2010年3月31日水曜日

ガルデルの恋愛遍歴(3):滅亡ハンガリー帝国の貴婦人

夜の眠れないひと時にガルデルのCDに聞き入る中、突然“ノ・メ・アブレ・デ・アモール(愛の話をしないでおくれ)”(1)との歌声に一瞬彼に叱られた気持ちに落ち込んだが、このシリーズを始めたばかりなので無視する。処で、当時丁度ボゴタにガルデルが滞在公演前後して、偶然か故意か謎に包まれた人物イボンヌ・ギテライがかの歌手の友人で当国映画界社主二コラス・ディアスに彼女自身の秘密を明かした物語を載せよう:

『私の家族は滅亡ハンガリー王国の上流社会に所属し、何所か名前を出したくない有名な都市で私の母は女子神学校の学長を勤め、エリート育成していたが、第一次大戦後のトリアノン条約(2)で数千人の犠牲者の中で戦後の動揺した政権の波乱時代になると、私の家族は財産を失ない。私自身の若さと美貌と高等教育が粗末なタイピストに成り下がるのを妨げ、人生の進路を見失い、どの道を選択するか迷っていた。その時、私の人生に突然にヨーロッパ・リゾートのコスモポリタン上層世界貴族階級の一人の素敵なプリンスが出現した。私の若さと彼は外国人のため家族は反対したが若き幻想にひかれ結婚した。新婚旅行はパリー、二ース、カプリ、夫は絶対に母親代わりせず幻想の挫折の後、我が婚姻の悲劇を破廉恥に知人へ話すことも出来ず、16歳になり行く先不明の巡礼するかの様に極東帝国日本、ジャワ、エジプトなどを彷徨しシャンパンの祭り騒ぎに偽喜びの嘆き魂の破滅を一掃しようと努めた。時は過ぎて行き‘27年に我々夫婦はコート・ダジュールに落ち着く。コスモポリタン社交界群に属す競馬場、ダンス・サロン、カジーノを私は強く支配し敬意を得た。ある夏の華麗な日に『離婚』の最終的決心をする。富豪華に微笑む春のパリー、花咲くカーニバルのニース、カンヌのミモザ花の祭りと愛の歌、空、海の自然は花咲き視野が開き青春賛歌との世界の中に家庭を捨てて一人飛び出した。それは18歳の頃、パリーに孤独に住み明確な目的もなく、1928年のパリー、パリーの放埓と贅沢なシャンパン、価値無しのフランコのパリー、外人パライソのパリー、小王様金持ちヤンキーと南米人で充満した、パリー、1928年のパリー、外人の財布を空にせしめる新しい興奮、毎日新しいキャバレーが誕生していたパリー、パリー18歳、金髪、青い瞳、一人孤独、その不幸の苦しみを和らげ様と快楽の深みにのめり込んで行く私。キャバレーでは常時人目に注目の元、金額に疎く、踊り子に振舞うシャンパン、給仕に与える高額な心ずけ、何時も一人で現れる。何時か、あの国際性豊かな環境にて徘徊する一つのあの要素に秘密の罪を発見する。それは忘却するための手段を誰かに薦められてコカイン、モルフィーナ、ドラッグ、奇怪な様相の踊り子、褐色な色合いの豊富な毛髪の南米人、エキゾチックな場所探し。あの時代に『フロリダ』に今着いたばかりのデビューしたキャバレーの歌い手、エキゾチックな言葉で歌うエキゾチックな唄、盛大な拍手受け成功。その時まで未知の場所にて不思議な衣装で唄う、アルヘンティ-ナのタンゴ、ランチェーラ、サンバ。彼は白い歯、痩せ型、少しモローチョ青年、美しいパリーの誰かの注意を満たす人、彼はカルロス・ガルデル。全魂で唄う泣き節タンゴ、観衆の心を何故か知らず虜にする不思議。モダン・タンゴでなくそれは古いアルヘンティーナの唄、真髄のパンパのガウチョの魂、カミニート、ラ・チャカレーラ、アケル・タパド・デ・アルミニョ、ケハ・インディアーナ、エントレ・スエニョ、彼ガルデルは流行最先端にいた。ロンジュシャン・ホテルの常連客、キャバレー、劇場、ミュージック・ホール、競馬場、全ての処でその顔モローチョ、白い歯、輝く清々しい笑顔。しかし、ガルデルは彼の仲間内サクールのみにての興じる方法が好きだった。あの時期に南米人が独占的に出入りした、クリシェ通にある、“パレルモ”と呼ばれたキャバレーがあった。そこで私はガルデルに知り会う、彼は全女性に興味を示したが、でも、私にとってコカイン、、、とシャンパン以上に関心を持てなかった。パリーでめぐり遇う日々の男達と女性間のアイドル的の私に女性らしい虚栄心をくすぐるが、しかし私の心には待つたくの反応は無い。あの時の親交はあの夜、あの散歩、あの内緒事、花庭園の眺め越しにパリーの冴えない月光下に再確認。ロマンス利害関係は幾多の日々が過ぎていく。誓いは絹のよう、美辞麗句は冷淡な岩のような心に深く食いこみ、あの男は私の魂の中に入り込んでくる。私は気が狂い、私の華麗なピシート(男)は私の悲しみの内に今は光の充満の中にいる。もうキャバレーには戻らない私、私の華麗な灰色の部屋、電気スタンドの煌めき、モレーノ姿に確固たる調和した金髪姿。私の青い部屋、行き先不明の魂のノルタルジー、全て知り、今、真の愛の巣、それは私の初愛』。

どの位時期過ぎしか告げかねぬ、時は果かなく激流ごとき過ぎ去り、パリーを眩惑させ風変わりな金髪女、高貴な香水、シャンパンとルシア・キャビア、日々の手堅い皿を飾る慇懃なパーティーは姿を消した。数ヶ月過ぎ、パレルモ、フロリダ、ガロンなどの永遠の常連客は新聞記事により20歳の金髪、青い目の踊り子は前代見聞きの厚かましき天下の踊り手は花咲く青春の全ての官能美によりポルテニョの若旦那達を熱狂させた事を知る。その人、イボンヌ・ギトライ。そして、数年後舞台は南米アンデス山の小都市ボゴタに“メレニータ・デ・オロ”婦人、彼女は現れる。この地に如何に来たか何人知れず、時はガルデルが丁度公演中か、彼の後追いパリーから長旅、密かに彼と蜜会か、それも適われず、自殺未遂でボゴタ世間の話題のり、そして、ガルデルと恋物語の告白、無事にパリーに帰還したか、その後の彼女の消息を知る人物はいない。

Nota:Mario Salmiento Vargas en el ciudad de Bogota Colombia
マリオ・サルミエント氏作を小生風にアレンジしてある)
注:(1)“ノ・メ・アブレ・デ・アモール(愛の話はしないでおくれ)”のせりふが出てくる曲は“ベサメ・エン・ラ・ボーカ(唇にキスして)”作詞:エドワルド・カルボ、作曲:ホセ・マリア・リスティー、#18169A、ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらのギター伴奏で‘26年録音

注:(2)トリアノン条約は1920年6月4日に第一次世界大戦の敗戦国、ハンガリー帝国と勝戦連合国がフランス、ベルサイユ宮殿大トリアノンにて結んだ条約。

Wikipediaの『トリアノン条約』を参考ください
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2010年3月29日月曜日

ガルデルの恋愛遍歴(2):スペイン芸能界のスターと財閥夫人

ペルリータ・グレコ:
カルロス・ガルデルとロマンスを宣告した数々の女性の内の一人。“幻想か真実か?”単なる想像か唯宣伝の為の策略の産物か彼女のみ知るのだが。いや、確かにかの偉大なタンゴ歌手との愛惜関係に束の間に生きたのである。しかし、カルロス・ガルデルと絆で結ばれた名の見誂えれた彼女のデータを詳しく知る価値が出てくるが、ではこの人物は何者かその経歴は?彼女、ペリータ・グレコはわが国(アルゼンチン)及び外国で人気を博した演劇界の女優で歌手であり、サンタ・ウニオン女学校生徒時代に始めて演劇に出演する。母はポルテニョ街のカフェーの花売りで彼女が演劇に入る当初からの良き理解者あつた。又、幸運にも芸能界に置いても同僚より歌唱能力が優れており、彼女の“ミロンギィータ”、”マレバヘ”の歌は人気があり、4~5年間名声を維持した。ガルデルとは‘30年頃の以前にブエノス・アイレスで出会い直ちにお互い気に入り意気投合し逢い、カルロスは何時も彼女の公演仕舞いに待ち合わせてタンゴ、“ロ・アン・ビスト・コン・オトラ”の如くパレルモ公園を散歩するとか、時にはキャバレー、バーに二人の姿が見掛けられた。しかしながら何時も事ながらガルデルにはあの心の虜にされた競馬“パレルモ”があり、持ち馬ルナティコの心配事があり、心も上ずり真間にならず、“ポル・ウナ・カベサ”の如くの結末になる如くデートにも現れない機会も増し、ガルデルのフランス行きも迫りこの関係は自然消滅の道を辿る事になる。では彼女の芸能経歴を述べよう、30~38年は海外で活躍、スペインで大成功の獲得する。スペイン雑誌に彼女が初めての途方もない評判勝利を獲得した人物である。それはマドリード界で知らない者もいないほど、終わる事無く起こる真の暴露現象であつた。1931年にスター・フイルム製作映画題名“ジョ・キエロ・ケ・メ・ジェベン・ア・ホリウッド(ハリウッドに連れて行って)”俳優フェデリコ・ガルヒアと共演する。ペリータは情熱的、陽気な、活動的な、好意的な、親しみ易く、素朴にキャリアを的うした。又、北米でも活躍し、キャフィアスピリーナ・オーディーションでニューヨークNBC放送にも出演したり、又、“エル・モローコ”なる人物、アルサテ・ウンズエと知り合い、“エル・モローコ”のピアノ伴奏で唄い、テリグ・ツチーの伴奏で唄う機会にも恵まれた。最終的にキューバに落ち着き住み着いたが、海外生活8年後に故郷ブエノス・アイレスへ母親を孝行する為に探しに帰る。そして、ハバナの家に母親を連れて行くのを試みが成功したか否か、このレポートに明記は無いし、又彼女ペリータ・グレコのガルデルとの果かない束の間の愛の存在もなに人の記憶の元にすら面影は無い。

注:(*)グアダルーペ・アバジェ女史の作品を参考にした。

















上の写真:マダム・サディエ、中央:ガルデル、左:チャプリン
マダム・サディエ・バロン・バックフィールド:
彼女の父はドイツ人、母はロシア人、1878年バルティモーレに生、父親のイギリスでのタバコ業の“カルバイン”で残した遺産は当時の5百万ドル以上とか、ガルデルのフランス滞在中に多大な経済援助をした女性。パラマウント映画“カサ・エス・セリア”、“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”の撮影はパリー郊外ジョワンヴィルで行われたが、彼女の存在は陽に影にガルデルの許について回る、謎的存在である。映画資本を援助しただけで無く、ガルデル個人に貢ぎ物は白い‘31年型クライスラー・クーぺ(1)に始まり、金製のタバコケース、金製の花瓶、花びらに“金粉を塗した”にクチナシを捧げたり、‘33年2月19日『カフェ・デ・パリー』で行われた彼の誕生日(彼の自白で49歳誕生)の晩餐豪華パーティ、ガルデルと喜劇俳優チャプリンとの出会いをアレンジした、ガルデルがニース在在中宿泊した、彼女のニースの邸宅でのパーティー。と数々の豪華な贈り物は当時のパリー滞在の南米人界の唖然とさせている。

注:(1)クライスラー・クーペは‘33年11日7日に公証役場でレギサモに譲るための名義代え登録している。(あの怪しい遺言状の書れた日とされた同じ日)人気ブログランキングへ

2010年3月26日金曜日

ガルデルの恋愛遍歴(1):プロローグ

(*):ガルデルの恋愛遍歴:プロローグ
ガルデルがニューヨークへ向う一ヶ月ほど前の生存最後になるモンテビデオ、ウルキサ劇場での公演は彼の歌と心を擽る愛想の良い仕草に,女性専用観覧席から舞台に花束を投げるとか、白手袋を投げてガルデルに直接手返りさせる貴婦人まで居たりで、女性フアンの熱狂振りは凄まじく、満場喝采の拍手の中を彼は舞台を消えて行く。















南米巡業旅行最初の地プエルト・リコ、サン・フアン港で早朝のも関わらず、貴婦人達の群衆に出迎えられ、カラカス、メデジン、ボゴタでもその歓迎振りは凄まじく、彼の人気は神話ではなく、現実であつた。
タンゴ“パテトロ・センティメンタル”に出てくる主人公はこう歌う、“俺はパテトロ、キャバレーの王者、この人生で多く、多くの女を知り、、、だが本物の愛をも得られず”その内容ズバリの人物がガルデルである。あのメデジンの飛行機事故の6日前、18日にボゴタのナショナル新聞のインタビューにガルデル答えて:貴方は結婚する気があるかの問いに“神様助けてくれ!考えた事も無いし芸能人は結婚するべきではないと思う”では恋愛の経験、どんなタイプの女性を好むかの質問に彼曰く“我が人生において快い思い出に結ぶ数人の女性が記憶から離れないし、何時も幸せなひと時であった。好きな女性タイプは疑いも無く『私の性格をよく理解できるラテン系』を選ぶ。しかしながら、知性と魅力的女性なら全て歓迎するし、一般的常識ではアングロ・サクソン系女性の冷静かつ打算的との印象があるが、いったん理解恋する男に巡り会うとラテン系女性同様に繊細で情熱的で魅惑させられるので不都合は無い”と答えている。今世紀初めごろ成功したこのタンゴ人、ガルデルは夜遊びに積極的に過ごし、幼少年期からポリテアマ劇場の楽屋に出入りし、俳優たちの人気者であつた。少年期に養母ベルタの家を抜け出し、瞼の生母を訪ね放浪の果てに、モンテビデオで歌手やパジョドール達に知り合う(前編を参照の事)。アバストのカフェ『オ‘ロデマン』、や初期発展時期のキャバレー『チャンタ・クアトロ』に出没し、ガルデルはホセ・ラサーノに知り会い、二重唱を組んだ頃の年の暮れにマイプ-とエスメラルダ間のビアモンテ通にある、マダム・ジェアンネの怪しき邸宅に招かれた。そこで宴を盛り上げるためにラサーノとオマール・ペレスのピアノで夜を明けるまで歌い過ごし、宴は翌日新年をキャバレー・アルノンビージャに引続き、彼らの二重唱は一晩の出演料70ペソスで契約が結ばれる。この日の出来事がガルデルと正に“マダム・イボンヌ”の生き写しジェアンネとの密かな結び事の幕が下ろされるのである。彼女との関係は可なり長く、ガルデルが彼女のパトロン、フアン・ガレシッオの雇うマトン(刺客)を逃れる様に‘28年にフランスへ立つ頃まで続いたようだ。もう一人のイサベル・マルティネス・デル・バージェの場合は公然と公開していた恋人、彼女がガルデルと知り遇ったのは‘21年の時、少女とも言える14歳の時、この関係も長く続くが、当時ガルデルはロドリゲス・ペニャ通り451番に養母ベルタ、アナイスらを住ませ、イサベルとコリエンテス1700の“コトーロ(逢引に使う部屋)”に彼女と住み、マダム・ジェアンネ(俗名リターナ)の処にも通い続けていたらしい。養母ベルタはイサベルを好まず、ガルデルに彼女の若き過ぎること、家族の介入、経済的過度の要求など何かと苦情を訴えていた。イサベルを‘31年にフランス行きに同行させ、彼女の希望でイタリーへオペラ・コーラスの留学に行かせるが、ガルデル自身もイサベルの余りの気紛れと打算及び家族の経済的要求に辟易し、アルマンド・デフィーノに託して印籠を果たす。ガルデル、最初のフランス滞在時に知るマダム・サディエ・バロン(アメリカ女性)は多大な経済的援助をした女性。
彼女の父親が残した当時多大な遺産によりガルデルのパラマウント映画製作の資金を提供したのである。フランス人女優ガビィ・モンロイ、スペイン喜歌劇女優テレシータ・サラ、映画“カサ・エス・セリィア”,“メロディア・デ・アラバール”での共演女優インペリア・アルヘンティーナ、“ルセス・デ・Bs,As”での共演女優、グロリア・グスマン、映画“クエスタ・アバホ”の共演女優モナ・モリース、“エル・ディア・ケ・メ・キエラス”、”タンゴ・バー“の共演女優、ロシータ・モレーノ、スペイン演劇界の花形ペルリータ・グレコ、かの有名なフランス女優ガビー・モルロイはガルデルに深く恋惚れていたし、チャカリータの霊廟に“ポル・ファボーレス・レシビードス(愛の歓迎)”と明記したプレートを捧げた女性、エレーナ・デ・コリエンテス(本名エレーナ・フェルナンデス)の例はタンゴ“マノ・ア・マノ”その物のズバリ劇的ロマンスが秘められている。などと後から後からと数々の女性群の花々と登場、これらの女性がガルデルの仮初めの愛の相手である。そして、あの悪夢的な悲劇メデジンの出来事後、7月4日、キューバ、クマナジャグアでアメリア・カティジェ(17歳)はアルコール焼身自殺、バルドラメ・ペレス(23歳)は焼身自殺を遂げ、ハバナの病院で死亡。7月27日にプエルト・リコのミッドタウン・ホテルにてガルデルと一夜を過ごした歌手エストレージャ・デル・リゲルは服毒自殺を遂げるが命を取り留め、もう一人は上流階級の娘、スンチャ・ガジャルド(19歳)も同じ様に服毒自殺、などとニュースで新聞紙面を賑やかさせた。


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2010年3月17日水曜日

ガルデル、女流タンゴ作家の作品を歌う

   タンゴの初期時代から現在までに数々の有名無名の女流作詞、作曲家らが活躍し、タンゴの発展に奨励してきたが、ガルデルの活躍したタンゴ初期時代では封建的な環境で彼女達を受容る世界では無く。非常に稀であるのだが、ガルデルは1925~35年ごろの時代に7人の女流作家の作品数曲をレコードに録音しているので、ここに紹介する。





















写真はパキータ・ベルナルド
(A)パキータ・フランシスカ・ベルナルド:1900年5月1日、ブエノス・アイレス、ビジャ・クレスポ街に生れる(ブエノス市外のリアチュエロ川の対岸のある貧民街、マラドーナも此処に生れる)
彼女はプロのバンドネオン奏者で作曲家、タンゴ楽団のマエストラで1921年バー“ドミンゲス”にてオスバルド・プグリエーセ(ピアノ)、エルビーノ・バルダーロ(バイオリン)らの参加したセクテート楽団でデビューした。
彼女の作品は:
①:カチート(ちょっとだけ)/タンゴ/
②:フロレアル(花飾り)/タンゴ
③:ラ・エンマスカラーダ(仮面をつけて)/タンゴ(*)
④:ラビオス・ピンターダス(誘惑の口唇)/タンゴ
⑤:ソニャンド(夢の中)/タンゴ/(*)
⑥:セロー・ディビーノ(神秘的な丘)/バルス
⑦:ビジャ・クレスポ/バルス
ガルデルの取り上げた曲は彼女が24~5才頃の時期の作品、
①:ラ・エンマスカラーダ/‘24年/18102A
作詞:フランシスコ・ガルヒア・ヒメネス
②:ソニャンド/‘25年/19138B
作詞:エゥヘニオ・カルデナス
パキータ・ベルナルドは1925年4月14日にミロンギータの主人公のように果かなく25歳で没

(B)マリア・イソリナ・ゴダルド:
ブエノス・アイレス、1905年8月9日生
作曲家、ピアニスタとして活躍、1935年6月29日没
タンゴ
①:アドラシオン(熟愛)、
②:アルマ・ミア(我が魂)、
③:アノチェセール(夜更け)、
④:アタルデセール(夕暮れ)、
⑤:カリシア(愛撫)、
パンペアーノ(田舎風)、
①:コロサル・ムヘール(素晴らしい女)、
②:ドンデ(どこ)、
③:フンタンド・アモーレス(愛を重ねて)、
④:ラ・プリメーラ・ヌーベ(初めの雲)、
⑤:ロセリート(陶工、それとも人名)、
⑥:マンボレタ、
バルス:イドロ・ミオ(私の崇拝者)、
Shimmyの:シルセ(キルケ)の作品がある。
(注):キルケ、ホメロス(Homero)の『オデュッセィア』に登場する魔女
ガルデルの取り上げた曲(3曲)いずれも彼女の作曲で、
①:アタルデセール(夕暮れ)/タンゴ/作詞:ロドルホ・ヘルチェル/1921年録音/18040B
②:カリシア(愛撫)/タンゴ/作詞:フアン・カル-ソ/’25年/18132A
③:シルセ/shimmy/作詞:フアン・カルーソ/1925年録音/18127B

(C)マベル・ワイネ:
ニューヨーク、1900年7月16日生まれ、作曲家として活躍
1978年6月19日67歳で没
作品はバルツが主で
①:アンへリナ(女性の名前)、
②:チキータ(可愛い子、バナナのドレードマークにもある)、
③:チリビリビ(花火)、
④:クアンド・エル・ベルダデーロ・アモール・ジェガ(真の愛がくる時)、
⑤:エン・ウン・プエブリート・エスパニョール(スペインの片田舎)、
⑥:ノ・テ・デスピエルタ・ヌンカ(目を覚ます事は無いでしょう)、
⑦:ラモーナの全7曲の作品がある。
ガルデルが取り上げた曲は:
①:エン・ウン・プエブリート・エスパニョール(あるスペインの片田舎)/バルス/
作詞:ロヘリオ・フェレイラ/1928年8月16日/未発表/同年9月6日/18247A
②:ラモーナ/バルス/作詞:エンリケ・カディカモ/1928年10月11日/18252B

(D)マリア・ルイサ・カルネーリ:1898年1月31日にら・プラタ市にて誕生する、
雑誌記者、小説家、詩人として活躍し数々の雑誌に彼女の詩が記載されている。
①:カラ・イ・カレタ(戯言と表情)、
②:エル・オガール(家庭)、
③:フライ・ムチョ(雑誌の名前?)、
④:マリポーサ・ベニーダス・デル・オリソンテ(水平線から来た蝶チョ)、
⑤:ポエマ・パラ・ラ・ベンターナ・ポーブレ(貧しき窓辺への詩)、
⑥:キエロ・トラバホ(仕事が欲しい)、
⑦:ラマス・フラヒル(ひ弱な枝)、
タンゴの作詞:
①:アベジャネーダ(街の名前、ブエノスの隣町)、
②:コモ・メグスタ(なんて好き)、
③:デ・キエン・エス・エソ?(これ誰の?)、
④:ディシオチョ・キラテ(18金)、
⑤:ドス・ラヌーラ(二つの溝)、
⑥:エル・タウラ(やくざ女)、
⑦:ラ・ナランハ・ナシオ・ベルデ(オレンジはまだ未熟)、
⑧:リンジェーラ(出稼ぎ労働者)、
⑧:マノ・サンタ(聖者の手)、
⑨:ムーラン・ルージュ(キャバレーの名)、
⑩:プリメール・アグア(洗礼水)、
⑪:キエロ・パピータ(何か良い物が欲しい)、
(注):パピータとはパパ(Papa)神父、父、
ジャガイモ、何か良い事などの意味がある
⑫:セ・バ・ラ・ビダ(人生が過ぎていく)、
⑬:タルデス・パンペアーナ(田舎の黄昏)、
ミロンガ:
①:ルナ・ロハス(赤い月)、
②:ガト(リズム名)、
③:アスール・デ・シエロ(青い空)、
ガルデルが取り上げた作品はルイス・マリオ、マリオ・カストロのパンネームを使う、
①:クアンド・ジョーラ・ラ・ミロンガ(ミロンガが泣く時)/作詞:ペンネームのルイス・マリオ、
作曲:ファン・デ・ディオス・フィリベルト/①‘28年8月7日/18247B
②‘28年10月20日録音/18801と二回録音している。
②::パ’アル・カンバラーチェ(ガラクタ市場へ)/
作詞:エンリケ・ゴンザレス・ツニョン(ペンネームはマリオ・カストロの筈?)
作曲:ラファエル・ロッシ/‘29年10月23日録音/18294B/
1987年5月4日、ブエノス・アイレスにて没

(E)エルミニア・ベリチ(デ・ロサーノ、夫の苗字):1908年3月12日、ラ・プラタ市に生れる。
作曲家、タンゴ歌手、女優、初め父親、俳優フアン・ベリチと女優として共演デビュー。
‘25年ごろブエノス・アイレスのラジオ放送でタンゴを歌う、タンゴ・コンフントでピアノ、ギターも演奏する。頻繁にラジオ・ドラマにも出演する。アドルフォ・アビレスのジャズバンドでも唄い、ラファエル・ロッシ、エルネスト・デ・ラ・クルスらのタンゴ楽団でも唄う、1929年にタンゴ楽団のマエストロ、オスカール・ロサーノと結婚し芸能界から引退するが、1933年にラファエル・ロッシ楽団へ帰り咲く、1939~41年、ラジオ・アルヘンティーナで“エル・ガウチョ・ソンブラ”を唄い、ラジオ・プリエトで自作の“クァルキーエラ・コサ(誰かのこと)”、”ポル・ケ・ソイ・レオ?(何故俺は浮浪者?)”らのタンゴを唄う。
1956年1月5日にマール・デル・プラタにて没。
ガルデルは彼女のタンゴ作曲品を①“アミガソ(友愛)”作詞:フアン・ベリチ(父)‐フランシスコ・ブラカッティ、作曲:フアン・ディオス・フィリベルト、’25年録音、18122B/ホセ・リカルド、ギジェルモ・バルビエリらのギター伴奏、二度の録音は‘30年5月20日、アギラール、バルビエリ、リベロールの三人ギター伴奏、②“クァルキーエラ・コサ”作詞:フアン・ベリチ(父/‘28年10月20日/、パリーにて録音、③“ポル・ケ・ソイ・レオ?”父親、フアン・ベリチ‐マヌエル・メァーニョスとの合作曲を‘29年11月12日にバルビエリ、アギラールらのギター伴奏で録音、

(F)ミカエラ・マティルデ・サストレは1880年9月21日にブエノス・アイレスで生れる。生存教育者として活動、又、童謡作家でもあり、作詞“ソルダティート・フェリス(幸福な兵隊さん)”でコンクールに入賞、“インフアンテ(皇子)”、“ラ・フラウタ・マヒカ(魔法のフルート)”、“マノス・デ・セニシエンタ(シンデレラの手)”、“パトリア(祖国)”、“ケリディート・ミオ(愛しいわが子)”、“ソルダディート・デ・パス(平和の兵隊さん)”、“ベルソ・アル・イホス(わが子への散文)”らの童謡作詞がある。
タンゴ作品は①“ガラバト・デ・ムヘール(女の悩ましけ)”、②“レフシーロス(閃光)”が有るが、何れも前編のレコード・リストには作者がロドルホ・サストレ(父親?)と有るので、此処でミカエラ・サストレ女史の作品である事を注記する。
ガルデルは①“ガラバト・デ・ムヘール”/タンゴ/を‘29年12月31日にバルビエリ、アギラールらのギター伴奏で録音した。②“レフシーロス”/タンゴ/は‘28年10月28日にパリーにて、リカルド、バルビエリ、アギラールらのギター伴奏で録音している。














                        




写真は何れもアスセナ・マイサーニ

(G)アスセーナ・ホセファ・マイサーニは1902年11月17日にブエノス・アイレスで生れる。当時、タンゴ界で紛れも無く人気女流タンゴ歌手として多くの無声映画、ラジオ放送のタンゴ番組に出演し、最も名声を博したのは彼女だろう。ウルグアイ、チリー、ブラジル、ペルー、キューバ、メキシコ、北米、スペイン、ポルトガルらの諸各国に演奏旅行を行う、“ラ・カサ・デル・プラセール”、“ラ・モデロ・デ・ラ・カジェ・フロリダ”の無声映画に出演。映画(音響付き)“タンゴ”、“モンテ・クリオージョ”、”ディ・ケ・メ・キエーレス”、“ナティーバ”らに出演。
タンゴ作曲は次の通り
①”ドンデ・エスタン・ロス・バロネース(紳士達は何処にいる)”、
②“アグア・トリステ(悲しき水)”、
③“アモーレス・デ・アラーバル(下町の愛)”、
④“チスメス・デ・リベーラ(噂流れ)”、
⑤“デヘメ・エントラール・エルマーノ(弟よ入れてよ)”、
⑥“デシ・ケ・シ(快く受け入れて)”、
⑦“エル・イドロ・ロト(敗れたアイドル)”、
⑧“エン・エスタ・ソレダー(この孤独にて)”、
⑨“ラ・カンシオン・デ・ブエノス・アイレス(Ba,Asの歌)”、
⑩“レホス・デ・ミ・ティエーラ(我が故郷遠く)”、
⑪“ペンサンド・エン・ティ(貴方を慕い)”、
⑫“ペロ・ジョ・セ(だけど、私は知っている)”、
⑬“ポルケ・セ・フエ?(何故いくの)”、
⑭“レミヒオ”、
⑮“ボルベ・ネグロ(戻って貴方)”、
⑯“イ・ノ・ソモス・ナーダ(そして、関係ないわ)”
ガルデルは“ラ・カンシオン・デ・ブエノス・アイレス”を‘33年1月23日にブエノス・アイレスにてペトロッシ、バルビエリ、リベロール、ビバスらの豪華な当時まれな4人ギター伴奏による録音をした。
マイサーニへ1962年に芸能活動の最大な引退記念を捧げられる。
彼女は1970年1月15日にブエノス・アイレスにて没。

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2010年3月16日火曜日

”ミ・ノーチェ・トリステ“の誕生








                                     



この本格的歌唱タンゴはサムエル・カストリオタが1915年(楽譜登録)に作曲した“リタ”にパスクアル・コントウルシが,1916年半ばごろに“ペルカンタ・ケ・メ・アムラステ(俺はあの女に捨られた!)”、、、の詩を付け『マル・デ・アウセンシア(留守の悪)』の題を付け歌い始めた。同じ年のある日、サン・フアンとパスコに店構えのカフェ『エル・プロテヒード(お気に入り)』にはピアノ弾きのサムエル・カストリオタ、バンドネオンのアントニオ・グッマンー、バイオリン弾き、アティリオ・ロンバルドのトリオがレパトリトーの一つにタンゴ“リタ”演奏により活気ついていた。この曲の楽譜は器楽曲のみでピアニスト・カストリオタの友人ニコラス・カプララ(他の説はやはり彼の二人の友人アマデオ・ぺッサーとアルマンド・ラフェット)に捧げられたもので、フアン・バレリオ商会から楽譜は発刊されていた。この表紙には美人が考え込む絵がデザインされ、何か思わせぶりなタンゴの世界を想像させられる。このカフェのステージにパスクアル・コントウルシ(1888年生まれ)が登場する。彼は、詩人で歌手、ギター奏者でもあり、年来から他人の音楽にその作曲家の同意ありなしに関わらず、彼独自の歌詞を創作してしまう習慣を持つ輩で、1914年半ばから1917年の初め頃に彼がモンテビデオの下町に存在する、タバコの煙に曇りがちなキャバレー『ムーランー・ルージュ』と『ロィヤル・ピガール』で出演し、演奏ごとに何がしかのチップを受けて居た頃はこの“タンゴ”は観客に程ほどに受容れられていて、歴史の鈍い幕が下ろされる場面である。




所と日が変わりブエノス・アイレスのエスメラルダ劇場で『エル・ソルサル』ことガルデルがラサーノとの二重昌でデビューの際の舞台の中休みに“その作詞”を手に楽屋に入って来たのは他でもないこの作者あり、時は1917年1月3日である。という説と、其の年の3月のエンピレー劇場での披露である説とはつきりしない。それに、コントウルシが付けた詩の歌い始めの“ペルカンタ・ケ・メ・アムラステ(あの女に捨てられて、、、)”の言い回しに作曲者カストリオタは同意せず、ガルデルが二人の仲を取り持ち、名付けられた題名が即ち“ミ・ノーチェ・トリステ”に落ち着く事に成る。そして、本格的歌唱タンゴの誕生と成るのだが、ガルデルとコントウルシので出会いと“この詞”を彼に見せた時期が半年前のコントウルシがモンテビデオで活躍していた頃(とすると最初の本格的歌唱タンゴもウルグアイ生まれ)。だが、ガルデルはこの“タンゴ”を何故か公衆の前で歌う事を躊躇していたらしい。この“ミ・ノーチェ・トリステ”こそが歌唱タンゴの最初の幕上げをした事実は揺るぎの無い証拠だが、それ以前に歌唱タンゴは存在なきとの疑問が起こるのだが、ガルデル自身のレパトリーも民謡風の歌唱、最初の頃のビジョルドの歌、ゴビ夫妻の歌などがあるが、、、。しかしながら、この“詞”は今までに存在した全てのタンゴとは描写も違い、コントウルシは強い男(弱い?)の主人公が失恋に会い初めての孤独、落胆、嘆き、痛みをこの詩に与え大筋の成功をする。怪しい悩殺な会合の舞台において栄えた、ごく初歩的なうんざりしたタンギート“ラ・モローチャ”か平坦な終わり無き情景に登場する“ガゥチョ”がアルゼンチンと、この時期のヨーロッパ人の一般的イメージであり、“ミ・ノーチェ・トリステ”は全たく見解を瞬きする如く変化し、本質的市民の鬱積を暴き、都会生活がそれを描写形成した姿を表現している。ここでの参加者はその周辺にもうパンパも無く、それは各都会の住人各々のドラマ化が正面化する始まりである。多分、そこにコントウルシ・スタイルでは以前に実存した詩制作とは本質に主張を分ける。例えば、アンヘル・ビジョルドが歌う“カンタール・エテルノ”の初歩的、詩的霊感で表現をしたのでは無くて、パスクアル・コントウルシは純粋で最初の『ルンファルドの世界』を描写したのが、この“詩”であり、異なるタンゴの誕生と成る。では、この“詩”の世界を覗いて見よう。序幕は“我が夜の悲しき”は不快な“ひも”タイプの主人公が愛しい抱え“女”に見捨てられる情景から始まる。隠語体系“ペルカンタ(女)”を論じを企てるのを別にして、しかしながら失なった愛と孤独の苦悩をこの“歌”は単純に表すだけで、ドラマは同様な条件で男は単に苦悩し、愛の悲惨をタンゴに永遠のテーマとコントウルシが発見した事を我々は受け入れる。この作品に後を追う様にして雨の後の『竹の子』の如く、この様な“ルンファルド”の世界を描写したタンゴが表れる事になる。コントウルシ自身の作品の“フロール・デ・フアンゴ(泥濘の花)”、“イベティー”、“ケ・ケレス・コン・エサ・カラ(その顔で何が欲しい)”、“エル・モティーボ(動機)別名ポブレ・パイカ(悲しき女給)”、“シ・スピエラ(ラ・クンパルシータ)”、それに続く他の作詞家の名曲タンゴのサムエル・リニング“ミロンギ‐タ”、セレドニオ・エステバン・フローレス“マルゴー”、フランシスコ・ガルヒア・ヒメネス“ソロ・グリス(銀ぎつね)”、マヌエル・ロメーロ“パテトロ・センティメンタル(悲しき遊び人)”、セレドニオ・エステバン・フローレス‐ガルデル“マノ・ア・マノ”などが登場する。



ガルデルはタジーニ商会の『コンロビア』レーベルから契約切れで自由な身であった時に、好都合な話がマックス・グロクッスマーン商会からのレコード録音の提供があり、上記した作品群を1917年4月から『ナシオョナル‐オデオン』レーベルに録音、まず初めに、“ミ・ノーチェ・トリステ”が最初の本格的歌唱タンゴとして彼の32曲目に、他の作品と共に録音される事になる。しかしながら、ガルデルはこのタンゴ『ルンファルド』に平行して、ビジョルド、ベティノティ・タイプも見捨てずに唄い続けていくが、、、。
パスクアル・コントウルシの他作タンゴの協力者は次の通り、①作曲:アグスト・ヘンティレ、②作曲:ホセ・マルティネス、③作曲:E.コスタ‐J.ロカ、④作曲:エドアルド・アローラス、⑤作曲:フアン・カルロス・コビアン、⑥作曲:ヘラルド・マトス・ロドリゲス、など。なお“ミ・ノーチェ・トリステ”は1918年2月2日に国立図書館に正式に版権登録されている。

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2010年3月10日水曜日

ガルデルの歴史的最初のSP盤(1912年録音)からのCD化

                                                                               


ガルデルの録音したSPレコード全曲(976曲)のCD化の発表(2006年4月4日)
この全曲CD化は50枚(971曲)に及び、前編で紹介した未発表シリーズCD2枚の曲を合わせると合計1,041曲になる。それにしてもガルデルが千曲以上の録音は記録的で、この他に数曲、漏れている物もあるらしい。例えば、1930年11月22日(土)のラヂオ・スプレンディ放送番組“ラ・オーラ・ヘニィアル”の中で歌った“クーニャ(ジングレ)”、と映画の中でロシータ・モレーノとの二重唱“エル・ディア・ケ・メキエラス”、インペリオ・アルヘンティーナとの二重唱”マニャニータ・デ・ソル”、別編の“アマルグーラ”、などとボゴタの生存最後に出演した、ラディオ・ビクター放送局で歌った、“アガーラ・シ・ポデイス”、“カタマルカ”、“シン・ソン“、“テンタシオン”4曲は録音していないので幻と消えた曲と成る。『*』:“クーニャ(ジングレ)”はメデジンのガルデル・フアン、エルナン・レストレポ・ドゥケ氏が1985年に発売したプレルディオ・レーベルのLpに再現されている。

さて、タンゴ・フアンに忘れかけた存在のガルデルの歴史的な最初のレコード録音(1912年,大正1年)が2006年5月にCD50枚組のシリーズ第一巻としてに発売された機会に遅れながらも、このCDついてのデータ(重複する点も在るが)を補充する意味で記して見よう。まずアルゼンチンでの元祖コロンビア・ホノグラフ・カンパニィー所持のレコード・レーベル『コロンビア』の版権は1904年11月4日からトーマス・ドゥリスダレ商会が所持していたが、1910年9月にこの版権を放棄したので,1911年1月27日にギセッぺ・ホセ・タジーニ氏がコロンビア・レーベル・レコードの版権を獲得する。彼は1885年からカジェ・フロリーダに雑貨商を営み、1905年にアベニーダ・マジョ601/611とペルー25/31番地(1960年に解体されて、現在は実存しない)に引越して店を新たに構え、レコードの製作を始める。1913年3月7日発刊の雑誌『フライ・モチョ』#45号では、タンゴ界でアルフレッド・ゴビ夫妻、アンヘル・ビジョルド、フアン・マグリオ、ビセンテ・グレコ、ヘネロ・エクスポシト、パジャドール達では、アルトゥール・ナバ、サウル・サリーナ、アルトゥロ・マートンの面々。そして、ナショナル劇場の俳優(実際には1914年1月8日にデビュー)及び“テノール”歌手、ポピラー音楽の散文詩歌即興作家、と紹介されたカルロス・ガルデルも召集参加していた。彼のレコード録音は1912年4月2日に向こう5年か如何なる他のレーベルとの芸能契約の禁止条件の下に行われた。『後年、ラサーノがガルヒア・ヒメネスに伝えた“アトランタ”レーベルにレコード録音したと言う件は幻で、存在を否定される事になる』。

カルロス・ガルデルの歴史的最初のSPレコードの曲名リストは以下の通りである。
①T594:ラ・マニャニータ/エスティーロ/作者:カルロス・ガルデル/
        メ・デハステ/エスティーロ/作者:カルロス・ガルデル/
②T595:エス・エン・バーノ/カンシオン/作者:カルロス・ガルデル/
            ミ・マドレ・ケリーダ/ビダリーダ/作者:カルロス・ガルデル/
③T637:ポブレ・フロール/エスティーロ/作者:カルロス・ガルデル/
            ラ・マリポーサ/エスティーロ/作者:カルロス・ガルデル/
④T638:ブリサ・デ・ラ・タルデ/カンシオン/作者:カルロス・ガルデル/
           エル・アルモハドン/バルス/作者:カルロス・ガルデル/
⑤T728:ソス・ミ・ティラドール・プラテアード/エスティーロ/作者:カルロス・ガルデル
            ジョ・セ・アセール/シフラ/作者:カルロス・ガルデル/
⑥T729:ア・ミ・マドレ/エスティーロ/作者:カルロス・ガルデル/
            ミ・チーナ・カブレーラ/エスティーロ/作者:カルロス・ガルデル/
⑦T730:エル・スエニョ/エスティーロ/作者:カルロス・ガルデル/
           ア・ミトレ/バルス/作者:不明/
全曲共、伴奏はガルデル自身のソロギターである。
此処で不思議なことに録音全15曲のはずが1曲足りない、4曲目に録音されたはずの“パラガネアンド”(此処では“エル・プレシオネーロ”という曲の説)は決局録音不良のために没という理由で説明されているが。ところがコロンビア・レコードは全部で22枚44曲が発売されていて、この中に“エル・プレシオネーロ”が別人の作品“ミ・テチョ・デ・エストレージャ”、グロリオッソ・センテナリオ”、“ラ・ティシカ”等の曲と一緒に含まれていた事が判明。当時このレーベールにガルデルの録音した曲が15曲のみか他にも何か別の曲も存在した可能性すら在りうる。この時期にタジーニ商会のコロンビア・レーベルに録音した音楽家の中にクジャーノ(西部人、チリー人を指す)サウル・サリーナも含まれており、其の歌唱の二重唱で第二声が他でもなくガルデルであつたのでは無いかとの説もある。この合計7枚のマスター盤がニューヨークに送られ、プレスされた7枚分のSP盤としてアルゼンチンで発売されたのは1913年の初期である。これらは1913年3月28日発刊の雑誌"フライ・モチョ"#48号記載のタジーニ商会のカタログの記録で判明したので、前編に載せたハイメ・リコ・サラサール氏のSPレコード・リストではこの盤の録音開始は1913年末とありデータとして不明確であつた。当時の聴衆者にとつてはガルデルが取り上げた、これらの歌やメロディーの数曲は全くの未知の世界に等しいのも同然であつた。しかし、これらの曲はこのアティーストの純粋に独自、固有に属すものでもなく、1920年以前のレコード界では大部分の作詞、作曲においてこうした事実は例外ではないことを暴露されている。

①:ラ・マニャニータ/エスティーロ/声が可なりか細く、おずおずとしている歌唱であるが、美しい歌声が生えベティノティー・スタイル風に纏めている。

②:メ・デハステ/エスティーロ/この曲はガルデル作曲とあるが、アンドレス・セペダの“ディビーノ・ポエタ・デ・ラ・プリシオン(牢獄の聖なる詩)”からの引用であるが、見事に彼風に完璧に処理しているのである。

③:エス・エン・バーノ/カンシオン/オリジナルの詩、曲共にスタイルはバルスで、パジャドール、フェデェリコ・クルランドの物、彼はベティノティ、エセイサ、カゾン、トレホ等達と最後のパジャドール・グループに属し、若くして1917年に没。当時亜国に置いて作者保護の版権制度も無く、この様な例は珍しく無くレコード会社の横暴に任せてられてたらしい。

④:ミ・マドレ・ケリーダ(ポブレ・ミ・マドレ・ケリーダ、可哀想な愛しき母)/ビダリーダ/オリジナル作者はホセ・ルイス・ベティノティー/この曲は当時(1891年頃)から、すでに可なりパジャドールの間では知れたポピュラー曲であった。処がガルデル(レコード会社?)はこの曲を伝説的作品として取り上げている。そして、この題名を付けた彼の主演映画まで記念として製作されている。

⑤:ポブレ・フロール/エスティーロ/作者:カルロス・ガルデル-ホセ・ラサーノ/後にこの曲をモチーフにしてアレンジした“カルド・アスール(碧いアザミ)”を49,739、745番と録音している。

⑥:ラ・マリポーサ(蝶)/エスティーロ/アンドレス・セペダの曲“ゴルヘェオス(さえずり)”又は“ラ・マリポーサ・リビアーナ(浮気な蝶)”に類似している、作者はアンドレス・セペダ‐カルロス・ガルデルと明記されている、ガルデルは10,23,735,769番と4回録音している。この曲はロラ・メンブリベス(如何なる人物?)に捧げられている。

⑦:ブリサ・デ・ラ・タルデ(午後のそよ風)/カンシオン/作者:ホセ・マルモル‐カルロス・ガルデル/テーマはホセ・マルモルの詩“メランコリア(悲哀)”とアルトゥロ・マートンの曲“エジャ(彼女)”に極似しているらしい。ガルデル‐ラサーノらは“ブリサス(そよ風)”として18番#18002Aで再び録音している。

⑧:エル・アルモアドン/バルス/作者:アンドレス・セペダ‐カルロス・ガルデル/曲はホセ・ベティノティーの“トゥ・ディアグノスティコ(君の特微的な)”105、942番と二回録音した曲に酷似している。

⑨:ソス・ミ・ティラドール・プラテアード/エスティーロ/作者:フアン・トローラ(ガルデルの従兄弟の本名フアン・グァルベルト・エスカジョーラ、)ガルデルは初めこの曲を“アンヘル・ティラドール・プラテアード”呼び、カルロス・エスカジョーラ(ガルデルの実の父親とされている)の作としていたらしいのだが、真実は1900年ごろに詩人オスカール・オロスコ作らしい。ガルデルはこの曲を自作“エル・ティラドール・プラテァード”として21,943番と3回も録音をしている。

⑩:ジョ・セ・アセール/シフラ/作者:カルロス・ガルデル‐アンドレス・セペダ/セペダの詩“ア・エルナンデス”にガルデル自身がオリジナルの創作した曲、"Dijo Hernandez con razon/en criollado lengueje/es el nudo que lo fajen/el que nace barrigon/(ヘルナンデスは理由を言う/クリオージャ風の言葉使いで/ヒモで包み込んで/太鼓腹が生れる/こんな略でちぐはぐだが、、、ガルデルは5年後にこの曲を元にして、“エル・ポンガレ”を24番目にアルシデス・デ・マリアと作曲録音している。

⑪:ア・ミ・マドレ(我が母へ)/アンドレス・セペダ‐ガルデル共作/この曲名自体ごく普遍なため、同曲であるか不明であるが、女性歌手ルイサ・ロビーラは同レーベルに録音があリ、又イグナシオ・コルシーニはビクターに録音した。

⑫:ミ・チーナ・カブレーラ(短気な小娘)/エスティーロ/作者:カルロス・ガルデル/スタイルは本格的ガウチョ音楽であり、ルンファルドの世界に引き込まれるだろう。

⑬:エル・スエニョ(夢)/エスティーロ/作者:フランシスコ・イシドロ・エミリオ・マルティーノ/この歌の最初の部分にメキヒコ詩人フアン・デ・ディオス・ペサ作の詩が使われている。
ガルデルは1927年3月30日に#18205B再録音をした。

⑭:ア・ミトレ(ア・バルトーロメ・ミトレ)人名をさす、/バルス/作者不明/長年、劇作家、弁士のベリサリオ・ロルダンか放浪歌手フエナンド・ヌンシアタの作品ではないかと信じられていたが、調査の決果すでに1910年にフアン・バウティスタ・エッチャパレの作品として発表去れていた事が判明する。メロディーは明快にバルス“ロカ・デ・アモール”と類似するとエンリケ・カビリア音楽雑誌編集者は定義するが、アンヘル・ビジョルド作の“ボラー・ゴロンドリーナ(ツバメよ飛べ)”、イグナシオ・コルシーニ作の“デカデンシア・クリオージョ(クリオージョの衰退)にさえ疑似するといわれて、作詞、曲とも何れの作者と解明できず、時が過ぎたのである。この録音からガルデル‐ラサーノ共作とあるが、真実は主にモチーフを創出して作品にしたのはガルデルであったらしい事を補足しておく。

⑮:エル・プレシオネーロ/完全に除外されて、如何なる理由からか、このCD化にも除外されている。何者もこれに順ずる楽譜等のデータの知識も無く、何れにしても他曲と類似が強く余り重要視されず没にされたようだ。①~⑭番の14曲は1971年にコロンビア・レーベル#9116でLP化されているので、このCD化で再々発売という訳になる。何れにしても百年近く経つ時期に録音された歴史的貴重資料であり、ガルデルの歌手として栄光への道がこのレコードでスタートが切られた訳である。
この編の記は、エクトル・アンヘル・ベネディティ‐氏のデータを参考にした。

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この下の写真は全CDシリーズ50枚のジケットである

2010年3月6日土曜日

ガルデルのレコードリスト続編(SP盤からCD化ー2)




















未公開曲シリーズー2

1:ア・コントラマノ/’29年3月1日/18268B/
パリー録音:リカルド、バルビエリ、アギラールらのギター伴奏

2:アングスティア(ジョラ・コラソン)/タンゴ/
①:’25年9月20日/18136A/
②:‘33年9月18日/18894A/
③:’33年11月6日?/18994A
と3回録音されレコードとして発売されている。

3:アプーレ・デランテーロ・ブエイ/
①:‘34年8月24日/ニューヨーク録音:テグリ・トゥチ楽団伴奏
(*)この録音は未発表なのでCD化された
②:‘35年3月20日、ニューヨーク録音:テリグ・トゥチ楽団伴奏/18943B


4:クリオジータ・デ・ミス・エンスエニョ/サンバ/’33年2月15日/18879B

5:デスデン/‘33年6月17日/18888A

6:ドゥエロ・クリオージョ/’28年10月11日/18251A/パリー録音:

7:エル・カレテーロ/‘28年10月11日/18251B/パリー録音:

8:フォリエ(ロク―ラ、気違い沙汰)/‘31年5月28日/(*)
①:パリー録音:バルビエリ、リベロールらのギター伴奏‘31年9月21日/18853B/
②:ブエノス・アイレス録音:バルビエリ、リベロール、ビバスらのギター伴奏

9:アラガン/
①:‘29年3月1日/パリー録音、アギラール、バルビエリ、リカルド、らのギター伴奏
②:'29年6月21日/19012/ブエノス・アイレス録音:
アギラール、バルビエリ、らのギター伴奏

10:オパ、オパ、オパ、
①’27年3月12日/未発表(*)
ブエノス・アイレス、新電気式録音:リカルド、バルビエリらのギター伴奏
②:’27年3月30日/18204A/
ブエノス・アイレス、電気式録音:リカルド、バルビエリ、らのギター伴奏

11:ラ・ムチャチャ・デ・シルコ/‘28年12月22日/18258A/
パリー録音:アギラール、バルビエリ、リカルドらのギター伴奏

12:ロ・アン・ビスト・コン・オトラ/
①:‘28年11月4日/18262Bパリー録音:
アギラール、バルビエリ、リカルドらのギター伴奏
②:’30年4月10日/ブエノス・アイレス録音:
アギラール、バルビエリ、リベロールらのギター伴奏/
③:‘30年4月15日/18809A/場所、伴奏者は上の曲と同じ
(注)②:は未発表曲
13:ミロンガ・センティメンタル/’33年1月23日/18874A/
ブエノス・アイレス録音:ペトロッシ、バルビエリ、リベロール、
ビバスらの4人ギターでの伴奏

14:ノ・テ・エンガニョ・コラソン/
①:’28年6月26日/ブエノス・アイレス録音、バルビエリ、リカルドらの
ギター伴奏/
②:‘28年7月6日/(*)①と同じ場所、伴奏者/未発表曲
③:‘28年12月15日/18253A/パリー録音:アギラール、
バルビエリ、リカルドらのギター伴奏

15:ポブレ・ミ・ガウチャ/シフラ/’28年12月22日/18259B/
パリー録音:前の曲と同じ伴奏者

16:ポル・ケ・メ・ダス・ディケ(何故俺を制止する)/‘29年3月1日/18270B/
パリー録音:リカルド、バルビエリ、アギラールらの伴奏

17:キエレメ/‘33年、フランス・パラマンゥト映画“カサ・エス・セリア”での録音曲

18:レクエルド・マレーボ(やくざの思い出)/‘33年、フランス・パラマンゥト映画
    “カサ・エス・セリア”での録音曲

19:レンコール(嫉み)/‘33年1月25日/18876A/ブエノス・アイレス録音:
ペトロッシ、バルビエリ、リベロール、ビバスらの4人ギター伴奏

20:セクレト/‘33年1月23日/18875A/上の曲と同じ場所、伴奏者

21:セギ・ミ・コンセホ(俺の忠告に従えよ)/
①:’29年4月6日/(*)パリー録音:
リカルド、バルビエリ、アギラールらのギター伴奏、
②:‘29年6月21日/18273A/
      ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリらのギター伴奏

22:ジョ・タンビエン、コモ・トゥ(俺も、君のよう)/‘29年9月10日/18287B/
      ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリらのギター伴奏

フランス・パリーで録音した曲はアルゼンチンでは発売されなかったので、これらは新曲として発売されたわけだ。映画”カサ・セリア”のテーマ曲も当然に貴重な曲である。

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2010年3月5日金曜日

ガルデルのレコードリスト続編(SP盤よりCD化-1)



上のCDジャケットの写真は1935年4月1日から訪れたプエルト・リコ、
サン・フアン市近郊の海岸で撮影した物と思われる。

未公開曲シリーズー1(未発表曲)のCD化、1999年発売
1:コントラマルカ(極印)/タンゴ/1930年5月1日/
アルゼンチン・オデオンでの録音:
アギラール、バルビエリ、リベロールらのギター伴奏

2:カラ・ロタ(振り向く)/タンゴ/‘32年7月23日/バルセローナ
①伴奏:フアン・クルス(ピアノ)、ソルソーナ(バイオリン)/184299
②伴奏:バルビエリ、ペトロッシ、リベロール、ビバスらのギター/18877B
2回録音しており、何れも発売されている筈だが

3:トダビア・アイ・オタリオス(まだ間抜け共が居る)/タンゴ/28年12月15日/18263A
フランス・オデオン録音、伴奏:リカルド、バルビエリ、アギラール等のギター

4:ビクトリア(勝利)/タンゴ/29年9月12日/18822A
ブエノス・アイレス録音、バルビエリ、アギラールらのギター伴奏

5:ロ・アン・ビスト・コン・オトロ(彼と一緒に居たな)/タンゴ/‘30年4月10日/(*)
ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリ、リベロル、らのギター伴奏

6:セギ・ミ・コンセホ(俺の忠告に下がえよ)/タンゴ/‘29年4月6日/(*)
パリー録音:リカルド、バルビエリ、アギラールらのギター伴奏

7:ビエホ・スモーキング(古いモーニング)/タンゴ/‘30年4月1日/(*)
ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリ、リベロール、らのギター、
ロドルホ・ビアジ(ピアノ)、アントニオ・ロディオ(バイオリン)での伴奏

8:カミニート/タンゴ/‘27年7月29日/(*)
ブエノス・アイレスにて最初の電気式録音:リカルド、バルビエリらのギター伴奏

9:エンフォンダ・ラ・マンドリーナ/タンゴ/‘30年5月20日/18814A
ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリ、リベロールらのギター伴奏

10:ラ・ペナ・デ・パジャドール(遊詩人)/バルス/‘30年6月26日/18818A
上と同じ場所、演奏者での録音

11:マノ・クルエル(残酷な手)/タンゴ/‘28年9月6日/(*)
ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリ、リカルドらのギター伴奏

12:カジェヘーラ(通俗者)/タンゴ/‘29年6月21日/18275B
ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリらのギター伴奏

13:アリシア/バルス/‘29年10月23日,/18294A/‘29年11月12日/18947A
上と同じ場所、伴奏者での録音(2回録音)

14:ウナ・ラグリマ(涙)/バルス/‘30年5月20日/19817A
ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリ、リベロールらのギター伴奏

15:パドリーノ・ペラオ(禿げた代親父)/タンゴ/‘30年8月28日/18825B
前の曲と同じ場所、伴奏者とで録音

16:クルス・デ・パロ(棒切れの十字架)/タンゴ/‘29年7月22日/18269B
ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリらのギター伴奏

17:セ・ジャマ・ムヘール(淑女と呼ばれ)/タンゴ/‘29年3月1日/18270A
パリー・オデオン録音:アギラール、バルビエリ、リカルドらのギター伴奏

18:カベシータ・ネグラ(黒い頭)/タンゴ/‘29年6月28日/18281B
ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリらのギター伴奏

19:ジョ・テ・ベンディゴ(お前を祝福する)/タンゴ/‘25年12月/18157A/
ブエノス・アイレス、アコスティック録音:“ネグロ”リカルドのギター伴奏‘26年?/18157A/ブエノス・アイレス、アコスティック録音:リカルド、バルビエリらのギター伴奏と二度録音され、何れも発売されたはずだが

20:アラバレーロ(場末者)/タンゴ/‘27年5月27日/18208A
ブエノス・アイレス、初めての電気式録音:バルビエリ、リカルドらのギター伴奏
21:タンゴ・アルへンティーノ/タンゴ/‘29年12月11日/18288A
ブエノス・アイレス録音:アギラール、バルビエリらのギター伴奏

(注):SP盤番号/18000~/とある曲は何れも当時発売された物だが、(*)の印を付けた曲が本当の意味で未発表曲である。


未発表曲CD化ー2に続く人気ブログランキングへ人気ブログランキングへ