2011年9月12日月曜日

ガルデル,二度目の地方興行に出る( 3 )



マルティーノのトリオからの脱落した事は,彼等の計画の全て描き崩れ行くように感じられる公算が高かった。リンコルンにてガルデルとラサーノはまたまた新しい幻滅に苦しむ。バー“サン・マルティン”で歌っていた時。「帽子を差し出しながらコインを入れて貰う」,そんな行為に飽きた様なガルデルが虚脱にいわく-オリエンタルよ!俺はもう歌わない-と呟いた。とは云え,ガルデルは考え直した挙句に旅の行き先を改めて,幾つかの鉄道支線を使い(場合により貨物列車に忍び込んだりして,放浪者の様に旅を続けながら)前に進む事にした。彼等若い歌手達は偶然の旅人の様に時には徒歩で,地方の冒険的なルートを辿り行った。一方,一人の若いアーティスト,イグナシオ・コルシーニも国内巡業の途中で,彼は新婚早々の身で新妻を同伴していたが。その彼等二人はミゲル・カサーノ馬術サーカスで歌手と女優として働いていたが独立した後,エントレ・リオス地方を巡業した。今はブエノスアイレス州南部のオリバリア,クルス・アルタ,バイア・ブランカの各地を回り,この最後の港町の酒場で出演中だった。そこへ幸運を試す為にやって来たガルデルとラサーノ等と知りあう(918日の事)。彼等の似たような年齢と野心の為に即座にお互いに好意を抱く。その上,彼等はバイア・ブランカ滞在中の間,おしゃべりや歌い合いなど(ガルデルが持ち歌の“エル・モーロ”を披露すると,コルシーニは得意な“エル・クラシコ(伝統)”にて応戦した)で幾日も一緒に行動を共にして過ごした。(彼等は数年後に再びブエノスアイレスで巡り会い更に親交を深めるが,二人は歌手として堅固とした地位を得ていた)。ここでガルデル-ラサーノはソペスとカルロス映画館で公演できた。では彼等の先行き運命を辿る事に戻るが...さて彼等は再びラ・パンパ州ヘネラル・ピコへと500kmほどの行程を北へ向かう長旅に出る。目指すは更に北西に位置した土地のウインカ・レナンコへ,疲労と失望との判然としない感情に打ち呑めされ気力も落ちながら数々の集落を通り過ぎ,目に映るのは鉄道沿線沿いにある多少の貧しいただずまいの家々ばかり,駅の近辺だけにへばり付く様な雑貨商店や酒場,唯広いサッカー場,警察と書かれた看板掲げた小屋風の建物,部落の境に鎮座している牧場主らしきの大邸宅。その他は広大な平原,これがパンパの風景(この景色を当時の歌手マランビオ・カタンもガルデルと同じ頃に見届けている)。ウインカ・レナンコはコルドバ州の南果て,地図にも載らない様な小さな集落といえる町(当時)。ここでバイオリ二ストのディエゴ・コルデーロと知り合う。彼はガルデル-ラサーノの二人の汚れ疲れた空腹姿に哀れみの念に駆られ,歌う場所を獲得してきた。そこは鉄道駅前の小さなホテル。その上に隣町のカニャダ・ベルデ・ホテルの持ち主家族と連絡をとり,ガルデル達等が歌公演できる様取り計る好意をしたが。彼等がそこへ出向いた時には運悪く冬の激しい風雨に見舞われた為に3日間無駄日を費やしても歌公演は水に流れてしまう始末。疲労と意気消沈した彼等はすごすごと首都ブエノスアイレスに帰る決意をする。出て来た時より貧しくなり下がり果てた彼等二人の旅は空しく終末を迎えた。彼等の歌旅は経済的な収穫を得られなかったとはいえ,代償として音楽的見解点で途轍もない収益を得ていた。それは進んで練習,練習に励み繰り返し努力の末の結果として得た歌の技巧の上達は目を見張る程の成果であった。10月のブエノスアイレスはハカランダの赤紫色の花が満開期で春の真最中に帰えったガルデルとラサーノは当てのない再会の約束をしながら夫々の棲家であるバリオ(街)へと戻っていった。ところで,この時点で彼等二人が夢にも想像できなかった「栄光ある成功」が足元に近づいていた。それは1914年の新年早々の“アルメノンビジェ”デビューの栄冠である...
当ブログ7月27、28日の“アルメノンビジェの出来事”(1),(2)の記載を参照ください』

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2011年9月10日土曜日

ガルデル,二度目の地方興行に出る(2 )

彼等達は度重なる不運に失望の念に駆られながらも,次の目的地フニンで簡単な興行に出演した後にメルセデスにやってくる。そこの芸術の中心的活動の場であるエスパニョール劇場には出演出来ず,裁判所の前のカジェ・2526町角にあったコンフェテリーア・サンマルティンで4日間の夜通して歌う事かできたが,興行は蓄音機男(?)の演劇によるショーの出し物と共演であった。新聞記事による賞賛にも係わらず満足いく報酬の支払いを得られず終わる。

(下の広告はガルデル自身が保管していた物らしい)
エル・シグロ紙の1913826日付記事によると,トリオ演唱につきカルロスなずけて“カルロス・ガルデル”と芸名で名乗った事について触れている。各紙もこの“芸名”を繰り返し呼ぶようになった。9月の初め一行はチャカブコへ,95日にその町のサロン・モデルノにてトリオは“数多数の選ばれた観衆に迎えられて歌う”とエル・メントール紙は書いている。翌日はサロン・パリで歌い,南西方向の数キロ離れたアルベルティーへと移動した。ここで起こった事は既に報道界の知るところなった。小さな繁栄した町に自慢すべき出来事の日,「それはメルセデスと同じく」旅程にて好転実現したこと。910日,ローカル紙ニュースによると『若きパスクァル・エスキロスが経営するコンフィテリーア“エル・セーロ”で昨夜の公開集会でカルロス・ガルデル,フランシスコ・マルティーノ,ホセ・ラサーノらの若きアチィースト達が紹介され,彼達は発展する評判な新しいスタイルの見事な,上品な言葉,格言と民族風ティピカのクリオージョ歌唱の演唱を参列者達は没頭し聴き入り,魅力的な興行の終わりに当然の惜しみない多大な拍手が送られた』と載る。9月半ばブラガードに到着する。そこのフランス劇場では比較的上首尾の出演のうちに新聞記者及びタンゴ作者のエンリケ・マローニと親交を深める(ガルデルは後年彼の作品を録音している)。次の到着地は“ロス・トルドス”と言う名で知られたヘネラル・ビアモンテ。そこで遭遇した事は保守党知事マルコルンによる公金使い込み公判事件により政治的混乱の沸き返に遭遇した。その上,挙句果てに暴風雨の被害に見舞われていた。彼等無名のトリオの活躍する場所を見出す事は不可能であった。悪い事は続くもので,マルティーノは度重なる不運に耐えられず,疲労の挙句に病気に成ってしまいトリオを離れていく。そして,ガルデルとラサーノ達残った二人は検討熟考した上でラ・パンパ州への方向に向かう巡業を続行する決意をする。

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2011年9月9日金曜日

ガルデル,二度目の地方興行に出る(1 )

1913年6月頃:やがて、サウル・サリーナス(チリー生まれでクージョ地方の歌い手)の参加により、カルロス・ガルデル、ホセ・ラサーノ、フランシスコ・マルティーノらでクァルテートを組み巡業に出る。先ずブエノスアイレス州の近郊のパラナー川沿に北西へ行く。カルロス達はサン・ニコラスの第五歩兵編隊で出演出来る可能な交渉があったのだが。その他,政治活動の会合やクラブの扉を叩き,そこで歌わせてもらう。そんな不確実な可能性を求める旅。また前回で知った土地の南西へ鉄道の果てまで行く事を予定にする。610日にブエノスから約70kmほどのサラテに着き,インデペンデンシア通りのバー・ベインテシンコ(25)で歌い,夜はディシヌエベ・デ・マルソ(319日通り)とイツサインゴ通りの街角のエル・グロボ・ホテルに出演。しかし,報酬に結びつかず涙を呑まされる。このリトラル(バラナー川沿岸)地方は見かけの商売繁栄とは裏腹に,このグループを取り急ぎ受け入れる意図も無かったようだ。その上,悪い事に早くもサリーナスがグループから抜けたいと言い出した。兎も角,状況は次の町で良く成ると,彼を説得した上にサン・ペドロまで行く。ここは小さな町で幾つかのダンスホールがあり,フランシスコ・カナロ,ロベルト・フィルポ,“エル・レンゴ”(不平屋)ことサンボニーニ等が最初にクアルテートを組織して活躍しており,10年代に栄えたラ・プエラタ・デ・フィエーロとかマリア・ソーサが存在していた。そのサン・ペドロでは彼等のグループは二人の地元政治家メンデサバルとペラーソォの助けでそこの映画館でデビューが果たせた。その後,ソシアルクラブにも出演できた。しかしながら,この巡業の初めての良い成果にも拘らず,サリーナスはこのグループを離れてブエノスへ帰ってしまう。その理由ははっきりせず,全くの謎であるが,サリーナス脱退の理屈は多分,この試されたタレントのグループがふさわしい芸能的レベルを遂げるに至ら無かった為だろうと思われた。忘れてはならない事は,サリーナスは四人の中で最も経験豊なアティーストである。ともあれ,このクアルテートは最も経験豊な一員を失ったが。それでも,残り三人はそれにめげず巡業行程を先に進む決意をした。カルロス達の一行はサン・ペドロとサン・ニコラス(*)の途中で714日のフランス人移民共同体が祝う「バスティージャ』記念祭のエベントに驚かされなからも,彼等は翌日サン・ニコラスの祭りの騒然と沸きあがる街中に辿り着いた。兎も角,彼等のトリオの活動は716日のエル・ノティシエーロ(ニュース)紙に若いアティースト達のカルロス・ガルデス(当時は養母の姓),フランシスコ・マルティーノ,ホセ・ラサーノのトリオ演唱活動が記載され始め,61719日の3日間にはサン・二コラスのソシアルクラブで歌う。また,予定していた第五歩兵編隊駐屯所でも歌う事ができた。これらの公演はまずまずの満足に値する盛況な拍手喝采を受けた。720日朝はプレガミーノへ向かうが,前提の政治家の推薦があったにも拘らず,歌う契約には結べつける事にならず,次の2千人余りの小都市ロハの町でも幸運に恵まれてはいなかった。













810日,ここの町の“ソシアルクラブ”に出演する。当日の“エル・ナショナル”紙に「この様な純粋なクリオージョ音楽コンサートの演奏者は我々の土地に巡業に来るチャンスは余り無いが,ガルデス,マルティーノ,ラサーノ各氏は我々祖国の好む楽器を奏でブロビンシァーノ(田舎)風音楽のエスティーロ,ビダリーダスなどを歌い,コンサートに出席した数少ないクリオージォ観客の心に深く浸み込むほど,聴感に訴えて魅力的に堪能させた」とコメント記事を載る。このデビューの後にラ・ペルラ映画館にて数回の公演。その上,クラブ・プログレッソとコロン劇場に出演した。
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2011年9月5日月曜日

ガルデル,初めて地方興行に出る(2)


サウル・サリーナスがガルデルのグループに参加して?
そのサウル・サリーナスはクリーオジョ音楽にメキシカン・デュエット唱法のやり方を適応させるアイデアを練り上げていた。全体のルールの上に編曲発声が成り立つには“第一声”が主メロデーを保ち,一人目の“第二声”はそれに平行して同じメロディーを歌い,その上に最初の第三低音も受け持ち,それに従い二人目の“第三声”が低音へ音程を整える。歌の演唱は主に“第一声”の声に委ねられ,一方で“第二声”はハモーニーを支える役目を受け持つ。グループの歌手達全員がよい音感を持っていれば,この歌フォームは容易に映える。サウル・サリーナスはガルデル,マルティーノ,ラサーノ達に,この唱法を彼の主導で“テルセト(トリオ)”を組織するのを提案したところ,“エル・モローチョ”ガルデルはこの計画をすんなりと興味深く受け入れた。そこで“トリオ”を4人で練習に取り組むが,彼等の心ともない音楽知識では少しも容易ではなく,結果は必ずしも旨く行かなかった。しかしながら,練習の甲斐も実りクァルテット(実際はデュエット二組)は響き良くなり,プロの確かなニュアンスを備え始めていた。しかし,このためしごとは首尾良くサリーナスの思い道理に成功したのかは知る由もない。何故か?それはこの試しはレコードなどの記録が無いからだ。ともかく,彼等4人はブエノスアイレス州の内陸地の小都市へ新らたに幸運を試す巡業へと出かけたのである。

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2011年9月3日土曜日

ガルデル,初めて地方興行に出る(1 )

ガルデル物語のテーマは芸能活動を追うのも一つで,特に有名になる前の下積み時代の活動はあまり世に知られて居ないと思う。そこでできるだけ可能な限り追従していくつもりである。
1913年初めの頃,タジーニ商会のコロンビアレーベルへのレコード録音した後の事になるが...

ガルデルとラサーノ出会い,その後...
礼儀作法としてカルロスはラサーノの“縄張り”へ再び歌い合戦果たすために訪問する。この二回目の出会いは“エル・オリエンタリート(ラサーノ)”の棲家,バルバネ―ラとモンーセラー街境にあるエントレリオとモレーノ通りにあるボリーチェ“エル・ペラード”で行なわれた。この“返り果し合い”は両方の盛大なグループの傍聴人達を再び招集する事になった。ガルデルは若い歌手フランシスコ・“パチォ”・マルティーノを伴い現われ,会合は前回にも劣らず盛況のうちに常連の一人エンリケ・ファルビの家に場所を変えて続行された。

ここでの新しい成果はカルデル(当時はガルデスの姓)と“パチョ”マルティーノとの二重唱の結成誕生であった。ブエノスアイレス市内から近郊へ冒険的な歌巡業に出る計画をたてる。この巡業は余り期待出きる明るい兆しが見えない一抹の不安が掠めたが,彼等はまだ安定した定職を獲得してはいず,この様な冒険も試みる必要に迫られていた。そこで開通したばかりの西部方面行きの鉄道沿線のチリビコイか多分メルセデスへそしてアルベルティー,ブラガード,ヌエベ・デ・フリオの各田舎町へ向かう。しかしながら,無名の彼等を受け入れ歌わせてくれる興行映画館も劇場も無く,空しくブエノスへ戻る覚悟をきめた矢先にグアナコという町でほんの微かな微笑のウインクを差し向けた人が現われる。その人はクリマコ・スカラと呼び,この町のドリースダレーとロカ通り角に小さなバーを経営。ガルデル達はそこで熱い歌演技を興じ,まずまずの満足をえる。この受け入れは彼がルデルには良き忘れ難き思い出となり,3,年後に再び訪れ興行することになる。彼達は次に商業で栄えるヘネラルピコへと向かい,そこでも彼等を受け入れてくれる興行主を見つけられず落胆の内に首都に帰還する。一方の“オリエンタリート”ことラサーノは彼等のグループに参加しなかった事を後悔の念に悩まされていた。カンティーナ“チャンタ・クアトロ”で三人は合同して未来の親交を深める約束をする。その後、“カサ・スイサ”の魅力的な慈善興行を催しで拍手の余韻が醒めないうちにと新たに地方興行の冒険を模索すべく決心する。この興行にはマルティーノとラサーノも旧知の仲のクジャーノ,サウル・サリーナスも臨席していたが,彼サウルも“エル・モローチョ”のグループ参加に興味深々であった。

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