彼の声楽コンディションの能力に値いして、“歌い手”は古物の見本のごとき、その様子に相当し、本来備わっている美点の衰弱も無いといわれた。“歌い手”はミロンゲーロかパジャドールの様な能動的芸人ではなく。受け手、単に受身の、純粋さに反映された彼の人生経験は“鏡の世界”に縮小されて、彼の豊かな美声の恵みに助けられ、常人の能力をオルフェオの様にその響きの魔力で虜にした。ガルデルは“歌い手”にのめり込んだ最初の頃の場所で“上流”家系のバルダサール氏やアバストの政治ボス、トラベルソ家の放蕩息子の“シェリート”・ホセや他のパプーサ(すごい美女)のジャネーや多くのグアポ(美男)達の混乱した親愛感の故になずけ親や庇護を忠実に受けた。“アバストのモローチョ”は始めフアン達を募ったのはコンベンティージョ(長屋)群の部屋やランチョ(貧しい家)群で生活苦の攻撃から身を交わしながら生きる、あの多数の人々達であった。ガルデルは彼等達、慈愛ある民衆の住む下町の夜に輝く“冷たい月”のメロディーを武器に歌手として名声を上げた。この世界は当時の詩人“ジャカレ(カイマン)”カルロス・デ・ラ・プアや“セレ”・エステバン・フローレスによるルンファルド(隠語)の韻文詩やパスクァル・コントゥルシのリアリズム書体にて浮き彫り描写されている。ガルデルが港町ボカやアバストに登場した時のスタイルは当該の時既に場末歌手の“努めに錆”を手に入れており、彼の寄る辺なき無謀な時代の頃には入念且つ積極性と独特な鼻声スタイルで歌っていた。“アバストのモローチョ”を助けたのは叙情的冒険、子供ぽっいテノールの声域、力強くは無いが柔軟性に富み、快活に、確実に振舞い、直感による雄弁、触れ回るクリオージョの節回しと一諸にその歌声を完璧にマスターしていた。この翻弄と町外れスタイルは甲斐甲斐しくも荒々しくも、彼自身のささやかなギター演奏に支えられいた。これは一人のやくざ者の様にあちら此方と町の界隈をぶらつくに等しい行動その物だったが。それはアラバール(貧民街)の誰もが噂に語り、美学観を学んでいないのだが、気性の激しい歌い手、先天的な音楽性で駆り立た気力により支えられている実に美しい引き絞る声の持ち主であった。                                                                                                    『エル・ボヘミオ』記

2012年7月29日日曜日

ボルヘの描いた世界







“ハシント・チクラーナのミロンガ”はホルへ・ルイス・ボルヘが1900年代をモチーフにした詩にアストル・ピアソラが作曲した作品で、あの太く低い歌声のエドムンド・リべーロがブエノス・アイレスの昔,ある夜の下町情景を歌つた詩である。遠く過ぎたバルバネーラのあるカフェティン沿いの歩道通り、歌と酒のパジャーダ(騒ぎ)が一時終わりについたその時。薄暗いガス灯の灯火に浮かび上がる様に店の外に出てきた一人の常連の不良仲間が石畳の歩道に歩み出た所、その場に起きた嵐の如き激しい喧嘩争いに巻き添えの末、グループの何者かに鋭い一刃に刺され影の如く崩れ落ちる。その男の名はハシント・チクラーナ。いや、誰も知らない輩だったかもしれない。この詩は貧困と異口同音のポンチョに隠された犯罪行為や盗人がカモフラージュした所のブエノス・アイレスやモンテビデオの社会の底層に属す下層階級の人物達の憎しみ抱く者や喧嘩好きな輩達の陰謀や欲望により活気ずけられた普遍的リリシズムの失敗をも飲み込んだ世界。それは後進的なリオプラテンセ芸術を描写する産物その物。それは詮索好きなクリオージョ、ずる賢い無精者、優秀な怠け者達のグループ、“ミーナ(女)”を絞り取る腹黒い売春宿のべてん師達の息付く世界。いわゆる場末の歌手達とパジャドール達の活躍が引き続く時期の事で、港町、下町、そこのカフェティンの環境に育まれたミユージック、初めの頃は歌詞も無く歌われない。薄暗い街角の広場や歩道脇でバンドネオンやギター、時にはフルートが混じり奏でる単純な曲に合わせて男同士か怪しいタイプの女性と踊る不純なダンスが幅を利かせいた。それは所謂、上流階級からは隔たれ蔑み評価されていた場末の音楽。そこに“冒険好きのトレードマーク”その物のハンカチをなびかせながら相棒のギターを脇に抱えた若き“アバストのモローチョ”も偶然にそこに居合わせた時代。さまざまな音楽的ジャンルの中にタンゴが産声を上げたばかりの頃の事である。社交サロンと闘牛で浪費するカチャファス、カフェ・パウリンを遠巻きに立ち尽くす退屈した連中、粗野な眼差し流しつける物悲しき輩、空に近いワインをぐい飲みするガジェーゴ、急ぐことなく、のんびりと物思いに耽け狭い窓辺に肘付きマテ茶を飲む隣人、旨そうなアサードと振る舞い酒が常連達を呼び寄せる殺風景な中庭、カフェティンのトロバドーレスとバイロンゴ達、人目を引く喧嘩事を解説する輩、それは日毎の不幸事の歌い手、場末から湧き出した歌い手、ごろつき達に無言にも賛意され、ささやかな人情にもらい涙、さらに高ぶった夢想的抒情詩が随一の光の中で舞う。そして,好感、微笑み、不屈の、“アバストのモローチョ”はこのやり方で市場のナポリ人達の前で歌う。あらゆる種類の歌い手達を招集させる純銀の流れの様な溢れ出る声を聴きながら、この様なカフェティン、不思議なカフェ・オ’ロンデマン、そこはモローチョが好んだ舞台。リオプラテンセの場末精神と強い混迷芸術の故に生まれ出てきた魔術師的歌手“アバストのモローチョ”カルロス・ガルデルのデビユー時代をボルヘの詩“ハシント・チクラーナ”のミロンガからのモチーフにより詩風的に回想した。『エル・ボヘミオ記』

2012年7月13日金曜日

ホセ・アギラールの回想(1 )



ガルデルの思い出(1)ホセ・アギラールの回想から
1935年6月のメデジンの惨事から奇跡的に生存したガルデルのギタリストの一人、ホセ・マリア・アギラールは度重なる不運で16年後の1951年12月21日、ブエノス市中心地の繁華街のビリヤード場から出たところで、前の車道を横断中に車に跳ねられ、その傷の元で肺炎を併発して60歳で没した。その1年前の1950年7月頃に、ホセ・アギラールがあの当時の思い出を雑誌『アンテナ』へのインタビューで語たった。その回想をここに再現しよう。:

メデジン、あの場所、あの日付け、あの日、あの瞬間、、、
血生臭い炎に照らし出された黒い堆積物。火炎が鎮火した。
突然ある夜によみがえる。
世界中に名前が渡り響く、
メデジン、、、ガルデル、、、アギラール、、、
かの運命は飛躍した気紛れ。
かの運命は神々の。全能な。絶対な。
ニュースをついに論じる誰かがいる;
嘆く誰かがいる。
怒りに握りこぶしを固め振りあげ、涙におぼれた誰かがいる。
影の間で‐夜が落ち途方も無い悲嘆と痛み‐消えた炎、離れ、
苦しいしかし生きた化身、一人の男の亡霊。
彼はアギラール。彼はアギラール、その彼。
その彼は生存
即死当然の、炎から助け出され、
犠牲者の、、、いや犠牲者ではない、いや違う。
このたびに苦痛が開始される。
生気に至るでも無く、苦痛は再び留まり、
死亡に至らない長くひどい苦痛‐痛みの全て終わりと、ひと休み‐。
繰り返しの悪霊の痛み、全ての残酷の先向こうの、
処罰の肉体に激痛が執拗に捕られて。
苦痛、一日、次の日、痛みは過去を彷彿させ;
痛みは瞑想の未来。
惨事から生き延びて様に、アギラールは苦痛に生き延びる。
しかし惨事はかの苦痛は痕跡を残す。
そして、全てにも拘らず、苦痛は気高く。
それだから、暗黒の夜の彼の黒眼鏡の後ろから、
全てのハーモニーの持ち主だった手を損いの身振りから、
生存者の魂が心を動かされる言葉の申し出、
誠実な、決定的に高尚な。
ギター、紳士よ!
そこにある、抜け殻と仮し、いく他の時の過ぎ日々の、
親愛の指々で愛撫する、弦の元で耳に快く響きわたるべき、
ギターは腐り果て。

アギラールは我々が見るのを確かめる、
我々が見るのを無言にて、その一警を感じ届け。
ギターとギタリスト、それは同じ物体。
重々しい声のアギラールが断言、我々の思いつきを見破る;
ギター、紳士よ!
だとすれば、このギター。
このギターがガルデルを伴奏した。
彼の永遠に消え去る事なき声の響きを結びつけた、このギター。
心を迎えにいき、ハーモニーと語りが共に行く。
唯一つ、肘掛け椅子の腕の上に支えられて、
弦を引き絞り、、、だけれども音も無く!、、、

アギラールはゆっくりと歩む。近ずき見詰め、
おそらく、我々の様に見詰める。
しかし夢の世界の、思い出の、
とはいえその黒い眼鏡の裏に隠される、
回想は彼の視覚を過ぎていく。

今なんと言ってよいだろう?:
でもいいだろう、、、
我々は何も一握りの質問の答えを探す気はない?
しかし、何を質問できるだろうか?
アギラールは腰掛ける。タバコに火を点けるのを探り。
その後でゆっくりと燻らし。
壁には数々のガルデルの写真がある。
思い出、記念額、あれは、見捨てられて、忘れたよう、
だがこの様な悲劇の中を命が生き延びている!、
それはギター。

今なんと言えるだろうか?
不可侵の沈む静粛な黙想が存在する間、我々は沈黙のみ。
何も言うこともなし、何れかの都度、
多分早々に、アギラールは思い出を満たすだろう、
数々の逸話を、過ぎ去った同房愛への見解を。
我々に数多くの沈黙の事柄を伝えるだろう、
我々に何人へも語らなかったさまを語るだろう。
何故かつて、その年のガルデルが全盛を極め、
素晴らしい人格を明かにした。
彼の脇に、あそこに誰もいなかつた;
その年の奇妙な異質な観衆達の人の心を捉え;
その年の祖国の郷愁心情-街、街路、末端片隅の-
極小の全て凝固させた、制限無しの勝利の満足を結び着け。
そして、彼といっしょの親密な業績。
リハーサルにて。
創作にて。
レパートリーの選択にて。
繰り返し試みて。
群集の心を揺さぶる、
感動の感触で各詩節を探し出す。
そして宿命的の瞬間。

最後の瞬間まで:
この様に生じなければなら無い様に文面に書かれていた、、、
その様に成るように、、、
宿命論的諦観?
出来事、多年にわたる彼の脇で。
あの日も一緒に居ないわけは無い?、、、
いっ、時が過ぎ、意識を回復し、ただ一つの質問が起こる:
カルリートスは如何した?、、、“真実の答えは無く”。
私は死んだのも当然、、、
死に神に取り付かれた我が身に力も願望も無く、、、
断言できるは騙されて逃げ出した、、、
彼の元に帰り、彼と私は共に歌い付き添うのを信じていた、、、
(午後の窓は紫色に染まり始めつつ)
その後で真実を知る、、、命は新しく私の両腕の中にあり、、、
如何しよう?、、、生きる、、、更に深い嘆きと共に、、、孤独の男に過酷な苦悩。
彼に道案内された我が全人生。
多くの事を理解到達できた日々の仕事にて、、、
彼の性格の特微、彼の心理学;限界なき情け深き表情、、、
何故かつてカルリートスは根本的な善良人、、、
根本的な善良人?
その通り、、、情け深きは彼自身の一部分、、、
その情け深さが彼の洗練された親交を生む;
全ての上に親交を優先した。
彼は寛容な性格;親切で、親交で、
何故かつてその様に気持ち良く乱費し、財産も乱費し、、、
所有財産も、所持品も重要せず、、、
彼が惹きつけるのではなく、
彼が休み無く仕事するのでは無く、
突然にキリストの様に昇天した、、、

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2012年7月12日木曜日

77年前の飛行機事故



当時の新聞記事【事故の見出し】

不運な事故の発生:
1935年6月の時は過ぎ去って行く...その夏の24日,アントケーニャのアブラー渓谷に囲まれた丘陵に位置した都市メデジンは涼しい春が終り告げ,夏の季節に入り,むっとする風が南から北へと時折流れ込むラス・プラジャス飛行場(現在名オラージャ・エレーラ)。そこへガルデル一行はコロンビア最後の巡業地カリ市に向かうべき、ボゴタを正午ごろスタンレイ・ヘビー米人パイロットの操縦するSACO便で出発した。(別のデーターではサンペールが操縦幹を握っていたとある)機は午後2時ごろにラス・プラジャス飛行場に着き、ガソリン補給とカリ市ホルへ・イサック劇場でガルデルと同時公演する映画フイルム(映画の題名は“人生の悪ふざけ”)の積み込み待ちのため乗客達全員は待合室で待機する。一方、エルネスト・サンペール氏はグランッ・フリィンと共に双発機でボゴタを先に出発、メデジンでガルデル達を出迎える。その後にサンペール氏に操縦を任せたフオードF-31機は、カリのバランケーラ飛行場に向かう為に滑走路の南端から北へ滑送を開始した。その後、機は最後の100メートル位滑走中に突然機後部を横すべりさせながら右側の車輪の跡をくっきりと描きながら滑走路中心を右へ30度の方向へそれた。機は上昇できずに真っ直ぐ待機していたSCADTA便三発機F-11“マニサレース号”の真前から衝突炎上した。時は24日午後2時56~8分ごろ。SCADTAの乗員7名全員とSACO便の乗客と乗務員の内8名は即死。アルホンソ・アザフ(秘書)は翌日死亡。アンヘル・リベロール(ギタリスト)は翌々日26日に入院した病院で死亡。 

*事故の生存者:
SACO便の乗客の中で生存者が三人いた。ギタリストのホセ・マリア・アギラールは安全ベルトを締めていなかった為に直ぐに機外への脱出に成功して助かった。彼はウルグァイ人でメデジンとボゴタの病院で火傷の治療回復のため長い期間滞在している。そして、ホセ・ラサーノと電報での連絡のやりとりの上、ガルデルの遺体をモンテビデオに送る手配を試みたが失敗した。この人アギラールは不運な人で1951年にブエノス・アイレスの中心街で交通事故のために60歳で命を落としている。(別項でアギラールの語りによる,生々しい回想を載せてある)二人目のホセ・プラハスはガルデルの英語教師とマネージャーを勤めていた。彼はスペイン国ムルシア出身。フランス、シェルブール港から1929年5月11日出航、5月27日にニュー・ヨーク到着後,弟と商業に従事していたが事業に失敗して、ガルデルに仕える。故郷アンパルダン・デ・へローナに帰る。プラハス氏は40年後のあるラジオ番組へのコメントでは、『あの事故はもう時効になった。何も話たくないと』かなり素気のない返事をしている(当筆者はその時のインタビューでのプラハス氏本人の肉声を録音したテープを所持している)。彼は1982年9月11日82歳で死亡した。 三人目のグランッ・フリィンは米国人で1904年12月22日生、当時29歳。SACO航空の運航担当者で操縦士の脇に立っていたので、墜落の際にすぐ飛び降り、無傷で命拾いした。彼は身を隠し、関係者の誰もが彼の行方を探した形跡もない隙に、9月3日にカリブ海岸の都市バランキージャの隣の港町プエルト・コロンビアから脱出して、9月11日にニュー・ヨークに帰り着いた。後 にフロリダ、ジャクソンビルに住み着いた末に、1983年10月26日に79歳で死亡している。この人の証言が全く無いのが残念であると前章で書いたが。この時点ではフリィンの書いた【ガルデル生存説】を発見していなかった。 この暴露は50年後にされるのである(2012年6月25日付けの当ブログ記事を参照ください)。

*事故の原因の真相は:
この事故の原因については、ラス・プラージャス飛行場での自然現象の航空条件の欠点として、午後に発生する瞬間的な南東向け強い突風に巻き込まれたか、サンペールパイロットがマニサーレス号へ目掛けて急降下のアクロバット飛行を試み、失敗して墜落したとか、機内で喧嘩騒動があり、誰かがパイロットに向け拳銃を発砲したという憶測が語られていた。しかし、後年アギラールとプラハス両氏らはそれらの“ドラマチィクな騒動”は起きていないと否定している。また事故後50年経ってグランッ・フリィンが刊行した著書の中で“そうした騒動は無かった”と証言しているが。彼は機の下の方から強い衝撃のショック音を受けた時に機から飛び降りて無傷で生存した。この衝撃音は離着陸装置の車輪を支える機構の右側が破損した為の音と思われた。その為に機は急に滑走路の中心から右側へ進路を反れた。事故後の焼失したF-31機の操舵ハンドルが極端に左側一倍に回されていた現象はオバンド氏の撮影した写真による検証で判明させられた。それはパイロットが機の滑走進路を立て直そうと努力した証拠の形跡が認められた。SACO航空F-31機はエルネスト・サンペール・メンドサ(33歳)が操縦幹を握り,アメリカ人ウィリアンム・ホォスター副操縦士(18歳),運行係のグランッ・フリィン(29歳)達の乗務員。乗客はガルデル,レペラ,チリー人興行師のバラシオス,映画プロモーターのスゥワチィズ,ギター奏者達のアギラール,バルビエリ,リベロール,秘書アザフ,モレーノ,マネージャープラハス等の10人。乗客席配置は右側7席左側6席となっていた。積荷は通路に楽器類,舞台幕,数不明な(60個余り?)スーツケース,その上にカリ市の映画館で上演する映画フィルム12個の数巻と燃料450ガロンの総て800kg。これらはサンペール機は荷物の積みすぎと乗客定員過剰が疑われている。1984年にオラシオ・フェレール氏がメデジンを訪問した際に、当時の現場に居たアントニオ・エナオ新聞記者とのインタビューによると、『サンペール機は200m位の距離を滑走後,進路を右側にそれてマニサーレス号に直進の果てに衝突した』と語っている。これらの数々の原因を上げられているが、二つの航空会社のライバル的紛争から事故は起こるべきして起きたのではないかと思われる、その騒動が4日前に起きている。それは、重要な観客(ガルデル達)を横取りされたSCADTAのドイツ人ハンス・ウリッチ操縦士がサンペール機に向かって急降下飛行を行い、脅かした事件がそれだ。SACO社の関係者の中には、サンペール氏が仕返しをメデジンではなく、カリのパランケーロ飛行場で行う積りでいたと予謀していたらしい。1969年、丁度24年後に雑誌記者がプラハス氏にインタビューした際にSACOのモーリソン氏が事故の前日に『カリへ行くにはアンデス山脈の樟高4000m級を越えるために燃料を満タンにして、霧の出ない朝早く出発する必要がある。もし、遅く出発する場合は燃料を半分にして、メデジン経由でカリに向かう空路をとる予定』との報告を受けていたと、コメントをしている。この証言は重要で、SACO便は何故、ボゴタから最短距離(510km)の南南西方向のカリに行く空路をとらず、北北西方向の399km先のメデジンに向けて空路を取ることにしたのか理解できる。まず、何かの理由で出発が遅れた(前の晩にサンペールは友人達とトランプのポ―カー賭けに熱中していたらしい)。パイロットは既に霧の発生しているアンデス山脈越えが不可能だと判断し、霧の出ていない方向のメデジン経由でカリ行きルートを選ぶ。メデジンから真南方向へ456km先のカリ行きはカウカ川の上空を上流に向けた空路をとれば、由り安全であると判断したわけだ。(現在もボゴタからアンデス山脈を越えてカリ、ネイバ、イバゲの各都市へ行く小型航空機は霧の出てない朝早く6~7時ごろに出発する)。このコース変更がガルデルを事故に巻き込んだ、運命のいたずらだったのだろうか。



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2012年6月28日木曜日

ガルデルのCDシリーズ:CD-4//10~18曲

⑩:アイ・ウナ・ヴルヘン(聖女がいる)/カンシオン/作者:“ロルド・バイロン”(*)-マヌエル・フロレース-マリオ・パルド/歌:ガルデルソロ/1919年9月26日録音/原盤#18022B/この詞はイギリス人“ロルド・バロイン”の英文詩をマヌエル・フローレス(メキシコ人/1840~1885)が翻訳した詞が基になっている。


Una hermosa declaración al amor /可憐な愛への告白 
Hay una virgen de alma cariñosa ,/優しい心の処女がいる 
tan tiernamente al corazón unida , /なんと優しい結ばれた心
que separar mi vida de su vida /彼女の命とわが命は離れぬ
(*)“ロルド・バイロン”の本名はジョージ・ノエル・バイロン・ゴードン, (1788~1824)ロンドン出身である。詩人,劇作家“ドンフアン”,“マンフレッド”のドラマを劇作。ポルトガル,スペイン,ギリシアとトルコに旅をした時に著名な詩”Childe Harold’s”を発表する。滞在先のギリシヤで没。
この曲を作曲したマリオ・アルベルト・パルド(1887~1986)はガルデルの若き頃からの友人である。作曲家,歌手及びギター演奏家でもあった。幼少時にはサンテルモの“ウイリアム”音楽院に寄宿生として入学。少年期になると彼の父親はマリオをイタリアに行かせた。ナポリのサンペドロ・ア・マイエリャ音楽院で音楽              と詩や管楽器を習得。帰国後ウルグアイ軍隊音楽バンドを指揮する。1918年にあの“アルメノンビジャ”の会合でカルデル-ラサーノ達に巡り会う。この時在席していたマックス・グルクスマーン氏の“ナショナル”レーベルで歌とギター演奏の録音契約を結ぶ。彼 の作品“リンダ・プロビンシアニータ(美しい田舎娘)”,“エル・トロピージャ(家畜の群れ)”,“ラ・マレーバ(悪党)”,“ガヒート・デ・セドロン(セドロンの子猫)”などをガルデルは録音している。ある日,バルドに向かってガルデル曰く「お前さんの様にギターを奏でられたらな...!」,パルド応えて!「俺もあんたの様に歌えたらな...」人は色々悩みがあるものですね...

⑪:ミ・ティエーラ(我が故郷)/サンバ/作者:クリスティーノ・タピア/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年9月26日録音/原盤#18023A/
Yo que adoro a mi tierra , /俺の溺愛の故郷
cuna de mis cantares … /わが歌い手の源...
yo que adoro a mi tierra , /俺の溺愛の故郷
cuna de mis cantares … /わが歌い手の源...
Porque tu disminuyes , nana /何故貴女は怖気る,お姉さん
Todos mis males , /すべてわが不幸に
porque tu disminuyes , nana /何故貴女は怖気る,お姉さん
todos mis males … /すべてわが不幸に...

⑫:ポブレ・ミ・マドレ(哀れな母)/エスティーロ/作者:アンドレス・セペダとガルデル/歌:ガルデルソロ/1919年9月26日録音/原盤#18023B/
ガルデルが1912年に初めてレコード録音した4曲目の同名曲“ポブレ・マドレ”の原盤T729Aと同じ曲。

Ven lira bella y gloriosa/栄光と高尚の琴座来たれ
no me niegues tu armonia/お前のハーモニーを断らないで
dame con tu melodia/メロディーを授けたまえ
una inspiracion grandiosa;/華美なインスピレーション
tu que siempre bondadosa/常なる善良なるおまえ
fuiste con todo cantor/歌い手すべてと共に行き
no le nieguen un favor/好意を拒絶せず
a un alma abatida y triste/悲しみと魂打ちし枯れ
tengo madre y como existe/そして、生きるように母が居る
cantarle quiero mi amor./愛しき人に,讃歌を授けたく

⑬:ルモーレス(噂話)/バンブーコ/作者:ガルデル-ラサーノ/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年9月26日録音/原盤#18024A/
ガルデルはこの曲を随分と気に入っていたらしく3回も録音した。そのうえ,事故死の前日ボゴタ市における政治的中心地のボリーバル広場にあったボス・デ・ラ・ビクトル(ビクターの声)の公開実況放送で“ラス・アグァ・デ・マグダレーナ(マグダーナ川の水)”として歌ったが,原題はボゴタの東側にある丘陵地帯をモチーフにしたとも思われる“トラス・デ・ラス・コリーナ・ベルデ(緑の丘陵の後ろに)”と言われ,原作者は作曲アレハンドロ・ウィリス,作詞フランシスコ・レストレポ・ゴメスで“ウイルスとエスコバル”の歌手達の二重唱によるレコード録音が1915年頃になされている。彼等の二重唱は1924年頃ブエノスアイレスで公演したのだが,ガルデルは二重唱の歌うオリジナルの“ルモーレス”を聴く事が出来たのだろうか?。

⑭:イベッティ/タンゴ/作詞:パスクアル・コントゥルシ/作曲:コスタ-ローカ(本当の作曲はホセ・フリアン・マルティネス,ガジェゴである)/歌:カルデルソロ/1919年9月26日録音/原盤#18024B/

“Ivette(イベッティ)”とは女性の名前、ではコントゥルシの詞の内容は。
En puerta de un boliche/居酒屋の入り口にて
un bacan encurderado,/酔い潰れた伊達男
recordando su pasado /過去を回想して
que la china lo dejo, /去った可憐な乙女の、
entre los humos de cana /地酒のいきれ唯中で、
retoman a su memoria /記憶を呼び戻し
esas paginas de histria /その物語のページに
que su Corazon grabo, /心に刻まれた

Bulin que ya no te veo /もう、おまえの姿の無い部屋
catre que ya no apolillo, /俺の寝姿無いベット
mina que de puro esquillo /怒りおぽい女 
con otro bacan se fue; /あの別の伊達男と去って
prenda que fuiste el encanto /魅力的だったあの装い姿
de toda la muchachada /全ての若者達にも
y que por una pavada /挙句の果てにあの愚か事のために
te acoplaste a un no seque /おまえとの和解は引き起こせず
Que te ha de dar ese otro /あいつがおまえに施しに
que tu viejo no te ha dado /実の親父も与えられ無った物も
No te acordas que he robado /思い出さないかい、俺が盗んだ物を
pa que no falte el bullon? /食べる糧不足に成らない為に
No te acordas cuando en cana /思い出さないかい、あの時に俺が牢屋に居た時を
te mandaba en cuadernitos /おまえに届けた小いノート
aquellos lindos versitos /あの綺麗な散文
nacidos del Corazon ? /俺の芽生えた真心の?
コントウルシ作のタンゴ“ミ・ノーチェ・トリステ”に雰囲気が似ていますが...
この曲の明細は『ガルデルとタンゴの詩人達』を参照の事。作者について種明かしを書いておきました。

⑮:エン・ヴァノ,エン・ヴァノ(空しき故に,空しき故に)/作者:アンドレス・セペダ-ガルデル/ヴルス/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年9月26日録音/原盤#18025A

Es en vano, no puedo olvidarte, /それは空しい,忘れ得ぬ君
por tu amor he perdido la calma , /君の愛ゆえ安らぎも失う
ya no puedo vivir sin hablarte /君と語らぬともう生きられない
tus fríos desdenes, torturan el alma . /君の冷たい蔑み,心を苦悶に

He pensado olvidar tu cariño /君の慈しみを忘れよう
imposible, no puedo aunque quiera , /それは不可能,未だに愛してるゆえ
mi pasión con pureza de armiño /清き純白のわが情熱
trocose de pronto, de ti pa´ la hoguera./直ぐに変わっておくれ,激情のごとく

(再記載)アンドレス・セペダ:教養ある若き頃、悪交友のために学問を放棄の末.どの様な悪事を侵したのか不明だが、それを数回働いた後に。結局“国立刑務所”に行き着く境遇になる。彼はブエノス・アイレス州田舎町コロネル・ブランデセンで1879年5月18日に生まれる。大ブエノス・アイレス平原の自然を放浪したすえ。全ての境遇のオリジェーロ仲間達と相和し、彼の全ての詩作は牢獄服役の遭遇時に書き上げられ、ポルテーニョ街の古いトロべーロ(牧童)達の声にて広められ大衆化された。それ故、彼は“聖なる監獄の詩人”と呼ばれるに至る。カルロス・ガルデルはアバスト地区のカフェ・オ‘ロデルマンで歌い始めた頃にセペダ作の“ポンチョ・デ・オリビード(亡却のポンチョ)”をレパトリーにしていたが,セペダ作品類を最初にタジーニ商会の『コロンビア』レコードに吹きこみ、世に広く伝達を成し遂げる。善良な同房(?)なる詩人アンドレス・セペダはコロン街区のインデペンデンシアとエスタドス・ウニードス通りの間のカフェ『ラ・ロバ』(現在のビエホ・アルマセンの近くに当る場所)の歩道側の椅子に座って居た所に、一人のコルニェス(スペインの一地方)出身者の悪刺客が彼に近ずき刃物で胸元を深く一突き、即座に命を落とす。その夜、極親しい友人仲間達により通夜がソリスとエントレリオス間のサン・フアン通(現在の地下鉄E線,エントレリオス駅の極近く)で行なわれた。その場に官警が現われ、通夜の会葬参列者の中の数人が殺人罪容疑で逮捕連行された。1910年3月30日の若干30歳の命であり、遠きブエノス・アイレス暗黒時代の出来事である。(ボルへの詩に出てくる“ばら色の街角”の様だ)

⑯:ラ・カテドラティカ(競馬通)/ミロンガ/作者:フランシスコ・マルティーノ/歌:ガルデルソロ/1920年6月10日/原盤なし/この原盤は何らかの理由により発売されなかった。(通常ガルデル自身の判断により気に入らない録音は没にしたらしい),によって原盤リストにも記載されていない。このCDで初公開された訳である。

Aunque hay mucha mishiadura /全くの貧困だが
yo manyo un gran movimiento /すばやく動きを見抜ける
hay que ver en las carreras , /レースの様子を見届け
el afano y las palmeras , /落ちこぼれ仲間と俺は慌てる
el afano y las palmeras /落ちこぼれ連中と俺は慌てる
y de donde sale el vento /金は何処から捻り出す.

Con catedráticos de ojo , /競馬通の眼差しとも
que abundan como la yapa /ほんのおまけの様に溢れてる
con el programa en la mano , /手に取ったプログラムとともに
a todo pobre cristiano , /みんな哀れなクリスチャン
a todo pobre cristiano , /みんな哀れなクリスチャン
le dicen , tengo una papa , /人がいうが,俺は幸運ものだと.

Es ir a cobrar la plata , /金を払い戻しに行くには
le juro por mi salud , /俺の健康に誓うが
es llenarse hasta las botas /ブーツまで一杯に
porque es una refijota , /なぜかってそれは“レフィホタ(*)”
porque es una refijota , /なぜかってそれは”レフィホタ(*)“
que la traigo del stud . /バドックから持ってこよう

Jueguele fuerte señor , /旦那さん賭けれよ目一杯に
mire que es una papusa , /見ろよあれは美ぴんさん
mire que es una papusa , /見ろよあれは美ぴんさん
y con el mayor descaro /おっと,最大な厚かましいさ
lo hacen entrar por el aro , /降参させる
lo hacen entrar por el aro /降参させる
Dios te libre, que carpusa . /助けておくれ,ずるい奴

El mismo jockey me dijo , /ジョキー自身が俺に言うには
andá sin miedo a jugar , /躊躇無く賭けろ
que se las voy a dar seca /おれがマークする
y Mingo es la gran muñeca /ジョキーは凄い腕利き
y Mingo es la gran muñeca , /ジョキーは凄い腕利き
hay que creer o reventar . /信じるか酷い目に遭うか

Con Domingo Torterolo , /ドミンゴ・トルテローロといっしょに
soy camarada y demás , /俺は仲間とその他大勢
soy camarada y demás /俺は仲間とその他大勢
y si al fin se la pilla , /お仕舞いにはスカンピン
lo arrastra a la ventanilla , /窓口を這い回る
lo arrastra a la ventanilla , /窓口を這い回る
hecho el juego, no va más . /賭けは終った,此れまでだ

Largaron, venimos bien , /皆消えうせた,うまく言ったぜ
ahora verán que papita /ベっぴんさん今度はどうする
y aunque sea una macana , /たとえ狂気ざたとはいえ
y en el que el caballo afana , /盗んだ馬だろうが
y en el que el caballo afana , /盗んだ馬だろうが
y el pato se armó de guita . /レースで損した奴に金をあてがい

Y al largarse la carrera , /レースに負けて
el caballo viene mal , /あの馬は脱落
el caballo viene mal , /あの馬は脱落
el rana sale piantando , /抜け目の無い奴は逃げ切り
y el gil se queda esperando , /愚か者は取り残され
y el gil se queda esperando , /愚か者は取り残され
la atropellada final . /最後の追い上げで結末
ジョキー・ドミンゴ・トルテローロはガルデル同郷人である。

⑰:リンダ・プロヴンシアニータ(可憐な田舎娘)/サンバ/作者:マリオ・パルド/歌:ガルデル-ラサーノ/1920年9月26日/原盤#18026A

Linda provincianita reina del pago /村の女王可憐な田舎娘
capullo en flor /花盛りのつぼみ
para ti son mis cantos /わが抒情詩は貴女の為に
y mi guitarra de trovador /わが韻文ギター
y mi rancho también /わがランチョもそれ然り
son todos para ti . /それらは総て貴女のもの

Para hablar de tus labios /貴女の口元に呟くための
no hallo palabras que caigan bien /相応しい言葉を見つけられない
más rojos que las guindas /奪い取るには赤すぎる
que los corales y que el clavel /サンゴ色かカーネーション
labios que al sonreír /微笑みの口元
dejan adivinar /占いゆだねる
que saben los secretos /秘め事さとり
y las ternuras para arreglar . /息合わす優しさ

⑱:ムニェキータ(お人形)/タンゴ/作詞:アドルホ・カルロス・へルチェル/作曲:フランシスコ・フアン・ロムート/歌:ガルデルソロ/1919年9月26日録音/原盤#18026B
この曲は1918年に“サン・マルティン”劇場にてマリア・ルイサ・ノタールにより初披露された。

Donde estara … /何処にいるのだろう
Mi amor , que no puedo.hallarlo.. /私の愛する人,見つけ出せない
Yo no hago mas que buscarlo /私はあなたを探すただのみ
porque sin el ya no es vida ; /彼の不在は私の命は無い
probe la fruta prohibida /禁止された果物を口にする
probe encanto de amarlo .. /愛惜の魅惑を口にする...
Donde estara … /どこにいるやら...
Mi amor , que no puedo hallarlo . /私の愛する人,見つけられない
作詞者のヘルチェルは詩人,ギタリストでアマチュアの歌手。彼は若巻20歳頃の学生にして“ムンド・アルゼンチン(~世界)”と“エル・オガール(家庭)”誌に繊細な韻文を記載していた。その後クリオージョ的事がら(郷土音楽)に魅了され歌とギターに専念する。実際に歌とギター演奏は優れいた。それにガルデル自身も認めたほど甘く優しい歌声の持ち主であったが残念な事に父親の反対に合い公衆の前では絶対に歌もギター演奏も披露しなかったが身内の集まりなどでは一人で歌とギターを奏でたり居わせたガルデル,ラサーノ,マルティーノとタピア達とも唄いあう事も常だった。スペインから持参した真珠貝殻模様と金色に輝くギターを所持していたのたが長く持ち歩く末に紛失させてしまっている。“エル・バガブンド(放浪者)”(*),“ポブレ・ガジョ・バタラス(哀れな安雄鶏b)”,“ミ・カバジョ・イ・ミ・ムヘール(俺の馬と俺の女)”,“アタルデセール(日昏)”と上記の曲“ムニェキータ(人形)”などをガルデルが取り上げている。ヘルチェルは1892年8月17日ラプラタに生まれ1941年7月12日チリーにて没した。
(a):コロンビアの民謡バンブーコなのだがガルデルはスペインのパソドブレ風に歌っているのはロドルホ・ヘルチェルやフェリクス・アラメーダ達などの着想を取り入れた為と思われる。(b):白と黒の混ざったはの鶏//バタラスとは古い1ペソ札を指すのだが,この場合は“安物”の意味になる。

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2012年6月27日水曜日

『ガルデルは生きていた!』(2)


ここのところ10数年,しばらくラジオ放送にガルデル追悼番組が無かったのだが,今年は77回目になり,また数局のFMのタンゴ番組にそれが登場した。しかし,当然の事に1985~95年頃の番組に比べて真新しいニュースは無かった。と言う訳で50年前の雑誌「クロモス」の回想記事だが,ここに再現するとしよう。

メデジンの飛行機事故から少し時が過ぎた頃。
我々(クロモ誌記者)の行動する時が来た//
といっても些か時が過ぎているのだが...
あの事故の時,飛行場は騒動の最中だった最中にガルデルの遺体が発見されていないニュースに我々は当惑したと共に遅まきながら行動をとる。そこで,我々は独自にガルデルを見付ける為に仕度を整えた。たとえ,彼等の軽薄な経済が破産するまで...我々は徹底的にガルデルを探し出す覚悟を誓いきめた。ソルサルが連れて行かれたと思われるクリニックを我々は発見できなかったが,彼はメデジン市郊外のアントケーニョ東部地方に隠れていると推論の先を決めて,193512月から翌年の1月に掛けて我々は怪しい様子の何処かのフィンカ(農園)を疲れも無く捜索する為に人員5人を振り向けた。
突然,誰かが“...ある日,布で顔を隠したガルデルが白色の自家用車に乗り込むのを発見する”。
「電話のベルがけたたましく鳴り響く」//
410日の朝,“軽率な奴”の電話が鳴る。
カルメンシータ・オルティス,我々の事務所の魅力溢れる秘書嬢が何時もの様に優しく受話器を取ると電話口の反対側から田舎丸出しの声が言う事には:
“お嬢さん,俺はあんた方が捜している怪しいフィンカを知っているぜ!!!
ただし約束のお駄賃をくれるならばね...“
我々はエル・レティーロに一目散に出向くべき車を走らせた。着いたフィンカの家は森に囲まれた蒼い水を湛える湖が見下せる高台の昇り途中にあった。そのフィンカはただ田舎風の藁葺き屋根とアドベ壁で建てられたうらぶれた徒住まい,入り口の門も変わり栄えしない木柵の扉とありふれた普通の作り,だが周囲の情況が風変わりで好奇心を誘われる。先ず警備員さんに挨拶を交わし,我々の希望であるフィンカの住人と話をしたい申を伝えると答えは頑なに拒否された。大統領すら入れるなと命令されているから...とカービン銃の安全装置を外した。
「我々は見た!ガルデルの姿を...」:
我々の編集長が目で戻ろうと合図して来たので,ここを立ち去り一旦メデジンに全員で帰ろうと考えたが...しかし,自然に納得される事だが我々は号外的ニュースを手中にしたのも同然。だから,順番に偽装しながらその場所に見張り配置する事にした。三匹のドーベルマンと一匹のセバードで,あのフィンカは監視されていた。その広さは300平方メートル位いと思われる。そうした田舎の静寂の中。突然犬の吼え声か遠くからと車のエンジン音が聞えて来る。我々は常時少しの空腹感に襲われと不安感情の高ぶりに身震いする。
仲間の誰かが警備員を買収してしまおうとそれと無く仄めかした。しかし,警備員はもしかしたら金をくすねるだけでカルリートスに警戒を促すのみに終わる可能性もある。我々皆疲れきっていたが...しかし,この不愉快は我々に戦慄感を誘った。
とうとう,425日の午後に彼の姿を見る事に成功した。
ガルデルが見えた!
ソルサルが居た!
まったく嘘みたいだ!...
「ガルデルが日光浴」//
あの日,黒メガネをかけた喪服の一人の女が犬を二匹連れて緑色のルノーに乗ってフィンカを出て行った。残ったのは一人の男と二匹の犬,事は多少行動するのには容易になる。我々の編集長はフィンカの脇の方に火をつけ,カメラマンは火の燃えている反対側に一匹のウサギを離した。核心は即座に犬達を引き付ける。警備員は火が燃えている場所に駆け寄る。カメラマンはソルサルの“偽の死”の後に初めての写真撮影に成功した。

(メデジン,1986//ルシアーノ・ロンドーニョのブログ記事を参考にした)
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2012年6月25日月曜日

『ガルデルは生きていた !』:( 1 )




あの時,77年も前の事。その6月のメデジンの事故に戻るが,ギター奏者ホセ・マリア・アギラールとガルデルのマネジャーのスペイン人ホセ・プラハの二人は火傷が酷かったが生存した。もう一人のSACO航空の運行担当者アメリカ人グランッ・ジェツマン・フリィン(a)も生存していた。グランッだけが一人行方を晦ましたと言うストーリーでした。しかし,このフリィンは行方を晦ましてはいなかった。ではたった一人の無傷生存の彼はその時どんな行動をしていたのか?...そして,フリィンが80歳近くになった老後(あの時から50年後の1985年)に北アメリカのネブラスカ州で突然Sky Corp.Ed.,から”Zorzal’s True”なる本を出版した(1985年頃)。遅まきながら,この恐ろしい暴露記事の本の提供者は週刊誌「クロモ」の記者で,内容は「アントケーニョ東部地方(c)にガルデルは隠れ生きていた」と信じられないが信憑性溢れた恐ろしき記事で話題にすべき迫力のある内容に満ちていた。ではその内容はいかに...その話はしごく簡単な事。

とはいえ,それは世にも信じられないぞっとする発見事。
「フリィンはガルデルを見つけていた...ガルデルはあの地獄から生存していた!」
彼は顔を酷く火傷していたが命を取りとめ救出された。そして,市内のあるクリニックに救急車で運ばれ入院した。退院後フアン達の前に決してその傷跡で現われる事は無かったと言われていたが...ミスター・フリィンがこの一枷的困難な出来事をどの様に処理したのか?...フオードF-31機は離陸間も無く,追い風に呷られたかのように突然飛行安定を失い低空から北右側に機先を向け待機のマニサレース号の上に急降下した。機が墜落する寸前に彼は危機一発の瞬間に機から飛び降りた。そして彼は擦り傷も負わずに無事であった。

そして,「その真実は」:彼はこの決定的瞬間をこう述べる//
『三発機同士が衝突して起きた火炎の真只中から俺はレ・ペラを救出しようと試みたが...
F-31機が爆発した後で当然な混乱があり,俺は機から飛びのけ降りた。
しかし,恐怖の叫びを聞くと再び突進したが客室の中でレ・ペラが押しつぶされて助け嘆願を見届けたので心深くぞっとした。助けようと試みたが,彼の髪の毛と睫毛は炎が付き,挙句の果てに俺の洋服に火がつき始めた。そこでガルデルの姿を機内の中に一瞬注意深く捜し掛かった。しかし,ほんの少し前までレ・ペラとおしゃべりしていた筈だったが,何処にも見届けられない。あぁ,彼は助かったと安心して機から離れるとサイレンを鳴らさない救急車が全速力で滑走路を離れ退くのが見えた。救急車には誰を運んで行った?...
この質問は誰にも応えられない50年間の謎だった。この窒息しそうな秘密にはもう我慢できない』(65ページより)。

「誰もが事を隠そうとする」:
フリィンは苦悶の物語をこう続ける//『痛ましい出来事の3日後に驚きから回復して,すでに隠されたソルサルの奪回に報えられなかった悔しさに涙ぐみ。遺体検証の指揮した医師のアントニオ・ホセ・オスピーナ氏に救急車が現れた事と機内にガルデルの姿が無かった事について厚かましく尋ねてみた。ドクター・オスピーナは顔を赤面して訳の分からない言葉を口ごもり,それを俺は彼の言い訳と理解した。しかしながら,オスピーナ医師は何も知らない事は間違いないだろうと見えた。しかし,彼の動揺は俺に疑問の種を芽生えさせた。翌日,悲しい事件の同じ日の午後には無かった物品が不信にも現われた後で,ジャーナリストにガルデルの証明書や宝石類を展示されていた。俺の好奇心は市内のクリニックを捜索する決心を促した。何人も不幸な怪我人を入院させたとは認め様とはしなかった。勿論,あの怪しいクリニックの証言には満足しなかった。そこで,そこの隣人に助けを求める事にしたが首尾は上々の結果となる。ソルサルはメデジン旧市街パラセー通りの優れた外科医と評判かつ大盛況なドクター・ソラーノの私設診療所へ入院した事実を突き止めた。次の日の午後に何かの用事で診療所から出て来た看護婦に近寄りそれと無く様子を尋ねて見た。彼女はドクターに“この秘密”を口外するなと釘を刺されていたにも拘らず渋々ガルデルの所在を明かしてくれた。当然ながら尋ねに行けば門前払いは承知の上だ。と言う訳でそのクリニックの目の前に部屋を借りる事で解決した。そこでモローチョの出入りを常時休み無く監視する。しかしながらボリビア通り(ボリーバルの間違い)側の裏口から出入りすれば取り逃がしてしまうのは当前だ。そして,態屈な3日過ぎたところ奇怪な黒メガネの美貌な貴婦人(c)がそこから現われ歩道で林檎とブドウを買い込んでいった。その女性は紛れも無くF-31機が滑走路に入る寸前にガルデルに愛に溢れ美しき瞳を向けながら別れの投げキスを送っていたあの黒装の貴婦人に違いない事に気が付く。俺の髭は伸び放題と監視に疲れ果てて,俺の不眠はソルサルの出し抜けな出現により褒美を受ける。それは6日目の明け方の事。診療所の前に一台の車が横づけされたので俺は監視にフラッシュを取り除いた望遠レンズ付のカメラを用意据付した。ASAS400フイルムを装着してクリック!! この瞬間,あえて見せられる写真の盗み撮りに成功した。すべて矢継ぎ早に車は行く先不明の場所へと高速で走り去った。』(68と69ページ)

「あぁ,全く退屈だ...ここを立ち退くとするか!」』
(グランッ・フリィンの本は4ヶ月以上に及んだ疲れと虚しい捜索の細部に渉って詳しく綴っている。)『この様にして調査は終結した。調査を満たせられない退屈に疲れ果て,貴重な秘密情報を所持しながら暴露出来ない。その理由は未完であり,涙を流した泣きべそ的内容は無駄になった。俺は真実を墓穴に理葬してコロンビアに置いて行く事にした。挙句の果てにネブラスカの子供達からの帰れとの催促。』(208ページ)
そして,ミスター・フリィンは4ヶ月を費やした捜索を涙ながら終結させて,同年の9月3日に妻のマルタ夫人と共にバランキージャの隣接するコロンビア港から客船に乗り込みニューヨーク(9月11日到着)へ向かい,後にネブラスカ州マゥント・キスコに落ち着く。メデジンの事故編で述べたグランッ・フリィンのコロンビア脱出の時期にぴたりと合う事になる。

追記:(a)ここでミスター・グランッ・ジェツマン・フリィンの簡略経歴を述べておく。彼の故郷はフロリタ州ジャクソンビジェ。1904年12月22日に誕生。1915~19年の間にキューバ滞在。1923年からフランス,イタリー,スイスとコロンビアを訪問した後にコロンビアのサンタマルタからニューヨークに行く。彼とSACO航空の創立者エルネスト・サンペル・メンドサとの関係はアメリカ合衆国でもたされた。30年代の頃で時期が過ぎる過程で彼等は友情を育む。そして,彼はSACO航空の常時メンバーの一人として参加していた。サンペールがフオード三発機F-31を購入してコロンビアに空路輸送した時に同伴する。メデジンの悲劇とガルデル生存を明かそうとしたが失敗したので途中で1935年9月3日の事故から3ケ月後にコロンビアを去る。『あの事故の時,フォードF-31機の滑走が始まると乗客全員は恐怖に包まれていた。憶測されていた機内での発砲騒動は無かった。』とフリィンは著書で証言している。コロンヒアを出港,1935年11月11日にニューヨークへ上陸。モゥント・キスコに定住する。4歳年上の妻マルタ夫人(メキシコ系)が亡くなると1977年10月(73歳の時)にフロリダ州パルムビーチにてレオーナ・ウイニフレッド・ポーテルと再婚した。彼は1983年10月26日にフロリダ州サラソタにて79歳で没した。

注記:1986年メデジン:ルシアーノ・ロンドーニョのブログ記事を参考に他の情報を加えて文章の構成にした。(b)アントケーニョ東部地方とはメデジン市から車で30分ほどホセ・マリア・コルドバ飛行場に行く途中に広がる湖と森林に囲まれた農園地帯のリオネグロとエル・レティーロの周辺である。(c)F-31機の滑走真近くでガルデルに別れ告げていた黒装の貴婦人はフランスからガルデルの後を追ってきたハンガリー貴族出の女性ではないかと思われる。当ブログ「ガルデルの恋愛遍歴編(3)』を参照ください。


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2012年6月24日日曜日

『ガルデルは生きていた!』プロローグ



ガルデルはあの呪われた飛行機事故から生き延びていた?...
これは誰も信じえない事実!!!
アルゼンチンではこの貴重な情報を得られるのは不可能だろう。小生の居る所はコロンビアなのだ。メデジンの飛行機事故は77年前の今日624日現地時間午後3時頃(日本時間25日の午前5)に起きた。“あの時に焼死”したとされて「世に別れを告げた事になっていたガルデル」。ところで彼の遺体は財産管理人デ・フィーノの手により偽装された遺言書を介してサン・ペドロ墓地から発掘された。そして,メデジンからカリ市を経由して太平洋側に位置するブエナベントゥーラ港へ運ばれた後,そこから海路パナマ運河を経由後ニューヨークに到着した。後日にかの地の教会で通夜が壮大に開かれたが。その時参列したガルデルの友人や映画に共演した俳優達は遺体を礼拝した時に,ガルデルの遺体の歯形に疑問を持った人物がいた。その人は音楽家ドン・マジョ氏で他にも数人が確認したらしい。このガルデルでは無いらしい遺体は19362月にチャカリータ墓地に着き,盛大に行なわれた葬儀の後に理葬されたのだが,前提のデ・フィーノは翌年(1937年)に再びメデジンに出向きサン・ペドロ墓地からもう一つの遺体(誰の遺体?)をガルデルが理葬されていたとされる墓地(a)から運び出した摩訶不思議な行動をしている(アントニオ・エナオと名乗る新聞記者が目撃していた) ガルデルの遺体は何処に?...こうした謎に包まれたチャカリータ墓地のソルサルの遺体は本物では無い疑問が髣髴してくる。この同じ頃にバルビエリとリベロール,レ・ペラの遺体も墓霊から取り出され,それらはそれぞれの遺族によりブエノスに移された。この時に秘書アザフの遺体は発見されなかった不思議。初めに運び出されて遺体はアザフのものと墓守が混同したのでは無いのか,二度目に発掘した遺体は誰の物なのか。謎は明かされないまま長い時が過ぎて,80年代の頃にサダイクがガルデルとベルタ夫人のDNA分析検査(b)を試みたが,如何な判定結果が出たのかジャーナリストには公表されていない。余りにも時が過ぎ今となっては土壌化して検査は困難だ。そして,この謎は絶対に世には明かされる事は無いだろう。アルゼンチンではガルデルは“フランス人”という固定観念で認められているから,これを覆す訳には行かないのである。しかし「ガルデルはメデジンの郊外に80歳頃まで生きていた」との新聞記事を見掛けた事もあったが余り信憑性がないと判断していたのだが...!。
しかし,ガルデルは確かに生きていたのでる...
 注記//(a):サン・ペドロに有ったガルデルの墓地。現在,墓標は残っていない。1995年に博物館として落成の記念碑があるのみである。b):ガルデルとベルタ夫人とは血の繋がりが無かった事は証明されているのでDNA分析は不可能だろう。


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2012年6月7日木曜日

ペルリータとガルデル(3 )


ペルリータとガルデル(3)


“我々の愛は益々激しく”ここ古きスペインでペルリータ・グレコの最良の運命を知る事になる。
ガルデルはペトロッシの紹介斡旋の手紙によりフランス興行(アギラールの回想より)が実現する。そこでギタリスト達のアギラール,バルビエリ,リカルドとその弟ラファエル及び公演代理人ルイス・ピエルティーと共にブエノスを出発。1928年9月24日にバルセローナ港へ到着下船後フランスのニースへ向かい,同じ月の30日にグアダラルペ島の台風災難者向け慈善コンサートに出演。その後パリのフロリダキャバレー,オペラ劇場にそれぞれ出演。1929年2月8~9日はカンヌのカジノ,2月22日~3月7日はパリのエンピレー劇場,4月にはバルセローナへ23日にプリンシパル・パレセー劇場で歌う。1929年5月,カルロス,四度目のマドリードでペルリータと再開する。そして彼女は芸能人生の苦い酒(最大な危機)に見舞われたカルロスを励まし助ける役を果たす事になる。ペルリータ・グレコはレアル劇場に4月15日から出演中。一方のガルデルは通りの直前のアベニーダ劇場に出演。レアルとアベニーダの両施設のディレクター同士は商業的冷戦状態にあったので,“両者にとっては当然その人達のロマンスの宣伝をする訳には同意できなかった。彼等アティーストは公衆へ尽くす事欠かせない約束の義務がある”とばかりに二人のロマンスは公衆の目の届かない所で楽しんでいた。“ブエノスで始まった二人の隠されたあの愛は楽しかった。快楽,ボヘミアン,賭け,それに魅惑な愛惜の奪還,我々独自な甘く親密な秘密事”とペルリータ自身によるロマンスの告白により巷の人々は知るに至るが,その上にコーラスガール二番手のアンパリート・サラが舞台装置の裏で彼等二人が抱擁している現場を見ていた。その挙句マガジン“エル・タンゴ・デ・モーダ(流行のタンゴ)”のパパラッシー攻勢に遭っていた。ところが迷い誘う意外な状況が彼等の再会に異なる状態に落とし込む。既に述べたようにガルデルはアベニーダ劇場で5月16日にデビューしていたが,驚くべき成功。彼等観衆の熱狂に応えて各ショーの予定より二倍に近い歌をこなす羽目になる。そして20日の舞台中“イ・エスタ・ノチェ・メ・エンボラチォ・ビエン,メ・マモ・ビイエン...”と歌い始めたところで...次の歌詞を続け無くなる...声が全くでない!突然予期せぬ事態になる。ギタリスト達は即興に“ラ・ンバルシータ”を演奏始めガルデルの様子を見届けるが,やはり歌えない,全く声が出ない!。ここで演唱舞台を退場する事態になってしまった。当然残りの出演予定は全部中止。同伴の皆心配と悲しみに巻き込み,本当の大惨事だと感じられた。アギラールはガルデルを元気づけ様と試みたと白状していたが...我々仲間では“厚かましくも無く,これでお仕舞い...もう歌えない...”と断言したが(アギラールの回想より)。一方のペルリータは何時もの陽気さでカルリートスを励まし二人の絆を強化すべくその危機から救い出す手を差し伸べている。次の金曜日にギタリスト達が見舞いに行くとカルリートスは顔を下向き加減に迎え出て何時もの陽気な表情も無く,陰気な沈黙と共に我々に向かい椅子に座れと身振りで示した。そこで我々は部屋の中へと一歩踏み込んだ瞬間...“メ・マモ・ビイエン・ママオ...パ’・ノ・ペンサール!”とばかりに強い声で歌い始めた。そこで一瞬,皆は安堵と歓喜の叫びを挙げる!。と言う訳で25日(土)26日(日)の両日とも目出度く公演の幕仕舞いを果たしてスペインを後にする。そして我々の愛も別離の運命となるかのように“ガルデルは映画撮影の為にフランスに経った”とペルリータは述べている。







2012年5月28日月曜日

ガルデルのCDシリーズ:CD-4/1~9曲

しばらく横道にそれていたがまたCDシリーズに戻る


ガルデルのCD-4(原盤録音:1919~20年)/1919年からの続き“ナショナル-オデオン”,“クリオージョ-オデオン”レーベルによるアコスティク録音/全曲ともホセ・“ネグロ”・リカルドとホセ・ラサーノのギターで伴奏されている。


①:エル・カルド・アスール(蒼いアザミ)/エスティーロ/作者:ガルデル-ラサーノ/歌:ガルデルソロ/1919年3月19日録音/原盤#18018B/
この曲はガルデルの初めてレコード録音(1912年)をした時の5曲目の“ポーブレ・フロール(哀れな花)”と“エル・カルド・アスール”は同じ構成にしている。そして,女流詩人イサベル・セリア・カナベリが1899年11月にキルメスで発表した“フロール・デ・カルド(アザミの花)”の詩から初めの部分の二節が抜粋されている。この詩のオリジナル作者はブエノスアイレス郊外のキルメスで1882年生まれ,1945年2月28日ラ・プラタで亡くなった。彼女は我々の知らない小冊子に幾つかの散文詩を載せているだが,その素晴しい才能に反して経歴は淡い霧の中の謎に埋まれている。詩作“フロール・デ・カルド”はモンテビデオで発刊された“エル・フォゴン(焚き火)”誌の1899年11月30日52号に記載されていた。

Entre mil flores silvestres , /野性花々に埋まれて,
en un campo muy gallardo , /いかに気高くも野原で,
se alzaba un vistoso cardo /鮮やかなアザミを高くささげ
con sus penachos de tul , /チュール共にたなびく,
y del rocio las perlas /真珠を撒き散らし
blanquicinas parecian , /まるで白く磨かれ,
y banadas se veian , /一浴びに似た
las hebras del cardo azul. /蒼いアザミの髪

②:サンファニーナ・デ・ミ・アモール(わが愛のサンファン娘)/作者:アンヘル・グレコとフランシスコ・マルティーノ/トナーダ/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年3月19日録音/原盤#18018A/
作者の一人,アンヘル・グレコはタンゴ界の名門家族の一員でビセンテ(タンゴ,アルマ・ポルテーニャなど作曲),ドミンゴ,エレーナとマリア達兄弟姉妹が含まれいた。彼等の名声は歴史中黄金の活字で彫まれている。彼はナショナル劇場創立者ペペ・ポデスタが創めたサーカスにデビューしたがテアトロの歌手として転向に成功。1916年にガルデルのギタリスト,アンヘル(従兄弟)のウルグアイ歌手イグナシオ・リベロールと二重唱を結成した。後にフランシスコ・マルティーノともドゥオを1921年頃まで組む。彼等はポルテーニョ界の多くのステージに上る。そして“アトランタ”レーベルにレコード録音も果たしている。ガルデルとは青年期よりの友情関係にあり最初から歌手として競争相手としての阻害を与える事無く,逆にこの曲や“ミ・パニュエロ・ボルダード(刺繍されたハンカチ)”,“エル・カント・デ・ラ・セルバ(密林への歌)”,“チニータ・リンダ(可愛い女の子)”,“カルティータス・ペルフマーダス(香水香る手紙)”,“ナイペ・マルカード(印のあるトランプ)”などのその他多くの曲をガルデルが取り上げ歌っている。グレコは1893年3月9日サンテルモに生まれ,1938年10月4日同地にて没した。フランシスコ・マルティノはガルデルの友人て在ると共に最初の二重唱を組んだ相手である。彼については『ガルデルとフォルクローレ』で解説してある。

③:ラ・コルドベサ(コルドバ女)/作者:クリスティーノ・タピア/サンバ/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年3月19日録音/原盤#18019A/
この歌はコルドバ賛歌でこの様に始まる。Estas es la zamba linda , mi vida !/ これは美しいサンバ,わが命!/que cantan los cordobeses, /コルドバの人々はこう歌う/タピアはコルドバの出身。ギター奏者,クリオージョ音楽の作曲家,ガルデルは彼の12作品を録音した.“ミ・ティーラ(我が故郷)”,“ラ・トゥプンガニータ”,“セバ・セバ(行く,いく)”,“テンドラス・ケ・ジョラール(泣かなければならない)”,“ロサル・ビエホ(枯れたバラの木)”他多くの作品あり。タピア-ジャネス,タピア-カルトス,タピア-アルマーダ,タピア-オレジャーナ(彼の妻)との二重唱を組む。1972年8月7日コルドバで没。



④:パヴァーダス(馬鹿らしい)/シフラ/作者:ガルデル-ラサーノ/歌:ホセ・ラサーノソロ/朗唱:カルロス・ガルデル/1919年3月19日録音/原盤#18019B/『エラ』レーベル60975(*)
原作はアルベルト・アウレリアーノ・ノビオンに帰属する。この曲は小生が参考にしているハイメ・リコ・サラサールの“ガルデルの原盤リスト”から漏れているのだが別のデータから前曲の“ラ・コルドベサ”と原盤番号が同じ対でレコード化されているのを発見した。これはオラシオ・ロリエンテが監修してウルグアイで発売(時期不明)されていた“ガルデル-ラサーノ達のアクスティク時代”のLP盤Vol.④(URL18018/18023)A面4曲目にリストアップされている。『エラ』レーベルは1910~17年に存在した。タジーニ商会のホセの兄弟のフアン・バウティスタ・タジーニが1913~4年にかけてすでに録音済みの他社のレコードをこの『エラ』から再発売したものである。

⑤:エル・ヴガブンド(放浪者)/バンブーコ/原作詩:フルヘンシォ・ガルシア/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年3月19日録音/原盤#18020A/
この曲はコロンビア民謡で作者不明とあるデータもあるが,オリジナル詩はコロンビア人フルへンシォ・ガルシアに帰属する。この詩歌の最終部分はアンダルシアのバラードの一部に類似しているがメロディーの作者は不明だと言う。ガルデルはこの曲もスコラッティの編曲を基したフラメンコ調にアレンジしている。また,オリジナルの“エル・ヴガブンド(放浪者)”はコロンビア人レオネル・カジェとエウセビオ・オチョアが歌うリラ・アンティオケ―ニョのレコード録音(1910年6月)がメキヒコに存在する。

⑥:デ・ヴェルタ・アル・ブリン/タンゴ/作詞:バスクアル・コントゥルシ/作曲:フランシスコ・マルティネス/歌:ガルデルソロ/1919年3月19日録音/原盤#18020B/

Percanta que arrepentida/後悔した魅惑女
De tu juida/逃げ出したあんたが
has vuelto al bulin /,逢引部屋にそのあんたは戻って来た
con todos los despechos /妬みの全てとともに
que vos me has hecho,te perdone…./あんたが俺にした事々を、俺は許した...
Cuantas veces contigo /あんたと幾たびか
Y con mis amigos/そして俺の仲間等とともに
me en curdele,,/酔い潰れ明かし
y en una noche de atorro/あげくにある夜...
/ガルデルの声は極限歌手の名を裏切らない新鮮な美声眩く煌めきが冴える。

⑦:ミ・チーナ(俺の可愛い子)/ファド/作者:ロドリゲス(a)-ロルダン(b)/歌:ガルデル-ラサーノ/1920年9月26日録音/原盤#18021A/
このポルトガル民謡の甘美切ないファドを彼等は最高の歌解釈にこなしている。
.(a):本名フアン・ロドリゲス/ピアニスト,作曲家,ブエノスの音楽学校“ガイト”に入学。その後両親とバルセローナへ移住する。そこでナショナル音楽学校に学び,そこでピアノと和声法を専攻した後にパリへ演奏公演した時にその上品な演奏を認められる。1914年帰国後ポビュラー界に参入。アグスト・ベルトと“アトランタ”にレコード録音。フアン・マグリオ・パチョと“コロンビア”にも録音。あの華やかな“アルメノンビジェ”,“バリシエン”,にも登場。その後モンテビデオのソリス劇場にも出演した。ガルデルは“ミ・チーナ”とタンゴ“ケハ・インディアーナ”を録音した。彼ロドリゲスは1895年10月19日アバストに生れ1928年4月4日没。
(b):本名ルイス・ペドロ・ビクトル・ロルダン(ルイス・カンデーラ)/1894年5月13日生~1943年8月7日没/詩人/夕刊評論紙に記者として30年間勤務する。ガルデルは彼のタンゴ“カルネ・デ・カバレー(キャバレーの肉体)”,“ラ・トリステサ・デ・ブリン(ブリンの悲劇)”を録音している。

⑧:アマネセール(夜明け)/シフラ/作者:ガルデル-ラサーノ/歌:ガルデルソロ/1919年9月26日録音/原盤#18021B/
この著作について異議を称える者は出ていないのだが,ウルグアイ詩人アリアス・レグレスの詞にガルデルが曲を付けた作品である。レグレスについてのデータは『ラプラタ地方のフォルクローレ』を参照の事。

Que lindo es ver por el llano ! /平原から見るのはなんと美しい!
Que lindo es ver por el llano ! /平原から見るのはなんと美しい!
Ande se va un pollero /スカート姿が過ぎ行く
que partica , y altanero va su viguela portando /バルティカ,高慢なほほに風受けて
para los perros ladrando /犬が吼えながら
y un resuello y un maceta ; /苦しそうなよぼよぼに

⑨:(エル)ミロンゴン(主題?:カンシォン・アグレステ/ひなびた歌))/ミロンガ/作者:パシャドール,アンブロシオ・リオ(渾名カピチェラ)/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年9月26日録音日同上/原盤#18022A/
二重唱の際立った歌とホセ・リカルドの完璧な技巧演奏によるギター伴奏が冴える。

Lindo es el primer albor , /初めのあけぼのは美しい
que viene anunciado el dia /生存を告げに遣ってくる
y tras de las cerrania /丘陵の彼方から
repunta el astro mayor . /偉大なスターの前触れ.

アンブロシオ・リオは1900年の18歳頃からバジャドール,ラモン・ビェイテのコントラプントに参加して歌い始める。彼独特の天真爛漫と我々のフォルクローレへの愛惜が滲む歌うスタイル。有名になる前からガルデルとは親交を交わしていた。“エル・バイサーノ・コントレーラ(同郷人~”,“エル・サイノ・コロラド(赤毛の子馬)”,“リオハーナ・ミア”,“ポーブレ・ミ・ガウチャ”などガルデルが録音した曲がある。リオはイタリア,ナポリに1882年生まれ,生後50日にしてアルゼンチンに両親に連れられ移住した。1931年6月9日ブエノスにて没した。

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2012年5月27日日曜日

ペルリータとガルデル(2)



ペルリータとカルデル(2):余り気が進まないのだが,ここからカルデルの私生活に踏み込んでいく事になる。

曖昧だが1926~7年頃の時期にガルデルはアスセーナ・マイサーニを介してペリータと知り合う。ペルリータはエル・モローチョと知り会い間も無くお互い気に入り意気投合し合いロマンスに溺れていく。それは必然的だった様で“二人はボヘミオで陽気の似たもの同士。その上に生きる喜びと味を引き出す冒険を楽しむ人生観の持ち主”とペルリータは認めていた。それは夜毎事のブエノス・アイレス巷のレストランで夕食をしたり,バー・ロス・アンへリートスで二人がカクテルの杯を交わす姿が見られた。グレコはエル・モローチョの親友ホセ・アントニオ・サルディアス作のタンゴ“ムチャチータ・デ・モンマルトル(モンマルトルの乙女)”に歌われている人物“一時の相手”の其の役を演じた訳だ。カルロスは何時も彼女の公演仕舞いに待ち合わせてタンゴ、“ロ・アン・ビスト・コン・オトラ”の如くパレルモ公園を散歩したり,リンコン通り137番地に所有していたピシート・デ・ソルテーロ(青い部屋)に入り込む二人を見かけられた。このような噂は当時のタンゴ界では知る人ぞ知るという有様だったらしい。二人揃って音楽,演劇,映画愛好の外に競馬に気狂わせた。“私は軽快な良い血統の子馬を操るのが大好き”だと言うほどの騎手。それに“レースに強力に賭けるのが好み”で,競馬は感動的で秀麗な催し物とペルリータは言い切る。皆が反対する忠告にも拘らず自立のバドックを組織するべくガルデルはすでに有名な“ルナティコ”を手に入れていた。彼は1925~27年にかけてこの持ち馬で30~40レースを賭けたが勝負には余り恵まれなかったようで,この経験で受けたのは経済的に失地に負い込まれた事。カルロスと知り合った時にはすでに金に困っている様子だったとペルリータは語っていた。しかしながら何時も事ながらガルデルにはあの競馬“パレルモ”に夢中で心を奪われ勝ち,月並みな事だが翌日の朝早く行われる競馬レースに居る為に土曜の夜は早くベットに着くが眠れぬ夜を過ごした挙句パレルモのレースに遅刻。その同じ日曜日の夜の劇場に彼女を迎えに行くのを忘れ,たびたびのデートにも現われない機会も増した為に二人の関係は中断するに至る。そしてペルリータはバンドネオニスト,フアン・バウティスタ・デアンブロシオに誘われて歌手としてスペインへ,彼女はタンゴとは別の世界で活躍していたが余りにも誘惑的であったので誘いを受ける。それはカルロス・ガルデルと友人のセリア・ガメス等の助言か彼女自身の経験故かそのキャリアに跳躍を与えた。それは1928年8月の事であった。オルケスタ“バチィチャ”で最初のヒットはメロドロマティク風脚色のスペイン産タンゴ“シエギータ(盲目少女)”である。ペルリータはやがて祖国スペインの雑誌に彼女が途方もない評判と勝利を獲得した人物と記事が載る。それはマドリード界で知らない者もいないほどに、終わる事無く起こる真の暴露現象であつた。ガルデルとのロマンスから離れた様だがペルリータのスペイン以後の芸歴を述べる事にしよう。1931年にスター・フイルム製作映画題名“ジョ・キエロ・ケ・メ・ジェベン・ア・ホリウッド(ハリウッドに連れて行って)”俳優フェデリコ・ガルヒアと共演する。ペルリータは情熱的、陽気な、活動的な、好意的な、親しみ易く、素朴にキャリアを的とうした。又、フランスと北米でも活躍し、キャフィアスピリーナ・オーディーションでニューヨークNBC放送にも出演したり。又、“エル・モローコ”なる人物、アルサテ・ウンズエと知り合い、“エル・モローコ”のピアノ伴奏で唄い、ガルデルの作曲に協力したテリグ・トッチーの伴奏で唄う機会にも恵まれた。最終的にキューバに落ち着き住み着いたが、海外生活8年後にブエノス・アイレスへ母親孝行する為に探しに帰る。そして、ハバナの家に母親を連れて行くのを試みが成功したか否か、このレポートに明記は無い。又,彼女ペルリータ・グレコのガルデルとの果かない束の間の愛の存在も,何人の記憶の元にすら面影は残っていない。と前回の『ガルデルの恋愛遍歴』(2)(2010年3月29日)ではグアダルーペ・アバジェ女史の作品を参考にしたが。ところがガルデルとのロマンスは終わっていなかった。この物語はスペイン,フランス果てはニューヨークまでと続くのです。次回からマルセーロ・マルティーネス氏の『ガルデル・エス・コン』のコラムを編集した記事を載せます。

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2012年5月22日火曜日

ペルリータとガルデル( 1 )


ペルリータ・グレコ編-1(再編集)


カルロス・ガルデルとロマンスを宣告した数々の女性の内の一人。“幻想か真実か?”単なる想像か唯宣伝の為の策略の産物か彼女のみ知るのだが。いや、確かにかの偉大なタンゴ歌手との愛惜関係に束の間に生きたのである。

ペルリータの“告白”は:ペルリータは大盛況に終わった舞台を後に毎夜の如く楽屋へ戻る。
その日は1935年6月24日の夜...舞台衣装やフアンに贈られた花束に埋まった化粧台。鏡に映る壁に貼られたアナ・パブロウア,マウリセ・チバリェール,ラ・ゴジャ,カルロス・ガルデル等の写真。そこに待っていた雑誌レポーター,ホセ・モンテーロ。彼に見せられた新聞の大きな見出し記事。“カルロス・ガルデル,コロンビアで飛行機大惨事にて死ぬ”。それを読み恐れおののくペルリータ...インタビューの瞬間に女神の如き眼差しを引き寄せ止めた。“可哀想なカルリートス!15日ばかり前に受けたアメリカからの最新の便りには私に書いた「プロジェクト,仕事は総てうまく行っている」と彼の話。そしてこの突然死のニュースは恐ろしい!それゆえに,わが命におきた多くの出来事ゆえの思い出”と泣きくずれながら挫折したアイドルとのロマンスのよき瞬間を告白した。前期のペルリータの告白の情報は度々繰り返されたが,その全体は公表される事は決してなかった。彼女の告白はここまで...ではペルリータ・グレコとは実際に何者なのかその経歴は?まず関連した芸能から再現して見よう。疑われたレスビアン,素敵なピアニスト,しとやかな声,上品な知的能力と当惑させる美貌に魅惑させる人と完璧な錬金術の持ち主...軽薄と純真な乙女如き風采と社交界に軽薄と異端と非難が生じたシンボル的存在。彼女、ペリータ・グレコの本名はアルホンシーナ・グレコ・コンスタンティーニ,1906年5月11日にスペイン,マドリードに生れた。母はイタリー中心部山岳地方のアブルソーの小都市カサカゥデテリャの出身である。母に連れられて多くのイタリー人の例に漏れずにアルゼンチンにやって来た。幼年期はサグラード・コラソン修道院付属学校に入学を果たす。そこで16歳までカトリック修道女の下で教育を受けたが其処で早くも芸能への才能を育ませる。そこで歌とギター及びダンスを身に付けた。その上に習得したピアノはずば抜けた芸であった。やがて多く少女達が夢見るように彼女ペルリータも同じ様に経済的社会的向上へ向けて演芸世界へ道を探す為にロサリオからブエノスの中心街のペンションに母と共に移り住む。時は1924年の事であった。また,彼女の随一の目的は“世界一有名なアーティストに伸し上る”ために演劇界へとデビューする事。一方の母ジオビーナはタンゴ“ラ・ビオレテーラ”の唄のようにポルテニョ街のカフェティンやバーからバーに魅力的な微笑みと共に花売りに励み,また芸能興行に関連する男女に生粋の好感で接しペルリータが演劇界に入るコネの獲得に常に努力する程の良き理解者であった。それは娯楽産業と近代性の運び台に攀じ登る為に衝動的野心を伴う場末のぬかるみの存続する狂乱の場所。それはブエノスアイレス狂乱時代の出来事であった。タンゲーロ,タンギスタ,カンシオニスタ,トナディジェーラ,サイネテーラに成るためには美声を所有する事は助けになるが,だが絶対的不可欠な要素になる事は無い。反対に声技巧の過剰は演技プロットを曇らせる。これらの条件は歌手に要求されるほんの些細な事だが...その通り一口に言えば...詩節それぞれの確認を許すニュアンス。感傷的か悲劇的,滑稽か劇的に成りうる。しかし,常に超過する事無く,自然な仕方の技巧を物にする。そのもっと複雑な自然性を手に入れる。より明白な例としておそらくアルゼンチンではティタ・メレーロだろう。つつがなくわずかな例外として(彼女の様な“俳優兼歌手”を語るのがより好ましい)彼女の青春の美貌と健康の大部分をゆだね茨の道に入り込む。大部分の彼女達は慎ましい家庭に由来するが,そして貧困から抜け出す為に勇敢にもステージに飛び込んだ。ペルリータは邪悪したシステム論理を壊す為にトリックを活用した...適切なチャンスを待ち,抜かりなく粘りとうした。好機はこの様に生じた:ラ・コメディア劇場の出し物“ラス・コルサリアス(海賊女)”の主人公コーラスガールのセリア・ゴメスが父親と共にスペインへ帰るために新しいアミ―ガに主役の欠員埋めさせるチャンスを与えてくれた。ファストラに生まれ変わるペルリータ・グレコ“このデビュー名で舞台に”...偶然の気紛れとある一部の人は言うが“相応しいポストと機会に居る為の嗅覚を持ち合わせる”と評価した人もいた。ミゲル・ラマスと神聖な俳優連との共演の主役の様な初舞台は話題になり,芝居の優れ者に変豹した。性欲の渇きの為の男を誘拐に励む美貌のアマゾーナ役にめがけて精通。パソドブレ“ラ・バンデリータ”は本物の賛歌に変換させた。これらの音楽は甘ったれ気味且つ感動的でグラナダ出のフランシスコ・アロンソが装飾している。ブエノスアイレスにてこの出し物は3千人以上の入場者で埋まれた。

ペルリータとマイサーニ:ペルリータはレビュースターの様に目覚しい経歴で登場した。“ラス・コルサリアス(海賊女)”のラ・コメディア劇場からポルテーニョ,マイポーへと舞台の場所を変えて行く。ぺぺ・アリアスの“カベシータ・ロカス(狂った頭)”のオペレタや“モリーノス・デ・ビエント(風力製粉機)”,“ドニャ・フランシスキータ”などのスペイン抒情詩スタイルの作品類にも解釈的演劇にも手短に浸入した。1926年歌手アスセーナ・マイサーニと知り会い友情を交わす。噂では二人のアティーストは同性愛好みがあると非難されたがそれはむしろ曖昧であると判断された。マイサーニは男装で演技するが“ミロンキータ”,“モコシータ”の節をつけて歌う時にはグレコも同じ様相を取り入れた。しかしながら,タンゴにおいては双方とも評価されるのを何時も避けていた。
1928427日マイプー劇場で初演されたイボ・ペライ,ルイス・セサル・アマドーリ,ウンベルト・カイロ合作オリジナル作品の“カサス・ソンリエンテス(微笑の家)”レビューの舞台にペルリータはマイサーニとカルメン・オルメード達と共に共演した。また,6月8日初演の同作者の作品で同共演者と“エストレージャ・デ・フエゴ(炎の星)”に出演。翌月の7日“フベトゥー,ディビーノ・テソーロ(青春,素的な宝)”の舞台にアンヘラとビクトリア・クエンカ姉妹,カルメン・オルメド,ビオレタ・デスモン等と共演した。

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2012年5月17日木曜日

タンゴ「エボカシオン」


エボカシォンとは回想と訳すのだが.
若き日の苦き失恋の回想。
暖炉の炎のゆれと共に思い出した痛恨。
それを生々しく回想したタンゴ“エボカシオン”。

EVOCACION(回想)
La lama alientas en la chimenea /暖炉に鼓舞する金糸
y el crepitar de leÑas encendidas /火がついた薪がバチバチと音をたて
me atormentan con llagas de fuego /達する炎が俺を苦しめる
reabren en mi alma, hondas heridas /傷深く,わが心のなか再びあける
la llama loca corre y piruetea / 狂った炎は駆け回り,飛び跳ねる
y en el delirio de la noche oscura /そして,くらい夜の妄想に
reviven aÑos de intense amargura /強めた悲嘆は年々よみがえる 
que triste me acompaÑan en mi soledad /わが孤独に付きまわる悲しみ

Crepitan las leÑas, revive el pasado /過去が蘇えり,懲らしめがバチバチと音立てる
del fondo del tiempo como una vision /幻のような時の深みへ
y me trae el viejo perfume aÑorado /郷愁のふるき香りをもたらす
de la que fue un dia mi sola ilusion /影のみのわがある日がすぎ
crujen las leÑas, la llama agonize /きえうせかける炎,焚きつけが泣きわめく
mis manos persiguen aquella vision /幻のあれがわが腕を追う
en vano se alargan, no hay mas que cenizas /灰のみ残り,延びた空虚に
ceniza en las leÑas y en mi corazon/わが心にはまきの灰

Leve la estrella de tus claros ojos /きみのさわやかな瞳の輝やぎ微か
diafana luz de sempiterna andanza /旅の永遠の光は曇りなく
que en las rutas de mis aÑos mozos /わが若き年の道筋に
fue mi suspiro, fue mi esperanza /わがのぞみ,わがためいき過ぎて
ahora mi senda llena esta de abrojos /我の行く道は茨満ちた今
mi vida mustia ya no tiene llantos /もう涙撒かれて萎れるわが人生
y el corazon zozobra de quebrantos /そして,衰えの不安心
de verme indigno de tu inefable virtud /言葉絶する高潔な貴女の相応しからぬ眼差し

このタンゴはガルデルがビクターに最後の録音をした後に現われた曲で,彼はレコード録音しなかった。
いや,ニューヨークに戻れぬ不可抗力により歌えなかったタンゴである。作詞は当然,アルフレッド・レペラ,作曲はカルロス・ガルデルでテリグ・トゥクシが協力参加している。この曲は1960年タンゴ歌手のアルベルト・バルディがロペス・バレート等とニューヨークを訪問した際にコロンビア・ブロードキャスティングのディレクターであったピアニストのマエストロ・テリグ・トゥチィに巡り会ったのだが,その時彼曰く「これは我々の幼稚な考えだが聴くに値する。この楽譜はバレートに託すのが相応しいと俺は確信するが,ガルデルもこうあって欲しいと思ったに違いない。」とそのタンゴの楽譜をラファエル・ブロウンに見せた。彼ブロウンは“この死後の作品”は本物かどうか疑わしいと考えた。ロペス・バレートはアルフレッド・レペラの弟ホセに聞けばと助言してくれたので,彼ホセに訊ねた所,彼は確かに兄とカルロスは何らかの作品の試案を持っていたらしいと言う答えであった。このタンゴ“レコルダンド(思い出す)”或いは“エボカシオン”は流布されていないと思われたがアグスティン・イルスタの歌う“エボカシオン”のタイトルの録音がデッカ・レベールに存在するのが判明している。ここではアルベルト・バルディの歌がtodotango.comのmp3で聴ける。

http://gardelweb.com/music/Evocacion-Tango-1989-Alberto-Bardi.mp3


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2012年5月14日月曜日

ガルデルのルーツは?





左の写真はバルセローナ近郊のサバデリ地方の新聞記事である。ガルデルのルーツを話題にしたコラムである。アルゼンチンではガルデルの生れはフランス,トゥールーズとされている。処が彼の芸能才能にはフランス文化の遺伝的影響が全く無い。一方のウルグアイは彼の少年期から郷土民謡を歌いパンパに放浪の挙句にパジャドール達と親交を結び詩や歌にたしなむ環境に育んでいる。またタクアレンボーのカウディージョ(地方政治のボス)であった彼の父親とされるカルロス・エスカジョーラ大佐はギター演奏と民謡を歌い,挙句の果てに本格的な劇場まで作りオペラを楽しんだ。だからガルデルは彼のそうした趣味や才能を受け継いでいる。当然,ウルグアイが“彼の出生地”はわが国だと強力に主張しているのは一理有ると思う。ではソルサル・クリォージョのルーツを探るとしよう。先ず彼の誕生地ウルグアイも牧場が広がり放牧された大群の牛とガウチョとフォルクロール音楽の世界がある。そして首都モンテビデオはブエノスアイレスにも負けずにタンゴも盛んである。そして隣国アルゼンチンと同様にヨーロッパ移民を多く受け入れた国である。ところがガルデルもその移民の血を引くガウチョの世界から誕生したといきなり言われると不釣合いな違和感に襲われるだろう。彼の出生地はウルグアイ北部タクアレンボーの農園であるが。先ずは祖先のルーツを追っていくとスペインのカタルーニャ地方バルセローナ出身の祖父フアン・エスカジーラに行き着く。その祖父フアンは1838年23歳の時,ウルグアイにやって来る。彼は大都市バルセローナ海岸地方西部20kmのサバデジェニンセス(サバデリ地方人)の石灰手工芸家一門エスカジョーラ家系に属していた。彼の職業はバルセローナで訓練された船大工であった。(マサッゲー街道のベントゥーラ店においてエスカジョーラ陶工達の物だった巨大なセラミック窯が最近発見されている。)偉大なタンゴ歌手カルロス・ガルデルは『スペイン,サバデリ出身のある一人のエスカジョーラ家系の孫』であった事になる。ずっと後年になるが...その血の繋がった祖国,家系由来の土地で彼は数年に亘る滞在を完璧に享受した上にそのバルセローナで凱旋を選ぶ。これらの理由によりカルリートスがいかにこの地への本能的に愛着を示していたのは理解できると言うものだ。それは百万倍も確信的な事実である。これがガルデルのルーツ先に到着した最終駅である。

注記:ガルデルの父とされるカルロス・エスカジョーラについては『ガルデルの出生の秘密』編を参照ください。


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2012年5月10日木曜日

蓄音機で聴くガルデル



ガルデルは“ビトローラ”で聞くのが最適だ!!


ビトローラ(ビクトローラ)とは古い蓄音機の事である。今更最先端のCDプレーヤーで最新録音を聞く時代に今更SPレコードなどを引っ張り出す事もあるまいと思うのだが...。ましてガルデルのSPレコード盤などは入手も聴くのも至極く困難な時代なってしまった今日この頃である。これらの録音を名機“クレデンザ”と名の付く古い蓄音機で聞くと“生のガルデル”の歌が迫って来るらしい。らしいと書くのは小生は残念ながら“クレデンザ”なる蓄音機の本物を見た事も聴いた事も無いからだ。レコード盤に蝋管の先に鉄針をそっとのせると朝顔に似た大きなラッパからかなりの音量の音楽や歌が聞こえてくる。と幼年の頃簡単な蓄音機を聴いた記憶がよみ返って来たが。ところで今,古い蓄音機と数枚のガルデルのレコードが手元にあるとしよう。しかし,この装置を聴くには然るべき神聖な準備と儀式がいる。先ず蓄音機のゼンマイをハンドルで巻き上げ,レコード針の調整をした上に。そこで慎重にレコードに針をそっとおとしてみると想像しうる喪失とひずみ音とスクラッチから聞こえてくるあの当時其のままの“ガルデル”が浮かび出てくる。「ガルデルは蓄音機で聴くべきだ」とただちに納得するだろう。それはアコースティック録音特有の自然その物に再生された音がかもし出されてくるからだ。ガルデル初期の年代の舞台からラサーノとドゥオで,また,古い屋敷のサグアンから登場する様に“ラ・コルドベセサ”,懐かしの“ミ・ティエーラ(我が故郷)”,と滑稽な“エル・サポ・イ・ラ・コマドレハ(蛙とイタチ)”の歌々。そしてギターのバチバチとした金属音を従えて強くひねりに満ちた独唱がラッパに映える。ある夏の宵のマテの一時に聞こえてくるラジオからのカルデルの快い歌声に思いを映えらせ...“ミ・ノーチェ・トリステ”,“マノ・ア・マノ”,“カミニート”を初めにアコースティックの響きが部屋に広がる...,その声は彼の栄光に一致するものだ。そして今でもガルデルが恰も生き帰り歌っている様な幻想の世界に引き込まれるだろう。

注記:サグアンとはブエノスの邸宅の玄間入り口の石たたみ通路に石作りの噴水があったりする。テレビのタンゴ番組の舞台の背景に出てくる。

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2012年5月6日日曜日

ガルデルとフアン・“トローラ”エスカジョーラ
















ガルデル,“メレヌード(メレーナと同じ意味,即ち長ろ髪)”とはガルデルが青年時代に呼ばれていた仇名であるが...彼がウルグアイからアバストに帰りトラベルソ一族の経営するフォンダ(酒場)オ‘ロンデマンに出入りし,そこで歌いはじめる。年代はタジー二商会で初録音した5年ほどの前になるが。トラベルソの末弟“シェリート”が殺人を侵す。まもなく彼が釈放されるとガルデルの手助けでウルグアイのタンボレースのアマンダ・エスカジーラの農園へ亡命する。1915年末キャバレーミロンガ“パレー・ド・グラス”の帰り道でガルデルは背後から銃弾を打ち込まれた事件は有名だが。彼は傷の回復の為に翌年早々パイサンドゥーとタクアレンボー境にケグイ川のエスタンシア・ビエハ“タンボーレス”地帯のコロニーに位置するエチェガライ農園に引き込む。その年の1916年にフアン・“トローラ”・エスカジョーラが発行する新聞“ペリオディコ・ガゥチェスコ(ガウチョ文化新聞)”にタクアレンボー郷土の有名人“片腕”アレホとフアン・エスカジョーラ当人宛にある“ペンネーム”による敬意の韻文詩が載せられた。


この詞は...
ギターを呼び寄せ,
マテ茶を手元に...
さえずる小鳥等とともに...

Marca de la estancia
vieja /古いエスタンシアの烙印
cayo parando la oleja /聞き耳を起てて気づいた
el taita no Manco Alejo ! /マンコ・アレホ様!
apriete esos cinco viejo /五人の老いぼれ押し付けて
que el gustazo que me ha
dao /俺にくれた気紛れ
no es para ser explicao /説明なんて野暮な
sino en un abrazo juerte /そうでなく強い抱きつき
ya que me ofrece la suerte /俺に幸運の約束を
el tenerlo a nuestro lao /我々の脇に居ておくれ

Lo vide no Juan Torora /フアン・トローラ旦那様あれを見ろよ
y he cumplido con su
encargo /貴兄の頼まれごとは果たした
mientras tomaba
un ”amargo” /“苦いもの”を飲んでいる間に
y hacia vibrar la ”sonora” /“鳴り物”が響き渡る方へ
le manda esa ave cantra /そのさえずり鳥を向こうに放つ

un abrazo tan estrecho /凄く真じかに肩寄せて
que la hara fruncir el
pecho /胸もと澄ましととのえ
p adir recto al Corazon /心にまっすぐ合い間める
y yo le envio un apreton /俺が届ける抱きしめを
que lo dejara
maltrecho … “/痛みを捨て去る...

その“ペンネーム”はエル・ガウチョ・メレヌード(長髪のガウチョ)”との著名サインが見とめられた。これは紛れも無いカルロス・ガルデルのペンネームであった。この詩に出てくる人物フアン“トローラ”エスカジョーラ・メンデスはアルゼンチンでは余り話題にされない。というより,彼はガルデルの従兄に当る為でガルデルフランス人説を主張する人々にとっては不都合なガルデルがウルグアイ生まれの証拠に結びつくからだ。
フアン・“トローラ”・エスカジョーラ・メンデス:彼はガウチョ詩人“エル・フォゴン”誌発刊協力者の他に自力で文芸新聞を発行していた。カンセラ・デル・ティエンポ(倦怠なる時)なる本に“アンデ・メ・ジェベ(歩けよ俺のジェペ)/ラ・ボルンター・デ・ミ・カバジョ・モーロ(俺のモーロ馬の意志)”の道程の韻文詩も発表している。この本はミーナ,パイサンドゥー,リベーラ,コンセプション・デ・ウルグアイ,モンテビデオ,ドゥラスノの各都市に滞在した時に書いた50余りの詩作が収録されている。ドゥラスノ滞在時には詩作のほかに先祖代々由来のブランカ派の政治活動にも首をのめり込ませている。ガルデルは1912年初録音した“ソス・ミ・ティラドール・プラテアオ”のレコード盤をこの従兄“トローラ”に進呈したらしい。カンセラ・デル・ティエンポに記載されている詩はガルデルが歌った“ソス・ミ・ティラドール・プラテアオ”であると一部の研究家や随筆家等が断定しているが,それはオロスコ作詞と同名“レトゥルコ”で詩の内容は違うと前項で説明してある。


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2012年5月4日金曜日

ガルデルの一世紀前の初録音曲 ( 2 )


ガルデルが初録音した“ソス・ミ・ティラドール・プラテアオ”の生れた経緯...

ガルデルが初録音した“ソス・ミ・ティラドール・プラティアオ”の元になった詩“レトゥルコ(反論)”を作った人物がオスカル・オロスコである。彼はウルグアイ国パイサンドゥー1878年6月6日生まれ,マルドナード地方に於ける女流詩人の母ドリア・カステリ・デ・オロスコの“エル・ロメリージョ”農園で育つ。モンテビデオの学校で修学優秀表彰を受けた。そこで老練な小説家カルロス・レイレス(1868~1938)に知り会い,彼と共にエキスポ・イベロアメリカのウルグアイ代表としてセビージャに派遣される。晩年はコロラド派(右翼)の政治活動に参加した。1937年6月26日モンテビデオにて没。彼のもう一つの業績は田園地方生活の印象をモチーフにしたクリオージョ韻文詩の作品を多く残している。その一つの“レトゥルコ(反論)”又は“チーナ・ミーア(俺の可愛い人)”はデリア・ロドリゲス・ソーサ嬢に宛てた恋文の一部であった。(彼女とは1903年8月30日に結婚式を挙げて居る)

この詩“レトゥルコ”は1900年1月15日に発刊された雑誌“エル・フォゴン”58号に記載された。このオリジナル詩の導入部はガルデルが省いてるので下記に再現する。

Estamos en el pintado /我々はそっくり
con la tropa en pastoreo , /放牧されている家畜と
porque el paso esta muy feo /それは道の余りにも酷い
y aqui me tiene embretao , /そして,ここは俺を柵にのなかに押し込めた,
Te escribo sobre el recao /伝言としてお前に託す
tan solo por noticiarte , /唯一つお前さんに知らせるため,
donde me encuentro ,y pa`hablarte /おれに出会う処で,そしてお前と語るため
de aquellas cosas queridas , /愛しき事ごとのあの出来事,
Pa’ que veas mi fino amor , /我が優美な愛をどうか理解しておくれ,
con todo esmero y primor /繊細と出来る限りの細心と共に
que he dejado alla perdidas /あの迷いにおちこみて
al tener que abandonarte . /お前を置き去りにしなければならず.” 

これは“レトゥルコ”の一節目だが,まだ後に二節目があり三節目から“ソス・ミ・ティラドール...”の詩節が始まる。後に二節あり全体で五節あるのだが長くなるので一部だけ紹介した。ガルデルはオロスコの詩の三節目を“エスティーロ”スタイルで彼風にアレンジを施して仕上げて初録音のデビュー曲にした。ガルデルはこの“ソス・ミ・ティラドール・プラテアード”の作者はフアン・“トローラ”・エスカジョーラだと名指していた。この人“トローラ”氏はガルデルの従兄弟に当る人物であるが“レトゥルコ”なる詩を1899年9月7日のエル・フォゴン誌に載せていた。その詩の一部を書いてみると...

El final ya lo presiento /最終的には今やその予感がする
si a tiempo no me descarto ; /そうだ時は逃れできない
como verlo , que me ensarto /それを見解る様な
si voy en su seguimiento /そうならば彼の後追い
pa’ cantar con sentimiento . /歌うためには悲嘆と共に

この節にも後に続く節にもミ・ティラドール...なる言葉は出てこない。この詩は偶然にも同じ題名だが内容は全く違うテーマである。ガルデルは何か勘違いしたのだろう。それにしてもガルデルにはウルグアイに親族を持っていたのだ。幼少からモンテビデオに住み10才頃養母ベルタにブエノスに連れて行かれたが少年になるとモンテビデオに独力で舞い戻っている。その後生地タクアレンボーに行きバジャドールとガウチョの仲間入りの末にエスティーロ,カンシオン,ビダリータなど土地の民謡を身に付けて歌いはじめる。この環境により“ソス・ミ・ティラドール・プラテアオ”は生まれベくして極自然に彼の口から歌と成りえたのだ。これは世間万人の知らないウルグアイ郷土に生きたガルデルの生い立ちの成果である。



左の写真はウルグアイ文芸誌“エル・フォゴン”の表紙である。フォゴンの由来はガウチョ達が夜張りに三々五々集まりパジャーダやガウチョ風民謡を歌たった憩いの場所に炊かれた“焚き火”らしい。この文芸誌は1895年にアルシデス・デ・マリアとオロスマン・モラトリオらが設立した。エリアス・レグレス,フアン・エスカジョーラ(*),マリティアーノ・レギサモン,ドミンゴ・ロンバルディの面々が協力参加している。主にラ・プラタ地域のガウチョ文化のジャンルを中心テーマに編集されている。(*)印を付けた人物は紛れもないガルデルの従兄弟“トローラ″エスカジーラ氏である。
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この歴史的一世紀前の録音した14曲の他の曲は昨年7月31日1~5曲
/8月1日6~10曲/8月3日11~14曲と紹介してありますのでそちらを参照ください。

2012年4月21日土曜日

ガルデルの一世紀前の初録音曲(1)




ここで時計の針を少し逆戻りさせるとしょう。今から丁度一世紀前にタイタニックの悲劇が起きた時も同年1912年4月の頃ブエノスアイレスの下町アバスト街に現われたある青年の存在に陽を当てるとする。彼の名が世間にそこそこに知れ渡り始め,売り出し歌手の仲間入りをしたばかりの目立たぬ存在であった“メレーナ(長い髪)”と呼ばれた一歌手ガルデル青年はタジーニ商会の開業開始真もない至極簡単かつ初歩的な録音スタジオへ友人のクリオージャ歌手のサウル・サリーナに連れて行かれた。そこで彼は歴史の幕開けの運命的一役を引き受ける境遇になる。

そして,『一人のメレーナ青年と彼のギター』は...
一人のメレーナ青年,歌手になる抱負と共に「歌に生きる本望は覚悟に値するか?」と自己に問い聞かせた彼は,モケット張りされた天井から垂れ下がる電球からの淡い光が差す分厚い絨毯に敷きおわれた小さな部屋のスタジオで録音合図を待つ間に彼の熱望を微笑に紛らわせながら,,,

彼の初めてとなるレコート録音の瞬間は...! 
「二度の繰り返しのチャンスはないと思う心がけで録音合図に最大限の注意を集中する様に」と直前に強く言い渡されていた。
手に汗が滲みシャツとジャケットをぬっとりさせる。
ネクタイを心待ち緩め,
ギターの弦のチューニングをとり,
三脚に取り付けられたマイク(実際は巨大なラッパ風の器械)の
前後に口を近付け少し身構える。
分厚いカーテンの後ろから録音技師が覗きだす。 
『いいか!今はじめるぞとばかりに合図の決定的瞬間に
“アオラ・シィ!(今だぞ,OK!)”と掛け声が放たれる』。
ガルデルは上体起立の上,目を閉じ,空気を一息吸い,
偉大なガウチョバジドール・スタイルの様にギターを右腕の下に硬く抑え持ち構え,
その旋律に合わせスタートする。

彼の口元から張りのある澄んだ男性的美声が一々の文言詩を唱え始め...
『彼の喉から詩が弾き飛ぶ!!!』...
Sos tirador plateao /お前さんは銀の幅広ベルト
que a mi chiripa sujeta , /俺の握るチリパゆえ
sos eje de mi carreta , /俺の牛車の軸,
sos tuses de mi tostao , /黒髪馬のたてがみ,
sos panuelo bordao /俺の刺繍ハンカチ
de un pobre gaucho cantor … /その哀れな歌い手ガウチョ...

“ソス・ティラドール・プラテアオ”の小曲ナンバーは三分後に完了した。この三分が音楽界の歴史の始まりの幕開け,そして最初の百年を迎える...これが彼ガルデルの史上最初のアクスティク録音の“歌”の小さな小さな物語。
注記:“ティラドール・プラテアオ”とはほんの一握りの“特権ガウチョ”が使用した銀製の飾り付きの豪華なバンド。ガルデルは常にこのハンドを愛用していた。“チリパ”とはガウチョの装飾チョキの様なもの。“トゥセス”とは馬のたてがみ。“トスタード(トスタオ)”とは焦げたと言う意味になるがこの場合は“褐色馬”を指している。 

  “長髪の新人”がサリーナスの好意で紹介されたタジーニ商会とのレコード録音契約の約束に無事達する。それは15曲歌唱の独占権を全額180ペソで取り決められた。しかしながらタジーニ氏は契約書にサインされた“カルロス・ガルデル”の著名は法律的には無効に成る事に気がつかぬままに月日が過ぎやがてタジーニ商会は『アトランタ』レーベルと同じ運命となり1917年に倒産した。

『誰もサインしていなかった契約書』
その書類は明らかに疑わしく,何らかの合法的効力を所有維持が実存しない人物(ガルデル姓)の名義であった。しかし,“ガルデル姓”は世の万人の承知の通りで不思議にも何人も彼の本姓を知らないのである。その疑わしい書類にガルデルは1912年4月2日から,1917年4月まで5年間のタジーニ商会との契約で『すでに録音した同じ曲のレコード化禁止』の条約はガルデルにとって至極不利な条件が含まれていたが彼はこの契約をしたすら守り,マックス・グルクスマーン商会での録音再開まで如何なるレーベルへのコード録音はしなかった。そこで再開したレコード録音は図らずともレパトリーの中に光彩を得た“ソス・ティラドール・プラテアオ”(原盤#18007B)が取り上げれていた。また,ガルデルは1933年ヨーロッパへ向けて出発する前に“エル・ティラドール・プラテアオ”(原盤#18902B)と改名した同曲を彼最後のラ・プラタ地域のフォルクロリコ(民謡曲)として録音した。
(注記):この項はガルデルのデビュー曲“ソス・ミ・ティラドール・プラテアオ”,マルセーロ・マルティーネスがガルデル・エス・コムに寄稿した文より構成した。

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2012年4月20日金曜日

カルデルのCDシリーズ:CD-3/16~19曲

⑯:アイ・アウローラ(アィ・あけぼの/女性の名前)/ヴルス・クリオージャ(ワルツ)/作曲:ガルデル-ラサーノ/作詞:フェリクス・スコラッティ・アルメダ/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年5月9日録音/原盤#18016A/この曲と“アィ,エレーナ”,前曲⑭“ラ・ジャゲシータ”はフェリクスとガルデル-ラサーノ等がチリー公演した時に知り得た民謡を基にモチーフにした曲々である。/

Ay Aurora ! , me has echado al abandono . /アィ,アウローラ!おれを見棄てて
lo que tanto y que tanto te he querido /それゆえに,それゆえにお前を愛す
Ay Aurora ! , me has echado al abandono . /アィ,アウローラ!おれをみすてて
lo , que tanto y que tanto te he querido /それゆえに,それゆえにお前を愛す
y tu negra traicion me echo el olvido /おまえの陰鬱な裏切りは忘却の彼方に
Ay Aurora ! si te amo todavia /アィ,アウローラ!そうだ,いまだに愛している
mas yo no puedo castigarla como debo esa falsia /
castigala , Senor con todo tu energia ! /懲らしめろ,すべて力任せに神様
que sufra mucho pero que nunca muera /大いに苦しめ,だが決して死なせるな
mas no pretendas recuperar el trono , /二度と王座への回復の試みさせるな
que tenias en mi pecho y lo has perdido /わが心をとらえていたが,それをも失った

⑰:デスデ・エル・アレーロ(ひさしから)/エスティーロ/作詞:ホセ・ラサーノ/作曲:カルロス・ガルデル/歌:ホセ・ラサーノソロ/1919年5月9日/原盤#18016B(“アィ,アウローラ”の裏面)/この曲も原盤リストには載ってない。

Estar muy cerca de ti /俺はお前の脇に居る
vengo a decirte la cuita . /悩み打ち明けにやってきた.
Que en esta duda parpita /この疑念がちらつくゆえ
y en la llanura feliz . /平坦な幸せに

Para cantarte naci /俺は生れる歌うため
en las flores del platio /白金の花々
tras bellezas de estio /晩夏美の彼方に
tanto del tuvo al donaire /あでやかなほどに
como esas flores del aire /あの風の花々のように
nacidas para amorio . /情事溜めに生れ来た.
Yo naci para cantar /俺は歌うために生れた
tus frescuras de capullo ; /つぼみ瑞々しき;
como el vibrante murmullo /感動の呟きのように
que te estoy viendo al pasar . /過ぎ去る姿を妄想した.

⑱:アイ・エレーナ/ヴルス・クリオージャ(ワルツ)/作者:ガルデル-ラサーノ(作曲:フェリクス・スコラッティ・アルメイダ)/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年5月9日録音/原盤#18017A/

Al pasar un dia por /ある日通り過ぎ去る
entre los Rosales /バラの花々の中
del hermoso cerro de /美しき丘の
Santa lucia /サンタルシア
habia un jilguero /しわ鳥がいた
encima una flor /花の上に
que ansioso cantaba /歌い熱望
sus cuitas de amor . /あいのくるしみに

Ay , Elena del alma , /アィ,命のエレーナ
por Dios te lo pido /お願い請う神様へ
me des una rosa , /バラを捧げたまえ,
me des clavel ! /クラヘルを捧げたまえ!
el pajaro canta , /鳥はさえずり
el brisa sonrie /そよ風は微笑む
y el arbol se mece /そして,器までゆれ動く
con suave armonia , /まろやかなハーモニー,
el campo despide , /野原は見送る,
fragante su aroma /かの香気香りよさ
y alla en el oriente /東にてのあそこに
se asoma la aurora . /オーロラが覗き来る

⑲:ケ・スエルテ・ラ・デル・イングレス(イギリス人の運命は)/エスティーロ/作者:ガルデル-ラサーノ/歌:カルロス・ガルデル/1919年5月9日録音/原盤#18017B/この曲も“エル・パンガレ”の原作者“ニャト”と呼ばれたウルグアイ詩人のアルシデス・デ・マリアに帰属する叙情詩をガルデルが掌握して自作として発表した。

Perdona por la manera /そんなわけで赦しておくれ
con que te canto mi cielo /おれの素敵な人に歌おう
hoy que buscando un consuelo , /今,慰めもとめ
me hallo en presente pueblera . /この村人の中に俺はいる
Dejame hablar , no quisiera /言わせておくれ,望みもないが
que te fueras a ofender , /お前を傷つけるなんて
esperate vas a ver me han calentao las orejas /期待しろよ俺のうわさ事
y es justo que tanta piezas /まさしく余りの代物に
yo te las haga saber . /俺が思い知らせよう
De juro que te has pensado /誓うぜお前を思い込む
tomarme pa rascadero /怒りがわれに襲いこむ
por cualquier majadero dejame nomas plantao . /誰彼も無理な戯けをやめてくれ


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2012年4月16日月曜日

ガルデルのCDシリーズ:CD-3/12~15曲目

⑫:ラ・パストーラ(羊飼い娘)/カンシオン/作者:サウル・サリーナス/歌:ガルデル-ラサーノ/1918年8月28日録音/原盤#18014A

Apena nace la aurora /あけぼのが生えたばかり
ya viene el alba del dia . /今日の朝空けがもうやってくる
Apena nace la aurora /あけぼのが生えたばかり
ya viene el alba del dia . /今日の朝空けがもうやってくる
Ha bajado una pastora /羊飼い娘が降りてきた
al pie de una serrania . /山から歩いて
Ella trae unos papeles /彼女はあるうわさ話を伴って
con la histria de su vida . /彼女の身の上物語とともに
y mientras los va leyendo /読んでいく内に
se va quedando dormida . /眠気に落ちこんみ

Era de esmalte y de piedra /エナメルと石のような
la casa donde habitaba , /住んでいた家は
era de esmarte y de piedra /エナメルと石のような
la casa donde habitaba ; /住んでいた家は
no la pintaran pinceles /筆で塗ったのでなく
tan linda como ella estaba . /彼女が余りにも美しくかった様に
Pobrecita la pastra /可哀想な羊飼い娘
que ha fallecido en los campos . /野原で命落とし
Pobrecita la pastora /可哀想な羊飼い娘
que ha fallecido en los campos . /野原で命落とし
Que Dios le conceda gloria /神よ与えたまえ至福を
por haber sufrido tanto . /苦しみ多き故
Que Dios le conceda gloria . /神よ与えたまえ至福を
por haber sufrido tanto . /苦しみ多き故

⑬:スエナ・ギターラ・ケリーダ(いとしのギターは響く)/エスティーロ/作者不明(ガルデル-ラサーノ)/歌:カルロス・ガルデル/1919年5月29日録音/原盤#18014B/
当時この曲を歌ったディエゴ・ムニージャは彼の作品だと主張するが。この原盤のラベルには作者はホセ・ラサーノ-カルロス・ガルデルとある。あの時代において別の演唱が存在し,また違うメロディーでも歌われている。それらは“ア・ミ・ギターラ(我がギター)”か“ギターラ・ケリーダ(いとしのギター)”と呼ばれたが,いずれも似通った内容の唄であった。この曲“スエナ・ギターラ・ケリーダ”を歌うガルデルの演唱はまさに際立っている。 

Suena guitarra querida . /いとしのギターは響く
que tu acento soberano /それはお前のこの上ない見事さ
repercute por el llano /鳴り響け平原に
como un ay …! de mi alma herida … /嘆きの如く...!わが傷ついた魂...
suena , suena que es mi vida , /響け,響け,それがわが命,
flor marchita y sin esencia /香りなく色あせた花
busco en la muerte querencia … /愛着の破滅に求め...
Nada en el mundo me halaga /世は何もわれ満足させぬ
porque siento que se apaga … /何故か消えうせる如き...
porque siento que se apaga … /何故か消えうせる如き...
el candil de mi existencia . /われの生き方の炎

Cuantas veces carinosa /幾たびの慈しみ
mi patrona te templo , /われの恩人は調弦する
y a sus cuerdas arrimo /そしてかの弦は寄りかかる
sus frescos labios de rosa . /かの生き生きとしたバラの言葉
Como diciendote Hermosa /魅惑あふれと投げかける様に
de mi gaucho companera , /わが道連れのガウチャ
te saludo placentera /清々しい挨拶をお前に
y una dulce Vidalita … /そして甘いビダリータ...
Dejo a mi alma mas blandita /わが安らぎの魂をたくそう
dejo a mi alma mas blandita /わが安らぎの魂をたくそう
注記:ビダリータとはアルゼンチンの哀愁帯びた地方民謡である。

⑭:ラ・ジャゲシータ(あばずれ娘,子雌馬)/クエッカ(チリー民謡)/作者:ガルデル-ラサーノ(作曲:フェリクス・スコラッティ・アルメイダ)/歌:ガルデル-ラサーノ/1919年5月9日録音/原盤#18015A/

Yo tengo una yaguecita /おれはあばずれ娘を抱えてる
muy buena pa’tirar , /引っ張る為には幸都合,
que cuando la ato a la vara , /棒を引く時,
no la puedo hacer andar . /動かす事もまま成らない.

Ah ,yegua , ah , manca , /アィ,暴れ雌馬,アィ,駄馬
ah yegua rabona y flaca ; /アィ,痩せで寸づまりの暴れ雌馬,
velay con la yeguecita . /あばずれ娘と共にベライ.
Fiera , petisa y bellaca . /いたすらっこ,小柄で御しにくく.
Yo tengo una yeguecita /おれはあばずれ娘を抱えてる
redonda como una bola ; /まん丸でボールのよう;
tiene una peladuria /ひとつの傷跡があり
desde la cruz a la cola . /尾にかけて十文字.

Yo se acabaron las trillas /痛めつけられたのは知っている
y podemos ir dentrando , /それで中に入ろう,
y remoler hasta cuando /そして何時までも粉引きこなす
digan basta las chiquillas . /これまでと言えよ可愛い子よ ,

⑮:コモ・キエレ・ラ・マードレ・ア・スス・イホス(母がこども達を慈しむにように)/ヴルス・クリオージャ(ワルツ)/作者:ホセ・ベティノティ/歌:カルロス・ガルデル/1919年5月9日録音/原盤#18015B/

Como quiere la madre a sus hijos /母がこども達を慈しむように
con la fe sacrasanta del alma , /サクラサンタ(神聖)なる魂とともに,
yo te amo , aunque sea un pecado , /あなたを愛する,過ちになるとも,
con todo el carino de todo mis ansias ; /わがあらゆる切望的なすべて丹精込めて;
yo te siento alli en mis venas , /わが衝動にあなたを心とらえ,
y en mi mente te llevo grabada /そして,わが脳裏に刻まれる
como queda grabado el recuerdo /思い出に刻まれる様にとどまる
del ser mas querido , que nunca se aparta , /親愛より相応しい,決して離れがたく,

Es en vano , yo soy tu cautivo /それは虚しくも,われは貴女のとりこ
desde cuando escuche tus palabras , /貴女の呟きことばを耳にした時から,
que de noche no duermo y pedezco , /疲れ果て,そして眠れぬ夜
pensando en la gloria de alguna esperanza . /考え果てき栄光を望みいだき.
yo no se que misterio insondable ,/不可解な神秘を私は知る事なく,
encontre en tu divina mirada , /あなたの神聖なるまなざしに見とどけ,
que no puedo olvidarte un momento , /一時もあなたを忘れ事なく,
que me hallo muy triste , que vivo sin calma , /ふかき哀れに気づき,安らぎもなき暮らしを,



2012年4月7日土曜日

ガルデルのCDシリーズ:CD-3/11曲目


⑪:ミ・マードレ(我が母)/別題:ア・ミ・マドレ(コン・ロス・アミーゴス/我が母へと友人達)/カンシオン/作者:ペドロ・パラシォス“アルマフェルテ”(強靱な根性)-カルロス・ガルデル/歌:カルロス・ガルデル/1918828日録音/レコード番号#18013B/この曲はアンドレス・セペダの同名曲(CD111曲目)とは別の曲になる。また,エクトル・ロレンソ・ルシィー刊行,オルランド・デル・グレコ著作“カルロス・ガルデルの歌曲集とその作者達”によるとペドロ・ボニファシォ・パラシオスは作者の一人だと言うのはガルデルの見解だと記されているが,史実は摩訶不思議極まりなく,これは間違いだと言う。このレコードが発売された当時は創作作品を版権登録できる作曲,作詞家を保護する協会的組織は存在せず,記載されたデータは時として間違いをも活字になり後世に語り継がれた。ここでトードタンゴ・コムにリカルド・ガルシア・プラジャ氏か寄稿した“ア・ミ・マドレの真実の作者”から謎を解くとしよう。『あの当時ポピュラー雑誌の“エル・アルマ・ケ・カンタ(魂が歌う)”に“ミ・マドーレ”の歌詞が最新流行のテーマとして,また創作者名がカルロス・ガルデルとホセ・ラサーノ及び作詞者としてバラシオス“アルマフェルテ”の名が編纂記載された。しかし,人は正直であろうとするのは必然的で,この詞は“アルマフェルテ”に帰属するものではなく,詩作は彼には無関係であると主張する人物がいた。それは詩人エドアルド・モレーノで,彼は真実をフアン・ホセ・デ・ソイサ・レィイリー記者と会話した時に確信する。記者はラ・プラタのパラシオスの家でインタビューした時に彼は“かの創作”は自分の作品では無いと正直に否定したと評言したと言う。一方,タンゴ研究家リカルド・オストゥニ氏の著作“カルロス・ガルデルとアルマフェルテ達はコンピでは無かった”の中でパラシオスの詩的な特徴の本質的学説を行い。そして,ロブレス著名のある“ウルティモ・アべス(*)・デ・ウン・バルド(流れ者最後のバルド)”なる詩に脚光を当て,この詞句はカンシオン“ア・ミ・マドレ”と全く同一の詞である事実を発見した。“アルマフェルテ”はロブレスのペンネームを名乗った事は決して無く,いつも隋一名目上のあだ名を使っていたという。しかし,この時点ではロブレスたる人物のデータは残念な事に明らかに不足である。だが,前提のオストゥニ氏がナショナル図書館で入手した189611月発刊の雑誌“ビリック・バラック”の提供コピーが手元にあるが,それに記載された詩句に我々は好奇心の虫に刺されたようだ。最初に結論づけたのは創作時に関する事項で,この詞は1896年に発表されていた事実とア・ミ・マドレと同曲と思われる詞がガルデルにより歌われた時期より十分過去(20年以上前)になり,この人ロブレスはペンネームではなく紛れも無い生身の人間である可能性が出て来た訳だ。今日現在(2010年)ベネゼーラ文学のページをインターネットで捜索したところ,更に未知のベールが剥がされた。我々が知りえたのは作者の姓名セバスチャン・アルフレッド・ロブレス,ベネゼーラ生まれ,記者,作家,詩人で1885年に初版した“ラ・フラテルニダー・リテラリア(文芸の同胞)”新聞のディレクター及び共同創立者。後日即に我々が別に発見したデータによると(この証拠は事実と認めるのに充分だ),スペイン国立図書館にて同じ詩と著名を“ラ・エスパニャ・モデルノ(モダンスペイン)”誌の1893年発刊号に見い出したのである。それは撒きれもなく“ビリック・バラック”誌よりは3年前の事。結論としてエドアルド・モレーノの信念とリカルド・オストゥニの推測と我々の好奇心がめでたく,この章の最終に着きかけたが未だ不完全である。“ア・ミ・マドレ”の真の作者名と国籍を見つけ出したが,セバスティアン・アルフレッド・ロブレスの人生と経歴上の詳しい理解への対決がまだ残っている。』

注記:これらのデータはトードタンゴ・コムを参考にした文章である。しかし,小生の頭の隅には些細な疑問が湧き出てくるのを抑える事ができない。かの作品がカルデルと“アルマフェルテ”の共同創作では無かったのならば,如何なる人物とコンビを組んだのか。カルデルはロブレス作と全く同じ詩句を如何なる方法で発見してレパトリーに取り入れたのだろうか?。これはもう一つの大きな謎である。それともガルデルは1896年発刊の雑誌“ビリック・バラック”を読んでいてロブレスの原作を知っていた可能性も想像できるが,それは情報収集の困難な時代の当時においてガルデルが日ごろから自分が歌う作品の発掘に非常に長けていた証拠にもなる。

(*)原文にはayes(こんな言葉はない)とあるがaves(鳥,流れ者)の間違いと思われる。(**)Bardo(バルド):トロバドール

Con los amigos que el oro me produjo /友達とともに俺が齎した富
las horas con afan pasaba yo /時と共に俺は切望を克服する
y de mi bolsa al poderoso influjo /俺の財産は強力に影響する
todos gozaban de esplendente lujo /贅沢豪奢を皆味わい
pero mi madre , no ! /だが我が母は,違う!

Pobre madre !... Yo de ella me olvidaba /可哀想な母!...彼女を俺は忘れていた
cuando en brazos del vicio me dormi /悪習の威力に怠る時
un inmenso cortejo me rodeaba /酷い媚びへつらいに俺は取巻かれていた
de mis afectos a nadie le faltaba /わが情愛は誰にも不足くなく
pero a mi madre …si… /だが我が母には...断じて..
Hoy maribundo , el lagrimas deshecho ! /俗世間あり,くるしみ荒れて
exclamo con dolor , todo acabo , /痛みと嘆き,すべては終わる
al ver que gime mi angustiado pecho /わが心情苦しみ苦悶悟り
todo se alejan de mi pobre pecho /わが哀れな心
Pero mi madre , no ! /だが我が母は,ちがう!
Y cerca ya del ultimo suspiro /それにもはや最後の嘆息に迫り
todo se alejan por lo que hay en mi /皆は俺に存在するものから離れ
la vista en torno de mi lecho giro /わが転落巡りを一瞥
en mi triste derredor a nadie miro /わが敗北の悲しみに何人も目もくれず
Pero a mi madre … si … /だが我が母は...いや違う...

2012年4月5日木曜日

ガルデルのCDシリーズ:CD-3/10曲目

⑩:アィ,アィ,アィ /カンシオン/作者:オスマン・ペレス・フレイレ(チリー人)/歌:ガルデル-ラサーノ/1918年8月28日録音/レコード番号#18013A/ガルデルはオスマン・ペレスとは1913年の夏に“アルメノンビジェ”のマネージャ,ドン・パンチョ・タウレルの紹介により彼と知り合い,そこで彼のピアノ伴奏でガルデルは“アィ,アィ,アィ”を歌う。そして,ペレスはガルデルの歌唱を指導した極少ない師匠として,この曲の極意を伝授している。だが,この録音においてガルデルはペレス作の“コモ・アゴニサ・ラ・フロール(花が萎れるように)”の様に自前のスタイルにアレンジをしている。内容はセレナータ(セレナード)で恋人の住む家の窓際かその下に近ずき切なく愛を打ち明ける歌なのだが,この歌の場合は空しくも彼女の心をとらえられずして,失恋の憂き目に終ったらしい。

Si alguna vez en tu pecho /お前の胸にもしこれまでに
Ay , ay , ay , /あぁ(嘆き),あぁ,あぁ,
mi carino no lo abrigas .. /俺の慈しみが報えない...
Si alguna vez en tu pecho /お前の胸にもしこれまでに
Ay , ay , ay , /あぁ,あぁ,あぁ,
mi carino no lo abrigas . /俺の慈しみが報えない...
Enganalo como a un nino , /おさな子の如き惑わせろ
pero nunca se lo digas . /しかし決して他言しないこと
Enganalo como a un nino /おさな子の如き惑わせろ
ay , ay , ay , /あぁ,ふぁ,ふぁ,
pero nunca se lo digas . /しかし決して他言しないこと
El amor mio se muere , /かのわが愛は衰え果てて
Ay…. ay… ay… /あぁ,あぁ,あぁ,
y se me muere de frio . /そして寒さに衰え
El amor mio se muere , /かのわが愛は衰え果てて
Ay… ay… ay… /あぁ,あぁ,あぁ,
y se me muere de frio . /そして寒さに衰え
Porque en tu pecho de piedra , /なぜかってお前の心は石の如く
tu no quieres darle abrigo . /お前は温き保護の捧げを拒絶する,
Sone que el fuego se helaba /炎は冷えつき夢に見る
Ay , ay , ay , /あぁ,あぁ,あぁ,
y que la nieve te ardia . /そして雪はお前に緊伯する
Sone que el fuego se helaba /炎は冷えつき夢に見る
Ay , ay , ay , /あぁ,あぁ,あぁ,
y que la nieve te ardia /そして雪はお前に繋伯する
y por sonar imposibre , /そして叶わぬな夢にみる
sone que tu me querias /お前が俺を愛する夢に見る
y por sonar imposibre , /そして叶わぬ夢に見る
Ay, ay , ay . /あぁ,あぁ,あぁ,
sone que tu me querias . /お前が愛する夢にみる



注記:オスマン・ペレス・フレイレ/ピアニスト,作曲家/1877年1月29日生~1930年4月2日にスペインで没。彼は19世紀末から20世紀初期に活躍したアンデス音楽家。彼の母方の祖父はチリー大統領を勤めたラモン・フレイレ将軍である。その娘メルセデスは医者のコメリオ・ペレス・ブストスと結婚した。母親メルセデスは音楽趣味として息子オスマンの教育に強く影響させた。1891年に家族はオスマンを連れて内乱状態のチリーを脱出してメンドサに移住した。彼は博学者であり,また音楽的インスピレーションは万能かつ幅広く伝統血統のフォークロア歌集を創作して活動家でもあった。またタンゴも創作している。ひとつの例として,彼の活動は上流階級全般はタンゴを侮辱していなかった明白な証拠としての彼のテキスト的に裏ずけラれる。オスマン・ペレスはタンゴの演奏と音符解釈の容易にする為の独自なシステムを考案した。あの時代では彼のピアニスト家系には相当な悪理解を受けていたが,これは微弱な垂直線(16分音符)の対称的にコンバスの連結を中間に挿入するに成り立っていた。しかしながら,彼の並外れた重大さはインターナショナル的反響に由来するタイトル“アィ,アィ,アィ,”にいつも結ばれるが,このメロディーの詞句は民衆に強く印象付け,多くのアティスト達のインスピレーションへも影響さえ及ぼした。例としては同胞のビクトル・ハラ作詞“エル・シガリート(タバコ)”とビオレタ・パーラの“ケ・エ・サカード・コン・ケレールテ(愛するのはやめた)”やメキヒコ人キリーノ・メンドサの“シエリート・リンド(美しい空)”である。アルゼンチンに長く滞在時ウルグアイ娘マリア・アデラ・デ・ララと結婚して娘二人が誕生。その後1914年11月の事だが,彼の娘達リリィとメルセデスは幼少の頃“モデルノ”劇場にてカルデル-ラサーノ達の向こうを張り,父親オスマンのピアノ伴奏により公演を共にした。そして,彼女達は卓越した二重唱を組んでブエノスアイレスとサンティアゴの各高貴なサロンの数えきれないほど夜間興行で観衆を魅力の虜にさせた。また,レコードも録音している。オスマン・ペレスは後にスペインに移住。そこでも熱心に音楽界で活躍したが若くして1930年に他界した。