2010年9月26日日曜日

ガルデル出生の謎、続編(4)

若き日のマリア レリア(ガルデルの生母)

1905年:7月25日、ガルデルの生母であるマリア レリア オリバ デ エスカジョーラは35歳で死亡。
再びエステバン カポーの証言:ガルデルはその頃にブエノス市内、カンガージョとサルディ カルノ通りのパグリアー二 ボール紙製造所で働く(1904~6年11月頃まで)

1906年:ガルデルはこの年11月に再びモンテビデオに現れる。
下町の南側カマクアとブレチャ通のバーで歌う。
タクアレンボーにある、ウルグァイ土着民博物館創立及び館長ワシントン エスコバールがガルデルに何処から来たかと聞くと彼曰く“俺はここの生まれ者、余り来ないけれども”と応えたという。

『ガルデルは1933年ごろバルセローナの記者のひっこい質問に答えて“貴方は何が知りたいのか?、私がフランス生まれの存在を自慢するかつて、、、好感が持てるからかい、この様な質問には断定的に回答を控える。皆はこれで多分満足と悦にしたえるだろう!”

記者の質問:“しかし、貴方は本当にアルゼンチン人でしょう”
“同じ様にアルゼンチン人とフランス人です。まあ言えば、そんな事は絶対的に全然関係なし、本当はモンテビデオ出身、ウルグァイの首都。あそこで幼児期と青年期を過ごした。』
そして、付け加えて“最初二回のコンサートを同年輩のバンドネオンとギタートリオでモンテビデオのある場所で開いた事もある”それからブエノスに行き、アルゼンチン民謡のアマチュア歌手として自作曲をバー、カフェーなどで披露したと答えている。

1907年:タクアレンボー地方で人気のあつたギター奏者“エル サポ(カエル)”エクトール ベネビーデスと二重唱コンビを組む。その頃のタクアレンボーのカーニバルに“ロス 7 ロコス(7人の気違い)”流し音楽隊にも参加する。有名なタンゴ歌手のラファエル イリアルテはガルデルがアバスト街に現れる前に同僚“ドミンゲス”の家で行なわれた洗礼式を祝う会合の集会者の中に“エル モローチョ(当時のガルデル)”とあだ名指された青年歌手に会ったと証言している。又、この頃に南米大陸最南端の地ウスワィア刑務所に刑期服務していたらしい説を前編に記したが反論もある。ガルデルが友人に出した手紙(当時存在した?)のサインは彼の物であるとの確かな証拠たるものが無い、その当時は養母の姓を名乗っており、まだ“ガルデル”姓を名乗っていないなどの理由である。

1908~9年:幼児の頃住んだ近くのモンテビデオ市内ダイマン通1077番(現在のフリオ・エレーラとオベス通)コンベンティ―ジョに住み、リベルター広場のムトゥア建物建設現場(現オンダ社)で電気工として働く。又、中心地近くのソリアーノとイビクイ通にあった安食堂屋やパレルモ街、南街などのカフェティン(喫茶店の様な)で歌う。

1910年:当時7月にハリー彗星が見えたその頃、ガルデルはコリエンテス1557番のアナイスとベルタの家に舞い戻る。(隣人カローラ アンへリーニ嬢の証言による)。
バンドネオン奏者マヌエル ピサーロはまだ駆け出し15歳の頃にガルデルが歌っていたオ‘ロデンマンで彼のタンゴでは無い歌の伴奏をしたそうだが、ピサーロの当時の腕では可なり苦労したらしい。ここまで青年期に至るガルデルの生い立ちを追って来たがここで明白に判明された事実は彼の少年期、青年期の生地ウルグァイでの習慣や環境が強く影響されて成人になり偉大なタンゴ歌手として一躍有名に躍進の末でも、またアルゼンチン国民に帰化した後もウルグァイ訛が見え隠れだったとアストル ピアソラは少年期にニューヨークでガルデルに会った時の印象を彼の自伝で思い出を回想している。一方のベルタの実子であるシャルル ロムァルドは2歳半の時に母親ベルタと共にアルゼンチンに移住、当然フランス語は片言に話すまでに成長していたがガウルグァイの地では育っていないので当然この様な言葉の特長もなく、年齢もガルデルより3‐6歳年下であり、彼はガルデルとは全くの別人であるのは明白である。結論としてこの偉大なタンゴ歌手ガルデルはウルグァィ国タクアレンボー生まれで父親のカルロス エスカジョーラ氏の芸能才能と母方の様相を遺伝引き次、シャルル ロムァルド ガルデスに変身するのは不可能なのである。ここまで幾つかの解明されている数々の事実を説明したところでこの項は終わりとします。

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2010年9月25日土曜日

ガルデル出生の謎、続編(3】

ガルデル少年時代:15~6歳ごろ、タクアレンボー、モンテビデオ、タンボール地方を放浪。
1900年:11月カルロス・エスカジョーラの姉エロディーナ・エスカジョーラ死亡。
ガルデルは彼女の娘達マヌエラとアマンダの住むパイサンドゥーの近くのタンボールにいく。ここでフロクローレに接し、冒険的少年期を過ごす。

1901年:タクアレンボー地方の民謡歌マスター及びクリオージョ エリアス レグレス協会創立者のルイス ビジャルビは彼の住むエスパニョール ホテルの食堂の台所で働くガルデル少年を知ったと証言している。かの少年はウルグアイ人悲哀詩人エリアス レグレスの民謡風歌揺を歌いギターも奏でた。当然ながらこの人物ビジャルビがガルデル少年にギター演奏と歌の施しを教えた上に、彼を政治結社会合などの歌いに連れていっている。又、彼がガルデル少年の幼児時代の通称ガウチート デ エスカジョーラとの名ずけた人物である。
他方の、ベルタの実子フランス人シャルル ロムアルド ガルデス(10歳)はこの年4月にピオIX学校に寄宿生徒として入る。しかし、音楽演劇的な才能は見られず、当時の先生と同級生の誰も彼の印象も記憶の元に思いだされる事は無かった。ベルタはガルデルをこの寄宿学校に入れたと証言しているのだが根拠は無い。



ガルデル17歳頃、モンテビデオで撮影された
1902~3年:ガルデルは不分明にブエノスとモンテビデオに登場する。カフェ・“エル・クリオジ―ト”で彼が歌う場面をフアン カセス イリゴジェン氏が見かけている。幼児の頃からの知人エステバン カポーはアバスト地区のカンティーナ{a}やフォンダ(居酒屋)“エル パハリート(小鳥?){b}”に出没する11歳{c}になるガルデルを見かけたと後の雑誌のインタビューに語る。(注:ガルデルすでに16歳の時)“エル パハリート”を店じまいしたポデスタ兄弟はアナイス夫婦の住む殆んど前あたりのコリエンテ通1380‐88番にアポロ劇場を開き、マルティン コロナード作ロマン的ドラマ“ラ ピエドラ デル エスカンダロ(スキャンダルの石)”をアルトゥール デ ナバ出演の元に長期上演していた。当然のようにガルデルはこの劇場に出入りし“クラケーロ(さくら拍手役)を働き、俳優ポデスタやアルトゥール デ ナバトと知己になる。又、パジャドール、ベティノティにめぐり会うのもこの頃である。オペラ劇場でイタリー人オペラバリトン歌手『ティタ ルフォー』{d}に知り合い、バリトン歌手はガルデルにカント(歌い方)の手ほどきもし、又彼の歌をも褒めたと言われている。又その頃にもガルデルはビクトリア劇場の舞台裏方をしていたと言明している。フリオ デ カロの証言(偽の遺言状編を参照の事)によるとガルデル青年は競馬飼育舎経営バルダサーレ家の馬車御者として働いていた{e}。一方のシャルル ロムアルドは11歳になり、引き続きこの年12月末頃までピオIX学校の寮生徒であるが、当然に馬車の御者役を働ける年齢には足しっていない。

モンテビデオの戸籍登録所にカルロス エスカジョーラの名前で登録された二つの記録が在る。
その一つは1895年11月4日付、これはカルロス エスカジョーラ(父)大佐の二度目の婚姻クララとの息子カルロス(1895年当時21歳)であり、別の登録は1902年12月10日付、カルロス エスカジョーラの名前を使った登記。これは17歳になるカルロス ガルデルがバルダサーレ氏にモンテビデオに行くからと休暇願いを申し出た頃の時期にあたる。

1904年:カルロス デディコ、競馬好きな新聞記者及びガルデルが録音したタンゴ“パケティン パケトン”の作者は“クリティカ”紙に1904年当時あるクラブでコンスタンシオ トラベルソ{f}が同伴したガルデルを聞いたと証言している。
この年3月13日:社会主義党代議士アルフレッド パラシオのボカ第4選挙区に選出され、その選挙当選祝いにベティノティとアンブロシオ リオらのパジャドールが歌の即興をする。その会合の終わり彼らはジーノ ガルバルディに偶然に入ると、そこにはガルデルが出演中、彼らはそこで彼の歌う“エル モーロ”と“ラ マニャニータ(夜明け)”を聞く。

この年5月頃にベルタ ガルデスはアナイス ボー夫人の住まい、コリエンテス1557通りに住み込む。シャルル ロムアルド ガルデス(14歳)は成績優秀(全科目10点)で学校を卒業。不思議な事にこの人物『シャルル ロムアルド ガルデス』はこの時期から行方不明の霧に包まれた様に存在不可能になっている。実の母親が息子の行方を捜なかった事も不思議、トゥールーズに存在する戸籍には死亡届欄は空白のままである。当然ガルデルのフランス人としての死亡届はこの戸籍に明記されることも不可能であるからだ。(1935年6月24日に死亡した人物、ウルグァイ人タクアレンボー生まれ、アルゼンチン帰化市民カルロス ガルデルは絶対に法的権限上フランス人にすり替え登録は不可能なのだ。フランス法規はラ プラタ両国の様に容易な寛大ではなく、カルロス ガルデルの死亡届をシャルル ロムアルド ガルデスの戸籍に死亡の届け出は不受理のはずだ。)ベルタもディフィーノもこれらの手続きをした事実の可能性すらない。ベルタは1935年当時トゥールーズに住んでいたにも関わらずである。


注:{a}カンティーナ:酒場をさすが可なり妖しい雰囲気な営業の店
{b}居酒屋“エル パハリート”はポデスタとカロリの共同経営の店、場所はブエノス アイレス市ラバジェ通3102番、1896年のクラフト ガイドに記載あり、1903年のこのガイドには記載されていなく、消滅した可能性あり。
{c}ガルデルが11歳の時とはあくまでもシャルル ロムアルドの歳であり、その頃すでにガルデルは17歳に成長しており、余りにも辻じまが合わない。またまたエステバン カポーの偽りの証言である。
{d}ティタ ルフォの本名はルフォー カフィエロ ティタ。

1902年、オペラ劇場にイタリアーナ抒情詩劇団にてブエノス アイレス初公演、
レパートリは
5月21日:アイダ(4回公演)
6月8日:ラ アフリカーナ(2回公演)
7月17日:イル トロバトーレ(2回公演)
8月9日:ササ(2回公演)
8月13日:カバレリア ルスティカーナ(1回のみ公演)
ルフォーは1908年までブエノスには戻らない。5月30日から9月9日の3ヶ月新しいコロン劇場(現在の)に出演、10曲テーマのオペラを歌う。しかしながら、ガルデルはこの新しいオペラ劇場に出没したと言う事実はない。
{e}フリオ デ カロとバルダサール家の関係は“ガルデル出生の謎”前編を参照。
{f}コンスタンシオ トラベルゾ、アバストの政治ボスでガルデルが出入りしていたカフェ オ‘ロデマンの経営者

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