2010年7月25日日曜日

ガルデル出生の謎、続編(2)

前項でガルデルの生まれた経緯とそのルーツを解明したが、それでもフランス人説を称える派は“ガルデル”は“シャルル・ロムアルド・ガルデス”と同一人物だとする“人物”の誕生。

1890年:この年初めごろ、ロムアルド・ロペス{a}の子供を身ごもったベルタ・ガルデスは、胎児の父親側親族に生れてくる子供を引き渡せと脅かされ、その事情でフランス、トゥールーズのベルタの母親エレーネの元に保護を求めに、6歳前後に成長したガルデルを彼の従姉マリア(ネグラ)・エスカジョーラと友人アナイスらに養育を託して帰郷してしまう。同年12月10日、旧市内サン・ピエレー教会を右側に見て、ガロンヌ川に架かるサン・ピエレー橋を渡った袂にあるグラーブ病院でシャルル・ロムアルドが誕生。不思議な事に旧市内カノン通り4番に誕生記念碑がある。翌11日に洗礼される(出生届#2481、洗礼届は存在する、あくまでもシャルル・ロムアルドの名の元で)。ここで一次世界大戦後にトゥールーズ生まれのフランス人パゥル・ラサレーという人物が父親だとして、ガルデルの前に現れたとあるが(ハイメ・リコ・サラサールの伝記より)。どうももっともらしく、フランス人説を強調するような評言である。理由を挙げれば、ベルタは17歳頃からウルグアイ地方に滞在しており、当時から1890年まで故郷にはもどっていない。
カルロス・エスカジョーラとマリア・レリア・オリバ夫妻は、この年7月15日にフアン・カルロスとフリオ・セサールの双子らの出生届けを約1年後にする。

下の写真:ガルデル(7~8歳位)

1891~92年:ガルデルは伯父クレリオ・オリバの保護の元に『ホセ・オリバ』の名前でドゥラスノ通337番27番小学校に入学する。

1893年:『ホセ・オリバ』こと幼児ガルデルはベルタにブエノス・アイレスに連れて行かれた為に、27番男子小学校を退学する。ベルタは2歳3ヶ月に成長したシャルル・ロムアルド及び8~9歳位に成長したガルデルと1893年3月9日にブエノス・アイレスに到着とAvilis{b}の伝記にあるが、この日付はベルタがボルドーからモンテビデオに入港した日と思われる。ここでガルデルを連れて、後日にブエノスに向ったと判断すべきだろう。エクトール・エルニエ氏による後年の調査では3月11日にブエノス入港した記録あるというが、これも正確では無いらしい。彼女達等がモンテビデオからブエノスに行く為にはドン・ペドロという夜行便船を利用した。この船は3月23日に入港と当時の新聞記事に記録されているという。そして、後年にパリシ氏の子孫の情報によると、この頃マテオ・パリシ(1886年に登場)はベルタに約束したガルデルへの養育及び教育費としての3千ペソを持参し彼女に手渡す。
左:ガルデル7歳の時と9歳位の時
右:シャルル・ロムアルド(6~8歳位?)
二人の写真を見比べて明らかに顔つきが可なり違うので明らかに別人と判断できるだろう。






左:フランチーニ家の娘と上の9歳ごろの時と同時期か?


1894~6年:ベルタ自身の言明によると、ブエノスに到着後直ぐにカルリート・ガルデルはロサ・コラード・デ・フランチーニ{c}に預けられる(この証言も信憑性が無い)。このフランチーニ婦人は架空の人物で本来はエステバン・カポーの母親{d}であるが、後年フランチーニの娘(?)とガルデル少年(9~10歳ぐらいか?)との1894~5年初めに写したといわれる写真が現れる。ベルタ・ガルデスはロサ・カロール・デ・バッカー夫人{e}に実子シャルル・ロムアルド・ガルデスの養育を委託する。実際にはこの頃からアナイスと夫フォルトナト・ムニスが幼児ガルデルの養育を引き受けていた(ガルデルの死後、この二人は彼の幼児期の真の評言者であるためにディフーノにより完全に言動を封じられて絶体にマスコミの前に現れないようにされた)。

1897年:シャルル・ロムアルド・ガルデスはタルカゥアーノ通678番の小学校に入学する。

1897年5月1日、ガルデルの祖母に当たる人フアナ・シジルラが死亡。

1898年:アナイスとフォルトナト夫妻はガルデル少年を同伴してコリエンテス1557番に引越す。この前にガルデルがその少年時代に出入りしたと言われるポリテアマ劇場があつた。
1898年8月30日、法規上結婚9年後にカルロス・エスカジョーラとマリア・レリア・オリバの宗教上の婚姻が認められる。ガルデルは14歳に成長していた。

1899年:ガルデル少年は家庭を抜け出しモンテビデオに行く。(実際にはタクアレンボーへ父母に会いに行くが父親のカルロスに面会拒絶され、近所に留まりパジャドールに知り会い歌を磨きつつも、空しくもモンテビデオに出る)。そこで印刷工として伯父のクレリオ・オリバの元で仕事をする。約5年間ガルデル少年はベルタの元から姿を隠す。当時彼はブエノスとモンテビデオの間を数回に渡り行き来していたらしい。(彼の回想より)そして、ブエノスに帰依るとアナイスのところに戻るのが常だった。彼は一生その恩を忘れずに、後年(1933年頃)ディフーノに手紙でアナイスとフォルトナト夫婦を経済的援助を充分する様に扱うように要請しているが、代理人ディフーノは彼の要請を反故にした扱いをしている。処でガルデルは数々のインタビューの返答を煙幕はり、はぐらかすのが得意だったらしい。例えば、生まれを問われてもウルグアイとかフランスとか、、、父親が誰だとの質問にものらりくらり、、、当然に答らる訳が無い、当たり前だが、、、先祖の職業は?応えて印刷業。これはまんざら嘘ではない。伯父のクレリオ・オリバの印刷場で少年時代に働いた経験があるからだ。モンテビデオ時代(1899年頃)は父親方の伯母に当たるエロディア・エスカジョーラの家、カジェ・セーロ(現在バルトロ・ミトレ)通23番に住む。
ベルタの実子シャルル・ロムアルドは8歳に成長、市6街区2番小学校2年に進級。

注:{a}ロムアルド・ロペスはクレリオ・オリバの印刷場で印刷活字工をしていた人物
{b}Avilisとは新聞記者、エラスモ・シルバ・カブレーラ氏をさし、彼はカルロス・ガルデルの伝記“エル・グラン・デスコノシード(偉大な知ざれ人)”で初めてガルデルはウルグアイ生まれと発表した人物
{c}、{d}、{e}フランチーニ夫人、エステバン・カポーの母親、カロール夫人らは全て同人物でベルタの出鱈目な証言か、ディフーノに指示されてその場ごとにあたかもこれら3人が存在すべく、別人名を挙げていたらしい。

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2010年7月20日火曜日

ガルデル出生の謎、続編(1)


小生のこのガルデル物語は昨年11月から、まず初めに彼の“出生の秘密”からスタートした。
今年の6月で75年目の追悼記念が世界中で行なわれて、依然として、カルロス・ガルデルの人気は衰えない。だが、未だにガルデルは1890年、フランス生まれとオウムの繰り返し沙汰である。
彼の歌は益々冴え、SPレコードは全790曲分50枚のCD化された。国籍や生まれが何処であるかどうかは彼の芸術と業績に関係は無いのだが、、、しかし、この辺で彼の真のルーツを数々のデータにより明白にするのも無駄ではないと思う。
右はウルグァイ東方共和国の郵便切手、2004年発行された物、上のガルデルの写真と比較ください。

上の写真は説明がない二人の人物もので、右が一目してカルロス・ガルデルであるとタンゴフアンなら判断できるでしょう。処で左の写真は誰でしょう?、人相学とかの専門知識の無い人でも、明らかにガルデルとこの人物がガルデルと瓜二つの様にあまりにも似ていると判断出来るでしょう、、、。では下中央の写真を見てください。実は上の写真と同じものですが、写真の下に説明文があり、左の方はクレリオ・オリバとあります。ではこの人物はいったい誰なのでしょうか、又ガルデルとの関係はあるのか無いのか疑問が沸いてくる所です。説明文には生母マリア・レリア・オリバの実兄に当たる人とあります。ということは紛れも無くガルデルの伯父に当たる人となります。もうご存知の通りガルデルは1890年12月11日(タンゴの日)にフランスのトゥールーズ生まれとされ、本名シャルル・ロムアルド・ガルデス、母親はベルタ・ガルデスと言う事になっています。今でもアルゼンチン、コロンビアでは多数の人がフランス人説を根拠もなく妄信的に唱えています。処で、オリバ苗字の人物達は何処の出身地でしょうか?それはアルゼンチンの隣国ウルグアイです。まさにこの両国はラ・プラタ地方の兄弟国といわれ、タンゴの発祥地そのものずばりの国。ですから、不動にカルロスかカルリートスの名を上げるとすると、私はカルロス・ガルデルがウルグアイ、タクアレンボー生まれを指し、そして言い加えればフランス人、シャルル・ロムアルドはベルタ・ガルデスの実息子である事は真実ですが、しかし、ガルデルとは全くの別人であり、彼の死後に偽の遺言状により偽作されたものと判断します。上の写真の説明文の彼の伯父が存在し、生母は彼の妹マリア・レリア・オリバであり、ベルタ・ガルデスではないとなります。と成れば、これは簡単にフランス人説を鵜呑みにするわけに行かないのです。すでに『ガルデル出生の謎編』でこの事に触れていますので重複するのですが、ガルデルの生れた経緯概要を簡単に説明するとします。

1882年:ベルタ・ガルデスは17歳前後にモンテビデオからタクアレンボー近郊のコラーレス鉱山に行き、3年ほどアイロンかけとして働く。又アルトゥーロ・サエンス(ピアニスト){a}
の評言によるとベルタ・ガルデスはモンテビデオのソリス劇場前のある家、“ラ・デモクラシア(デモクラシー)”紙のディレクター夫人フアナ・ヒル・デ・ダネリ経営の婦人仕立て業兼フランス人向け下宿のアイロンかけの仕事をしているのを見かけている。

1883年:この年のころ、カルロス・エスカジョーラ名誉大佐はブランカ・オリバと婚姻中であつたが、ブランカの末妹少女13歳のマリア・レリアをたぶらかしたか強姦する。

1884年:カルロス・ガルデルの誕生(11月21日説あり、タクアレンボー郡第二地区司法所の登録による)。この出生は隠蔽され、賄い婦マヌエラ・ベントス、又はカスコかモーラ{b}に預けられる。この女性は一生名の知れぬ存在(取るに足らない人物)扱いされた。

1886年:カルロス・エスカジョーラ氏はブランカ夫人の自殺により2度目の男鰥夫になる。
ベルタはエスカジョーラ氏の経営するキャバレー“ラ・ロサーダ”に踊り子として働いた過去があり、氏とは旧知であった。ガルデルが生まれた2~4年後の時にマテオ・パリッシ{c}に要請され、養母として国外に連れ出す様に高額の一次金(三千ペソ)と毎月の養育費を払う約束の上に依頼されるが、彼女はこの申し出を引き受けたが、直ぐにこの要求を実行せずにガルデルをモンテビデオの下町に連れて行く。場所は当時のイスラ・デ・フローレス通り、現在はカルロス・ガルデル通りと命名されている所。時はガルデル4歳、幼児の彼は従姉のマリア・エスカジョーラ{d}とアナイス・ベアー{e}らとコンペンティージョに住み、1893年ブエノス・アイレスに行くまでここに住み着く。

1887年:ベルタはクレリオ・オリバ氏の経営する新聞“エル・ヘラルド”の植字工ロムアルド・ロペスと後年関係を持ち身ごもる。(カルロス・ガルデルは後年、1887年12月11日と自己申告による出生届出す)

1888年:カルロス・エスカジョーラはマリア・レリアと教会の宗教上結婚の免除を受けることを前提に同棲を始める。

1889年:4月20日、マリアの妊娠の為に、カルロス・エスカジョーラとマリア・レリアは民法上の結婚手続を届ける。5月15日、オダリエ・ドゥカセ・デ・カポーと1882年1月23日生まれの7歳の息子ステハン(後にエステバン・カポーと名乗る)同伴でボルドーから客船コルドバでブエノス・アイレスに上陸。(シャルル・ロムアルド・ガルデスがトゥールーズで生まれる1年半前のこと)。『1935年6月28日、メデジンでの悲劇的事故の3日後にブエノス・アイレス市のクリティカ紙にベルタ・ガルデスの息子をトゥールーズで知っていたと(偽の)評言をする。この評言は明らかに歌手(ガルデル)とベルタ・ガルデスの息子と同一人として融合させる意図の証拠である』。ここまでのデータは『ガルデルのフランス人説派』は全く無視しています。要するにガルデルの幼児時代を抹殺しているわけです。
7月8日:マリア・レリア・オリバの父親フアン・バウティスタ・オリバはおそらく二女クララの自殺などの家庭スキャンダルに圧倒された上に精神異常で果かなく世を去る。カルロス・エスカジョーラはこの家庭の絶対権限を握る立場になる。11月21日ホセ・オリバ(幼児ガルデル)は満4歳に成長。
注:{a}アルトゥール・サンエンス:ウルグアイ人、タンゴのピアニスト、モンテビデオの下町の一通りを題名にしたタンゴ“イスラ・デ・フローレス(花々の島)”の作曲者。
{b}マヌエラ・モーラとしてAVILESの物語ではガルデルの生母として登場するが、これは何かの間違いだろう。
{c}マテオ・パリッシ、カルロス・エスカジョーラの先妻クララ(マリア・レリアの長姉)の娘婿。
{d}マリア・エスカジョーラはカルロス・エスカジョーラの妹エドナ・エスカジョーラの娘。
{e}アナイス・ベアーは1873年に父親マテオ・ベア-と母親ソフィア・エリザベス・ジャカウメ及び二人の兄弟アグスト、ヘンリらと共にブエノス・アイレス市のカタリナ岸壁に到着、家族のパスポートはフランス、ローネ発行とある。
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左の写真はオリバ家の女性達、前列右がマリア・レリア・オリバ、ガルデルの生母とされる人。

2010年7月15日木曜日

ガルデルの思い出(3)ホセ・アギラールの回想から














左の写真はホセ・アギラールがガルデルのモニュメント建設促進協会を発足させて、ラジオ放送で民衆に協力を申し出る演説中、氏の後ろ方は彼の夫人
右はご存知チャカリータ墓地のガルデルのモニュメント:

ガルデルのモニュメントは民衆達の崇拝が、この歌手の為に敬意表現したもの:
民衆は詩人達を望み、歌手達、音楽家達も、、、その人達全てを、その様式と別の、心から語り、彼らの意識心を動かし、人生を解釈する、、、
ホセ・マリア・アギラール‐ガルデルの最終人生における不別離的同僚‐だったが、モニュメントの話を我々にし、すでに彼等友人の夢を呼び起こし、人の局面を占める位置を与える全ての公正に支援し、変貌し、その声は百万の人間の感動へと続く;
ある広場の、ある角に、生きた様なガルデルの姿の視界を想像した高さの方向に形態を立てる様子であるらしい;チクラーナのその様に、我々の通りがかりに現れる、ボヘミアンの悲哀と苦悩の持ち主フロレンシア・サンチェスの様な姿。

ガルデルにモニュメントを:
ガルデルのモニュメントはどの様に出来るだろう?、、、この様な率先を取る時心が満開し、誰かの脳裏に、同時に過ぎ、かの友人の肖像をブロンズか大理石で永続を強められる感じで、親密から生れた感情の眼識と共に全ての民衆の、何者もが無関心に留まり無く、何者も手を拱いてはいないだろう。
ガルデルへのモニュメントはこの目的に無数の自発的な協力者を持つだろう。
オリジナル・アイデアに危険は無いだろう、それは逆だ、民衆が誰か、心を獲得する所を知っている、ガルデルの様な人物を慕う誇示の証だ。幾つかの提案があり、一つは立像、悲劇の象徴化を求め、別のはギターを奏でた、歌う姿の希望。プロジェクトの数は果てしなく。しかし一つのみ実現可能、それは、どれかとしても、要約すると根本的なアイデアとは別の物ではなく、それは簡単にガルデルのモニュメント。

アギラールが我々に語るには:
すでに貴方はご存知の様に恐ろしい災難が起ってから、実演から遠ざきに留まり定期的にカルリートスの回想をしていた。本当だとも、際立った様に、メデジンの悲劇の15年忌をこの一ヶ月に果たしたばかりで、痛みの和らげられない時の中に生存した特権の悲しさを割りあてられた私は墓地行きに振るい立ち向かう。
何故かつて、友人そして同僚の墓に近ずく力を感じえずに行っていなかった、、、上司以上に価値のある、彼と共に我々が働き,全ての為の人物だったが、何故かと言うと、世界中を渡り歩き我々の歌を運んだ人。
ガルデルはアルゼンチン人のグループの指揮官の様だった事を知るべきで、、、ガルデルがタンゴをパリとニューヨークに運んで行った事は誰も忘れない。全地域にそれを授けるのを精通し、多分タンゴは民衆達の一つの表面化、民衆達は常に相互理解する、、、

貴方はどの様にこのモニュメントの支援アイデアが湧き出たのですか?
沢山の動機が私をこのアイデアを友人グループに陳述を駆り立て、そして最初に、彼らの協力を依頼した。記憶するが、ある人物が最も評判がある芸能人連の委員会を結成する様に私に助言してくれた。何故かつて彼等は、明白に、民衆の支援を簡単に招くだろう。私は少なくとも誰も無価値扱いは出来ないと答え、しかし真実の断言を信じ、これらは必要では無く、何人かの芸能人達は彼等自身言及を負い、、、ガルデルの名前の前で民衆の協力自発性を引き寄せる必要な為にどんな名称が相応しいのか?その名前は大衆を招集させる、、、
カルロス・ガルデル;民衆の援助を得るためにこの名前以外の必要性を誰も挑ない事を仮定する。
その通りだ。確かに、、、にも拘らず、追悼組織の形態を施す必要がある。

委員会の組織:
私は引き続き話し合っている友人達と最初に二つの委員会が必要と考えた、、、全てを成し遂げる責務の保障が必要な名誉委員会が一つ、そして、当然、一人の著名人、同一に、財務運営を理解する責任者、これと別にして経営特微委員会、敏捷な委員会、活動を直活把握する部分、効果成就と仕事の期間を無駄にしないこと。
この二つの委員会は完璧に一致して仕事をするべきで、また相互理解の上で、一般寄付は即時に資産に注ぐと仮定し、何らかの宣伝方法の必要は無く、単にアイデアの普及で理由が立つ。我々の目的達成はこのモニュメントが当面の意向と全国感情を見つけることである。それは、唯一つブエノス・アイレスの市民の寄付でなく、同時に県地方と全国民が寄付すべきだ。最も遠方のパタゴニアの民衆から最も離れた北の片田舎まで、その寄付は端せられなければ成らない。モニュメントは共同作業方法になるだろう;全体の努力、支持され、それゆえに、より大きい重要性;象徴ずけられ、紛れも無く、ガルデルとしての様な芸能人を証にしたい住民感情、彼への賛美、永続させた思い出。

“私は誤りを犯せない”
あまりの感激、感激以上に、情熱、アギラールは彼の発言を述べる、民衆が与える回答の信頼を満し、機会の到来、このガルデルのモニュメントを立てるという名の、沈黙に耳を傾ける、信念を尊重して。
‐一息を入れた後で‐長々と抱き続けた夢と瞑想を効果的に民衆が影響を及ぼせるやり方に関して言えば、私は誤りを犯せない、、、

彼の言葉を待ち我は耳を傾ける事にした、我々に言うには;
何時も通りへ外出するが、、、私は何者でもなく、、、一人のギタリスト、カルリートスの一人の友人、ちょつと前からの、我々の親愛なるカルリートスを焼け焦がした炎から命を逃れた、メデジンの、あそこに居た悲しい特権。そして、世間は私と認めて、一歩ごとに私を見守る目に出会う、、、。私の名前を呼ぶ、背後に聴こえる、、、カルリートを忘れない誰かが、多くの場合涙ぐみ私に彼らの腕の中に握手で向え、、、このように誰かが私にする事は私への行為ではなく、私の知らない少女が涙ぐみ動揺するのは私の為でなく、それは全てカルリートスに向けた行為、、、。
私は彼の影に過ぎない、、、私は一介の招霊、多分、その様に我々は余にも悲劇的過去の持ち主、驚くほどのように生存した。だから、民衆が分散させる情熱のモニュメントは彼に値すべき、また外形に値するのと偉大な情愛、彼の名前に花咲きの常時取り巻く永久なモニュメントを立てるアイデアの援助関係に私の誤りは犯せないと断言する。

ガルデルの偉大な友人達:
ガルデルの偉大な友人達、一握りの友人達が存在する、、、彼の回想の丁重な友人達、、、彼の死に涙を流し、常に彼を回想する、生存中に敬意を払った友人達、、、それらの友人達も同じ様にこの創意を分担するだろう、、、これは自然な成り行きだろう。彼らは誰よりも優れている、適切な助言を与え、適切な言葉を述べられるだろう。民衆との親密関係をつける芸能人も同様に任命しなければならない。民衆を理解し、私は言おう“単に歌手、その者以上ではなかった”、単に歌手その者以上ではなかつた人物への、この民衆情熱を理解した人物、、、言明可能で、唯それだけのこと、、、“唯の歌手”何故かと言うとこの言葉の意義はいずれかの視野の理解力にある。歌手達や詩人達は多くの名称をもっている、思い出を保持し、彼等は非凡な天性に到達した。
彼らは征服困難、彼等は夢み、感じ取り、望みか懐かしみ、彼等の為に天性断言する、、、。
アギラールは徐々に激情を隠さずに彼自身の言葉を言い切る。我々が聞いて居るのを理解して、一言一言続けながら、そして休止する。これらの感情の為に、これらの事項が我を忘れさせ、、、。だけれども実は他の方法でカルリートスを語るのは出来ないのである。無関心に、冷淡な口調では語れない、貴方達理解できますか、、、
確かに、理解しますとも、、、

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2010年7月10日土曜日

ガルデルの思い出(2)ホセ・アギラールの回想から

1950年7月、雑誌『アンテナ』のインタビューは続く:
彼は大変裕福になりましたか?
いや、、、ところで、、、思い出すが、
彼は最高に評価され、、、豊富な所得を得たが、、、

ガルデルを雇い入れる為に:
勝利のニューヨークでの後で起きた、、、勝利驚嘆の、、、最も偉大な勝利。
あの瞬間にて摩天楼の都市の夜空上に、湧き出た文句なしのスター;
ビング・クロスビー、、、

間が空き。

ガルデルがタンゴを習慣ずけた、かのスタイルを、歌謡タンゴを、、、
ある米国人ディレクターが1938年に予測した、別格の歌手だけ出なく、スクーリンの神聖な大主役の様に、、、民衆の歌手、一つの芸風、一つの情趣、俳優同然、偉大な歌い手、並外れた感動的な気力、これらはすでに話したが、、、
その通り、、、すでに思い出の順序として述べたが、、、
別の出来事の話をしたかったのだ、その成功の後で、アルゼンチン放送、すでに今は無いし、思い出すにも価値が無い、
ガルデルは一定期間の出演に大きな報酬を要求するか?
多くの要求をするか?と尋ねてきた。

右の表は北米ラジオ放送番組、太線:カルロス・ガルデル、バリトン、KJE(放送局名)ウエスコン1934年1月19日、シェトガンプレス紙

“放送局に推薦しよう、、、”
その仕方は共感少ない世論調査の結果だった、まさに私に世論調査をしたのだ、、、
私は彼らに答え;
“皆さん、、、カルリートスは50センターボだけでも歌ったさ、、、
いやもっと少ない報酬で歌ったさ、ボーカでね、カリサイでね、たったの30センターボでね、、、凄く安い契約を結んださ、、、
質問:“そうですか、、、しかし、今は?”
今は日取り4千ペソを稼ぐ、、、
では、我々が占有権を得るためには如何すれば良いでしょうか?
“そう、彼にラジオ放送番組の出演を提供したら、、、多分受けいれるだろう。”

アギラールは微笑、そして語る;
勿論、、、カルリートスはこう返事しなかったろう。
余りにも人が良すぎる、、、
全部許すだろう、失念まで、、、この時、男の中の男を防げずに、
まさに完璧、とても紳士で高貴と決定的。
ディレターが彼は未来のドラマチック大俳優と考慮すると我々は聞き込んだ、、、
それは真実である、、、彼のフランスでの最初の映画の後で、ニューヨークでの活動の間、我々は彼の歌の業績を話題にする、カルリートスは絶対に出演、演じたことは無く、劇場にも、映画のセットにも、彼は唯の歌手、唯それだけ、その様に彼は考え、彼自身断言していた、、、
でも映画では本当の俳優を演じていたが、、、
勿論、そのものズバリ、、、歌う時に演技していたのを彼自身気が付かなかった様に、、、
情熱に真に迫り、心を動かされて、、、
唇から出た詩とことばは仕草が伴い、表情と慈愛を満たし、、、
だから並外れな彼の成功と感動を伝え到達させた、、、

ディレクターはなんと言いました?
あの頃のフイルムショーを検討し、その後彼の舞台をも検討して、、、
“疑問の持ちようが無いと、、、そして、断固として我々に保障した;
1938年、において、カルリートス・ガルデルは歌のスターとドラマチックな演技杜を我々が知る世界を誰よりも勝ったと尊敬されるだろう”。
この時代に何人かのラテン人俳優がハリウッドで凱旋したが、ハリウッドは広大に扉を開け世界中を説得する準備した。

ビング・グロスビーも同じ様に:
当然、思い出がもう一方を引き寄せる。思い出がビング・グロスビーの見解が覗かせる、

ガルデルを知っていた?
聞いていた、、、感銘した?
ガルデルは何時も衝撃を与えた、、、タンゴを理解できたかどうか。
彼の感覚、彼特有のもので随一のガルデルの物、、、
誰以外でも周知の国民性、彼らは感動した、、、
その上に、この様に歌ったとき、
興奮と感動は普遍化し、人間さを取り戻す。
ビング・グロスビーの見解はこの通り。

彼の発言は?
私に語るには、私の記憶だが;
“唯単に私は野心を抱くとしたらガルデルがブエノス・アイレスに歌う様に、
ニューヨークの為に歌いたい”。
最後の良識、、、それは明解、、、全てのポピュラー歌唱者の最高の大望、
ガルデルが彼の歌に完璧に到達した様に、それは彼の独特性のもの、、、
その道ずばりがビング・クロスビーの熱望、、、
言明をためらう、同じ様に彼の偉大な素朴さ、、、


ガルデルのモニュメント{a}:
今ここでガルデルのモニュメントについての話をしたい。
アギラール彼自身が沸き立たせたアイデアで。
思い出すのだが、数日前にガルデルの15年追悼記念日を迎え、その日にメデジンの悲劇から初めて、アギラールは家から外出しカルリートスの墓標まで行くのを応じた。
あそこに、その墓標の脇で、ある時期から熱中していた、ブエノスはガルデルにモニュメントを授けるべきだと、このアイデアを初めて論じた、、、数々の望みと回想させるモニュメントを民衆から生むべきということ、彼への敬虔と回想らを高貴に配置させ、、、
何か具体化案か関連計画は?、、、
彼らの賛同の精神的支援を求め、有形援助や仕事による協力を友人達に当たっているんだ、、、サンティアゴ・ロカ氏、リカルド・バカレッサ氏らの紳士達の了解を得ている、、、
その上に大勢になる、、、職業は問題外、、、単純に仕事を援助してくれるのが重要だ、、、
彼等達が多く参加の努力を理解して、無欲と犠牲精神を無条件責任感で仕事を請け、、、

課題は困難と考えますか?
民衆は異議無く応じると思う、、、ためらいは無いだろう、、、その莫大な集団の意志を誘導しなければ成らない:誘導し、真実のやり方を与えなければ、、、
話を続けましょう、、、良いでしょう、続けても、、、何故かって、
ガルデルは一つの課題以上のもの、それは大衆の情熱その者ずばり。

注{a}モニュメントとはチャカリータ(エル・オエステ墓地)の銅像と後ろの廊霊を指す、これはホセ・アギラールの努力により1951年頃に今の場所に作らたれた?(別のデータでは1937年12月ともある)

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2010年7月7日水曜日

ガルデルの思い出(1):ホセ・アギラールの回想から


1935年6月のメデジンの惨事から奇跡的に生存したアギラールは度重なる不運で16年後の1951年12月21日、ブエノス市中心地の繁華街のビリアード場から出て、前の歩道を横断中に車に跳ねられ、その傷の元で肺炎を併発して60歳で没した。
その1年前7月頃に、ホセ・アギラールがあの当時の思い出を雑誌『アンテナ』へのインタビューに語たった、その回想を続け様と思う:

メデジン、あの場所、あの日付け、あの日、あの間、、、
血生臭い炎に照らし出された黒い堆積物。
火炎が鎮火した。
突然ある夜によみがえる。
世界中に名前が渡り響く、
メデジン、、、ガルデル、、、アギラール、、、
かの運命は飛躍した気紛れ。
かの運命は神々の。全能な。絶対な。

ニュースをついに論じる誰かがいる;
嘆く誰かがいる。
怒りに握りこぶし固め振りあげ、涙におぼれた誰かがいる。
影の間で‐夜が落ち途方も無い悲嘆と痛み‐消えた炎、離れ、
苦しいしかし生きた化身、一人の男の亡霊。
彼はアギラール。彼はアギラール、その彼。
その彼は生存者。
即死当然の、炎から助け出され、
犠牲者の、、、いや犠牲者ではない、いや違う。
このたびに苦痛が開始される。
生気に至るでも無く、苦痛は再び留まり、
死亡に至らない長くひどい苦痛‐痛みの全て終わりと、ひと休み‐。
繰り返しの悪霊の痛み、全ての残酷の先向こうの、
処罰の肉体に激痛が執拗に捕られて。
苦痛、一日、次の日、痛みは過去を彷彿させ;
痛みは瞑想の未来。
惨事から生き延びて様に、アギラールは苦痛に生き延びる。
しかし惨事はかの苦痛は痕跡を残す。

そして、全てにも拘らず、苦痛は気高く。
それだから、暗黒の夜の彼の黒眼鏡の後ろから、
全てのハーモニーの持ち主だった手を損いの身振りから、
生存者の魂が心を動かされる言葉の申し出、
誠実な、決定的に高尚な。
ギター、紳士よ!
そこにある、抜け殻と仮し、いく他の時の過ぎ日々の、
親愛の指々で愛撫する、弦の元で耳に快く響きわたるべき、
ギターは腐り果て。

アギラールは我々が見るのを確かめる、
我々が見るのを無言にて、その一警を感じ届け。
ギターとギタリスト、それは同じ物体。
重々しい声のアギラールが断言、我々の思いつきを見破る;
ギター、紳士よ!
だとすれば、このギター。
このギターがガルデルを伴奏した。
彼のけっして消え去る事なき声の響きを結びつけた、このギター。
心を迎えいき、ハーモニーと語りが共に行く。

唯一つ、肘掛け椅子の腕の上に支えられて、
弦を引き絞り、、、だけれども音も無く!、、、
アギラールはゆっくリと歩む。近ずき見詰め、
おそらく、我々の様に見詰める。

しかし夢の世界の、思い出の、
とはいえその黒い眼鏡の裏に隠される、
回想は彼の視覚を過ぎていく。

今なんと言ってよいだろう?:
でもいいだろう、、、
我々は何も一握りの質問の答えを探す気はない?
しかし、何を質問できるだろうか?
アギラールは腰掛ける。
タバコに火を点けるのを探り。
その後でゆっくりと燻らし。

壁には数々のガルデルの写真がある。
思い出、記念額、あれは、見捨てられて、忘れたよう、
だがこの様な悲劇の中を命が生き延びている!、
それはギター。

今なんと言えるだろうか?
不可侵の沈む静粛な黙想が存在する間、我々は沈黙のみ。
何も言うこともなし、何れかの都度、
多分早々に、アギラールは思い出を満たすだろう、
数々の逸話を、過ぎ去った同房愛への見解を。
我々に数多くの沈黙の事柄を伝えるだろう、
我々に何人へも語らなかったさまを語るだろう。
何故かつて、その年のガルデルが全盛を極め、
素晴らしい人格を明かにした。

彼の脇に、あそこに誰もいなかつた;
その年の奇妙な異質な観衆達の人の心を捉え;
その年の祖国の郷愁心情-街、街路、末端片隅の-
極小の全て凝固させた、制限無しの勝利の満足を結び着け。
そして、彼といっしょの親密な業績。
リハーサルにて。
創作にて。
レパートリーの選択にて。
繰り返し試みて。

群集の心を揺さぶる、
感動の感触で各詩節を探し出す。
そして宿命的の瞬間。

最後の瞬間まで:
この様に生じなければなら無い様に文面に書かれていた、、、
その様に成るように、、、
宿命論的諦観?
‐出来事、多年にわたる彼の脇で。
あの日も一緒に居ないわけは無い?、、、

いっ、時が過ぎ、意識を回復し、ただ一つの質問が起こる:
カルリートスは如何した?、、、“真実の答えは無く”。
私は死んだのも当然、、、
死に神に取り付かれた我が身に力も願望も無く、、、
断言できるは騙されて逃げ出した、、、
彼の元に帰り、彼と私は共に歌い付き添うのを信じていた、、、

(午後の窓は紫色に染まり始めつつ)

その後で真実を知る、、、命は新しく私の両腕の中にあり、、、
如何しよう?、、、生きる、、、更に深い嘆きと共に、、、
孤独の男に過酷な苦悩。
彼に道案内された我が全人生。

多くの事を理解到達できた日々の仕事にて、、、
彼の性格の特微、彼の心理学;限界なき情け深き表情、、、
何故かつてカルリートスは根本的な善良人、、、
根本的な善良人?
その通り、、、情け深きは彼自身の一部分、、、

その情け深さが彼の洗練された親交を生む;
全ての上に親交を優先した。
何故かつてその様に気持ち良く乱費し、
財産も乱費し、、、
所有財産も、所持品も重要せず、、、
彼が惹きつけるのではなく、
彼が休み無く仕事するのでは無く、
突然にキリストの様に昇天した、、、

上の写真はホセ・アギラール夫妻
中右:9・デ・フリオ大通り、オベリスコを望む、
    1971年2月写す
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2010年7月6日火曜日

ガルデルへの75年追悼詩



















このポスターはフランス、トゥールーズで行われた、
ガルデルの75年追悼記念ポスター
75年過ぎし日、不可解な通り過ぎのあの日、

君のポルテニャを、

おぼろげな光の灯を燈す、

コリエンテス通りと、エル・アバストの外、

因惑荒れ、全ての民衆の瞬きの動きとめて、

君の不意の酷い旅立ち、激しい非嘆もたらしの嘆き

すべての世界の梗概、

運命が呪われていたといえども、

君の人心に閉ざされた情熱、

あたかの過ぎ日々を扱い続けるように

君の姿は我々のタンゴを、

不死身のイコンにかた変えた。


乗り合いバスの鏡から、

君の幻はあたかも思い出をふくらまし、“ソルサル”、

“エル・モローチョ・デル・アバスト”、

“エル・ブロンセ・ケ・ソンリエ(微笑みかける銅像)”、

“インバティブレ(無敵)”、

親しみこめた通称の数々、

カルロスは“日毎に優れ歌う”と流れ溶け合う。

君の肉体は多くのポルテニョの同じ人生終止符に休息、

しかし、君の声、妖精は、微笑みながら、

ブエノス・アイレス中をひらひら舞い。

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2010年7月4日日曜日

各地のガルデル75年追悼行事

ガルデルの75年追悼記念が各地で行われる:












ガルデル75年追悼記念ポスター、
ブエノス・アイレス市
1:カルロス・ガルデルの家博物館:追悼行事、6月24日、午後6時30分

2:トゥールーズ:ソルサル75年追悼記念、

3:メデジン:あの日の午後、微笑みを浮かべて、鳥のさえずりと共に姿をくらまし、花々の色彩は青ざめ。静粛のマントが時を撒き散らし、その時からエンジェルのコーラスが君の歌を伴奏する。

4:ロサリオ市:FM Tango de Rosario 98.5Hz
    http://www.fmtangorosario.com.ar/“この特別週間にて、ガルデルの特別番組”放送

5:エル・タンゴは75年のカルロス・ガルデルの神話を追悼する。

6:ブエノス・アイレス:2010年6月23日、EFE
 “エル・マゴ(魔法使い)”のフアンらは木曜日にチャカリータの彼の墓前で追悼パレードを行った。

7:日刊紙プレンサ、2010年6月24日:75年前にカルロス・ガルデル死す
  不可解に囲まれたガルデルの人生、死にまでにもまだある謎々。

8:ガルデル、マドリードに75年死後に舞い戻る、 ガルデルは1923年12月にアポロ劇場に笑顔と共にデビュー

9:ナシオン紙、2010年6月23日(水)タンゴはガルデルの為にすすり泣く、 崇拝者カチョ・カスターニョのお喋り

10:カナダ、トロント市、 タンゴ歌手カルロス・ガルデルの死後75年でも忠実な信奉者が後を絶たない

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