2010年4月29日木曜日

ガルデルと映画:もう一つの次元の伝記(4)

ガルデル、再びフランスにて映画撮影:

ガルデルは1932年のヨーロッパ興行旅行において、フランス地域での最後の機会となるジョワンビルで再び仕事をする事になる、この度の長編映画は監督ルイス・ガスニェル、短偏はジャケルクらの撮影で遂行され、ガスニェルは無声映画から着手した監督で、その時代に多大な成功を収め、フランス人コメディアン、マクッス・リンデールの名声の基礎と1914年に上演された大衆シリーズ“ロス・ペリグロス・デ・パウリナ(パウリーナの危険)”責任者である。トーキー映画初期からフランスの北米系スタジオでの多重版システムにおいて仕事してきた。彼の経験は一人のアルゼンチン歌手の様な上昇スターを監督する理想の人物に変換させるに相応しい。しかしながら、彼と『エル・ソルサル』は1932年間中の業績は隔絶な幸運に恵まれていた。“エスペラメ”{a}はその年の最初の映画で、スペイン女優ゴジータ・エレーロを主役女性に選抜した事が一の主な的外れで、若い淑女役の気高さに足りず、ブエノス・アイレスでは観衆に拒絶され、正しくない待遇処置されたが、それにスペインの音楽出し物がアルゼンチン観衆は退屈させた事は有りうる。この映画はアルゼンチンでは次の作品の“メロディア・デ・アラバル”の後で封切りされた。これにも拘らず、“エスペラメ”は何かの前向きな結果を生む、それはアルフレッド・レ・ペラとガルデルとの間の最初の共同作業関係であるからだ。この劇作家、新聞記者、アルゼンチン{b}詩人は1930年から映画商業に従事していた。スペイン系商團向けにサブタイトル、内部見出しの翻訳家としてユナイテット・アリティスツ社のパリー支社に従事していた。2年後にはパラマゥント、フランス支社スタジオのシナリオライターとなり、この仕事により交差する様に『エル・ソルサル』と結び付く、そして、歌手の経歴で最終時期の重要な人物に転換し、ガルデルが必要とした国際規模の作詞、脚本家としての彼の作品類は深いアルゼンチン根源を持っているが、地方主義から脱皮して国外での受け入れに悪影響を免れた。
“エスペラメ”の悪経験にめげず、短編“ラ・カサ・エス・セリア”と格調正しい“メロディア・デ・アラバル”に新しく侵入を続け、この両作品では無声のタイトルの同伴者にインペリオ・アルゼンチーナ{c}を選ぶ、この女優は都合よくブエノス・アイレス生まれでパリーにて仕事をしているスペイン俳優界の中心的人物であった。ガルデルの経歴行程においてこの“ラ・カサ・エス・セリア”は本当に風変わりな構成で、この映画は上演間隔で歌手{d}の演技で快適にするもう一つの補足の助けになり、しかるべき破廉恥スタイルと映像にての格別な冗談を演じる上演時間が短くて監督機関の禁止意図を被るのを免れた。映画の一シーンで、ある若い女性が青年に婦人用洗面所の場所を訪ねる、彼は質問した上に答えて“婦人用洗面所?召使い”この状況、今日無邪気にさえ、又は古臭いと判断されるが、しかし、その当時は多少嫌な気持ちを誘発させた。“メロディア・デ・アラバル”はガルデル‐レ・ペラ連合の最初の大成功を成し遂げ、“全ての幾つかの映画を現在まで、国外にてポルティーニョの下町の雰囲気風に受け取れる様に成し遂げ、これはより多くの幸運で誇張も無いのだから、その上に不合理もない。この映画はタイトルのテーマ様な典型的なガルデルリアン・レパトリーとタンゴ“シレンシオ”を含んでいた。そして、ストーリーは裏返して、ミユージカル出し物のための理由になり、ガルデルの共演女優インペリオ・アルヘンチーナの選抜は‐歌を含む‐好運の結果になった。ブエノス・アイレスで1933年4月にこの映画が上映されるとセンセーションを引き起こし、“プロモーター達は‐ガルデリアン“熱狂”の前に‐多くの下町の映画館で再上演させた。映画“ルセス・ブエノス・アイレス”、´30年の短編、それに加えて、無声映画フロール・デ・ドゥラスノ(桃の花)も公演した。“メロディア・デ・アラバル”はジョワンビルにてのパラマゥントの最後の作品{e}として撮影された。その場合のために、北米プロディユーサーはフランスにおいて外国語版専門の製作に専念したが、ガルデルのフイルムはスペイン語版の一部の少ない例で、会社はアルゼンチン歌手を大物扱いして、彼の重要価値を考慮した。フランスのスタジオ衰退はソルサル・クリオージョの映画撮影経歴には悪影響を及ぼさなかったが、しかし、地理的な変更の巻き添えにした。今後は映画制作中心は北米に移動する事になる。

注:
{a}副題“アンダンサス・デ・ウン・クリオージョ・エン・エスパニャ”
     (スペインでの一人のクリオージョの冒険)
{b}アルフレッド・レ・ペラはブラジル、サンパウロ、1900年6月7日生、父親はアルホンソ・レ・ペラ、母親はマリア・ソレンティーノ、両親はイタリーからの移民。父親は食料油製造業に従事、アルフレッドはブエノス・アイレス育ち、高校時代の先生の指導で演劇に興味を抱く。後にアルベルト・バカレッサ{f}、に知り合う。医学専攻時代にフリオ・エスコバール{g}の紹介でルイス・セサル・アマドーリ{h}に知り合う。1927年2月24日、無声映画及び劇場経営者ウンベルト・カイロ{*}と共同作者としてサルミエント劇場にて“ラ・ソスプレサ・デ・アニョ(この年の不意打ち)”劇を初演した。その後、エンリケ・サントス・ディセポロ劇団の人気女優カルメン・ラマスと総包した。ホルへ・コンスエロ氏によるとレ・ペラは博学でかつ無愛想と評判と証していた。ピアソラが少年時代にガルデルに合う場面、ビルの窓から侵入した時に最初に出会ったのが、レ・ペラの不機嫌ずら、変わってガルデルは笑顔で快くピアソラ少年を呼び入れたエピソードがある。1930年にチリー、サンチアゴへマリオ・べナルド劇団と公演旅行の時に彼初めてのタンゴ“カリジョン・デ・ラ・メルセー(メルセー寺院の鐘)”エンリケ・サントス・ディセポロ作曲に詞を付ける。この曲は直ぐにタニアによりサンチアゴのビクトリア劇場において披露された。



 {c}彼女はガルデルの恋愛遍歴(4)に主人公として登場
 {d}歌手とはガルデル自身
 {e}ジョワンビル・スタジオからの徹退は俳優シンジケート反発と、後のフランス政府の外国為替法により外貨送金規制に発展したため。
{f}アルベルト・バカレッサ、タンゴ詩人
”エル・コパ・デル・オリビード(忘却の杯)、
“エル・カレリート”、
“エル・ポンチョ・デル・アモール(怠け者の愛)”、
“アラカ、コラソン(愛する人よ、気お付けて)”の作詞者
{g}フリオ・エスコバール、劇作家、新聞記者
{h}ルイス・セサル・アマドーリ、タンゴ”コンフェシオン(告白)”、
“レンコール(ねたみ)”、“マドルセルバ(スイカズラ)”の作詞者
       
映画撮影のデータ:












エスペラメ(アンダンサ・デ・ウン・クリオージョ・エン・エスパニャ)
制作会社:パラマゥント
撮影:ハリー・ストラディング
シナリオ:アルフレド・デ・ペラ
音楽:ガルデル、マルセル・ラテース、ドン・アスピアス
監督:ロゥイス・ガスニェール
原作国:北米
制作年月:1932年9月
上映時間:60分
俳優:カルロス・ガルデル(カルロス・デ・アクニャ)、
ゴジータ・エレーラ(ロサリオ・アギラール)、
ロリータ・ブエナベンテ(フアニータ)、
ハイメ・デベサ(エステバン・マルケス)、
マヌエル・パリス(ゴンサス)、
レオン・ラバジェ(アギラール)、
ホセ・アルゲジェス(エル・モーソ、給仕)
ギター出演:オラシオ・ペトロッシ、
演奏楽団:ドン・アスピアスとオルケスタ・クバーナ
ガルデルの演唱レパトリー:
“ポル・トゥス・オホス・ネグロス(君の黒い瞳に)”、
作者:ドン・アスピアス、アルフレッド・レ・ペラ、カルロス・レンシ
“エスツディアンテ(学生)”、
作者:カルロス・ガルデル‐アルフレッド・レ・ペラ‐マリオ・バティステージャ
“メ・ダ・ペナ・コンフェサルーロ(白状するのは恥ずかしい)“
作詞:アルフレッド・レ・ペラ、
作曲:カルロス・ガルデル‐マリオ・バティステージャ
“クリオジータ・デ・ミス・エンスエニョ(理想の~)”
作詞:アルフレッド・レ・ペラ
作曲:カルロス・ガルデル‐マリオ・バティステージャ
撮影場所:ジョワンビル・スタジオ(フランス)
亜国上演封切り:1933年10月5日、レアル映画館(ブエノス・アイレス)















ラ・カサ・エス・セリア(短編)
制作社:パラマゥント
シナリオ:アルフレッド・レ・ペラ
音楽:カルロス・ガルデル、マルセル・ラテッス
監督:ジャケルケ
原作国:北米
制作年月:1932年10月
上映時間:22分
出演俳優:カルロス・ガルデル、(フアン・カルロス・ロメーロ)、
インペリオ・アルヘンティーナ(カルメン・リベーラ)、
ロリータ・ベナベンテ、ジョシータ・エルナン、マヌエル・パリ、
ガルデルの歌唱:
“レクエルド・マレーボ(やくざの思い出)”
作詞:アルフレッド・レ・ペラ
作曲:カルロス・ガルデル
”キエレメ(愛しておくれ)“
(*この曲のSPレコード録音はないが未発表シリーズ‐2でCD化された)
作詞:マルセル・ラテッス‐レ・ペラ
作曲:カルロス・ガルデル
撮影場所:ジョワンビル・スタジオ(フランス)
封切り:1933年5月19日、スイパーチャ映画館(ブエノス・アイレス)















メロディア・デ・アラバル
制作社:パラマゥント
撮影:ハリー・スタラディング
シナリオ:アルフレッド・レ・ペラ
音楽:ガルデル、マルセル・ラテッス、ホセ・センティス、
オラシオ・ペトロッシ、ラウル・モレティー
監督:ロゥイス・ガスニェール
原作国:北米
制作年月:1932年11月
上映時間:88分
出演俳優:
カルロス・ガルデル(ロベルト・ラミーレス/セニョール・トーレス)、
インペリオ・アルへンティーナ(アリーナ・サリーナス)、
ビセンテ・パドゥラ(ペドロ・ベントゥラ)、
ハイメ・デベサ(ランカレス)、
マヌエル・パリ(マルドナード)、
ホセ・アルゲジョス(フリアン)、
エレーナ・ダルゴイ(マルガ)、
フェリペ・サソーネ(事業主)、
参加楽団:
オルケスタ、フアン・クルス・マテオ
ガルデルの歌唱レパトリー:
“メロディア・デ・アラバル”
作者:カルロス・ガルデル‐アルフレッド・レ・ペラ‐マリオ・バスティステジャ
“マニャーナ・デ・ソル”インペリオ・アルヘンティーナと二重唱
作者:同上
“クアンド・トゥ・ノ・エスタ(君が居ない時)”
作者:ガルデル‐レ・ペラ‐ラテッス‐バティスティジャ
“シレンシオ(静けさ)”
作者:ガルデル‐レ・ペラ‐ペトロッシ
撮影地:フランス、ジョワンビル・スタジオ
上映封切り:1933年4月5日、ブエノス・アイレス:ポルテーニョ映画劇場

にほんブログ村 音楽ブログ 民族音楽・民族楽器へ
にほんブログ村
にほんブログ村 音楽ブログ 音楽の豆知識へ
にほんブログ村

2010年4月25日日曜日

ガルデルと映画、もう一つの次元の伝記(3)




エル・マゴ{a}、パリで映画撮影
アルゼンチンにおいてモレーラの短編が封切りされている間、ガルデルはフランスに5ヶ月前から着ており、ニースには'31年4月から滞在居合わせ、数回の公演を果たしていた。サディエ・バロン・ワーケフィルド夫人(タバコ業、チェステーフェリド社主夫人)が主催したパーティで、ガルデルは喜劇映画界の巨匠、チャールス・チャップリンに巡り会い、共通の賛美者としてお互い敬意を分かち合う。チャプリンはポルテニョのスターとのこの出会いの良い印象を常に保った。その後ニース、パライス・メディテラネーでのフリオ・デ・カロと彼のオルケスタの公演で二人は再会している。チャプリンは‐タンゴに魅惑され‐マエストロに“エル・モティーボ”を踊るためにリクエストした。一方のガルデルもデ・カロに願いを託すが、それは後日の事になる。ヨーロッパにて最初の映画を撮影する事前の際である。1931年5月、ガルデルはパリの近郊ジョワンビル・スタジオにて撮影する映画“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”に出演の契約を結んだ時である。この映画に参加する人員等は亜国人達キャストが支配的のなかで監督はチリー人アデルキ・ミジャールであった。ガルデルの他では、サルミエント劇場のポルテニャ・レビュー劇団のメンバー達のソフィア・ボサン、ペドロ・クアルツチ、グロリア・グスマン、アルフレッド・カミニャ、マルコ・カプラン等の総勢であり、この劇団はフランス首都で興行を遂行していた。この芸術グループはマヌエル・ロメーロとルイス・バイロン・エレーラらの共同指揮下の元に1928年からヨーロッパを公演旅行中であった。このプロジェクトには亜国人俳優ビセンテ・パドゥアも特別参加した。しかしながら、撮影の直前になっても映画場面のバック・ミユージックを演奏するオルケスタが不在していた。バイオリニスト(マエストロ、デ・カロ)がフランスで困難なスケジュールの興行予定の立場にいたが、、、ガルデルはデ・カロをこの課題の任務を受け入れる様に説得した。
アルゼンチン映画での歴史上の検討を行えば、国外において殆んど無いも同然で、『エル・マゴ』はオデオン・レーベル・レコード製作社で、又、ミユージシャン達はブルスゥイク社にて録音した件を説明できる。その時代の占有権は国内芸術の輸出の危険の状態に成らなかつた。“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”の撮影はこの時期に撮影された、別の映画“ノブレサ・ガウチャ(ガウチャの気品)”と同じ様に3週間近くの期間が投入され、都市と田園生活のコントラストに基ずいたテーマにした映画である。画策は次の無声映画を継承させられる様に、異なる数の音楽的な併合は唯一つの口実に過ぎなかった。このやり方のうちで、ガルデルは“エル・ロサル(バラの木)”と“トモ・イ・オブリゴ”のテーマを歌う、それと同じ様にソフィア・ボサンは“カント・ポル・ノ・ジョラール(泣かない為の歌)”と“ラ・プロビンシアーナ(田舎娘)”を演唱した。、何れにしても観衆は随一の映画と歓迎した。人々は映写師に『エル・ソルサル』{a}が“トモ・イ・オブリゴ”を歌う場面を上演ごと2~3回繰り返しさせる要求した。映画の歴史において例外的瞬間が起こり、これらの振る舞いは‐バルセローナとブエノス・アイレスの様な離れた都市で頻繁に繰り替えされた-。一部で“歌手”の次の映画封切りで、観衆達はこの同様現象に反応した。この歓喜騒動の繰り返しは別の芸能人にはこの類似な現象は起こりそうもない。この映画の撮影にあたって、次のエピソードがある。この時期に集まること偶然にモレーノの劇団、フリオ・デ・カロの楽団それにマトス・ロドリゲスとお互い別々の目的でフランスに来ていたが、そこへガルデルの登場となり誰ともなく映画製作の話が持ち上がり、この計画をパラマゥントに持ち込むが予算不足を理由に断られる。が、そこにサディエ・バロン女史が登場し資金を提供する申しがあり、この映画撮影が実現する。又、1932年からのガルデル主演映画“エスペラメ”、“カサ・エス・セリア”、“メロディア・デ・アラバル”の映画もサディエ・バロン女史の資金援助で続行される事となったのである。

{a}:エル・マゴ、エル・ソルサル、エル・モローチョと、これ等の名前は全部ガルデルに付けられたあだ名である。

映画“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”のデータ:
制作社:パラマウンート
撮  影:テド・パルへ
シナリオ:マヌエル。ロメーロ、ルイス・バイロン・エレーラ
音  楽:ヘラルド・マトス・ロドリゲス
監  督:アデルキ・ミジャール
制作年代:1931年
上映時間:85分
出演俳優:
カルロス・ガルデル(役名:アンセルモ・トーレス)、
ソフイア・ボサン(エルビーラ・デル・ソラール)
グロリア・グスマン(ロシータ)、
ビセンテ・パドゥラ(シリアコ)、
ペドロ・クアルツチ(パブロ)、
アルベルト・ビジャミル(クゥインドス)、
カルロス・バエサ(事業経者)、
ホルへ・インファンテ(ロムアルド)、
マリータ・アンへレス(リリー)、
ホセ・アゲーラス(秘書)、
特別出演:
フリオ・デ・カロと彼のオルケスタ・ティピカ、

ガルデルの歌唄:
“トモ・イ・オブリゴ”
作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:カルロス・ガルデル
“エル・ロサル(バラの木)”
作詞:マヌエル・ロメーロ、作曲:へラルド・マトス・ロドリゲス
撮影地:フランス、ジョワンビル・スタジオ
アルゼンチンでの封切り:1931年9月23日、
ブエノス・アイレス:シネ・カピトル(映画館)
にほんブログ村 音楽ブログ 音楽の豆知識へ
にほんブログ村
にほんブログ村 音楽ブログ 民族音楽・民族楽器へ
にほんブログ村

2010年4月20日火曜日

ガルデルと映画:もう一つの次元の伝記(2)


















(2)ガルデルとトーキー映画の幕開け(エル・ソルサルは語り、歌う)
アルゼンチンの20年代後半から30年初めにトーキー映画の到来はタンゴ・オルケスタのメンバー達の間では彼らの没落を引起すのではないかと考え、受け入れにかなりの抵抗が起こった。抗議の影響にも拘らず、初めの音響機器が国に到着し運用がスタートされる。初期にて、フイルムとレコードを同期させる装置は多大の評判を獲得したのはビタホーンである。しかしながら、この手順は多数の不都合があつた。映写時点で多くの場合タイミングに失敗して、必然的な痛手により幾らかのフィルム駒を不慮の損害を受けた。フイルムにサウンドトラックが組み込まれた光学音響システムの方がより優れている。このシステムはデ・フォレスト・ホノフィルムが所有し、1927年にアルゼンチン・フイルム会社によりブエノス・アイレスに持ち込んでいた。デ・フォレストの問題は小ロールのみの使用が可能で、短編専門に有効であった。その理由で二ユースか短いミユージカルに使用され、1928年にデ・フォレスト装置により幾らかの数のミユージカル短編‐幾つかのホセ・ボーエルと別にソフィア・ボサン‐とイポリート・イリゴジェン大統領が映るドキュメントなどが撮影されたが、現在これらの素材は残存していない。その少し後でバジェ・映画撮影会社によって購入され、ディレクター、フェデリコ・バジェは新しい収入を得る方法として映画を補足計画として短編を撮影した。エドゥアルド・モレーラ‐無声映画時代の主役、バジェ・レビュー・フイルム・ニュースの施行者から転換してきた‐が最初の短編の撮影を任された。

そこで当初のアイデアでは当時のポピュラー・アイドルとムージカル撮影にカルロス・ガルデルが最初に指名された。多分、スクーリンには110kgほどの肥満を晒し‐“フロール・デ・ドゥラスノ”の悪い思い出‐で『ソルサル』はこの計画には反対した。ジョーキーの友人イレネオ・レギサモとマネジャーのラサーノ(当時)、モレーラ達と協議した後で承諾した。この話し合いで彼の経歴において決定的な瞬間に直勘で危険な賭け事を見事に始末し、決心をして訓練を選び、青年キリスト教協会のジムに根気よく参加して肥満姿態を変容させた。結果は良く訓練は実を結び、ガルデルは映画撮影の最初の基本的、初歩の必然的条件の結果を見るまで、それに終わらず夢中になる。1930年10~11月の間、ガルデルが歌うテーマを含めた15の短編撮影が遂行された。スタジオはブエノス・アイレス市タクアリ通とピエドラス通の間のメキシコ832番に位置した倉庫で行われたが、ダイレクト音波による録音の為に音響隔離を確保するための予防策処置をとる新しい経験により準備を整える。モレーラは床布種類を手に入れ使用し、消防師が使う火気を回避する物質で覆う、選んだ解決手段は相当幼稚な方法だった。かの結果は‐この簡単な手順‐は激励され、後日、ラヂオ・ベルグラーノとフランシスコ・カナロのラヂオ・リオ・デ・ラ・プラタらのスタジオに採用された。撮影に使用したベル&ホーウエル音響室を覆うためにはスタジオの隣人が用立ててくれた簡単なクッションで割り当てた。不安定な現像進行の生産手段も4本の短編{a}を失う被害負う。ソルサル・クリオージョの歌った数テーマはこの幸運な予めのビデオ・クリップで未だ観賞できる。されらは:“ビエホ・スモーキング”、“ロサ・デ・オトニョ”、“ジーラ・ジーラ”、“マノ・ア・マノ”、“テンゴ・ミエド”、“アニョランサ”、“カンチェロ”、“エンフンダ・ラ・マンドリナ”、”パドリノ・ペラオ”、“エル・カルテーロ”、“エル・キニェレーロ{b}”。これらの曲の始めの二曲はフランシスコ・カナロ楽団の伴奏、その他の曲はホセ・アギラール、ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・リベロルらのギター伴奏で、これらはガルデリアンの広範囲なレパトリーの少見本を構成し、バルス、タンゴ、カンシオン・カンペーラ、そして、“エンフォンダ、、、”の様なコミック・タンゴまである。

演技に先立って“ある対話かその境遇”でのいずれかの感覚で、全体でより良く仕上げられたのは“ビエホ・スモーキング”で、これはコメディア調子にふさわしく、アルゼンチントーキー映画の光学システムにて初めてのフィクション作品である。この場面はスクーリン向けに脚色。こう適合されて『ペンションの女将から派遣された一人の若いガジェーガ{c}(イネス・ムラーイ)が古い借り服を着た役柄のガルデルに抗議する。彼は辛い経済的状況に直面にしている事情を嘆着、友人(セサール・フィアスチ)が来て提案する‐全ての資力が消耗したので‐洋服タンスに保管してあるスモーキング(燕尾服)を質入させる。借主は衣類を捨てるのを拒否し、立った状況で“ビエホ・スモーキング”を唱歌する』、

ガルデルは一部の歌部分の韻文を朗読する。各短編では“マノ・ア・マノ”、“エル・カレテーロ”、“ジーラ・ジーラ”、のそれぞれのテーマを歌う前にセレドニオ・エステバン・フローレス、アルトーロ・ナバ、とエンリケ・サントス・ディセポロ等が個々の創作らを予告し、モローチョと歌うテーマに先行して話し合う。こっけいな調子のデセポリンの参加は結果として爽快な注目を浴び、その軽率な物腰が初めモレーラの憤怒を挑発させ、デセポリンのおどけた演技により、道徳と経済危機の時代の失望を語る相当悲痛なテーマで、ディレクターは観客が拒否すると考えが、一般公衆はこう解釈せず、そして、この短編は評判良く歓迎をうけた。この映画は他の興行象徴とアイドルの声とイメージを多数の人物らに近ずけを許した。1931年5月にアストラル映画館で部分的に封切りされ、その後も特別な季節には幾つかのガルデルの長編映画と共に打ち上げられたり、数回の機会に亘りポスターに複帰した。また、長い年月の間に多数の盗用(海賊)行為の的先にされたりで、これらの作品は絶長な人気評判に達する事を立証した。モレーラの業績の恩恵によりガルデルのトーキー映画は‐大量の又、不滅の‐芸術を普及させる別手段と理解された。この概念は一方の短編よりの明瞭な表現に残り、明白な意に具体化される。オルケスタのデイレクター、フランシスコ・カナロとの雑談を保ちながら‐“ロサ・デ・オトニョ”を歌う前に‐ソルサルは姿勢を取りながら“何時もの友人の様にアルゼンチンのトーキーの助けにより、我々の習慣と我々の唄、我々の言語を守る準備が出来た”。この美辞麗句は別の違う暗示を持ち、スペイン語音響効果撮影された北米フイルムの進出を前に幾らかの国民抵抗に取り掛かる表現を配慮している。これらの作品類は北米映画(多くは国外で撮影された筈だが)の主導権維持を探索するためで、例えば、ジョワンビル(フランス)に存在したパラマゥント・ピクチャーのスタジオで製作された映画である。

注:{a}15編の短編を撮影したが4編破損している。
{b}タンゴ“エル・キニェレーロ”
    1995年まで10編の短編が生き残ると考えられていたが,
    あるコレクターグループがこの曲を発見したと発表した。
{c}ガジェーガはスペイン、ガリシア地方の女性の呼び名
   (亜国でスペイン人の代名詞はこのガリシア地方人)

この短編集のデータ
映画関係文献:
『カルロス・ガルデルがこの様に唄った、歌集のフレーミング』
制作社:バジェ映画撮影会社
制作者:フェデリコ・バジェ
撮 影:アントニオ・メラジョ
現像所:アルベルト・エッチェベレ
音響係:セサール・ラフォ、ロベルト・スミッヂ
音楽伴奏:ギジェルモ・バルビエリ、アンヘル・ドミンゴ・リベロール、ホセ・マリア・アギラールらのギター伴奏、オルケスタ、フランシスコ・カナロ
監 督:エドゥアルド・モレーラ
原作地:アルゼンチン
制昨年月:1930年10~11月
俳 優:カルロス・ガルデル、セサール・フィアスチ、イネス・ムラーイ
特別出演:セレドニオ・エステバン・フローレス、フランシスコ・カナロ、エンリケ・サントス・ディセポロ、アルトゥーロ・デ・ナバ、

この短編映画はデ・フォレスト音響システムにより撮影された
ガルデルの演唱は次のテーマ:
“マノ・ア・マノ(五分と五分)”
作詞:セレドニオ・エステバン・フローレス、
作曲:カルロス・ガルデル
“ビエホ・スモーキング(古い燕尾服)”
作詞:セレドニオ・エステバン・フローレス、
作曲:ギジェルモ・バルビエリ、
“ロサ・デ・オトニョ(秋のバラ)”、
作詞:ホセ・リアル
作曲:ギジェルモ・バルビエリ
“テンゴ・ミエド(恐れ)”、
作詞:セレドニオ・エステバン・フローレス
作曲:ホセ・マリア・アギラール
“パドリーノ・ペラオ(はげ親父)”
作詞:フリオ・カントゥリアス
作曲:エンリケ・デルフィーノ
“ジーラ・ジーラ”
作者:エンリケ・サントス・ディセポロ
“アニョランサ(郷愁)”
作者:ホセ・マリア・アギラール
“カンチェーロ(怠け者)”
作詞:セレドニオ・エステバン・フローレス
作曲:アルトゥロ・バッシー
“エンフンダ・ラ・マンドリーナ(マンドリンのケース)”
作詞:オラシオ・スビリア・マンシジャ
作曲:フランシスコ・プラカニコ
“エル・カレテーロ(馬車引き)”
作者:アルトゥロ・デ・ナバ
“エル・キニェレーロ(トトカルチョの賭け人)”
作詞:ロベルト・アゥブリオ・バルボサ
作曲:レイス・クルセイアゥ・モルテット
この短編シリーズのアルゼンチン国内初上映:
1931年5月3日、ブエノス・アイレス市アストラル映画館
補足記事:3月記(仮題)「カルロス・ガルデル」4CD-1DVDが1460円
http://3gatsu.seesaa.net/article/33612756.htmlブログにこの短編に値する記事がありますので参考ください。カルロス・ガルデル”80 TANGOS SONGS” 5X008 Mede in ITARY                

にほんブログ村 音楽ブログ 民族音楽・民族楽器へ
にほんブログ村
にほんブログ村 音楽ブログ 音楽の豆知識へ
にほんブログ村













“エル・キニェレーロ”の作詞者:ロベルト・アブリォ・バルボサとガルデル

2010年4月15日木曜日

ガルデルと映画、もう一つの次元の伝記(1)

カルロス・ガルデルが夭折して早くも約75年もの月日が経とうとしているが、彼の伝説は依然として不変である。彼の歌唱条件の多くに直接関係無く、有効性現象は複数の動機に基ずき。アバストのエル・モローチョは歌謡タンゴ新解釈方法を創作し、とりわけ歌手即ち“ガルデル”という代名詞にされ、一時代の亜国文化のより大きい表現をし、国際的反響を達成する。彼の芸術は亜国人の多数の作曲家、作詞家らの作品を広め、彼の外国での映画撮影業績は自国アルゼンチンにおいて初期のトーキー映画を普及させた。


(1)無声映画時代:洞察力はタレントの微妙な知性と表現力である。ガルデルは彼の長い生存で多くの機会にそれを手中にした。人が安全な道を選ぶ処を瞬間に賭け、それを信じ多く繰り返し、音符知識もなく脳裏に残るメロディーを作曲した。未だ永続した影響力とその時代のラプラタ川地域住民のポピュラー芸術の舞台を白熱させ痕跡を留めた。

彼の経歴は重要な亜国文化発展時期に一致し、クリオージョ因襲の処で‐ガウチョ純粋の伝統‐移民の流れに貢献融合した。ガルデルはこの進歩を反映させ、彼の歌を通じてホセ・ラサーノ二重唱時代から唄った民謡創作やタンゴの最高歌唱の様に神聖化され、殆んど全ての音楽スタイルで“成功して”海の如きそこへ侵入し形跡を残した。民衆表現手段の中で“前にも後にも”何人も比類のない地位に到達占め実現するのだから、よつて、彼の歌手家業からはこの理由で不思議に思うべきではない。『劇場、放送局、映画』のような別の興行活動に結びつけ、この最後(映画)は生存大部分の間ずつと繁栄期を維持している。

1917年にて、前述の値を裏付けを見せ付けた数々の実積を持たらした。ガルデル‐ラサーノ二重唱は、この年の3月にコリエンテとマイプーに位置したエンピレー劇場に出演始める。映画上演の間隔を華やかにする俳優、歌手達は劇場興行主ウンベルト・カイロ氏{a}にて雇われた。この分野でガルデルは彼の経歴のためとブエノス・アイレス音楽の発展に意義深い進歩に奨励する。ガルデルはその年半後期の間に最初の歌唱タンゴ“ミ・ノーチェ・トリステ”を初め何らかの躊躇した上に初演を決める。それは彼ら二重唱の特色されたカンペーラ(田園調)歌唱レパトリーにとつて重要な変化のある出来事で、ガルデルの考慮で何れもその説明が付く。ソルサル・クリオージョは観客がタンゴの断固とした歌唱スタイルを強要し受け容れない事を恐れを氣遣う。しかしながら、このジャンルはその時まで声楽固有の次元が足りず、しかしながら、観客の間では順調な反響に張り合いを得ていた。ガルデルの経歴の一層主要な発展の重要を獲得する運命にした状況だから、この情勢は“ミ・ノチェ・トリステ”の初演は並外れた公開に専念した場面にも驚く事は無い。1917年4月、エンピレー劇場にデビューした数週後にマクッス・グルクスマーン{b}所有の『ナシオョナル‐オデオン』レーベルに彼らニ重唱はレコード録音を開始する。このオーストリア生まれの資本家は映画撮影事業に資本参加して大部分の恩恵幸運を獲得した。製作者、劇場主、配給業者を兼ね、又、パレセー・テアトレー、グラン・スプレンディーなどの封切館の建設にも進入し、『エル・モローチョ』をグルクスマーン、カイロらが彼を映画世界に結びつけた最初の近寄り‐間接的だが‐を果たした。又、ガルデルの個人の人気増大恩恵により録音活動も大きな収益をもたらす。しかし、其れだけでなく、この同じ年にある映画撮影に活動的に参加する機会を得た。6~7月の間に映画制作者兼劇俳優フランシスコ・デフィリピッ・ノボアの指図による“フロール・デ・ドゥラスノ(桃の花)”を撮影する。
撮影はブエノス・アイレスとビジャドローレス(コルドバ)にて分配され、ガルデルは主人公役をしたが、フイルムの一場面を見て『おかしな船乗り服を着せられ、体重を超えが目立つ様な身ぶりだから』と言う。しかしながら、“私は歌手、ビオラ(ギター)無しでは捗らない”と言う始末で自分の仕事に満足せず、彼の主張は正当と認められる。彼の立場を考慮すると仕事の後のこの個人評価で極端な厳しい過ぎを暴露する。20年代の間も大スクーリンを遠ざける事を維持したが、それでもガルデルは別の道で映画と演技関係を続けた。例えば、1923年において、モンテビデオにてエンリケ・ロサとマティルデ・リベーラ劇団にラサーノと端役柄で出演し、劇場領域にて演技活動を維持した。其の参加はわずかで、一つのテーマを歌うための口実を与えるためで、別の場面、映画館ホールにては無声映画の場所で『1925年まではラサーノとの二重唱、その後は独唱者として』大部分の人気を基礎ずけるに至る。無声映画での共演音楽は基本的には歌手達と‐通常‐タンゴのオルケスタ・ティピカが引き受け公演した。映画の興奮は生演奏によりあまり‐度々‐なので彼らのアイドルをフイルム上映中にも関わらず熱狂者グループ達が一致して追いまわした。その様子はこの時代の映画館の公演の特異性と関係して認識する。まだ。世界中全体がハリッウド形スタイルの存在を果たされていない時代である。スクーリンの前に各国それぞれの品行評価の観客の風潮であつた。ガルデルが主人公を演じた長編映画の封切りした30年時代においても‐どう見ても‐この地方性の事情を維持した。『エル・モローチョ』は年の数ヶ月間映画館の映像の合間や時には劇場での劇合間にも出演活動し、多くの場合は単独‐伴奏者同伴で‐別の機会ではバラエティー富む役演出もこなす。国内巡業でもこの手段を維持し、多分の忠実と共に彼の歌唱を記録する可能な映画館ホールでガルデルは別の変化を職業経歴に刻み込む。グラン・スプレンディー映画劇場の一階にグルクスマーン会社は録音スタジオを所有し、1926年11月に電気システム録音が開始されたが、しかしながら、当初何かの技術問題があり、その年末に最終的にシステマは問題解決され、数日後に音響録音は改善されて、又、映画撮影関係も進歩して行く。

{a}ウンベルト・カイロはブエノス・アイレスにて初期映画上演興行事業を営む、又、映画製作分野にまで進入した。エルネスト・グンチェ、エドアルド・マルティネス・デ・ラ・ペラ指揮監督のドラマ“ノブレサ・ガウチャ(ガウチャの気品)”のシナリオライター及び映画化製作である。      

{b}グルクスマーンはアルゼンチンにての初期映画界に奨励した著名な名士であり、ブエノス・アイレスでの新芸術を普及参加を促進して写真撮影商品商売を営んだ、神秘的なレパジェ商会から初め、彼はフイルム流通企画担当し、数年の後にレパジェ商会の経営者に出世転換した。1915年にベルグラーノ街に撮影スタジオ設備を据え付けた。国内映画製作活動と共に外国資材配給の業績を促進させた。

 にほんブログ村 音楽ブログ 民族音楽・民族楽器へ にほんブログ村 音楽ブログ 音楽の豆知識へ
にほんブログ村   

2010年4月10日土曜日

ガルデルの恋愛遍歴(5):映画“クエスタ・アバホ”の共演女優























モナ・マーリス(本名マリア・ロサ・カプデヴィジェ)、彼女の名声はアルゼンチンではガルデルと共演した映画“クエスタ・アバホ”が忘れられない。ハンフリー・ボガット、キャリー・ガラン、ビクター・マック・レグラン、ジャネット・マック・ドナールドなど他多数の有名なハリゥド映画俳優女優と共演。カルロス・ガルデルの人生最後時期の立会人、共存者あるいは彼と愛を分かちあった仲と噂された人物。此処で彼女の証言は非常に重要でカルロス・ガルデルの知らざれる彼の人格が浮き彫りにされている。

(*)以下はペドロ・ウズキサ氏のモナ・マーリスとのインタビューによる:
『私は祖母と伯母に養育され、母は私の4歳の時に死んだと嘘に騙されつつ厳格に教育されて、25歳になりある多少名声のあるイギリス界の人物と結婚する事になり、そこで人通りの戸籍書類が必要になり洗礼書を取寄せた所で私生児と知り、なんとショック、想像してよ!長い間強い悲しみを隠し複雑な劣等感をもたらしたわ、そして、その約束を理由も説明せずに逃出す他に手も無く、何故かってそんな書類を恥ずかしくて出せますか。それが私の人生最良時期を破滅させられた思い、知りあつた殿方が私に恋し結婚したい希望でも私のヒステリーに関係の終末、誰もその原因をも理解せず、私にとつては本当の理由を説明するのが屈辱だった。なぜか私自身の非常なラテンメンタリーティーを自身に偏見を充満押し付けて、誰とも話さず長い間背負いたどり通した』

=貴方はなんと万人に愛された人でしょう、多くの栄光を勝ち得た女性としての理由は?=
『決局のところ紳士方に愛される秘密なぞありません、私が他の女性たちのように沢山の恋する男に恵まれたかって、とんでもありません。ただし、若い頃は美貌に恵まれ、そして、稀に見る魅惑持ちだった事ね。フランス人とスペイン人との混血からくるラテン系でロマンチック、あの気性事情ね。私の生活範囲のイギリス、米国人たち紳士方は気が狂うほど魅力の虜。そして、まつたくの惚れぽい、官能的体質、直情的と来てるし、今、思い出すけど私はなんと“嫉妬深く、独占欲強し、用心深き”神様、許して!』

=貴女はより特異的な男殺しの名に挙げられる、宿命的女性?=
『スクーリンではその役に執着したし、一度演技に専念すると止められない、今より昔は宿命的女性役はより魅力的なのは本当。しかしながら、今節の何れかの若い女性達は恐ろしく破壊的』

=映画の中で貴方自身を演技した?=
『いいえ、全然無しね、思い出すけど、最初の頃はメキシコ娘役、私はいつもメキシコ音楽に魅了されていたから、その役と同一視されたのよ。そして、後ほど宿命的な女役を演じる時になり、なるべく控えめに振る間わったけど。他人はその反対の意見だけれども、私としては何時も普遍の女だった。』
=優美な動作、歩き方、魅了な微笑を誰に手ほどきされたのですか?貴女のそれらの魅惑は生まれつき身についた自然の仕草ですか?=
『それは独習と呼ばれる事ね、そして、後で磨きをかけたし、でも、私正直いつてごく自然に振舞う努力したわ』
=貴女は愛に征服去れた、それとも彼等達が失った事?=
『何時も二人のお互い様ね、少女の頃から円熟した紳士方達が好きだったわ。たぶん何時もとても孤独でいたし、夫、父、愛人、息子それら全部を男に要求したのね』

=そんなに大きな激情を刺激させれたのは貴女の孤独が影響した?=
『いいえ、初めにもたらしたのは私の肉体、私とても官能的な一人の女、最終的に自分の性格に惚れ込んだため、男性から恋され、拒否などしていないわ』

=男性の肉体に引き付けられるのはどんなところ?=
『間違いなく瞳ね、瞳は性格の細かいところまで見抜けるから』

=貴女はロマンチック、、、=
『いいわ、初めに瞳、しかし、あとは残りの肉体、そう、私、美しい肉体していたから、でも、多くの女性は美しい肉体をしているでしよう』

=貴女は数回心を燃やした上ににも過からわらず、結婚されたのは年長時期になつてでしょう。そして、10年の交際の上に離婚した。婚姻で得た経験は?=
『私の夫はオランダ人、工業技師だった。彼は教養高い聡明な男、しかし、欠陥者、アルコール中毒者、オランダにおいてそれは重大な事態でなく、結論としては苦悩せず酒をたしなめられる。何故かというと90%が冬の季節のため。私たちは暖かい地方に住んでいので別のスタイルをもたらす。この中毒は過大に苦しみを与え、私は彼に従い続けていたが、時が立つほど愛をも破壊する始末になる。私の彼に対する親密な興味を壊した。我々の間には暴力行為はなく、しかし、彼は一端飲むと幾多の遇行をした。後になり後悔し許しを請い、再び元に戻り初めからやり直し、それは耐え難い。10年間我慢したがある日もうこれで十分と言い渡したわ』

=その影響でも結婚生活信じます?=
『勿論!しっかりとそれを信じます。そして、離婚もまた同様にね、女一人結婚を考える時真剣に成るでしょう。しかし、思う道理に成らないものね、そうしたら二人の共同生活は成り立ちません、正直に立ち向かうなら、離れるに越した事以外にないしお互いにやり直すべきでしょう』

=何故、お子さんを授けなかったのですか?=
『結婚したときすでに40歳、何時も子供が授かる望みは捨ててはいなかったけれど、絶体に老後は考慮しませんでした』

=貴女は何時も豪華な営み囲まれているがどの手段でお金を調達してきたのですか=
『私自身の仕事の報酬、第二次世界大戦時は低い、高いの報酬の稼ぎ、北米国家は私の稼ぎの70%も取り上げたわ。その報酬を貴金属を買い捲るのに用立て投資をしたわ、その投資が裕福に不景気時期を無事に乗り越した訳』

=貴女の伴侶は経済的援助しなかったのですか?=
『いいえ、北米では特別なモラルがあり、男が愛人を持つとそれぞれ互いに生活維持し、その経済維持も互いに個人で賄う掟、勿論、贈り物は受けるわ、誕生日、何かの記念日の宝石、でも、扶養してくれたのは唯一人の男、分かれた昔の亭主だけ』

=長年外国に住んで、何故アルゼンチンに帰国?=
『幼少の頃、フランスに住んだ頃、私の祖母が祖国のことを話してくれたわ、そこで将来成長したら此処生まれた場所に来ることを夢見たの、ガルデルと“クエスタ・アバホ”に出演した時、彼はアルゼンチンの一粒を語り、そう一握りのアルゼンチン、最終的に決心した事を果たしたわ、そして、今、私はここにいる』

=貴女の今の日常生活の日程は?=
『日課は何もありません、本当にどうして時が過ぎていくのでしょう』

=“クエスタ・アバホ”の共演者に選ばれた経緯は?=
『電話で!非常に奇妙な方法、私はカルホルニャに居たの、パラマントが妖婦と純情役のラテン・タイプ女優を探しているのを知っていたけど、まさか自分に電話があるとは思わない出来事ね、候補者はロシータ・モレーノ、ラケール・トーレスと私。私はハンラン・トンプソン監督の“エル・テンプロ・デ・ラス・エルモサス”にキャリー・ガラントと共演撮影が終わったばかりの時、トーキー初期時代で美声を重視される条件。ゲスニー監督、アルフレッド・レ・ペラ及びカルロス・ガルデル自身がニューヨークのパラマント・スタジオから電話リハーサル、多分私達の反応を試すためにガルデルはポルテニョ・タイプのアクセントを逸そう強調して話したわ。彼を知ったのは共演女優に選ばれた時、以前には全たくの未知の人』

=二つの役付けはどんなタイプ?=
『妖婦、お馬鹿さん娘役から始め、直ぐに妖婦役が二重に興味深い事に気ずくの。唯理解出来なかったのはその時点で何故共演者に選ばれたかの理由。アルゼンチン訛は全然ないし、4歳くらいの時にフランス、ピレネーに住むお祖母ちゃんの所へ行き、本来の言語を失うも同然になって、ロス・アンジェレスでメキヒコ人達と接する事で母国語を回復したわ』

=撮影はどの位に及ぶ?= 5週間と少しね

=あの時期に知り会ったガルデルはどんな印象の人?=
『魅力的で最良のセンス人、彼自身の高く円熟した知性と洗練さを習慣の手中に入れていた。しかし、消してそれらの所為で彼自身の天真爛漫の性格を失う事無く、当時まず初めの仕事は同僚達と非常に協力的かつ、名声容姿にそぐわぬ例外的に誰彼とも並外れた誠実さで接したわ。俳優としての多くの困難、特に手の動作に悩みを自覚して決して恥じらい無く告白し、多大に俳役に心酔した。彼はきつとビング・グロスビー、フランク・シナトラ達の様に優秀な俳優になれたでしょう。彼らも歌手として卓越した演唱家だった上に映画俳優として成功した課のようにね』

=彼に最後の出会いは?=
『1934年8月、ニューヨーク。ある夜の晩餐、“クエスタ・アバホ”の撮影が終わった後の日、共に撮影を続け、電話連絡する約束。私はロスアンジェレスに戻り、後にヨーロッパヘある朝ロンドンのサボイ・ホテルに居た時にガルデルの崇拝者で支配人のサンタレジィ氏が事故死ニュースを齎し、挙句に一ヵ月ほど悲しみのどん底に突き落とされ危険な反動に誘われる嵌めに、、、』

=もし、あの不幸の事実が無ければ、貴方はガルデルの最愛の人に変わる事になつたでしょうか?
『その可能性は随分思素ね、確かに彼の人格に大いに魅了されたし、又彼も同様、私にインパクトを受けたようね。私達共通の運命の落とし子であり、二人とも父を知らずに成長したし、充分にそのテーマを話し込んだ上に、我々二人の間にとても独特な疎通方法を成し遂げたと思うし、我々ニューヨークに途止まれていればきっと共通の魅惑で愛に変わる可能性無きも非ずと思ったわ』

=ガルデルの何処が最も印象ずけられたでしょうか?=
『彼は暖かく心の広い人、高潔の持ち主、通常外の魅了の男、そして非常に内気ね、特に女性達に対してのあの内気な彼特有な交際の仕方』

=ガルデルの私生活上の一齣未知の部分、女性関係を明確にすると、、、ある伝記家によると彼の男っぽさを疑うが、、、?=
『いえ、けしてそんな様な性格ではないし、女性達に追い掛け回されながらも、彼女達に非常に敬意的で愛に関して絶体に攻撃的では無いし、ガルデルは真の男。しっかり留めるに値するほど充分理解し会ったわ』

=貴女はガルデル、伝説と思う?=
『いいえ、彼は実存し、継続その儘、庶民の歌魂を誰由りも完璧に唱演し、人々は彼を引き続き受け入れている』
 *モナ・マーリスはブエノス・アイレスに1906年11月7日生まれ、フランス育ち、ロスアンジェレス、ニューヨーク、ヨーロッパに滞在、映画界に活躍後老後ブエノス・アイレスに住む。1991年3月23日、ブエノス・アイレスに没。1988年1月15日、インタビユー:エナムエル誌及び、その前後のガルデル追悼番組ラジオ放送録音より。録音当時の彼女の声は独特なアクセントで若々しく、とても80歳前後とは想像出来ないほど、以上のガルデルの思い出を清々しく語る。
にほんブログ村 音楽ブログ 音楽の豆知識へにほんブログ村 音楽ブログ 民族音楽・民族楽器へ
にほんブログ村
にほんブログ村

2010年4月4日日曜日

ガルデルの恋愛遍歴(4):フラメンコ界の歌姫













インペリオ・アルヘンティーナ(本名:マグダレーナ・ニレ・デル・リオ):この文を書き始める前にタンゴのFM録音テープを整理していたところ、彼女のグラナダ・タンゴ・フェステバルで歌うサンバ“カンシオン・デ・インカ”(1997年87歳?)を聞く事が出来たのは何かの偶然か。 フランスで撮影された映画“カサ・エス・セリア”、“メロディア・デ・アラバル”にガルデルの共演女優を勤めたインペリオ・アルヘンティーナの物語。彼女の父はジプラルタル生まれのフラメンコ・ギター奏者(生粋のアンダルシアの血統)、アンダルシア生まれの母との間に1910年(‘06年説もある)12月26日、亜国ブエノス・アイレス市サンテルモ街に生まれる。芸名はノーベル賞受賞したスペイン文学の大器劇作家ハシント・ベナベンテに彼女がまだ早熟女優時代にフラメンコ歌手パストーラ・インペリオとフラメンコ踊り子アントニア・メレセ“ラ・アルヘンティーナ”らの半分の名を取り“インペリオ・アルヘンティーナ”命名された。 ブエノス・アイレスでスペイン系修道院女学校に学ぶが、歌、踊りに成を出し過ぎ、退学処分と成る。が、両親は芸の道に進ませる。誰かにカスタネットの手ほどきを受け、パーティー、フェエステバルに出演し始めてピティツ・インペリオと呼ばれる様に成る。その時期に父はテアトロ・コロンのマエストロ、リカルド・ネマノフが教えるクラシック・バレーのクラスにインペリオと妹を通わせた。1920年家族4人でアルゼンチン地方、ボリビア、チリー諸国を巡業し、ペルーのリマでエウへニア・スホリ一座に参加してリマ市のコロン劇場出演。盛大な成功、当時のペルー大統領、アグスト・レギアに官邸へ招待される。同時期ロラ・メンブリベス一座に誘われ興行に参加。1924年マドリード、ロメア劇場にデビュー、1927年映画製作者リカルド・ムニェスはフロリアン・レイ監督指揮下によるアルマンド・パラシオ・バルデス作の小説を無声映画化『サン・スルプシオ姉妹』を撮影開始、インペリオを少女役にスカウト出演させ、この役も大成功。1928年、ドイツで“コラソンネス・シン・ルンボ(迷う心達)”撮影、つかの間の出演。トーキー映画‘30年“エル・プロフェソール・デ・ミ・ムヘール(我が妻の教師)”出演、翌年“シネポリス”を撮影、‘32年パラマントはジョワンビル・スタジオでスペイン語編映画製作開始、若き彼女と4年間契約を結ぶ。そして、“カサ・エス・セリア”、“メロディア・デ・アラバル”にカルロス・ガルデルと共演し“マニャニータ・デ・ソル(朝陽)”、“メロディア・デ・アラバル”をニ重唱で歌う、“ス・ノーチェ・デ・ボーダ(貴方の新婚初夜)”、俳優マウリセ・チェバリエルと“クリエンテ・セデクトール(魅力的なお客)”に出演。歌手ギター奏者ラファエル・メディーナとパルロフォーン・レーベルに録音、他にドイツで映画“ノブレ・バトゥーラ”、“モレーナ・クララ”で花形マルレーン・デイトリッチと共演。スペイン内戦時代に入りフランコ政治結社のイデオロギーを信奉する。フランコ総督に党員として認められる。不吉なドイツナチス宣伝大臣、ジョセップ・ゲべッリスに招待され、ヒットラーに紹介される。ヒトッラーを魅惑した冒険好きなアイルランド女性ロラ・モンテに関する映画に出演を説得されるが受け入れず。ある伝記家によるとヒットラーとのロマンスをとなえたが彼女は否定している。ナチス政府との気紛れなこの噂により40年代初めに米国、メキシコ、亜国において深刻なポィコット問題を引き起こし、最とも顕著にナチス、フランコ党との関係を拒絶したのは俳優及び知識人たちが彼女の出演先のニューヨークのカーネギ・ホールの前でのデモ抗議であつた。再び50年代には最良の歌手として“ラ・ヒエギータ(盲目女)”、“エレガンテ(優美)”、“エンセンディーダ(燃えついた女)”の歌唱でキューバ国民から上品な礼儀賛美と深く注目され大成功、挙句の果てに若きフィデル・カストロから絵画を送られる。インペリオ・アルヘンティーナは観衆達とまた人生に交差した紳士達を魅了し続けた。彼女は1997年スペイン帰化、2003年8月21日,マラガの孫娘の家で没、行年92歳。

ガルデルとの映画共演の件は後編で詳しく解説しようと思う、かのタンゴ歌手との恋愛関係につては殆んど資料らしき物が無く謎に包まれたままである。

人気ブログランキングへにほんブログ村 音楽ブログ 音楽の豆知識へにほんブログ村 音楽ブログ 民族音楽・民族楽器へ
にほんブログ村
にほんブログ村