2011年7月31日日曜日

ガルデルの全レコードCD化される(CD-1;1~5曲目)

ガルデルの全録音されたレコードが50枚のCDとして発売されて,動画としてyoutubeにて観られる。そこで99年前に録音された彼の最初になる,一枚目のCDから詞の内容を要約してみた。
このCDは昨年10月に歴史的最初のSP盤として簡単に紹介したが,ガルデルがタンゴ歌手として有名になる以前の隠されたフォルクローレの世界に生きた彼の姿を覗かせてくれる。これは彼のルーツを定める一抹の光の行方さえもが見えてくる。即ち,ガルデルが生きた少年期から青年までの,この世界そのものが彼の模索した知らざれる,誕生地ウルグアイへと行き着くのである。

CD-1(1~5曲目)

①:ソス・ミ・ティラドール・プラテアード(お前さんは俺の銀ベルト)/エスティーロwww.youtube.com/watch?v=kpr0ok9khzR8
作者:フアン・トローラ(ガルデルの従兄弟、本名フアン・グァルベルト・エスカジョーラ)ガルデルは初めこの曲を“アケル・ティラドール・プラテアード”呼び、カルロス・エスカジョーラ・メディーナ(実父とされる人物)の作としていたらしいのだが,真実はウルグアイ国バイサンドゥー出身の詩人オスカール・オロスコの作品である。

“Estamos en el pintado/我々はそっくり
con la tropa en pastoreo,/放牧されている家畜と
porque el paso esta muy feo/それは道の余りにも酷い
y aqui me tiene embretao,/そして,ここは俺を柵にのなかに押し込めた,
Te escribo sobre el recao/伝言としてお前に託す
tan solo por noticiarte,/唯一つ通達するため,
donde me encuentro、y pa`hablarte/俺に出会う処で,そしてお前と語るため
de aquellas cosas queridas,/あの出来事の愛しき事ごと,
Pa’ que veas mi fino amor,/我が優美な愛しき人に見て貰うために,
con todo esmero y primor/細心とすべての気遣いと共に
que he dejado alla perdidas/あの放蕩の気だるさ
al tener que abandonarte./”お前を置き去りにしなければならず“, 

②:ジョ・セ・アセール(俺は成し遂げる)/シフラ/
作者:カルロス・ガルデル‐アンドレス・セペダ/
セペダの詩“ア・エルナンデス”にガルデル自身がオリジナルに創作した曲。
この曲は若きガルデルの最良な作品ではないだろうかと思われる。

"Dijo Hernandez con razon”/エルナンデスは理屈どうり
en criollado lenguaje/クリオジャなまり喋りで
es el nudo que lo fajen/ベルトを結んで
del que nace barrigon,/なんと太鼓腹が生れ

Y cuernante con razon/そして,[クエルナンテ]は理屈どうりに
no creo el osado lenguaje/破廉恥なことばは信じない
salido de los papel(es)/紙片から飛び出しの
del que nace barrigon,/なんと太鼓腹が生れ

Soy de los mesmos crios/俺もそだち盛りとお同じもの
golpiao al tanto comprender/叩かれた様に全く理解に苦しむ
esta falta de poder,/これは知恵が無い
esta escuela no es sentido/この訓練所は感動しない
compararse al hombre escriba,/書きごとする男に比べれば,
en la fuente de saber ,/熟達のまえに,

Aunque nacido y criao/田舎生れと育ちとはいえ
en la escuela de sufrir/ここは苦悩の訓練所
me doy mana pa vivir,/生き抜く為の策を授けよう
como el hombre mas letrado./より悪賢い男の様に

Yo por trompiar he buscao/俺は一人学びの求めたて
ponerle a un pingo el apero/子馬を調教しあげ
y al avestruz mas ligero/鈍間をより敏速に
lo se en el campo boliar/野原を耕すそれもやる
tambien una res arniar,/牛を選びもする

注記:cuernante;クエルナンテと読むが意味不明(人とのあだ名か?)
 mesmos(メスマス,田舎風に発音している):mismosミスマスと同じ,
golpiao(ゴルピアオ,と田舎風に発音):glpeo(ゴルペオと同じ)叩くの意味,

この詞は田舎の牧場でのガウチョ達の日常作業、
投げ縄で牛を捕獲する、農具の操作、平坦な土地を耕す、
一頭の牛を畜殺する、子馬を去勢、溝を付ける、種まき、
収穫する、縄編み、荒地を身張り、毛の刈り込みと焼印をする、
家畜を懐ける、etc,,,と,
この様なガウチョの日常の仕事のそれらを詠い挙げている情景を謳い上げた詩。

③:ラ・マニャニータ(朝明け)/エスティーロ/ ガルデルは生まれつき自然に備えた天性的歌手の才能を現している。声が可なりか細く(当時の録音技術によるのではと思われるが?),おずおずとしている歌唱であるが、美しい歌声が栄えている。しかし,ベティノティー・スタイルのフレージング感化は隠せない。又、別にサウル・サリーナス、フアン、ペドロ・ガライ兄弟(クリオージョ歌謡二重唱の紹介者)の影響もみえる。

Quien avivo tu hermosura/おまえの美貌に興奮された誰か
es el de la pausa?,no./それはひと時の安らぎ?,違うかい。
Es el del atado lleno/それは,あふれつつまれ
Es el del del atado lleno/それは,それはあふれ包まれ
De mananita temprano/早々の朝あけの
cuando la luz fulgura/光がひらめくとき
yo no he visto mas lindura/よりかわいらしさは見とれない
hasta el pasto me enamora/芝生まで俺に惚れ込み.

La calandria seductora/魅惑のクロエリコ鳥
los jilgueros y zorzales/ヒワたちとツムギたち
son sus trinos sin iguales/それはかのさえずりすら同じでなく
van saludando la aurora,/会釈しながら曙に,
van saludando la aurora,/会釈しながら曙に,

En un palenque plantao/木柵へ打ち込む杭に
que a tres metros se levanta,/三メートル起き上がり,
que a tres metros se levanta,/三メートル起き上がり,
un jilguero que otro canta/ヒワに他がさえずり歌う
en la punta entusiamado;/熱狂せる子群れたち;
un corderito encerrado/閉じ込められた子羊
lama afligida a la oveja/苔如く悲嘆にくれた雌ひつじ
quede del sauce la queja/柳に残り嘆く
lo que el pampero lo azota/パンパ風が吹きつける
y el grito de la gaviota/それにかもめの騒ぎ
lo que al yagueli y se aleja/それが牛へ,そして遠のく
lo que al yagueli y se aleja/それが牛へ,そして遠のく

El carreron la gambeta/身をかわし走りすぎる彼等
hace de contar contento/喜びを話りかける
hace de contar contento/喜びを語りかける

Pero muy manso y cachaciento/しかし,遅くおとなしい
va en busca de la carreta/荷車をさがしに行く
una que otra martineta/一羽の,もう数羽のマルティネタ
vuela a la luz del cachorro/小狐の光へ飛び立つ
sale de la cueva el zorro;/狐の巣から飛び出す
queda en la puerta estitao/ひらけた入り口に立ち止まる
y el cacho canta tocao/ふれ歌う角
como pidiendo socorro,/助けを求めるように
como pidiendo socorro,/助けを求めるように

注記:
Palenque;camino de tablas,木の柵,木道;Yagueli;ジャグェリとはyagueneジャグェネの間違いか,(Zorrino) スカンク類をさすが,パンパの野生化した牛(animal vacuno)もこう呼ぶ, Cachaciento:lento,pesado,tardo,遅い,重い,遅れると言う意味,Martineta;マルティネタ;淡い黄色をした褐色の斑点がある40cmほどの大きさの鳥でパンパに生息する 。この歌もパンパの牧場の自然情景を表現したものである。

④:ア・ミ・マドレ(わが母へ)/アンドレス・セペダ‐ガルデル共作
この名自体が極く普遍なため、同曲であるか不明であるが、同タイトルの曲をルイサ・ロビーラは同レーベルに録音をしている。又、イグナシオ・コルシーニはビクターに録音した。ガルデルは1920年にタイトルを“ポブレ・マドレ”(18023B)として再録音した。

Ven lira bella y gloriosa/栄光と高尚の琴座来たれ
no me niegues tu armonia/お前のハーモニーを断らないで
dame con tu melodia/メロディーを授けたまえ
una inspiracion grandiosa;/華美なインスピレーション
tu que siempre bondadosa/常なる善良なるおまえ
fuiste con todo cantor/歌い手すべてと共に行き
no le nieguen un favor/好意を拒絶せず
a un alma abatida y triste/悲しみと魂打ちし枯れ
tengo madre y como existe/そして、生きるように母が居る
cantarle quiero mi amor./愛しき人に,讃歌を授けたく

⑤:メ・デハステ(捨てられて)/エスティーロ
原題:エル・ポンチョ・デル・オリビード(忘却のポンチョ)/この曲はガルデル作曲とあるが、オスマン・ペレス・ペレイラの曲に“ディビーノ・ポエタ・デ・ラ・プリション(聖なる牢獄の詩人)”と呼ばれたアンドレス・セペダの詩からの引用であるが、見事に彼風に完璧に処理している。極めて重要な事はガルデルがセペダ作品を発掘した功績を祟るべきだろう。ガルデルはこの詩を10年も前のペドロ・バルダサーレ氏の下で御者を務めた18歳頃からの持ち歌にしていた。

Aunque el poncho del olvido/かの忘却のポンチョだが、、、
sobre mi lomo has echado/肩の上に負いかける
los recuerdos del pasado/過ぎ日の思い出を
deben haberte seguido/お前の後追うべき
y como abrojo prendido/そして、ハマビシが絡みついたように
a cola de mancarron/老馬の尾に
has de ir en tu corazon/お前の心で行なうべき
siempre dandote un pinchazo/いつも一突きをあてがい
mientras mi nombre de paso/俺の名の行きずり合い間に
cruza tu imaginacion/お前の思い描きかわす

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2011年7月28日木曜日

アルメノンビジェでの出来事( 2 )











上の写真:ガルデルとラサーノ
下の写真:ロベルト・フィルポとオルケスタ・ティピカ

その翌夜の舞台では,ロベルト・フィルポとオルケスタ・ティピカによるタンゴがすすり泣くよう演奏された後に,ガルデルとロサーノのデュエットは、いよいよ初出演で登場。

Toma esta rosa encarnada/この化身したバラをとれ
y abrila questa en capullo/そして,つぼみをひらけ
y versa mi Corazon/そして,わが心を見ておくれ 
abrazado con el tuyo/おまえのものと共に抱きいだき
abrazado con el tuyo/おまえのものと共に抱きいだき
Pero el alma separada/だが,魂はしき裂かれ

大喝采の獲得..やがて夜が迫り,キャバレーは金色に輝き,デュエット二回目の公演は
狂乱状態になる。

No te duerma, mi querida/眠るな,わが愛の人
no te duerma, mi adorada/眠るな,わが慕し人,
que viene aclarando el dia/陽が が明けき来る 
la madrugada/夜明けて

そして,その後:

Esta cancion la cantamos/歌いつくしてこの歌を
en casa del Taita Pancho,/タイタ・パンチョの家で
y unos guasos por oirla/そして,田舎者が聴くために
voltearon la puerta el rancho../牧場のとびらをあけ広げ..

そして,更に夜ふけて...

En un pueblito de Salta/サルタのいなかにて 
la gente de baile esta /このダンスを人と
con chichi y pata de cabra/ヤギ足アサードと地さけ
hasta el alba seguiran./夜明けまで続けとばかり

富裕家と高級政治家の上流階級達の人々はダンスフロアーをここ狭きと踊り動きめぐらした。ティピカが再びタンゴの呟きを奏で始めるとき,ガルデルとロサーノは火照った顔と皺だらけにした服装,不安な眼差し,震え声で舞台の後ろ側を退場していった。カルロス...成功に気づいたか。兄弟よ?うん,カルロスは同僚と同じ様に,あまりの優美さに真実がまるで嘘の様なのと,慎ましくも報われたのだと信じ納得しようとした。ホセ,騙されるな...これは贅沢な身分,我々を冷やかしているんだ!...しかしながら,ゆっくりと流れが氾濫した謙虚とあざけの亡霊が逃げ出した様に,偽ではない何かがあった。冷やかしとしても,どの様に望むのだ?。あの高貴な人達が涙ぐんでいたが!...と,ロサーノはガルデルに見返り無しの意見を洩らした。

後年,エンリケ・カディカモが遥かなる回想の脳裏に残る,デュエットの夜集を,この詩歌で深いリリシズムで回想している。その詩は,,,


Viejo “Armenonvil”/古き“アルメノンビル”
eres el pasado lejano/ああ,ふるき過ぎし日の
Que distante quedaron los aplausos,/喝采は遥かにおきざりにされ,
cuando el debut de Gardel‐Rozzano/それはガルデル-ロサーノがデビューしたとき

彼達ガルデル-ロサーノは,ここでロベルト・フィルポ、エドゥアルド・アローラス、ティト・ロカッタグリァタと当時の怱々たるタンゴ楽団のマエストロらに巡り会う。かの著名な名高いキャバレー“アルメノンビジェ”は1911年末にカルロス・ボニファシオ・ランサベチアとマヌエル・ロウレイロ氏達により,パレルモ公園前のアルベアル大通(現在リベルター大通)とタグレ(calle Tagle)の角に開店された。バンドネオンニスト、フアン・マグリオ“パチョ”はこの店の経営者の親身な友人の一人であつた。彼“パチョ”はその物ずばりの“アルメノンビジェ”と称名したタンゴを作曲し、この店に捧げている。タジーニ商会占有のコロンビア・レーベルにコルネットバイオリン弾き,ホセ“ペピノ”ボナノ、フルート奏者カルロス“ヘルナニ”マツチ、7弦ギター奏者ルシアーノ・リオスと彼マグリオ自身のバンドネオンのメンバーによる演奏でこの曲“アルメノンビジェ”を1912年にガルデルより先に録音(レコード番号T520/56606)している。経営者の娘,マリア・ルイサ・ランサベチア著書“エル・レハーノ(かの遥かな)・アルメノンビジェ”によると、この店に最初に出演したオルケスタはビセンテ・グレコ、フランシスコ・カナロ、ロベルト・フィルポのビアノとバンドネオンのエドアルド・アローラス、バオリンのティト・ロカタグリアッタとバホのレオポルド・トンプソンのクアルテート・ティビコ,ビエベニーダとホセ・オルサリ(ピアノ、ビオリン二重奏),アルトゥール・デ・ナバの怱々たる面々の名を挙げている(説明不可能な事に“パチョ”マグリオは出演して無い)。この曲“アルノンビジェ”の録音は“パチョ”マグリオの1929年(2度目)、ロベルト・フィルポ(22年)、フアン・ダリエンソ(70年)、その他数楽団の演奏がある。(データはDiario CRONICAによる)

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2011年7月27日水曜日

アルメノンビジェでの出来事(1 )

1913年12月28日:フランシスコ・タウロにマダム・ジェネッティーの“怪しき家”でのパーティーに招待された。この騒ぎは年末の“アルメノンビジェ”の夜へと続く。



遥か彼方の年の暮れ:マダム・ジャネッティーに同伴された,ガルデルとロサーノ達は,ここの豪華な上階に用意された歓迎サロンに通され,キャバレーのマネジャー,ドン・パンチョ・タウレルとその他一同に手厚く接待された。リキュールのつまみと共にあの時代のフランス製純正シャンパンがふるまわれ,皆は二人の歌手を聴きたい欲亡に刺激されていたが,,,
ところが...なんだって,歌手達はギター無し!。マダム・ジャネッティーの随一のギターは誰かが隠し持っていたが,,,そりゃ,残念だ,ギター無しで聴く事できない!,とアルメノンビジェの経営者の横に居ながら,ドン・パンチョ・タウレルが叫ぶ。ここにギター二つあるが,,,と経営者の一人のロウレイロ氏がつぶやく。一つはここで出演したアルトゥーロ・デ・ナバとここの経営者のもう一人の巧みなギター奏者のランサベチィアの物を持ち出してきた。という経緯の後で,,,過ぎ去ったあの時,カルロス・ガルデルとホセ・ラサーノは二重に武装して歌い始める。最上の言葉で言えば;成功の初め!もう制止する事無く,永遠の成功の始まり!。あの時から開いたお伽話の夜の一筋の行みち,昔のキャバレー・レストラン・アルメノンビジェのあの光飾られた社交大広場の上方の開け広げられた窓辺からパレルモのマグノリアスの影とほのかな香り,良く調和した二つの声の歌唱が上階ホ-ル観覧席の外から舞い昇り始まった。ダンスホールの参列者間からうわさが流れ,-彼等を聴くのは光栄だ...。続いた回廊から聴きに,見に近づく人々,彼等はホルヘ・ニュウベリー(レーサー),ヒメネス・ラストラ(女優),リカルド・ギラルディス(小説家),他多数,,,。カルロスとホセは一休もせず。朝方明け過ぎに行くに従って,より良く歌うためにシャンペンを嗜めた。ラ・パストーラ,パンガレ,モーロ,ロ・ケ・フェからエル・セニュエロと歌い続けた...。上品な“人”は賛美するのに擦り寄らないが,お節介屋達はもう我慢できず,人垣に踊り入り乱れた...。上階では,キャバレーのマネジャーは歌手達の先取りの演技と客連達の熱狂を見落としてはいなかった。彼はロサーノに廊下に出るようにと合図を示した。不意をつかれたホセはそこへ行くと,“二人ともこの店に歌いに来ないかい?”,70ペソ払うぜ,このように突然,マネジャーの問いかけに仰天,ところが,ロサーノは月払い約束なら特に驚く事はないと思った。しかし,多分,なんらかの改善にむすびつけばと,考え直し答えた。なんと言うか同僚に相談してみる,,,。人垣に戻り,こっそりごく短い退場を促しながら,早急にガルデルへ耳打ち通報した。我々がここに歌いに来ないかと問われ,70ペソ払ってくれるとさ。エル・モローチョは月払いでは少ないな,,,と意見を述べる。半月払いかな?,良く分からん,はっきり問い合わせてくる。再びラサ-ノは人垣からすり抜ける。こうして,マネジャーはロサーノの返答を待ち。今度はキァバレーの二人の経営者のランサベッチアとロウレイロが一緒に居るのに出会った。ロサーノは心臓が波打ちするのを感じながら,彼の粗野な人生で最上の機会に賭け事をしている胸騒ぎを感じた。だから,この問題をはっきりさせてくれと?。この曖昧な質問で,その同じ重要な瞬間に口調は冷静になる。ロウレイロ氏が答え返して,ほら,友人よ。お前さん方達,下階ホールで毎夜事に,ここに歌いに来る決意をしなさいよ。70ベソ日払するから,その上に食事とアルコール付き,招待客の誰かが指名した時の報酬は貴方達の別収入だが,,,ロサーノはどうして気絶転倒しなかったか,自分自身に決して説明できなかった。

変な顔をした憶えがあるのだが。
回れ右をするとガルデルの脇に戻り,
お前!70は日払いだってよ!。
それに食事つき,,,その上,臨時は我々のもの...
この言葉をぶつぶつ言いながら,凄い仕事だと指摘した。
そりゃなんだ?ガルデルは襟を掴んで,
平手打ちでグラスをひっくり返した。
よく聞いたか?...うん...
エル・モローチョは立ち上がり,
動揺して,歌うだけじゃない!,
俺たち皿まで洗いに来るぜ!!。と...
脚を震わせながら,
エル・オリエンタルの腕を掴みながら絶んだ。
二人の友は興奮した上機嫌を表さない様に,
とてつもない努力に勤めたが,,,
しかしながら,とたんに二人で廊下に踊り出た。
マネジャーに出会いがしら,何時からデビューできると聞く?。
じゃー,明日の夜10時でどうかい!。
他の誰でも出来ないほど,
人生がもたらした成功と希望が交差するように,
ガルデルとロサーノが巡り合わせた,
あのアルメノビージェでのデビュー。
ロサーノはその前夜は寝られなかったという。
ガルデルはパレルモの森を彷徨酔い,
ケルビムの群れに囲まれ息切れをして,
生温かい風に愛撫されて,
地獄の辺土際で歌う悪夢の前夜を過ごしたといった。
キャバレー城の柱飾りに身を隠して,
70ペソ!!,70ペソ!!,と彼等は叫びながら...
そして,夜が忍び寄る。
そして,時が忍び寄る。
そして,運命の遊び手玉を空中に投げた。

追記:百年近く前の当時の70ペソの価値は分かりませんが、同夜出演したフィルポの報酬が一晩2ペソだったのだから,ガルデル達の報酬が並大抵ではなく良かったという事です。
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2011年7月26日火曜日

ガルデルとラサーノとの出合い(2 )

"エル・モローチョ”ことガルデル


その事はアバスト市場の真裏近くで起きた。

グァルディアビエハ通りのある家にジヘーナ氏と称する人が住んでいた。
ペジェセールがジヘーナ氏に話をつけて,という事で...
確かに,大ピアニストの様に記憶されているその人に。
家主の上品な招待により,もう出来事は当然の関心の的とはいえ,
秘密は暴露されては居なかった。

あの夜,市場の裏の通りに面した二つの大きな窓の在る下階の大ホールには,大体30人ほどの人達がたむろして居た。そこへラサーノは友人ペジェセールと共に到着した。ジヘーナ氏が出迎え,彼の友人に道を整えさせる功績の執拗な依頼と会合の打算により,引き起こした幾らかの混乱と共に。エル・オリエンタルは丁寧に挨拶しながら,ホールの真中に出た。その時,黒服と蝶ネクタイ,エナメル靴,中分け髪の愛嬌ある容貌の“太目”の若者が彼の前に来るのを見た。ロサーノは“エル・モローチョ”の発散させる好感を一瞥して出向かえた。
その時,ジヘーナ氏が二人を紹介した;
こちらが,-カルロス・ガルデル-,彼が,-ホセ・ラサーノ-,
二人は不信も無く暖かい握手をした。
貴方は歌が旨いそうですね。-―エル・モローチョが言う--。
-その通り-。エル・オリエンタルは控えめに応えたが。
しかし,彼の頭の中はまっしろ...。
ガルデルは応えない。
-明かな褒め言葉へ感謝の頭をかしげて。
貴方と一緒に歌えるなら大変嬉しく思う,とロサーノは言い添える。
そう,俺も同感,友よとガルデルも答えた...。
もう,事実上の不可侵条約を確固したもの同然。
ロサーノが望んでいた頭を下げる扱いで無く,
明白な評判の二人の若僧が“五分五分”で歌うという事は,
かの突然に手に入れた試合の様相だ。
招待客達と着いたばかりの客の間に,
お決まりの披露のリキュール類が宴会の集まりに,
ひと回りして輪が和み増した。
ガルデルはジンを一杯引っかけ。
ロサーノもコニャク一杯。
そして,彼はギターと,
ある婦人客の腰に手をかけて,輪の中心に登場。
客達に向かい生粋のクリォージョ風の丁重さでロサーノは乾杯した。
彼が調弦する...教会の様な静けさが漂い。
そして,テノールの澄んだ声がシフラの耳に快い唄にする。

Entre colores de grana/深紅色がかり
rey del espacio celeste/空色のあいだの王様
el sol se asoma en el este/東方にのぞく太陽
con majesstad soberana/きだかき君主

Ya la golondrina ufana/いまや,ほこらしげのツバメ 
emprende su aereo viaje/空の旅へとびだし
y a jugar con el oleaje/そして,大波に弄ぶ
bajo aquel cielo sin bruma/霧なきあの空の下
en lo blanco de su espuma/白きあわにて
tiende su negro plumaje/黒い羽衣をのばす.

ラサーノの歌が終わると,
満場一致の強い証に,突然全てが湧き上がる。
より寛大だったのはガルデル本人。
今度はエル・オリエンタルからギターを受け取り。
ひとかき鳴らし後に,
ガルデルは節つけて,
見事な声のバリトン(?)でエスティ-ロの詞節を歌う。

Anoche mientras dormia/昨夜の眠りのあいだ
de cansancio fatigada,/あえぎ疲れて
no se que sueno adorado/熱愛の夢かしらずして
paso por la mente mia;/わが濃裏をかすめ過ぎて 
sone que yo te veia/おまえに会った夢みる
y que vos me acariciabas,/そして,俺に抱きつくおまえさん
que muchos besos me dabas/素晴らしいキスを与えくれ
llenos de intenso carino/はげしい慈しみに満ち
y que otra vez como un nino/ふたたびのあか子の如きになる
llorando me despertaba/泣きあげの目覚め.

終わりの歌い音符で,ラサーノは挨拶の抱き合うために立ち上がる。
感激した幸運な参加者達の集会,筆舌に尽くせないほどでなく,
ブラボー!,いいぞー!,もっと歌え!,心からの感嘆と感嘆。
総勢で拍手の繰り返し,ギターとギターの受け渡し,
歌謡の行き来,酒とおしゃべり,夜明けが迫りつつ。
朝日の光,忘れ難きあの夜晩,二人の歌手達と,
クリォージョ・アートに奮闘する高貴な兄弟と.
同時にいとまを乞う,多少歩いた先で別れを告げる。
何処で会える?,ガルデルが問い出す。
ラサーノ答えて,決定的な運命の簡潔な流れ事と共に。
エントレ・リオスとモレーノの角,カフェ・デル・ペラードに居るよ。

注:{a}ペラードとは店主の“禿頭”のそのまま店名にしたらしい。

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2011年7月24日日曜日

ガルデルとラサーノの出会い(1 )


1911年;当時のアバスト市場
1911年:ホセ・ラサーノとの運命的な出会い:
ガルデルはアバスト街のカフェ・オ‘ロンデマンの持ち主で地元の政治ボス、トラベルソ兄弟の一人のコンスタンティノが,ある日に政治会合の席にガルデルを連れて行く。そこにはパジャドールの面々が居揃う中で、その一人旧知のホセ・ベティノティーからギターを渡され、彼の持ち曲“ミ・マドレ・ケリーダ(愛しのわが母)”を披露したら、満場の喝采を受けた。


その頃,ウルグアイ出身のホセ・ラサーノは既に南バルバネ―ラ街(アバストより少し洒落ては居たが、何れも同じ様な貧しい街)のカフェ・デル・ペラードで民謡を歌い活躍し、多少なりの人気を得ていたが,ガルデルの評判をそれとなく聞きこむ。

そのある夜、あるカフェで誰かともなく疑い深い囁きが聞こえた。
「エル・モローチョを聞くべきだ」、「エル・モローチョと呼ぶのかい?」、
そのとうり、ラサーノが現われて、そのニュースを尋ね問う。
「エル・モローチョの歌を聞いたかい?」、いやぁー。
じゃあ!君は??,俺は聞いたぜ!!。
何処でかい? 昨晩、バラッカスでだ!!!。
ファルビとペジェセールは好奇心丸出し。
「ホセ、お前知てるかい?」。
「個人的には知らないが。然し、あの歌手の評判は何処となく付きまとう。
ある日のボカとアバスト街で、別の日にはコラーレス街で歌って居ると、俺の耳に、、、」。
エル・モローチョが歌うのを、、、?
もう、カフェでは真新しい話題が尽きない、、、。
モレーノとエントレ・リオスのエル・ペラードの客仲間の集まりでは、
その風評の歌い手を雲の様に掴められず、
一層興味をそそわれ、彼等は始め配慮深く言及する事無く。
出し抜けに出会った,彼のエル・モローチョの成功と名声。
エル・モローチョを名指して、、、
パンチョ・マルティーノと付き合う浅黒いやせ男かい??(この情報は違う)。
一人の南の田舎者か、あの善良なパジャドールかい?。
レアレス達の真中にいる奴(これも違う)。
カフェ・エル・ペラードで,その場のペジェセールは,
出しぬけに仲間達を大げさに驚かしながら,
いきなり,ラサーノにその言葉をつげた。

エル・モローチョはアバストの奴だ。
俺の友人が彼を知っている;
ジヘーナ,明日の夜に彼と出くわして欲しい。
ジヘーナ氏,その人の家で,頭をさげろよ!。
あそこで歌合戦をやればいいだろう!!!
ロサーノは出会いを承知したが。
しかし,ほかの気取り屋の損得勘定を知らずして,
内心では頭を下げるには余りにも,
見せつけがましいと考えた。
まあー,おれは出来るだけ旨く歌えばよいと言うこと。
それは怖くない!。
エル・オリエンタル(ラサーノ)は首尾良く立ち回るには,
トランプに一発賭なければと思った。
しかし,また,なんて事だ...見てみろ...!
ラサーノの呟き...。
もし,誰かがラサーノに感化できるとしたら,
それは紛れも無く,ただ一人ルイス・ペジェセールであった。

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2011年7月22日金曜日

ガルデルとフォルクローレ(9)




















サウル・サリーナとマルティーノ
そして,少年期のロサーノ
⑩:ホセ・フランシスコ・ラサーノ:1887年2月25日、東方国ウルグアイ、モンテビデオ市インデペンデンシア広場の近く,ポリシアビエハ通り14番に生まれ,2歳の時に父に死別した。1895年の流れの中、幼年8歳でギターと夢々を適えるために、出生地モンテビデオから“芸能への道”へ向かう困難な未来へと,遥々ブエノスへと母と共に上京し,バルバネーラ街に落ち着く。それは自分の歌による主役になる運命。われの将来を築く、ブエノスで勝利する事。これが彼自身の心奥深い願望の現われであった。しかし、アンドレス・セペダとホセ・ベティノティの様なポピュラー芸術のアンソロジー的著名人と誠実な深い親交を実現させたのだから。1902年若干15歳の時、早くもフランシスコ・マルティーノとサウル・サリーナスとのトリオに参加。1911年から翌年にかけて“ビクター”レーベルにクリオージョをテーマにした“ラ・チーナ・フィエラ(やり手の少女)”と他10曲ほどフランシスコ・マルティーノとの二重唱で録音した。それに後年“エラ”なるレーベルにもレコード録音している。ラサーノはテノールの栄える完璧なまでに洗練された見事な声を持ち合わせていた。それに彼は大胆で先取りの気性に富む人物であり、人生における進歩的な視野の持ち主であつた。その境遇の改善勤めに進む,向上天分と別人の決して到達不可能なレベルにおいて意外な成功を成しとげた。そして,ラサーノは運命ずけられた人物。あの時代にカルロス・ガルデルの芸能人生との遥かの日に交叉するとは,夢にも占う事も彼自身すら想像してはいなかったが,その日はやって来たのである。
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2011年7月20日水曜日

ガルデルとフォロクローレ(8)

⑨:フランシスコ・マルティーノ:ギター弾き、歌手、ダンサー。1884年6月6日生(計らずもガルデルと同年生まれ):幼年時にマランボダンスに冒頭し冴え巧み、後にミロンガ、エスティーロ、シフラスなどのフォルクローレス・ジャンルにギター極意と歌唱の秘技を彼の感化で磨く。あの時代のポルテニョ街区の特にバラーカスの南、アベジャネーダではより人気のガウチョ達が頻繁に集結していた場所に、いわゆる“ロス・パンペアーノス”と“ロス・レアレス”等を頭に民族主義者アマロ・ギウラ、サンチアゴ・ローカ、ニカドロ・レジェス他多数等の讃える、あの頃のフィエスタを賑やかにする為,たゆみなくマルティーノは訪れた。その後、彼等達は皆、夫々故郷への愛着ゆえと将来への可能性を持ち合わせながら、初歩的歌唱で活路を見出そうと努めていた時に、彼はガルデル、ラサーノ、サリーナス達と出会う運命になる。マルティーノは1911年にガルデルとブエノス・アイレス州とパンパ地方に巡行に出る。その同年にガルデル‐マルティーノ‐ラサーノ等でトリオを結成。コリエンテスとサルミエント通の間のロドリゲスペニャにあつた“カサ・スイサ”に出演。翌年このトリオにサリーナスが加わり、サラテのカーニバルに出演した。ガルデル‐ラサーノ二重唱が最終的に結成された後。彼の古い同房達から遠のく事無く、1915年11~12月のサン・マルティン劇場の出し物“フアン・モレイラ”にダンサーとして、ガルデル‐ラサーノ等と共に出演した。翌年にはアンヘル・グレコとデュエットを組む。ラジオ放送や劇場興行に参加して、マルティーノ‐グレコは美しい歌唱で知名になる。このデゥエットは21年まで続いた。翌年、ムイニョ‐アリピィ劇団のスペイン興行にダンサー及び歌手として参加後、ウルグアイでも数多く活躍した。ガルデルはマルティーノ本来の作品エスティーロ“エル・スエニョ(夢)”を1912年に生存初の“コロンビア”レコードに録音。グレコとの共作“サンファニーナ・デ・ミ・アモール(愛の~)”、“ミ・パニュエロ・ボルダオ(我が刺繍のハンカチ)”、自作“カテドラティカ(教授夫人)”、“マラガタ”、“ラ・プエブレリータ(田舎娘)”、“アマメ・ムチョ(愛しておくれ)”、“パラ・ケレルテ・ナシ”、エリアス・レグレス詞“ミス・エスプエラ(拍車)”に曲を付ける。“カリニート・ミオ”、“ソイ・ウナ・フィエラ(私は酷い)”イグナシオ・コルシーニと創作した“メ・ピデン・ケ・カンテ・イ・カント(歌う歌えと皆望む)”、アンヘル・グレコとの共作“ラ・クリオージャ・デ・ツクマン”。弦と歌のボヘミオ黄金時代、ガルデルとより深く関係した人物達、エンリケ・マシエル、アルトゥーロ・デ・ナバ、ホセ・リカルド、ギジエルモ・バルビエリ、ホセ・アギラール、オラシオ・ペトロッシ、マリオ・パルド、イグナシオ・リベロル等とも親しく友好していた。またガルデルとのごく最初の頃からのボエミオ同僚であり、偉大なカルリートスとの無数の体験奇談と“ソルサル”の生い立ちの証拠の詮索を何時も語っていたが。しかし、私事のまことの秘密は誰にも明かせねまま、このを世を旅立ってしまう。1938年5月25日の事、鬼年52歳。
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2011年7月18日月曜日

ガルデルとフォルクローレ(7)


サウル・サリーナス

⑧:サウル・サリーナス:“エル・ビボーラ(毒蛇)”と渾名される。歌手、ギター奏者、家、1881,2年10月5日(?)リオハ生まれ。とあるが隣国チリー生まれという説もある。1921年12月10日没。多勢の昔の集合的クリオージョの様に彼の歌とギターを奏でる道楽は幼年時からの事。何時、公衆前で初作品を発表しデビューを果たしたかも、多分確かにクジョー(リオハ地方)かチリー地方へ出掛けた。だが、彼自身もその初旅すらも記憶にない。トナーダ・ギター奏者,歌手,これらの作品の多くを世に送り出す。フォルクローレ界の歴史家達は彼を黙視したが。しかしながら、業績は同界の中でも偉大な存在であるのを否定出来ない。彼の名声は土地固有の歌唱音楽の重要な編纂者の一人であり、そして少なくとも最初に普及させた業績は大きく。また、彼以外の誰でも無いトナーダ・クリオージャの創始者であるが、記念されるべき“トナーダの日”は伝統主義者イラリオ・クアドロスの命日に制定された(彼はサリーナスほどの適切な功績を残していないのだが)。1910年にペドロ・ガライと最初の二重唱を組み。サルシオーネ‐サリーナス、サリーナス‐マルティーノ、サリーナス‐マランビオ・カタン、サリーナス‐アルフレッド・ゴビ(父)と数々の二重唱を組む。マタデーロ通トリニーダーに住み,バー“チンガナス”で一人かグループでショーに出演して,そこでフォルクローレを育てた。ある金持ちの馬車御者も働く。1912年にカルロス・ガルデルとは歌とギター演奏の夜明かし騒ぎの前と多くの行脚ゆえの果てにサウル自身がガルデル‐ラサーノとマルティーノのトリオに接触したかどうか的確ではないが,このトリオに参加の上に四重唱に発展させて,サラテのカーニバルでデビューしたが,興行収益は実らず。それでも芸術的には何等の成果を得ている。このグループは直ぐにサリーナスの落伍とマルティーノが後を追い,解散に追い込まれる。そして,ガルデル-ラサーノ二重唱になってしまう。サリーナスはその後,ガルデルを“コロンビア”へのレコード録音に導いた張本人である。同房ペドロ・ガライは“ラ・パストーラ”と“ラ・ロサ・エンカルナーダ(化身したバラ)”の著作権返却を要求したが,彼自身のタレント才能の信望を貶める理由にも成らない。何故ならば、数多くの秀麗な変化の魅力的な絶賛に値する創作を残している。ガルデル‐ラサーノの二重唱は“ミララ・コモ・セ・バ(見ろよ、あの行き方を)”、“ラ・マルドゥルガダ(夜明け)”、“シ・メ・テンドラ・エン・ス・メモリア(覚えているかい)”、“ドンデ・エスタラ(何処にいるかい?)”、“ミ・エストレジャ(私の星)”、“クジャニータス”らを録音した。彼等は1915年、サン・マルティン劇場“フアン・モレイラ”上演の時に有名なクエッカ“コラソネス・パルテイーダ(心を裂いて)”バルス“ラ・センダ・マルディタ(呪われた道)“、トナーダ“ホセ・フリアン(人名)”、クエッカ“ポルケ・ロ・イシステ(なぜやった)”を披露した。サリーナスは1919年に“ナショナル”レコードに参加。1921年マクッス・グルクスマン氏と再契約を結ぶ為のブエノスアイレス行きへの準備のある日、政治絡みのため、フロビンシア(州)・サンフアン中心地ミトレとスペイン大通脇の怪しい店でトランプ賭けに参加していた所を月並み歌手のアントニオ“エル・モスキート(蚊)”アンディーノたる輩により暗殺された。岐宿もセペダと同じ運命を辿る羽目になる。


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2011年7月16日土曜日

ガルデルとフォルクローレ(6)

⑥:フェデリコ・クルランド:1878年8月28日,バイアブランカ生まれ,パジャドール,歌手,パジャドール黄金時代に生き,ガビーノ・エセイサ,ホセ・ベティノッティ,アンブロシオ・リオ,ナバス,等の当時の彼等知名達とコントラプント(即興詩の競演)をリード共有した。ガルデルは彼とはあの時代に何等かの親交を交わしていた。そして,彼の作品“エス・エン・バーノ”をレパトリーに取り上げ録音したのだが,原作所有争議に発展してしまう。この詞は彼クルランドが1909年に“チィスバス・アスール(蒼い火花)”として発表した詩である。1917年5月13日,ブエノスアイレス没。

⑦:ホセ・マルモル:詩人,1817年12月2日にブエノスアイレスに生まれる。
1840年に自分の意思によりモンテビデオへ移住する。そこで独裁者ロサスに向けた拘束の無い反旗の文筆活動に励む。亡命先にて有名な小説“アマリア”と“カント・デル・ペレグリーノ(巡礼者の歌)”及び彼の詩集とドラマ“エル・ポエタ(詩人)”と“エル・クルサード(交差)”を発表した。1852年後には詩作を放棄した後,ブラジル政府国会議員,全権公使など勤める。彼の詞“メランコリア(憂鬱)”はガルデルにより“ブリサス・デ・ラ・タルデ(黄昏のそよ風)”として1912,年にコロンビア・レーベルのレコードに吹き込みされた。また,1917年のナショナル・オデオン・レーベルのレコードには唯単に“ブリサ(そよ風)”に題名された同じ詩を録音している。マルモルは1871年8月12日にブラジルで没した。

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2011年7月14日木曜日

ガルデルとフォルクローレ(5)

⑤:アンドレス・セペダ:教養ある若き頃、悪交友のために学問を放棄の末.どの様な悪事を侵したのか不明だが、それを数回働いた後に。結局“国立刑務所”に行き着く境遇になる。彼はブエノス・アイレス州田舎町コロネル・ブランデセンで1879年5月18日に生まれる。大ブエノス・アイレス平原の自然を放浪したすえ。全ての境遇のオリジェーロ仲間達と相和し、彼の全ての詩作は牢獄服役の遭遇時に書き上げられ、ポルテーニョ街の古いトロべーロ(牧童)達の声にて広められ大衆化された。それ故、彼は“聖なる監獄の詩人”と呼ばれるに至る。
カルロス・ガルデルはアバスト地区のカフェ・オ‘ロデルマンで歌い始めた頃にセペダ作の“ポンチョ・デ・オリビード(亡却のポンチョ)”をレパトリーにしていたが,セペダ作品類を最初にタジーニ商会の『コロンビア』レコードに吹きこみ、世に広く伝達を成し遂げる。善良な同房(?)なる詩人アンドレス・セペダはコロン街区のインデペンデンシアとエスタドス・ウニードス通りの間のカフェ『ラ・ロバ』(現在のビエホ・アルマセンの近くに当る場所)の歩道側の椅子に座って居た所に、一人のコルニェス(スペインの一地方)出身者の悪刺客が彼に近ずき刃物で胸元を深く一突き、即座に命を落とす。その夜、極親しい友人仲間達により通夜がソリスとエントレリオス間のサン・フアン通(現在の地下鉄E線,エントレリオス駅の極近く)で行なわれた。その場に官警が現われ、通夜の会葬参列者の中の数人が殺人罪容疑で逮捕連行された。1910年3月30日の若干30歳の命であり、遠きブエノス・アイレス暗黒時代の出来事である。

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2011年7月13日水曜日

ガルデルとフォルクローレ(4)




④:ホセ・ルイス・ベティノティー:パジャドール、歌手、作曲家、作者、187872日~1915421日没。イタリー移民の父、フアンは彼の幼年時に他界。母、マリア・コスタはエネア・コンポドニコと再婚。彼ホセは貧しさゆえに何らかの仕事に就き、多分学校には行かず、ブルキ職人や婦人靴ヒールの成型工も勤める。若干18歳でマリア・カシィアマターと極短い婚約期間の末に結婚。19世紀末、“最後のパジャドール”の一人として詠い始める。生存歌に人生を注げ、ガルデルとの出会いは“エル・メレーナス(長髪)”と呼ばれたガルデル1718歳頃(19023年)にボカで保守党政治結社の集まりの歌う場で、ウルグアイ人パジャドール、アルトゥーロ・デ・ナバと再会した時にベティノティに巡り合い、彼と親交を深めている。オメロ・マンシの言葉では『彼はロマンチィク・ボヘミオの典型、前髪の気紛れ野郎、くり毛でスマート、アルマグロ街の奥深くから登場、、、』。又、『通り舞う/黒い羽の蝶』、あの人の日常結び飾りか蝶ネクタイの彷徨、ベティノティが薄暗い街燈に浮き出す姿を想像して、彼のミロンガ“ベティノティ”で比喩した様を詩に詠う。彼はコロンビア・レーベルに次の曲々をレコード録音した。“エル・フィナル・デ・ウナ・ガルファ(ある騒ぎの終わり)”、“エル・ウエルファノ・シン・オガール(家無し子)”、“イリータション(苛立ち)”、“デセプション(幻滅)”、“アイ・アイ・アイ”、“トリステ(悲しみ)”、“ノ・テ・ファルタオ(御前は必要ない)”、“クリオージョ・ファルシフィカオ(偽りのクリオージョ)”、“コントラステ(コントラスト)”、“テ・ペルドーノ(おまえを許す)”など。
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2011年7月11日月曜日

ガルデルとフォルクローレ(3)

ガルデル青年期にモンテビデオの下町生活していた頃:
③:アルトゥーロ・デ・ナバ(ナバス・ソサ):歌手,バジャドール,ギター奏者,俳優,ダンサー等の芸能人。187651日生~1932,1022日没。かの有名なガビーノ・エセイサとパジャーダ合戦に挑戦したフアン・デ・ナバの息子,ポデスタ兄弟劇団の俳優として参加する為に,ブエノスアイレスで運命を試すためにモンテビデオを離れるのを決断した。その後,フロレンシォ・パセビチーニ劇団に移る。その上に,カチャハァス,アリピィ,サボリード,エル・モチョ,etcの多くの有名人に比較劣らず,タンゴダンサーとして大変器用に舞台披露活躍し,また,歌手としての優秀な才能をも示した。前期初め頃にシリンダー式レコード録音された事でポピュラーになった,トナーダ・クリオージャ“エル・カルテーロ”の歌名の作者としていつも記憶され,また,カルロス・ガルデルが青年期から人生後期までこの歌を生き生きと歌い維持した。この歌はナバの父が作曲したのだと言う説を唱える人物も居るが,しかし,“パ‘ガナルメ・ウン・レペチォ(逃げ場を獲得する為に)”,“ラ・テヘドーラ(編み女)”,タンゴ“エル・タイタ(ごろつき)”,“エル・カントール(歌い手)”,“アモール・デ・マドーレ(母の愛)”,エスティーロ“ラス・ゴロンドリーナス(ツバメ)”,“エル・パロモ(鳩)”,バルス“ラス・モーダス(流行)”,“ラ・クジャニータス(西地方の女)”,“キシエラ”,“パラ・エジャ(彼女の為に)”と数多くの作品があり,創作能力は本物と認めせられる。また,1913年にコロンビア・レーベルの前に“ビクター”でも録音。人生後年には“ナショナル”レーベルに多くの録音を残している。彼とガルデルの出会いはモンテビデオの下町に住んでいた頃で,ガルデルの青年期のアマチュア歌手としてギターを背負い吟遊詩人の駆け出しの様に行動していた時。タクアレンボーのビジャルビと共に最初に歌唱を手ほどきした,師匠的存在の一人であった。
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2011年7月8日金曜日

ガルデルとフォルクローレ(2)

ガルデルの少年期から青年期時代に彼の芸能確立への直接間接に深く接触し,影響を与えた人物達を紹介したいと思う。

①:ルイス・ビジャルビ/無名のパジャドールでエスカジーラ家の乗用馬車の御者を勤めた事もあり,ガルデルをガウチート・デ・エスカジーラと命名し,彼の出生の秘密を知っていたと思われる人物。タクアレンボー地方のエリアス・レグレス文化協会の設立者とも云われているが,歴史的には全く表面に出てこない。

②:エリアス・レグレス(彼はバジャドールではない)
ウルグアイ地方サラディ・デル・ジで1861年生れ,
医学博士,大学教授,小説家,詩人及び政治家。
モンテビデオで1929年没。

職業経歴:
1883年,共和国大学医学部卒業
1665-1928年,法医学教授,
1888-1897年,後に同学部長
1922-1928年,同大学総長を務める

政治活動:
立法政党の重要な党員,
1898年フアン・リンドルホ・クエスタにより設立された枢密院のメンバー,
1899-1903年間ローチャ市選出代議士,

文学人生:先天論者的詩人,劇作家,
1894年5月24日創立のクリオージャ協会創立者委員長を務める。
劇作“ビエホ・パンチョ”にハビエル・デ・ビアナとアントニオ・ルシッチと共に参加。
1895年にアルシデス・デ・マリアとオロスマン・モラトリオらが設立した“エル・フォゴン(かまど)”誌の刊行に協力。これはラ・プラタ地域のガウチョ風文化ジャンルをテーマに編集された。フアン・エスカジョーラ,マリティアーノ・レギサモン,ドミンゴ・ロンバルディの面々が参加している。

文学作品:詩集:ミ・タペーラ(我があばら家)1894年作,
バスト・デ・クチージャ(まぐさ用の小刀)1904年作,
レングローネス・ソブレ・ポスタレス(はがきの上の文章)1908年作,
ベインテ・センテシスモス・デ・ベルソ(20セントの詩歌)1911年作,
ミ・パゴ(我が代償)1924年作,
ベルシート・クリオージョ(クリオージョの小詩歌)1924年作。

劇文学:“マルティン・フィエーロ”1890年,
ホセ・エルナンデスの詞による芝居を脚色したもの。
“エル・エンテナオ(ママコ)”1892年,
“ロス・ガゥチートス(小ガゥチョ達)”1894年。
これらのデータはウィキペディアによる。
注:フアン・エスカジーラはガルデルの祖父に当る人物。
この人物とガルデルとの直接面識はないが,レグレスの作品“ミス・エスプエラス(拍車)”を1925年に録音している。
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ガルデルとフォルクローレ(1)

ガルデル17歳ごろの写真:モンテビデオにて(1902年)

今年も各地でガルデルの悲惨な事故への追悼記念行事が76回目としてで行なわれた:

①:ガルデルの家博物館(ブエノスアイレス市ジャンジァーレス735)でサァベドリーナス・ギターとコルダルトリオによるアルゼンチン・ギターサイクルの出演。エステバン・リエラ,ルル,フアン・アルベルト・ペイナードとセサル・アンへレンリとパブロ・マイネッティ二重唱。それにアナ・トゥロン所蔵“ガルデルの世界の本”の展示が2011年8月7日まで開催中,入場自由無料。

②:マルデルプラタ,バイアブランカ,リオクアルト,イグアス,サンミゲル・デ・トゥクママン,モンテビデオ,それにチリー,サンフィリッペ・デ・アコンカグァ等各地で追悼祈念式が行なわれた。

そこでガルデルの芸能ルーツを探るのも価値があると思うので,彼が若き頃に歌っていたフォロクローレの世界を尋ねるとしよう。

ガルデルとフォルクローレ(1)
南米小国ウルグアイ,この国の独立後からの地方の伝統とガウチェスカ(ガウチョ風)音楽の歴史の些細な出来事がある。この国最初の詩人とされるバルトロメ・イダルゴと著名なバジャドール達,詩人,文筆家達と彼達の間にパコ・エスピノラ,ウェセスラオ・バレラ,フアン・ペドロ・ロペス,シルバ・バルデス,ルーベン・ルナ等達と,その他数の中にエリアス・レグレス、フアン・デ・ナバとその息子アルトゥーロ,アルフレッド・ゴビ,マリオ・パルド,アルシデス・デ・マリア達の面々は南米ラ・プラタ地域のウルグアイ・クリオージョ詩と音楽分野の歴史に属する特にふさわしいと思われる人物達だが。驚く事に,このリストに載らない傑出した人物で,並外れた最高の歌唱芸能に卓越した一人の人物に触れていない事である。その名はカルロス・エスカジョーラ・オリバと称せる人で,限りない不運な生まれの結果の為に“カルロス・ガルデル”と自称した人物である。紛れも無く彼は,この音楽分野の世界において,タンゴの王者として万人に広く知られているが。少年期から青年(1900-1905年頃)になる頃にかけて,彼の生地であるウルグアイ地方のタクアレンボーと首都モンテビデオで生活をしていた事実は,多くのウルグアイ人すら知られていない。しかしながら,彼は生れながらの歌唱への天性才能に恵まれて,歌い初めの頃に接したラ・プラタ郷土民謡,即ちフォルクローレはルイス・ビジャルビなる無名のパジャドールにエリアス・レグレスのトリステなどの歌い方の手程きを受けたもの。その後の彼の芸能活動に強く深くも影響した。そして,後に卓越した歌の数々のスタイルはカンシオン,バルス,エスティーロ,トリステ,サンバ,トナーダ,シフラ,クエッカ,ランチェーラ,チャカレーラ,ビダリーダ,ガトと,そのレパトリーは百曲余りに到達する。それは彼が,あのタンゴ“ミ・ノーチェ・トリステ”を歌い,一躍有名になる前の無名時代の知らざれるガルデルである。

ガルデル若き頃