2010年5月31日月曜日

パリのガルデル(5)ホセ・アギラールの回想から
















バルス・クリオージョ{a}唯それだけ:
席を立つ気配がして、
彼はホールの角に場所を確保する、
用意は万全、我々はガルデルを伺い調子をあわせ、、、
ガルデルが声低く、我々に仕唆をする、
何か胸の奥で心が憂さぶり;
その刹那のガルデルえり抜きの、、、
“アニョランサ(郷愁)“…我がワルツ!…
頭をギターに塞ぎこみ、我々演奏を開始、
ガルデルの声はより高く、朗々と、磨きとる、
感激にあふれ、詩文を語りあげ、;


El cielo helado mato las flores
凍てついた空が花々を枯れ抄くし
que florecieron en mi rosal,
我がバラの木に開花する
y de los tiempos de mi amores
そして我が愛の時期
solo y desierto seta el barandal…
孤独と荒涼に命塊の地覆、、、
Esta en el patio la misma fuente
ここにあるパティオの泉同様の
que mis canciones logro escuchar,
我が歌に従い成し遂げる
pero a su vera, con voz dolente,
しかしその傍らに、痛みの声
el cruel invierno viene a cantar…
むごい冬の訪れからの歌、、、

驚くべき静寂が支配した。
ガルデルが歌い続けるあいだ、
全ての参列者は思いにふけかえる。

Los golondrinas que ayer tejieron
昨日巣を張るツバメ達
Su amante nido lleno de amor,
愛で満たされた愛しの巣、
Se consultaron … y ya se fueron
そうだんの果て、、、もう飛び去っていく
hacia otros climas de mas calor,
別の気候のより暖かい、
Los copos blancos van sepultado
白い卵らを覆い隠し
Todo lo hermoso, todo el amor,
全て美しく、全て愛、
y ya en las almas seta cantando
そして、すでに生命の塊がさえずる
la musa triste, la del dolor,
悲しみのミューズ、彼方のくるしみ、

歌い終わった時には拍手も無く、多くは立ち上がり、
幾人かは顔隠し、近ずいて我々の手を握り絞め、
能裏に残る瞬間事。


その午後の参列者は:
バルス・クリオージョ-唯のバルス・クリオージョ-
感動勢いの抱きが持ち上がり、、、
しかしながら、実は我々の古いパティオの中に郷愁の翼がいざない。
あの瞬間に何か留まるアイデアがわきでた。
一枚の紙に、ひょつとすると外交文書に当てられる、
彼らが寄せ書きした、このページを私の部屋の壁に掛ける、
ガラス張りの額縁に、
このように、、、ウルグァイ使節館にて、
そうこうする内に野外は、淡い雪で冬の神聖なセレモニー。
ホールでは、何処かで煌めく上品な歓待、
カルリートス・ガルデル、
我々の感傷的な心に、さらに真深く心揺さぶる。
とその瞬間、“アニョランサス”、
我々の魂に到達した、どちらも同様にゴロンドリーナス(ツバメ)も、
さらに温かみを探しに飛び立ち行く。
何故かってそうではないか、
何故かつて、美の、悲嘆の、希望に類似した感情、
実は最上の心地よい、我々の賞賛の作者を紹介しよう。
そこに全員のサインがある、午後の雪降るパリにて、
思い出のために参加したこの会合に、
思慮するべき遠き祖国に;

以下が我々のサインである:
アルベルト・グアニ、A.ロカフォンセカ、M.サァべドラ、N.J.ビジャグラン、カルロス・ガルデル、ギジェルモ・バルビエリ、フアンJ.デ・モローナ、カルロスM.マルティネス、
ギジェルモ・ブアダス、アルベルト・クエスタス、アドルフォ・シエラー、ドミンゴ・トルテローロ、ホセ・リカルド、最後に我も指間で震えたペンでサインを済ます、ホセ・マリア・アギラール。
そして、、、何故言わなければならい?
あの日の感動の大部分はカルロスに負っている。
この様なエピソードは、数多く浮かび上がる、
我々が同伴移動した所や、パリと世界の他の場所でも同数に、
カルリートスの熱意で我々のポプュラー歌唱の普及に間断のない導き。
しかしながら我が思い出の秩序を変える訳にはいかない、、、
すでに機会が到来した時のそのエピソードが現れるに至るのだ。
感動、全てにすればするほど、豊富な限り無さを備えていた。
それと正に我がバルス“アニョランサ”をあの午後の私の為に歌ってくれたのは、
おそらく忘れられない振る舞いの部分ではないか?
全てはこのような次第で、極上の彼の声まで天の恵み、惜しみない認識。

注;
{a}“アニョランサ(郷愁)”バルス;作詞、曲;ホセ・マリア・アギラール、
  ガルデルのレコード録音:´28年12月22日パリにてフランス・オデオン録音、 
  レコード番号18260A
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2010年5月29日土曜日

パリのガルデル(4)ホセ・アギラールの回想から

我々がカルロスを同伴したパリでの、日々の余りにも多い出来事の思い出がある、その中からこのページに残すのを選ぶのは困難だ。ガルデルの出演した様子と後でフロリダのデビューを前回の項ですでに語ったが、同じ様にフランス共和国大統領{a}出席上に(“エル・カルテーロ(馬車引き)”を秘書官から通して求めた)の元で実現した、ミルク杯慈善行事の名誉あるフエスティバルにあの我々の演奏が随一度参加した思い出。
その他各地での公演でガルデルにより獲得した好感と尊敬に随行する人気増大は明白である。フロリダにての出演に関して言えば、それは全て大当たり。時間は著名な観客とより上層階級が集まる明け方の一時に我々は登場、インターナショナル的の著名な名士達や南米人達が姿を現した。

ドミンゴ・トルテローロ{b}との出会い:
もう我々はガルデルの競馬に熱狂するところを承知していたし、ある夜私に彼が言う様子に満足憾を想像できた;今夜誰が来るか知っているかい?
尋問的に見る小生に、説明した。
ミンゴ(ジョキー)、、、私によろしくて、
言うには挨拶に来るてよ;結果はその通り。
その夜、フロリダのテーブルには、
ドミンゴ・トルテローロと友人グループがいた。
ガルデルの演唱の中での彼らはより熱狂的;
執拗にアンコールを要求、
彼らの喝采はクリオージョ丸出し、
我々の歌と演奏曲で大感激。
ガルデルが歌い終わるとテーブルに招かれる。
あそこの友人達のテーブルに往く事になり、
全員の目の前で、ガルデルは全友人に抱擁で迎えられる。
この様な事柄は重要ではないと判断されるが、、、
数年の長期に呼び帰り感動を感じる。
実は我々は全員で結び付いているのだ、
けれど我々の故郷に疎遠を招く事なく、
何か多くの意識上に違いないと確信する。
我々は兄弟と同じ心情だ。
各抱擁で遠き故国を抱えこむ、
けれど、けして忘れる事はない。
別の友人達との出会い:
ドミンゴ・トルテローロとガルデルがしばしば行動していたあの夜から、
一ニヵ所一緒にいった場所、特別には競馬場。
何れかのテーブルから頻繁にガルデルを呼ぶ、
アルゼンチン人達や南アメリカ人達と同じ様な場面が多くがあつた。
彼らは同郷人達!
これらの前兆は、同じ様に主事にも好感を受け、
ガルデルは招待を受け決めた。
アルゼンチン人とウルグアイ人達の勧める一杯を受け断れるか!
その上、さらに広大して、それで十分、南アメリカ人!
ガルデルは毎晩毎にこのよう仕方で歓迎された。
思い出すが、多数の名前の中で、
カニャス、アルサガ・ウンスエ、デボト、
ボノリノ、サシアン、サンタマリア、他多数。
ある夜、メルセデス・サンタマリア婦人とボリビア財界実力者パティーニョ{c}が夫人同伴で占めるテーブルから呼び掛けられ、本当に誠心誠意に歓迎され全員一同招待を受けた。

ピアニスト、ルビンシュテイン{d}と共に:
ルビシュテインが聴きに来る!
我々の誰かが寸前に知らされ、
彼がガルデルにニュースを伝え。
ピアノの彼か? 直ちに、反応して;
今にビオラ(ギター)がどう言う物か知り尽くす、、、
これ全部気取らない上等の冗談、
自惚れも無く、芸術への正真正銘の心酔、
熱望と敬意を払いどんなに委ねたか。
そして、その様に起こった;
マスター(世界的に有名)はその夜ガルデルのカンシオン・クリオージャを堪能し拍手の上に、賞賛した批評した。


パリ、雪の降る午後:
我が友人達よ、読者の皆さん;
ここにある、部屋にて何か私にとって,
何か尊き物の様な思い出の大綱を立てこう辿る。
この尊き物はガルデルに関係している。
遠い午後の思い起こせる、
雪の午後でのパリ、
ある午後の生き生きした心に置かれた、
イメージの生まれ故郷の距離と海の上。
回想と郷愁の午後、思慕の午後。
歌おうと努めよう、、、
我々はある夜に-幾人かの南米の友人達の様にガルデルを聞きに来た-
パリのウルグアイ大使館のアルベルト・グアニ氏に出会う。
後日就任の祖国の大臣と副大統領。
ある日に彼と共にウルグアイ大使館に我々は訪問、昼食会に招待で。

”アニョランサス(郷愁)"{e}と歌々:
昼食会の後我々はその窓がブレヴァール(大通り)に面したホールに集合;
我々の多くには新しい景観の、雪が降るのを眺めていた。
並外れと行き届いた邸宅のオーナーの彼グアニ氏が、
我々に提供した夢の様なコニャック。
しかし全てとその様に、
あの時の温かい親密を享受した充足感を何か覆う。
ガルデルが我々に言う、如何したんだいムチャーチョス?
我々、悲しみに沈んで居るのかい?
祖国において、実は全員同じ考えであった。
実は沢山である、これはとても美しい、
疑いのない、だけどあれは我々のもの、、、
グアニ氏はその時ほのめかす;
我々に何か歌ってくださらないかね、ガルデル?、、、
そこに居た我々はきずいて彼の目論見を覚り、
ガルデルは応えずに、立ち上がり、我々に一瞥、一言;
それ、ギターを、ムチャーチョス、、、

注:
{a}フランス共和国大統領ガストン・ドーメルギ
{b}ドミンゴ・トルテローロ、アルフレド・べビラクギがタンゴ“グラン・ムニェカ(偉大な腕)”を捧げている。ムニェカはお人形の意味だが、ルンフアルドではジョキーを指す意味もある。したがって“グラン・ムニェカ”は偉大なジョキーと訳す。
{c}ボリビア、オルーロ市に記念館がある。鉱山資源で財を成した人物。
{d}クラシック音楽の巨匠ピアニスト、ピアソラ18歳の時に教えを請い、彼からヒナステーラを紹介される。
{e}バルス、ホセ・マリア・アギラール作詞曲,この回想の作者でもある。
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2010年5月25日火曜日

パリのガルデル(3)ホセ・アギラールの回想から


フロリダ{a}のシーズンと多様ホールらの幾多の公演の後で、ガルデルは我々にパリに戻ろうと告げた。ドン・ルイスが事を用意してある、、、素晴らしい仕事しようぜ、、、これ気に入ったかい?勿論、我々は全部気に入った。誰か不都合があるか?“ベント(お金)”事なら、全部解決するさ、、、今、別の理由かい、やつ介から逃げ出せよ、どうだい。全員とも賛成だ、我々三人のギター、バルビエリ、リベロルと俺。良いな、それでは好いんだな-ガルデルが言い-リスト若造共と。我々の“コンテ・ロッソー{b}”のチケットは用意してあるぞ、、、“バカナソー(素晴らしい)”客船だ、、、この様にして我々は乗船、“コンテ・ロッソー”に、その同じ年に、別のアルゼンチン俳優達中の間で、ヨーロッパ行き旅行にはコロン劇場専属バレリーナ、ドラ・デル・グランデと同伴の妹、マイプー劇場の数人の首頭演技役者達と共に、我々の近くで仕事していた連中、パリにて近い内に再会する筈。

ラケル・メジェールの抗議:
我々はニースに到着、そこからパリへ向うことになり;ドン・ルイス・ペロッティーが待ち受け、で“エンピレー劇場で出演決定の知らせ。そのホールにはラケル・メジェールが出演中、彼女の終演次第でガルデルの出演の開始。いいかい、人生で快い事ばかり何時も出会えない。ラケル・メジェール、彼女の後にガルデルがデビューすると知ると、激昂した。興奮発作のような常態で激昂抗議した。あり得ないこと、、、私の後で、タンゴの軽蔑歌手!しかし意外な出来事が彼女に降りかかる。姿少なく“エンピレー劇場”のポスターに7ケ日間だけ留まり、カルロスは14日間公演、観衆は入場券の獲得に長蛇の列。にも拘らず、我々はラケル・メジェールは発言を修正したか知る事なきまま。

フランス語でリフレーン:
興味深いイノベーションは成功に多いに貢献-声以外と彼の歌唱の精神力-ガルデルが成し遂げた、完璧に操るフランス語。リフレーンで彼のタンゴをその言葉で歌ったら。
ある日、練習で、我々に言うには;
いいかい、ムチャーチョス、、、これ旨く行くか試そうぜ、、、
感心するほど上出来。ガルデルのクリオージョ・イントネーションと同じ様に演唱、フランス語語り、、、と同じ効力。そのほかはオリジナル歌詞と同様に歌う。
“エンピーレ”劇場の満員観衆は万丈拍手;上演の常時で立ち見の観衆もいて、同じ様に最初の一刻から最後まで熱狂して、拍手活采とアンコールの催促。その中で最良の成功はフランス語とカステジャーノ(西語)で歌つた“マノス・ブルハス(魔法使いの仲間)”。
毎夜事に絶叫の要求、寛大にいつも注文に答えるガルデル。他でもない無理強いであつても応じ、それは歌うのが好きだから。何故好きかと云うのは我々の歌唱を観衆が感受精通と言うこと。
スペインへの道(このあと直ぐにパリに戻る):
パリにて数ヶ月の公演のあと、カルリートスはスペインに招待される;エキスポ・セビージャのアルゼンチンパビリオンで歌うため。私が理解したことでは一部の展示品の到着遅れで、パビジョンは後日に縮小された。マドリードを通過して、この結末で最初にバルセローナの“パラ-セ”劇場で15日間にデビューで大成功。我々の到着に興行者曰く;初めて一人のクリオージョ・タレントがこの多額金額のペセタで出演料を受け、、、似たような前例も無い、、、これは幸福なシーズンの知らせと判断される。だが、此の事は幸福なシーズン告げるように見えたが、それにも拘らず、我々はドラマチックな場面を向える事になる。

ガルデル、唄え無くなる!:
デビューを果たし、大快挙とげた。ガルデルは多数曲をアンコールと殆んどプログラムされていた二倍ほどの曲を追加。彼のために掛け値なしの熱狂が起きた。よく夜の事、はじめの瞬間から、我々はデビューの日以上の大当たりとみなしたが、実は声がかれたのである、大観衆の中には座席券を入手できず立見席に入場した。ガルデルは数曲目を歌うが、不意の大惨事が起こる。その瞬間は決して忘れる事は出来ない。カルリートスはディセポロの“エスタ・ノーチェ・エンボラーチョ(今宵葉よいしれれて)”を歌つていた。
Y esta noche me emborracho bien …me mamo bien… こういう詩句についた時;
とたんに声なしになる、、、かろうじて、つぶやきで、我々に言いとどけ;
続けろ、、、君達続けろ、、、だめだ、歌えない!舞台には曲が終わるまで留まり、何が起きたか知らずの観衆の迷いの中で退場。我々ギターはその時に“ラ・クンパルシータ”、エスピーナの“トゥ・オリビド(君の忘却)”、パドゥラの“9・デ・フリオ”を演奏した。これらの演奏で上演終了をもたらした。翌日は我々にとっては恐怖の引き続き。彼の逗留場所に午後2時に我々は日毎にカルリートスに会いに行く、我々を無言で向え、我々は手振りと紙に書いて理解しあう、びっくりしては居なかつたが、どの位の時が続くか大変な迷い。専門医は欠声症と診断、確信はないが一、ニ週間の時間の問題と予測した。我々は気力ありと見せる様に節したが、本当に破滅とその時に感じた。ガルデルは身振りか紙に書き込みながら、まつたく痛ましさが我々には思えた。我々の間だけでだが、あえて口に出せる訳で無し、もう歌えない、これまでだ。

注:{a}ブエノス・アイレスのフロリダ劇場,1929年初め頃
   {b}当時のイタリー豪華客船、ブエノス・アイレス港(北ダルセーナ港)から出港。
        当時もう、ボーカ港は大型船入港に向かないため寂れていつた。
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2010年5月22日土曜日

パリのガルデル(2)ホセ・アギラールの回想から


キャバレー“フロリダ“でデビュー
公演は-偉大な功績を約束した様に-パリを感動させた。この都市は常時世界中の如何なる場所から来訪する全ての芸術表現を誠心誠意の受け入れ準備できていた。
ガルデルは単なる目新しさより優れていた;ラテン大都市の純粋な魂の表情の様に、彼はパリ住民の為に登場した。念のためチェバリエルも同様ではないか?
しかしあの詩唱歌の都市、ここで歌うのは必要不可欠、ここで歌と共に全てが同伴、特別な流儀で述べる人物の到来の存在が反響を抱かない筈はなく、ジェスチャーや音合わせも同じ様に特別な、ニュータイプの歌唱法?その様に述べるべき、声を流しながら、全ての出来事以外にキャバレー“フロリダ”にデビューした。ホールに頻繁に出入りする国際人、真夜中のパリでの生きた流儀、あそこではインド王子、アメリカ人大富豪、-剥奪されたか否かの-お忍び王様、商工業界の大物、名声ある俳優達、全ての家柄人種、全ての旧家や全ての職業家達に出会う可能性もあり。一人の、成功と神話的人気に祝福され、また、彼自身の沈黙の神秘に包まれて。最初の宵夜から舞台の戦いに勝ち声のガルデル。そして彼等達への最上な魅力を植え付ける姿に変描した。

ガルデル、オペラ劇場で歌う:
狂喜の日々だった、夢物語、全生存中に追憶される日々。ガルデルは彼の成功意義に酔いもせず縮小もせず。全ての意識に控えめで、成功ごとに新しい可能性を暗示する様であり、又都度に考え込む時のまま、計画をもくろみ、それらを口の中でもぐもぐ言い;彼自身の招待に外出する:“-ムチャチョス行こうぜ、、、一杯飲みに招待するよ、、、我々働き過剰だからな、、、”心の中で袂を分ける夢を抱く努力をして、全ての影で我々は察知した。理解できた、疑いも無く、終わりなき前途の道は開かれ。ガルデルのマネジャー、ドン・ルイス・ピエロティ一が用務していたある日の時に、オペラ劇場で開際される巨大なフェスティバルに参加する“Jour blanche(ミルク一杯の日)”コンクール発表の招待がある事を知る。ガルデルは快く引き受けた。その時期の大きなアトラクションとの世論だから。

フランス大統領の頼み:
前に言った様に、巨大なフェスティバルに関連した。彼等芸能人達はステージの上に張り出した舞台タイプの“銀色ブリッジ”の上に登場しながら、ホール全体の場所から演技し続けて行く様式が準備できていた。カルロスが歌い出演するまえのこと、ある紳士が近ずいて“貴方はカルロス・ガルデル様?”ガルデル、何時もの様に微笑して、フランス語で応答した。はい、貴方の“ご用件を受けたまりましょう、、、”それから会話は続くフランス語で、ガルデルの完璧に話すべき言語。かの訪問者はフランス共和国大統領の秘書官の、フエスティバルに随行し、アルゼンチン歌手がナバスの“エル・カレテーロ”{a}を歌唱の中に含むようにと希望を託すべきにやって来た。大変光栄です;承知しましたとガルデルは応答、その曲がその夜の最初の開始の初演となる。




我々の出演は:
その夜の我々の盛装した服装の非常に印象的に関係ある、その粒さを頭の上に通り過ぎさせる訳には出来ないし、そうなっても欲しくも無い。それをしよう、だから、“銀色ブリッジ”に我々が登場した時、とてつもない観衆で埋めたホールに拍手活采が轟音ごときにわたり響く、アルゼンチン万歳と轟叫。ガウチョ・アルゼンチン!、ガウチョ・アルゼンチン!、、、明快にするべき、現実は、我々はガウチョの服装はしてもなく、単に一般人のまとい、(ガウチョの)腰布も付けてなく、ガウチョの様な装飾の独特な性格衣類でもなく。我々のまといはボンバチャ(ニッカーズに似た{b})、短いブーツ、男物ブラウスと肩にかけたネッカチーフ。ガルデルは黒装に赤いネッカチーフ、我々バルビエリ、リカルドと小生は灰色ずくめに白いネッカチーフ。

”ラモーナ”{c}の歌唱:
それと共に、我々の演技が始まる前に、バリトン歌手のサンクラニェールがガルデルに近かずいて、我々に挨拶した後に自己紹介、彼曰く;お願いがあるとの申し出、迷惑が無い様期待します、、、それと言うのも、“ラモーナ”を歌わないで欲しいのですと願いでた。
ガルデル、笑顔で、その頼み理由を聞きただす、サンクラニェール答えて曰く;私はもう少し後で歌います、貴方のすぐ後で、“ラモーナ”は私の得意曲、、、そう別の言い回しでは、多分私の十八番。ガルデル曰く-承知しました、勿論歌いません-、、、
しかしながら最初の曲の後に“ラモーナ“を歌えと要求する声が聞こえ始まる。
何が起こる?、、、ガルデルが流行りの“ラモーナ”をフロリダで歌たけれども、それはそこでの毎夜の注文に答えたもの。このホールにて、この歌を聞いた人達がいて、再び聞くのを欲しがつた。ガルデルは別の曲目を告げ、その曲を歌う。それが終わると、“ラモーナ“の要求が激化する。如何しよう? 観衆は要求曲目を哀願する、ガルデルは次の曲を歌えず、こうして観衆は強く主張、、、ガルデルは最終的には受け容れて“ラモーナ”を歌う。思い出すけれども6曲も歌った。他のすべてのアティーストより彼はより多く演じ、多勢は2~3曲のみの歌演のみ。ガルデルが舞台を退場したところ、バリトン歌手サンクラニェールが近寄り言う事には:私の得意曲を歌うなとお願いをしたでしょう、、、今、貴方の後で、如何しよう、私は? (ガルデル曰く)、しかしお爺さん、、、貴方の方が旨く歌うでしょ、より良く、フランス語で、、、私のはクリオージョ風、血色悪くしなさんな、、、
パリには6ヶ月滞在した。脳裏に残る6ヶ月、-カルロスに我々は近接-歌手との演技で人気と魅力に釣合いで多くの観衆達の歓迎する満足感の一部を分かち合い間の中に我々が到達した。しかしながら帰途を考慮する必要がある。
-ムチャチョス-、ある日の午後にガルデルが言う、我々の報酬の検討をどう思うかい?
全員、沈黙、我々も同様に考えるべきである。途轍もない喜びでその申し出を受け入れた。
ブエノス・アイレスに戻る?、、、でも、勿論さ!準備のために次の日々は短く過ぎる。
我々はブエノス・アイレスに居るのを切望して、何故それを口に出さない? 多くの友人達に我々の話を運んで知らせた。
1929年4月、リオ・デ・ラ・プラタに向かい出航。ガルデルは習得した、的確に断言するが、例外的な経験を。インターナショナル観衆との出会いのあの月々にふさわしい、時には困難な、彼らと共に何時も興奮させた。ブエノス・アイレスではその上昇した成功に相応しく即座に周囲に反響が伴った成功の広いニュースが待つていた。
注{a}エル・カレテーロ(カンペーラ)作者:アルトゥーロ・ナバス
  {b}土建作業にはくズボンに似ているが両足部分にはポケットはない。
    {c}ラモーナ(バルス)作詞:エンリケ・カディカモ、作曲:マーベル・ウワイネ
          フランス・オデオンの録音がある、1928年10月11日録音レコード番号#18252B
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2010年5月19日水曜日

パリのガルデル(1)ホセ・アギラールの回想から















左写真はガルデルのギター伴奏者達、右写真はホセ・アギラール
1928年9月のある日、ガルデル一行を乗せた、ニースからのブルートレンは朝10時にサン・ラザール駅に到着した。長い年月が過ぎさり;殆んど4分の1世紀が過ぎた。{a}あの当時の手紙や書類を捜していると、我々の旅の出来事の形跡が見出せられる。あの小グループのクリオージョス若者達に再会する。希望の、期待で占める、ギターを抱え世界全体のアトラクション中心の関心地、ヨーロッパの街へ乗り込んでいく。あそこで我々は何にができる?我々は何を征服するんだい?もし我々にあの親方が居なかつたら、事実上の上司はガルデル、その上に全体の友人と同僚、導く我々を、多くの出来事で威嚇萎縮させられた我々、その企てはあまりにも過大に思えた。我々熟望はしなかったが、疑う余地のない、征服するパリ。けれども我々が企てた我々の音楽をもたらしを、我々のカンシオン(歌)、報いに信じる相応しい場所。けれども、これらを話す機会は後にも多くあるだろう。まあ、物語を続けよう。

パリ、フォンテーネ通り19番地
列車が停止して窓を開ける、誰かが私に近ずいて、なにやら意味不明に叫ぶ、当然立ち止まる、にも拘らず、“黙れ”と聴こえたような感じだが、本当は“レ・バガジュ”、それは”エキパヘ(荷物)”の事を言っていたのだ。驚いた、同遼の所に戻り-これどうしたんだい黙り込んでて?我々に一人が(ガルデル)、口はさみ判断に従って、自分自身を偽視して、フランス語の口数少なく、通訳し、元に戻して事情を明白にしながら、説明した;黙れ、いや黙るな-スーツケースを運んでチップを儲けたいのさ。そら渡して置けよ、そう、クルマ(タクシー?)ヘ乗せて置いてもらて、、、これらの始末をやり遂げるに従い、カルリートスは興行の代表者と誰か友人を待ち、行われる幾つかのインタビューを前にして、我々から離れていった。彼はその様に、疲れを知らず、彼は好き好んで対処した。我々はクルマに近ずいて、プロモーターが行き先番地をくれる、Rue Fontaine 19(フォンテーネ 19番)、オリンピックホテル、、、パリにて我々の始めての落ち着く場所。

我々は“パレルモ”を発見する。
サン・ラザール駅到着で災難が我々に降り掛かり、とりわけ最初の日々に、頻繁に起こったのだ。オリンピックでは逗留を請うのに難儀させられ、値段の交渉と、他でもなく、我々の希望する快適ランクと我々の希望部屋の位置などを理解させること、其の事全部、後ほどに、笑いと冗談半分で解明したが。我々神経過敏と気が転倒した行動と度々ブエノス・アイレスを思う事に耽っていたのは否定できない。だけれども、見るべき多くして、、、そんなに慌ただしく出来事が生じたので、、、宿泊に関する事が全部の解決した都度に、ほんのひと時を断念していたポルテニョの習慣に欠かせないコヒー飲みながら休養できる場所を探すことにして、我々の感銘を吟味した。その様にして“コスタ・バー”にたどり着く、カステジャーノ(スペイン語)の名前に引き付けられて。我々の一人が、念のためガルデルによる提供に、関連データを手にして、叫んで;見ろよ、、、行こうぜ向こうがよさそう、そして、指差した別のバー、、、それが“レ・ガロン”名前を代えたたった今、“パレルモ”と付け替えて、“間抜けども”の様に我々はあそこのムードも確かめずに、何故かつて、“パレルモ”の名前はインターナショナルだけれども、我々には特別の意味がある。

メヌエル・ピサーロの宣伝ポスター
あそこでもう一つの驚き。バルビエリ、叫んで、感嘆の声を上げ、
見ろよ、、、ムチャチョス、、、見ろよ誰がここで働いている!
一つの大きなポスターを指さして、
そう間違いなくマヌエル・ピサーロ!
我々の、おやじ!
いって欲しいかいタンゴはパリで流布しているんだ!
そして彼、感銘だ、その通り。マヌエル・ピサーロと彼の“オルケスタ・ティピカ・アルへンティーナ”の公演宣伝。ピサーロはパリにオルケスタ・ティピカと到来した最初のアルゼンチン人の中の一人。四分の一時間でタンゴを物に事実に成し遂げた彼にとつて、十分な四分の一時間で、評判と人気を。我々はしばらくそこで休む事して、その後で午前中を利用して床屋に行くことにした。
そこでまたまた困難に直面する。我々のうち、リカルドだけがフランス語を話せたのだが、“uit(ウィ)”と“poissons(ポワソンヌ、魚)”を言うのを知っていた。私とバルビエリはひげを擦ってもらう、しかし散髪屋はリカルドにはサービスを申し出し始め、リカルドは全部“uit”と随一の言葉で答えるのみ。お指は?-ok-、マッサージ?-ok-、時間が過ぎていく、我々はもう全部リスト、リカルドまだ散髪屋に手をとられたまま、バルビエリたまらず大声で“フィニサユ(終われ!?)”、、、散髪屋はなっとく、五分後にやつとリカルドは解放されたのだが、髪型は“バレンシアのカニーバル”の始末、この祭り騒ぎは100フランコの支払い。この全て、もう午後の一時過ぎ、なにも食べていなかった。カルリートスを待つ必要はなし、彼は多忙の上、我々だけで食事所を探すために歩きだす、、、そして、“我々の行為のため”我々の判断は全たくふさわしいやり方が成っていない。探し探し、通りを過ごす事、何処にも入らず。あるレストランを発見、バルビエリが叫ぶ、見ろよ、“イタリー語はなす”ここにしよう。-リカルド曰く-凄い、、、我々店内に入る。俺はバルビエリとリカルドはイタリー系の息子だろと考えた、話せたその言語を、だから安心した。もう災難はごめんだ、ところがバルビエリとリカルドのイタリー語と来たら、全たく、我々のフランス語と同じたぐい。

ガルデル、パリにデビュー
我々のフランス語の無知識によるレストランとホテルで起こした爽快な愚発事件-バルビエリ、リカルドと私{b}の我々が主人公の遇発事件-、最初の日々のパリでの我々の生活が経過した。奏効するうちと規則正しく、それはガルデルが並み外れな責任意識を持ち合わせており、我々は公演の支度していた。ガルデルは毎日練習を欠かせず、練習は時間延長が常であつた。演目ごとに一回一回と確かめ;決果が満足しないのでなく、より良い効果可能を成し遂げるのと曲か詞の最良の決果を達成するまで、単にいつも最良の芸風を演じ様と精出しに努める;カルロスと契約した一方のパゥル・サントスは、カントール(歌手)の披露を完全な成功させようと同じ様に心配していた。

有名なプレジュール・ホールにて
パゥル・サントスはそう言う訳で、“フロリダ”、“パレルモ”、“エンバシー”と他のホールなどのパリの権威ある気晴らし場所の経営者、ガルデルの披露のために、その年に伝統的で非常に有名なプレジュール・ホールを手に入れた。アルゼンチンポピュラーカンシオンと彼らのギター演奏を宣伝した。ガルデルはコンデション周りの広大な形容を望まず、いつもポスター広告やラジオ放送とか過度な名調子の誇張広告を嫌がった。それに関しては多くの逸話がある、それでこの稿以下の流れに連れていずれかを物語ろう。プレジュール・ホールでの披露は音楽的価値と抒情詩全時代では最も優れていた。ガルデルは天性の彼の歌唱は例外的要素をなしていた。でも、ホールが与えた最高のポピユラー音楽表現での例外の様に考慮された。-記憶-に集中させると、上級席は200フランコ、パルコ(桟敷席)一千フランコの料金の入場料。

ガルデル、17曲を歌う
披露する日が到来して、最初の瞬間から、すでにホールでは、舞台登場に負う大変な責務を我々は感じた。我々はアルゼンチン・ポピユラー音楽の代表者:より選択された観衆達の興味を裏切るべきではない。我々は出現し、カルロスを監督に、厳粛正装の身なりで。ホールでは好感の拍手で我々を向え込み、プログラマ進展開始された。なんと多くあの時を思い出す、、、あのホールに反響するガルデルの勇壮な声とわれわれのギター・クリオージャ、賛美に添える幾多の動機!、、、一曲目が終わり、可なりの束の間に延長した大喝采が響き渡る。我々自身見詰め合い、ため息を憑き、、、カルリートス笑顔で答え、落ち着いて、冷静な、彼は、自然に、境遇の掌握者、そして歌い続けた。より多くを続けなければ為らず、曲目終了毎に拍手が繰り返され、ただちに絶叫、bis,bis,bis,!カルロスはあの宵夜17曲の作品を歌つた。それ以上言い添える事あるかい?
この出演は全て成功さ。

{a}四分の一世紀とはホセ・マリア・アギラールがメデジンの呪われた事故から生存し、ブエノス・アイレスでインタビューに答え、彼の回想を語った頃からふりかえた時期。
{b}他でもない、この回想証言者のホセ・マリア・アギラール本人、彼は負傷回復後ブエノスで交通事故に巻き込まれ、併発した肺炎で死亡した。
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2010年5月15日土曜日

ガルデル、パリにデビュー















右:フェミーナ劇場、左:この劇場のマーク、
左下:カルロス・ガルデルの公園広告


1928年10月、ガルデルがパリに登場する。この事件は歴史的に記念されるべき日なのである。それはアルゼンチン・タンゴが港町の場末の地で非合法的扱いから抜け出せない境遇に我慢している時、ヨーロッパ文化の中心地コスモポリタン・パリ住民の目を感嘆と魅了の虜に陥れたガルデルの歌うタンゴ。このガルデルの功績なくして、タンゴはアルゼンチンに逆輸入されず仕舞いのまま場末で細々と生延びていた事だろう。ガルデルの功績を讃えるべきパリ登場の場面を回想紹介してみよう。アルゼンチンタンゴの歴史上において数多くの記念日が存在する。しかし、カルロス・ガルデルとタンゴがパリの真ただ中のシャンゼリゼのある劇場{a}のパリジャンヌ達による満員に直面した。1928年10月2日;タンゴの日としての記念日も、この日と比べ重大さを見い出すのは難しいだろう。舞台上でその男が歌う言葉をフランス人は理解出来なかつたが、浄化されたカルロス・ガルデルの声、一つの歌の感傷無限な上演、不思議な声の魅惑に同じ様に屈し、歌たった内容など大切でなく、何故かって、その観衆達には歌詞の全ては唯一つのメロディーに溶明した。唯一つ、二つの歌の合間の波浪の拍手喝采が防げるのみ、その一宵は同様に他の粒さは構わない、何故?まつたくを持って全力を尽くし言い添える、断定的、最終的、な興行終了から断固として勝利を立証させた。ガルデルはたった四つの歌唱で観衆を征服した。-勿論さー、セダニ{b}は言い添える。その夜のパリに居合わせた90%のアルゼンチン人がセダニと同じ様に言い出せる、その舞台の後で成功を祝おうと、、、それは皆総出でフェミーナに駆けつけ、ガルデルの登場に共参して、そして、勿論、同時にパリに住んでいた全部の“ムチャーチョ”達の、ピサーロ兄弟、バチーチャ、フェレール、メルフィ、マテオ、ロムート、、、全員で歓待した。彼等の自家用車連はシャンゼリゼ大通からコンコルドへのロータリーに行き、次にオペラへ、そこからトリニーダー、直ぐに、ピガレー広場その急勾配の通りを右に坂を登って行くとその強烈な夜のモンマルトルに到着する。エル・ガローンにて、本物プチェーロ・クリオージョ{c}のコンサートを毎晩マヌエル・ピサーロが指揮演奏、何故か、それがフェミーナに続いて称賛渇采の最善に同調したタンゴと釣り合いしていた。あの夜、ガルデルが決して不足無しの上質な美食料理を準備する一方で、一人の傍観者の様に成果を話題にしていた。『ほら、彼らフランス人達を見ろよ! 誰がこの様にタンゴが進入できると断言できたかい! そう、タンゴ、“進入”パリに、、、』そのガルデルの凱旋はすでに過去15年の歴史が資格を認めていた。事実上、パリでのタンゴの歴史はカフェ・エストリボの存在した所、ブエノス・アイレスのエントレ・リオ通、インデペンデンシアの街角から開始されている。あそこでに演奏していた“ターノ・へナロ”、と下階にはバスコ・アインのタンゴ・ダンス・アカデミーが構えていた。タンゴの環境があり、どんな事でも起こりそうな形態が存在した。15人ほどの演奏家の小集団が召集されていて、それらの輩の中にセレスティーノ・フェレールがおり、或る日の事、誰かが興奮して思いつきに口に出す;パリに演奏に行こうぜ、、、如何したんだい?-フェレールが叫ぶ-さあ行こう、パリへ! その後、その同じパリで、入り口で、フェレールが語るには、その計画を全員同調、しかし、手段が真剣事になり次第、縮小し始め。最終的に-フェレールが言うには-残ったのはたつたの三人さ;ロドゥカ、モネロス、そして、俺だけ。その後で、その辺に、すでに我々の出立ち間じかの時になり、バスコ・アインが加入した。彼バスコは適切な理由ずけ、-お前達は若造の群れ、、、タンゴを誰も踊れなで、どうやって殴り込みをかけるんだい、いいかい?。俺が行くよ;俺が教えるさ、フランス野郎どもに“ケブラーダ”{d}をどんなものか、これに決めた。それで、四人でパリに行く事にした。バスコ・アインの躊躇いで蓄音機とレコードを持参、その蓄音機のおかげで、その後でパリにて、タンゴダンスの出前クラスを行う事が出来た。ただし、彼の別に若造と図体の大きい奴(機械)を持ち行かねば成らなかった。それは1913年の出来事、その後、1914年にフィリポトーが到着、直ちに、(一次世界)戦火の痕跡のための長い合間があり。だが、1918年になるとこのタンゴの為に援軍が到着の開始がされる。ある日、アローラスがやって来る;別の日に、ペトロッシ、その後でタンガ達、ロバッティ、フィオラバンティ・ディ・シッコー、バチーチャ、メルフィ、ターノ・へナロ、カナロ、マヌエル・ピサーロ、、、ピサーロと彼の物語、その他多勢を巻き添えて、理由は運命がパリにての一種のタンゴの発起人番に変貌させられた。エル・プリンセサ、働いた最初のキャバレーにて、一種の夜間アルゼンチン領事を務め、エル・ガローンと呼ばれ;その後でもう我々には見覚えがあり、彼のオルケスタとオペラ劇場の舞台まで到来、、、それが全部で、15年の果て、所定のタンゴの交互にエル・ワン-ステップ、エル・フォクス、エル・バルスらで補足して、その時期のパリ好みのダンス向き多種多様に振るまい、戦後ヨーロッパに関して、あのおざなりの風潮と緩慢な官能性のリズムと調子合わせた。1928年にガルデルが到着した時、それでもその時のタンゴはいつたいどうなって居ただろう。だから、あの時のフェミーナでの称賛は決定的な背後承認;あの唯一の10月2日のあの夜はパリのタンゴにとつて15年前と合わせてあまりにも重要だ。ガルデルがいく時かの日々で徹庭的に無頓着に歩き回る頃、その期間モンマルトルのかの夜を整えるのに都合よく;ピエロティーが全て首尾よく行い、それで十分と言い渡した。しばらくの間からあそこに定着して居た友人に助言され、ピガレー広場のあの一直線から伝説監修下されたあのモンマルトル地帯での欠かせない地名を習う。初めから、フォンテーネ通り、エル・ガローンとパレルモ;バー・コスタの向かい前、ビドゥ食前酒をもてあそぶ;再び通を横切り、レ‘アレサッシィエン、そこで朝の6時に夕食がとれる場所;その後で、通り角、7番目の通りを交差して、斜めに交差したマンサルー通りとフォンテーネ、そのタイプの大きい酒場、チェス・ボウドン、名物の“l’oignonスープ”;反対側、ピガレとチャプタル通り、沢山の赤いバイル地を見せる嗜好を与えた、一つの“brasserie”ガルバニ;もつと上の方、並木大通り、有名なグラフッ、“choucrout garni”;マンサルッ通り、“a la Cloche d’Or”、皆有名店。そして、そうこうする内に、“coquille St,Jacques”、”platesu de St,Antonie grille“、と“roti de veau aux endives”、卵フライをのせた極上のビーフ、あそこのフォンテーネ通りの居酒屋、私が彼の痕跡に出会った場所、20年後、、、勿論全部のメニューではないが。パリの正真正銘その初日にての多くに一ぺつ注ぐ時間があり;“タ-バ-リン”へ、ビクトル・マセー通りにて、出会った-私の様に-デル・カリールに、モンマルトルに33年も住んでいる一人のウルグアイ人、あそこの半マネジャーになっていた、医者になるべき、専攻に、そのためにパリに来たのだが、カバニャ・クバーナに同様の常連になり、ブランチェ広場直ぐ近くのフォンテーネ通りのもう一つの末端。今の様なムーラン・ルージュ映画館ではない、あそこの同じムーラン・ルージュを見るのに間に合った。サクレ・クール聖堂に上り、オ・ラパン・アジル{e}を通り過ぎ、モンパルナスでのカポレーまで行き、バチーチャが彼のオルケスタの前に居たところ、そして、とうとう、そのモンマルトレでの流行している夜の9時から翌朝のどんな時間のパリ生活に編入された;又は午後に、何故かつてトルテロールの馬が走るアウティエルに行かねばなら無いから。
半数が調子はずれでない、両目の上に落ち込みと左側に傾いたつば広帽子、二本の指で彼の感触確保そのまさに傾き;ポルテーニョ・スタイルと屈託ない自身の歩調、全てそれらが彼のスタイルに変容し、その日々のパリに調和した、今日の様に調和した、大物殿方“コンパドロン”の風貌。

フロリダ・キャバレー
その同じ週にサントリーニの妙技を確認した。提供されていたガルデルのある全ての契約でその一つを選らぶ羽目になり、その中で最も興味深いと判断されたそれを選択した。-3ヶ月の契約、、、キャバレー?-そう、エル・フロリダ。モンマルトルにある、、、クリシ大通り、、、別世界のキャバレーでもない、モンマルトル通りに隠されている、その数あるただ単の一つ。アポロ劇場のその上に位置し、主な評判にも恵まれる事無く。ガルデルはピエロティ-と一ぺつを投げに行き、すんでの所で魂が足の下に落ち込むのを感じた。そこは結構な場所だった、十分小奇麗、全ったくビロードに覆われて、全てロココ様式、“着飾り風”、、、チェ、、、しかしここは客筋“過ぎさった”、、、ガルデルが非難する。でも、旨くいつて無いな、ここのバナナは旨いぜ、黙れ!だから凄い契約できたんだ。俺は言ったろうサントリーニはやり手だ、、、それ見ろよ!こうこうしている内にデビューの日が来る。あの初めの夜、フロリダで、再びパリに居るアルゼンチン人全員の会合がもたれ、ガルデルは言いふらす必要なく、何故ならばかろうじて一つ数え終わり、なじみの声々の紛れもないブエノス・アイレスのアクセントらの知った要求行為;-マノ・ア・マノ!-ビエホ・スモーキング!-ムニェカ・ブラバ!-、みんなポルテニョと疑えるか!、、、その後で、ピエロティ-と話題にしていわく;しかしここは唯一勢ぞろいはアルゼンチン人!じゃあ何故パリに歌いに来る?何か言いたい?サントリーニに任せとけよ、彼承知さ。お前に注文したあの歌をリハーサルしているかい?ok、だけど笑わせないでくれよ。それ唯一つ欠けてるんだ。フランス語で歌えば!タンゴを聞きにやって来る連中はうんざりするさ。ピエロティーそうだろう?抑える口調とともに、頭でリズムを強調して、思い出す;見ろよ、、、知っているよ常連客達を、、、サントリーニの依頼でガルデルは幾つかの歌唱曲をフランス語で歌う練習していた。その事の見るべきはそれはフランス人観衆には大変好感が持てるだろう。このサントリーニは何でも出来るお墨付き、俺に言ったろ、いや?とピエロティに質問してた。そう、勿論さ。お墨付き?、、、逆行の?フランス人観衆は俺の何を話題にしている?、、、、、しかし、素早くガルデルが取り決めを望んだとき、フロリダはフランス人達で満員だつた。それだけでなく、単に人々の扱いは、彼等の様相はより上等。淑女達は高級香水、紳士方は正装の、、、ピエロティーが楽屋にて彼に推薦した;あれらのフランス歌唱を今日歌えるかね、カルロス、、、-それで、いいかい、、、彼特有のしぐさしながら、何にも理解して居ない素振りで。その後策略を認めた;--だけれども、ここはいつたいどうなってる?俺に言うにはサントリーニは魔術師かい?いいや、魔術師じゃない。いいや、お前に保障するけど奴は利口者。行けよ、ガルデルお前の当番だ、、、その宵、パリジャン観衆達の前で初めてフランス語で歌う、彼のタンゴのレパトリーと順繰りに、轟きわたる拍手渇采と異口同音ということ、それからその先、3ヶ月の間ずっと毎夜フロリダに彼らフランス人は聴きに行った。

{a}フェミーナ劇場、シャンゼリゼ大通りの凱旋門のロータリー当たりに存在した。
{b}セサール・セダニ、アディオス・ムチャーチョスの作詞家
{c}プチェーロ・クリオージョ、アルゼンチン郷土料理:ここではアルゼンチン風を強調する為の言葉。肉とトリ肉などと野菜類を煮込みスープを取り出し、肉野菜だけ皿に盛る料理。
{d}ケブラーダとはタンゴ・ダンスのステップの種類:ジグザグに踊る。
{e}オ・ラバン・アジル;シャンソニエ、昔懐かしいシャンソンを聞かせる店。現在も存在している。
3月31日のガルデルの恋愛遍歴:『滅亡ハンガリーの貴婦人』も参考ください
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2010年5月11日火曜日

ガルデル、インタビューに答える(1)

* 質問:貴方は音楽を知っていますか? 
1929年5月20日、マドリード:雑誌シネグラマ
ガルデル:『いいえ、私の唄は全て耳から、それらは記憶が頼りで忘れない為に練習の積かなせ、記憶力は抜群だ。2千曲は唄つたと思う、、、私の唄は庶民向け、ラ・プラタの魂を唄に、生きたフークソング。違うかい?』

*質問:タンゴの未来は? 
1931年11月、モンテビデオ:カンショネーロ・レポート
ガルデル:『約束ごとに見える、それは唄に関して消滅する事は無い、そして、新しいテーマや的確な詞は出現し続き、堅固たる成功を勝ち得なければならない』

*質問:貴方が歌い始めた頃、音楽学校を全然考慮しなかったのですか?
1933年3月18日、雑誌アンテナのレポートより:
ガルデル:『私は自惚れで言う訳でないが、又全然並外れでもないし、歌うために生まれて来たと思う。幼い頃から長い時の間ずつと唄に興味を持ち、如何なる刹那に立証確認できる事で、友達間の歌い手だった{a}。もう少し成長してから、各劇場に出入りを始め、自分のひいきは叙情スタイルのやり方。あの時代の、少年の出来事、ある日にきっと彼らのように成れる様夢見て、私はあの歌手達を聞くと熱狂した。これらは疑いも無く私に多く影響した、しかし、大叙情芸術家の影響はタンゴを歌うためには、受け容れないのは筋道だ。それらが過ぎた私の最初の芸術的知識と過ぎ日の私が出会った、あの純粋な声を獲得して手に入れた。私自身の気性と能力で歌い続け、常に自己向上に努めて何時も決心する事に固辞した。絶対に自分の性格が示す方針から飛び出す事は無いと、これを我が成功を引き起こした要因と信じる。今、観察すると一部の歌手達は反対の扱いをする。私の意見では酷い間違い犯している。有る一部の歌い手は芸能人でのもはや先天的な情緒を満足させるのではなく、そこの環境で容易な多くの人気名声を詮索する事を単に求める。才能を持ちながら強情を張り別の構造外で歌う輩も、そして、彼らは深刻な損害に直面する。それらの歌手達は事柄の架空な基盤の地位を直ちに失う。処で、さらにこれら全てを強く主張するが、独自スタイルに結びつけて、それは個人評判という事を誰なしも輝く将来を真剣に考える事を検討して可能にできる。』

*タンゴとは?:1933年9月21日、グラフィカス・ニュース・ペーパ
ガルデル:『殆んど、タンゴは、あの時代では歌われなかった。それらはエスティーロ、そして、トナーダ・クリオージョ。タンゴ歌唱はそのあとに来た、感傷的か悪戯的な、アラッバレーラ、そしてこっけいな、不在の悲しみと、矛盾する愛、グアポの刃物事、騙された女のすすり泣き、つつましいポルテニョ詩人らの開花、それぞれの町々で港から来たモチーフ歌唱のタンゴを奏でるバンドネオンが聴こえる。同じポルテニョから混ぜ合わす人種の坩堝から見出したやり方の歌唱タンゴ、ここの若者たちの悲しみ、風とともに海洋を横切り、アングロサクソン大富豪を魅了させ、パリの騒々しい少女達を興奮させる、節を付けて歌うタンゴの為にはより甘美な声を掴むだけでは十分ではない。いや、心で受け止め、それに、かの意気に生き無ければ成らない。私はそれに生き、美女の甘美な視線を感じと着飾る女性が私の“マイカー”に軽快に横過ぎるのが見える、私は“タンゴ”その物と承知、競馬場から出てくる時、私を後をつける庶民の少年達の眼差し、洋服屋が念お入れて上等なスーツを仕立て挙げてくれる時、店員が探してくれる華麗なネクタイ、そんな時に自分を疑わない。敬意はタンゴからなつたと承知する、私は彼等の為のタンゴ、そして、それが好きだ、だから私はよけいクリオージョ、心地よいフランス歌唱を賛美する時の場合でも、人々が美しい音符の“Parlez moi D´Amour”聞いてくれる場合でも、私はタンゴ歌手で別の唄のためにも興味を示すのも知っている。

*どの様に貴方のタンゴを作曲しますか?
1935年2月、ニューヨーク:パラマゥント・メセンジャー、
ガルデル:『どのように編曲するかとかタンゴを作曲する日課をどう追続しているのか、頻繁な質問に飽き飽きさせる、本当の所は私の初めの願望はその質問に身を交わすこと。それでは詮索好きを失望させるのを恐れる、タンゴを書くのに悲しみ嘆くか馬鹿騒ぎに発奮を感じるのを不可欠と多くは信じるが間違いだ。』

*何処で作曲家達のインスピレーションを発見するのですか?
ガルデル:『この質問に私に答える能力がもしあるならば、この世界の皆が歌唱を生み出せるだろう。この質問には断固として答えられない、それは創作インスピレーシオンを調和させる多様なファクターがある。』

*貴方の映画の歌唱はどんな様に生れるのですか?
ガルデル:『まず初めに状況によく共鳴する演技を駆り立てるモチーフ、そこで彼らの歌のインスピレーションを起こさせる、感傷か喜びの段階を推定して、語釈を考えずハミングし始め、チャンスに相応しいメロディーが生れるまで繰り返す。そして私のすべての映画作者の好感な友人アルフレッド・レ・ペラを呼び、ピアニストと彼の援助で作曲を少しずつ創める。時には一、二時間かけ、、、ある時にはインスピレーション不足で我々の骨折りを中止して翌日に再開する事に強制される。疑いもなく私は自分の唄を作曲する為に一見他の作曲家より優位を持つ、他人はビング・グロスビー、ホセ・モヒカ、ラモン・ナバーロ、etc、、、に作曲し、明らかな事は彼等の課題は私のより多く難しいに違いない。』

注:{a}ガルデルの芸能活動編を参照ください。
    ガルデル少年時代にパジャドール達から歌唱とギターを習う。
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2010年5月6日木曜日

ガルデルと映画、もう一つの次元の伝記(6)

ニューヨークのエル・モローチョ(ブロードウエイのタンゴー2)
1935年1月に“エル・ディア・ケ・メ・キエラス(思いの届く日)”が新しい監督、北米人ジョン・リチャ―ルドにより撮影が遂行された。彼は又ソルサルの最終映画となる“タンゴ・ばー”の撮影の任務を託される事に成る。これらの二つの制作と“カサドーレス・デ・エストレージャス”は同時に1935年6月24日、メデジンでの飛行機事故発生で“歌手”の夭折後に上映された。“エル・ディア・ケ・メ・キエラス”はメキシコ女優ロシータ・モレーノが準主役を演じ、多くの場面に関し避けられない思い出に向けさせたレパトリー、“ボルベール”、“スス・オホス・セ・セラーロン”、そして、勿論“エル・ディア・ケ・メキエラス”、この最後のテーマはその瞬間に強烈な衝撃の原因になった。イタリア人ディレクター、マルコ・フェレーリの映画『Nitrato d'argento(1996年)』この観衆反響の背景源を再現した{a}。又、この映画のガルデルの幾多の映像の中の一つに、少年アストル・ピアソラが登場し回想に残る一場面もあり、この未来のアルゼンチン大バンドネオンニストは合衆国で無声映画と多少接触していた{b}。“タンゴ・バー”は‘35年2月にロング・アイスランドにて前回制作と同じ仲間キャストとディレクターでより少ない悲劇主張で撮影された。この映画の配役にあの‘20年代にエル・モローチョといくつかの演劇披露をした俳優エンリケ・デ・ロサの参列が勘定に入れられていた。ガルデルの不慮の死を越えて、おそらく何れにしても“タンゴ・バー”の関わりは外国での最後の映画になった公算が高い。“人は常に初愛に戻る”とはいえ、ガルデルが出演した全ての長編映画は外国制作である。想定だけれど国内映画のためにアルゼンチンでは封切りと同時に途方もない推進力をもたらした。アルゼンチン映画の歴史において、ドミンゴ・ディ・ヌビラはこれらの映画は“アルゼンチントーキー映画初期時代において最終的に決定的な普及助力の構成要素をなしたと”断言する{c}。ガルデルの確信はこれらの情勢を無視せず、“タンゴ・バー”撮影の終了のあとに、外国での国内芸術のアイデンティティ維持をする事の困難を知ってから、南米公演旅行開始した後に、彼自身の映画を作るためにブエノス・アイレスへ戻る考えで、“共同制作映画を作る大映画撮影スタジオ”建造する望みであつた。又、アルゼンチン映画のよりポピュラーな監督として横顔を描いた彼の“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”書いたシナリオライター、マヌエル・ロメーロのオーダーのフイルムを作る為に、ルミントン・スタジオと契約調印をしていた。あのコロンビア悲劇でこの帰還は阻止されたが、何れにせよこのフイルムは若いフアン・カルロス・トリーが主人公役で作られ、-多分商業方針で-運命の巡り会わせか“エル・カバ―ジョ・デル・プエブロ(大衆の馬)”は“タンゴ・バー”の一週間前に上映が行われた。カルロス・ガルデルの演技適性について多数が議論したが、モナ・マリースは“彼自身俳優として多くの困難を自覚し、又羞恥心無しでそれを認めた”と断言した。彼自身の行動は全で完璧主義者であり、エル・ソルサルは映画撮影演技の向上を追求したが、しかし、時には彼の自己制御から逸する事情状況と衝突した。“俳優達と仕事しながら私自身がより最善に優られると信じ、誰でも駆け出し側にいて怖気尽きる酷い思いを君は想像出来ないだろう、自己成長するためには過不足なき習得が必要である”とディフーノ・マネージャーに手紙で話していた。しかしながら、完璧な演唱歌手としてのガルデルの映画への出現は俳優の様な質を探求しなければ成らない事は無く、彼の才能は唯一の声だけでなく、単に、詩歌讃賞感覚をする表現才能、この特性はモレーラの短編でディセポロにより強調されている。何故ならば歌詞の語義を深く理解した、ガルデルが“見事な”フォームで歌うタンゴ“ジーラ、ジーラ”を賛美したからだ。唄った各テーマにおいて、この息を呑む心を注いた発声美質は同時に演唱抜粋の際だって洗練されている。一つの模範はこのタンゴ“シガ・エル・コルソ(行列に続く)”で声域の調子を変化させる事により、二人の人物を登場させ、歴史に心に焼きつく主役が演じられた。彼は達人と言う事で作品を描き出すための意義を深く把握でき、この理由のため異なる言語で歌いたがらなかったが、にも拘らず時にはそれをも実行した。英語発音で歌う事を説得された時に“どうして、感じられない言い回し、理解できない言葉で歌うのか”こう断言した。ガルデルが得た異なるディレクター達は映画でこの天賦の才を生かす知識を持たず、大演唱者がミュージカルテーマにて登場し、歌わなかった時の舞台で変貌させられなかつた。-例として-、悲痛な嘆きの“スス・オホス・セ・セラーロン(閉じられた瞼)”、映画芸術は全ての解釈的次元を救出する成すべき術を知らず終い、だが今日我々はソルサル・クリオージョの(比類のない芸術を音響と映像で観賞ができる事を感謝すべきである。

注:
{a}観衆達はフイルムに注意を向けず、彼ら同士の間で討論始める始末。しかし、ガルデルが歌い始める瞬間に全員平静になる。
{b}ガルデルが住んでいた建物にアストル少年が彼の父親の以来でガルデルを訪問した時に偶然エレベータで会ったアルベルト・カスティジャーノに頼まれて窓からガルデルを起こしに侵入した時のエピソード。ナタリオ・ゴリン著『A Manera de Memorias』80ページより 
(c)ドミンゴ・ディ・ヌビラ『Historia del cine argentine I:La epoca de oro』

映画データ:















映画エル・ディア・ケ・メ・キエラス(思いの届く日)
製作社:パラマゥント
撮影:ウイリアム・ミジェール
シナリオ:アルフレッド・レ・ペラ
音楽ディレクター:テリグ・ツチィー
閲覧技術:サムエル・ピサ
ディレクター:ジョン・レインハールド
原作国:アメリカ合衆国
制作年月:1935年1月
上映時間:82分
出演俳優:カルロス・ガルデル{フリオ・アルゲジェス/フリオ・キロガ}、ロシータ・モレーノ(マルガリータ/マルガ)、ティト・ルシアルド(ロカモーラ)、ホセ・ルイス・トルトサ(セニョール・ダビラ)、メヌエル・ペルホ(サトゥルニーノ)、デル・カンポ(ダビラ)、フエルナンド・アデランタンド(アルケージャ、父親)、スザンネ・ドゥリエル(ペピータ)、セリア・ビジャ(フアニタ)、アグスティン・コルネホ(ギター奏者)、アルベルト・インファンタ(警官)、アストル・ピアソラ(新聞売り子)

ガルデル歌唱テーマ:
“スエルテ・ネグラ”、“エル・ディア・ケ・メ・キエラス”、“スス・オホス・セラローン”、ギターラ・ミア”、“ボルベール”、
全曲作詞:アルフレッド・レ・ペラ、
全曲作曲:カルロス・ガルデル
“ソル・トロピカル”作詞:アルフレッド・レ・ペラ
作曲:テルグ・ツチィ
撮影所:ロング・アイランド
アルゼンチン初上映:1035年7月16日、グラン・ブロドウエイ

映画タンゴ・バー
制作社:パラマゥント
撮影:ウィリアン・ミジェール
シナリオ:アルフレッド・レ・ペラ
音楽ディレクター:テリグ・ツチィー
検閲技術:サムエル・ピサー
ディレクター:ジョン・レイハールド
原作国:アメリカ合衆国
制作年月1935年2月
上映時間:62分                                  

出演俳優:カルロス・ガルデル(リカルド・フエンテス、ロシータ・モレーノ(ラウラ・モンタルバン)、ティト・ルシアルド(フアン・カルロス・プチーニ)、エンリケ・デ・ロサス(セリージョ指揮官)、マヌエル・ペルホ(マヌエル・ゴンサレス)、ホセ・ルイス・トルトサ(キャプテン)、フアン・ディベガ(ラモス)、スサンネ・ドゥリエル(ラウラの養女)、ホセ・ニエト(アギラール捜査官)、ウィリアン・ゴードン(ミスター・コーエン)、カルメン・ロドリゲス(ミセス・コーエン)、

ガルデルの歌唱テーマ:
“ポル・ウナ・カベサ”、
“ロス・オホス・デ・ミ・モサ”、
“レハーナ・ティエーラ・ミア”、
“アラバル・アマルゴ”、
全作詞:アルフレッド・レ・ペラ、
全作曲:カルロス・ガルデル
撮影場所:ロング・アイランド
アルゼンチン初上映:1935年8月22日、スイパーチャ映画館

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2010年5月2日日曜日

ガルデルと映画、もう一つの次元の伝記(5)

ニューヨークのエル・モローチョ(ブロードウエイのタンゴ-1)
トーキー到来から、ニューヨークはミユージック(映画)制作の専門地化され、ハリーウッド・スタジオはブロードウエイの演劇興行の出演者達をニューヨーク住民が批判の的で試すのに利用した。もし、俳優達の結果が期待に合えば、西部海岸で仕事をさせる為に彼らを派遣した。同時に、ある会社‐パラマゥントもその一例‐ではニューヨークで英語以外の言語フイルムも撮影された。一般的において、これらは少規模制作者間-限定的なフイルムを融資専念する-とフイルム配給と撮影セット供給を担当するハリウッドの会社連の商業協定結果であった。これらの作品の図式はモローチョの映画撮影の新出現を可能にさせた。1933年の末、ニューヨークにガルデルが着いた時、ただちに映画と放送に近ずくのに成功した。彼の撮影したフイルム類はラテン街区の大観衆が渇采し、ミユージカル・テーマ画面を反復させる儀式を繰り返した。この衝撃的な受け入れが仲介して、1934年3月にパラマゥントともう二つのフイルム撮影の新契約を結び、加えて別の四つのフイルムの選択権が与えられた。この協定を具体化するために、ガルデルはウエスチン・エレクトリクの出資による自分自身の会社スパニュシュ・ピクチャー・ヒットズを創立した。合衆国でのソルサル最初のフイルム撮影は“クエスタ・アバホ(下り坂)”で、レ・ペラが新たに脚本とテーマ曲類の作詞を担当し、ガルデル自身がガスニェールを映画監督に指名、女性主人公役はアルゼンチン女優モナ・マリース{a}がカバーした。彼女は数年前からハリウッドで仕事をしており、このフイルムは‘34年5月、ロング・アイランドに位置するパラマゥント・スタジオで撮影された、映画“クエスタ・アバホ”は観衆による非常な熱狂的歓迎を受けた。ニューヨーク、カンポアモール映画劇場{b}にてガルデル本人が登場した時の実演は超満員の観客に歓迎され、上映の前に舞台に現れると15分間歓呼が続き、その後の歌唱テーマごと“自然発生の拍手炸裂の氾濫と騒々しさは不可避”だった。一ヵ月後にブエノス・アイレスにての初演も主人公の居合わせ無しでも(彼は丁度ヨーロッパヘ向かい旅行中{c})、このタイプの意思表示が引き起こされた。人々は再び“クエスタ・アバホ“の歌唱場面を見るために映写停止を強制、この一シーンはガルデリアン映画の成功獲得の証拠である。これにて、妖婦に化身したモナ・マリースが観察した主人公ガルデル-唄越しに-の彼自身の演技力への自己幻滅を深く悲しみ、彼女は心温かく見届け、思いのままにさせた。ドラマチック調子の“クエスタ・アバホ”(マリースが女性役柄無視した)ゆえに、しかるべきスタイル変更から喜劇“エル・タンゴ・エン・ブロドゥエイ”に移り、直ちに後日の1934年6~7月の間に撮影され、スペイン女優トリニ・ラモスとブランカ・ビスチェールらが演技した。このフイルムはアンソロジーな瞬間を含んでいたにも拘らず、前編映画と同じ反響を受いられなかった。ガルデルのパジャマ姿での登場した場面ではポルテニョの思いつきの思い出に残る“ニューヨークの”4人の金髪女性に囲まれて“ルビアス・デ・ニューヨーク”を歌う。このフイルムの成果に意に反して、制作条件は良くなくて、エル・モローチョは満足せず、“エル・タンゴ・エン・ブロードウエイ”を見たら、基礎知識がないと高潔な映画を作るのは、いっそう難しいと判断できるだろうと、アルマンド・ディフーノ・マネージャーに手紙で指適している。この最新のフイルム撮影からガルデルはこの映画に合間を就かせ、ヨーロッパに休暇期間をとるまで契約約束上のレコード録音とラジオも含めて出演を果たした。1934年12月、ロング・アイランドでのフイルム“カサドーレス・デ・エストレージャス(スター達への追跡者){c}“舞台に参加、そこでタンゴ“アマルグーラ(苦しみ)”とエスティーロ“アプーレ・デランテーロ・ブエイ(急げ先頭牛よ)”を演唱した。ガルデルが唯一つ主人公役を演じないフイルム構成で、単のクリオージョ光景を盛り上げるだけの、それは非常に簡単な筋でのミユージカル・フレームの中で数曲歌を生じる制作方針だった。

{a}ガルデルの恋愛遍歴(5)を参照
{b}カンポアモール映画劇場、ニューヨーク5Av,116st,1934年8月10日:pm8:30、ガルデル本人出演と映画“クエスタ・アバホ”上映
                                                                 
                            















{c}ガルデルはブエノス・アイレスを1933年11月7日に旅立ち、ヨーロッパから北米へ渡り映画撮影に専念した、後にプエルト・リコ、ベネスエーラ、コロンビア興行旅行の途中でメデジン飛行機事故で帰国を果せていない。

映画撮影のデータ:                                      
“クエスタ・アバホ(下り坂)
制作会社:パラマゥント                                     
撮影:ジョージ・ウェベール
シナリオ:アルフレッド・レ・ペラ
音楽監督:アルベルト・カステジャーノ
監督:ロゥイス・ガスニェール
原作国:アメリカ合衆国
制作年月:1934年5月
上演時間:75分
出演俳優:カルロス・ガルデル(カルロス・アコスタ)、モナ・マリース(ラケール)、ビセンテ・パドゥラ(ホルへ・リナレス)、アニータ・デル・カンピージョ(ロサ)、メヌエル・ペルッホ(グティレース)、カルロス・スパベンタ(フアン)ハイメ・デベサ(エブリーオ)アルフレッド・レ・ペラ

ガルデルの歌唱:
“アモール・デ・エストゥディアンテ(学生の恋)”、
作詞:アルフレッド・レ・ペラ
作曲:カルロス・ガルデル
“ポル・トゥ・ボカ・ロハ(君の赤い口に)”
作詞:アルフレッド・レ・ペラ
作曲:カルロス・ガルデル
“クリオジータ・デシ・ケ・シ”
作詞:アルフレッド・レ・ペラ
作曲:カルロス・ガルデル
“クエスタ・アバホ”
作詞:アルフレッド・レ・ペラ
作曲:カルロス・ガルデル
“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード(我が懐かしの~)”
作詞:アルフレッド・レ・ペラ
作曲:カルロス・ガルデル
撮影場所:ロング・アイランド撮影所
亜国初上映:1934年9月5日、ブエノス・アイレス、モヌメンタル映画館



“エル・タンゴ・エン・ブロドゥエーィ”
制作会社:パラマゥント
撮影:ウィリアン・ミジェール
シナリオ:アルフレッド・レ・ペラ
音楽監督:アルベルト・カステジャーノ
検閲専門:サムエル・ピサ
監督:ロゥイス・ガスニェール
原作国:アメリカ合衆国
制作年月:1934年12月
上演時間:84分
出演俳優:カルロス・ガルデル(アルベルト・バサン)、トリニ・ラモス(セリア)、ブランカ・ビスチェール(ラゥリータ)、ビセンテ・パドゥラ(フアン・カルロス)、ハイメ・デベサ(インダレシオ・バサン)、マヌエル・ペルフォ(白人)、カルロス・スパペンタ(カルロス)、アグスティン・コルネホ(コルネホ)、スザンネ・ドゥリエル(スサーナ)、アルベルト・インファンタ(モレレス)、ホセ・モリチェ(ピニャタ)、カルロス・ジアノ(ガウチョ)、
ガルデル歌唱レパトリー:
“ルビア・デ・ニューヨーク(金髪の~)”
“ゴロンドリーナス(ツバメ)”
“ソレダー(孤独)”
“カミニート・ソレアード(陽のあたる小道)”
全曲作詞:アルフレッド・レ・ペラ
全曲作曲:カルロス・ガルデル
撮影場所:ロング・アイランド
初上演:1935年3月12日、ブエノス・アイレス、ブロドゥエイ映画館

カサドーレス・デ・エストレージャス”
オリジナル・タイトル:The Big Broadcast of 1936
制作:パラマゥント
制作者:アドルホ・ズコール
監督:ノーマン・ターログ、テオドール・レード
制作年月:1934年12月
原作国:アメリカ合衆国
上映時間:94分
出演俳優:Jack Oakie,George Burns,Gracie Allen,Lyda Roberti,Wendy Barrie,HenryWadsworth,C.Henry Gordon,Akim Tamiroff,Carlos Gardel
ガルデル歌唱:
“アマルグーラ”、”アプーレ・デランテーロ・ブエイ“
撮影場所:ロング・アイランド、ハリウッドの二ヶ所のスタジオ
初上演:1936年4月30日、ブエノス・アイレス:アストール映画館
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