2010年11月14日日曜日

ガルデルとタンゴの詩人、作曲家達(2)


 1)セレドニオ エステバン フローレスは20世紀初期のポルテニョタンゴ界の澄み切った天空の様に輝ける文芸と詩による、偉大な美的集団と著名な詩人達のパスクアル コントウルシ、グランシスコ ガルヒア ヒメネス、マヌエル ロメーロ、フアン カルーソ、エンリケ カディカモ、ガビーノ コリア ペニャロサ、エンリケ サント ディセポロらの面々達に属する中の一員であり、ガルデルが彼の多くの作品を世に反響させた。

彼は1896年8月3日にブエノス中心地である、コリエンテスとタルカゥアーノ通りで生まれ、すぐに両親はビジャ クレスポに住み替えた。ここの住民達の多勢は異文化層移民とクリオージョ達の混合のポピゥラー文化団内の核心で幼児少年期を過ごす。青年期はボヘミアン習性でフライ級ボクサーになり、キッドセレのあだ名でチャンピオン戦に挑戦の上、ボクサー マリオ レリーに敗北した後に足を洗い詩作に没等する。彼の知人達による人物描写は気取った説教好きなもったいぶる風貌であったらしい。又、ビジャ クレスポ街中のミルクバー『ラ プーラ』のテーブルに座り詩を書くか、友人仲間達と雑談する姿を朝方頻繁に見かけた。新聞雑誌に投稿することを重ねて、ウルティマ オーラ紙のコンクールに詩『ポール ラ ピンタ』を投稿して入賞。この結果、ガルデルと知り合い、その上でこの詞に曲を付けるよう彼に依頼して、出来たのが『マルゴー』である。だが、余りにも若増(当時24,5歳)なセレドニオの風貌に最初の時点でガルデルもラサーノもこの作品がセレドニオの真の著作とは信用せず、彼のポケットから取り出したよれよれの紙に走り書きされた『マノ ア マノ(五分と五分)』の詞を見るまでと彼の常時持参の『フローレスとジュジョス(野草類と花々)』と題されたフローレスの作品集を見せられてからの経過がある。

ガルデルが取り上げた彼のタンゴは21曲に及び、エル ブリン デ カジェ アジャクチョ、アンティ ペペタ、テンゴ ミエド、ビエホ スモーキング、カンチェーロ、パンなどの以下多数歴代のヒット曲ばかりでルンファルド用語に埋まれたポルテーニョ世界を彷徨する姿を描いた詩集である。ガルデルは貴婦人方を強く激怒させる詩の内容であると謙虚に『コリエンテス イ エスメラルダ』を録音しなかった。


Margot(マルゴー)
タンゴ(1921年)
作詞:セレドニオ エステバン フローレス
作曲:ホセ リカルド/カルロス ガルデル
オデオンレコード18033
歌:カルロス ガルデル
伴奏ギター:ホセ リカルド

Se te embroca desde lejos,pelandruna abacanada,
遠くからでもあんたと見破べる、貴婦人気取りの不道徳女、
que has nacido en la miseria de un convento de arrabal…
あんたは下町の長屋の貧しき生まれ
porque hay algo que te vende, yo no se si es la mirada,
あんたは裏切る何かを備え、俺には掴めないその眼差し
la manera de sentarte, de mirar, de estar parada
あんたの座り仕草か、目つき、立ちすがた
o ese cuerpo acostumbrado a la pilchas de percal
キャラコ衣装に着こなされた仕草
Ese cuerpo que hoy te marca los compases tentadores
その体つきは今あんたに魅惑の拍子が刻む
Del canyengue de algun tango en los brazos de algun gil,
ぐうたらな奴に抱かれ、あのタンゴのリズムを刻み
mientras triunfa tu silueta y tu traje de colores
あんたの凱旋影姿と輝やしい衣装
entre el humo de los puros y el champan de armenonville
アルメノンビルのタバコの煙とシャンパンの間で

Son macanas, no fue un guapo haragan ni prepotente
それはあきれ事、怠けたしゃれ者でも優れ者でもなく
ni un cafisho de averias el que al vicio te largo
ヤクザなジゴロでもなく、不純があんたを没落させた
Vos rodaste por tu culpa y no fue inocentemente
あんたの罪の上に天真爛漫でもなきあんた自身で転がり落ちて
berretines de bacana que tenias en la mente
裕福になりたさの気まぐれが過ぎた憧れが
desde el dia que un magnate cajetilla te afilo!
気取りやの財産家にあんたが媚びたのだ

Yo recuerdo, no tenias casi nada que ponerte,
俺は思い出すが、衣装も持たず、
hoy usas ajuar de seda con rositas rococo,
今はロココ調ピンク色の絹衣装をまとう
me reviente tu presencia…pagaria por no verte…
あんたが現われると俺はへきへきだ...見ないためなら銭くれよう
si hasta el nombre te han cambiado como has cambiado de suerte
あんたは名前さえ変え運命まで変えたように
ya no sos mi Margarita,ahora te llaman Margot!
もう俺のマルガリータでもない、今はマルゴー呼ばれ

Ahora vas con los otarios a pasarla de bacana
今は間抜け者に囲まれて貴婦人気取り
a un lujoso reservado de Petit o del Julien,
優美な指定されたぺチやフリエンに現われる
y tu vieja, pobre vieja! Lava toda la semana
けれども、あんたの母さん、哀れな母さん!毎週物洗うばかり
pa poder parar la olla,con pobreza franciscana,
貧しきフランシスコ修道者と共に請うごとく
en el trste conventillo alumbrado a kerosene.
灯油ランプに照らさる悲しい長屋...

ルンファルドの説明
enbroca:mirar filiando:人相などの特微をみる、vigilar:見張る
pelandruna:persona abandonada en su aspecto:外観を注意しない人物、perezoso:怠け者、
abacanada:bacana からの意味patrona、お上さんmujer adinerada成金女になる
convento:本来は修道院の意味だがconventillo(イタリー南部地方の共同住宅)と同異語
pilchas,vestir:着る、まとう、canyengue:modo quebrado y con orte de bailar el tango:
タンゴダンスの踊りスタイルのステップ、gil:imbecil,tonto,estupido:間抜け、
macanas:estupidez、tonteria:馬鹿げたこと、cafisho:cafiolo:rufian 、proxeneta:ひも、ジゴロ
berretines:capricho:気紛れ、bacana:patrona:お上さん、parar la olla:直訳すれば鍋を立てるだが、trabajar para ganar el susutento diario :要するにその日その日の糧を得るために労働すること(情けを請う)
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2010年11月9日火曜日

ガルデルとタンゴの詩人、作曲家達(1)

(8)パスクアル コントウルシが作詞したタンゴの内で、ガルデルが取り上げた曲で他に次の6曲がある。デスディチャ(不運)作曲:アグスト ヘンティル、ラ ミーナ デ フォード(フォードの女)、カ フェラタ(ひも)、ラ エ ビスト コン オトロ(あの男と居たのを見た)、ポブレ コラソン ミーヨ(我が悲しき心)、ベンタニータ デ アラーバル(場末の小窓)以上の作曲はアントニオ スカタッソ、プエンテシート デ プラタ(銀の小橋)作曲:フランシスコ カナロ。また、コントウルシのタンゴは他に数曲在るがガルデルは歌っていない。




アグスト ウンベルト ヘンティルはピアニストで作曲家、1891年9月11日(イタリーローマ生まれ)~1932年3月18日没、ピアノ、ギター、アコーデオン、バンドネオンの楽器を奏きこなす。アリピ、コントウルシ、カナロ、ロムート、パブロ ポデスター、オリンダ ボサンらと親交があつた。1913年に初めてタンゴ『エル ルナルシート』、『ラ トトーラ』を作曲する。ガルデルが歌った初めてのタンゴ『フロール デ フアンゴ(泥濘の花)を作曲した。ガルデルと知り合ったのはコリエンテス通りのカフェで彼が歌っていた、まだ有名になる前の頃からである。ヘンティレは劇場、ラヂオなどには出演しなかった。



アントニオ スカタッソー:1886年2月28日(イタリー ナポリ生まれ)~1956年7月29日にブエノス アイレスにて没、バンドネオン奏者、作曲家、他にマンドリン、ギター、ピアノも演奏した。1913年頃からアグスト ベルトのバンドネオン、ドミンゴ サレルノのギターと彼のマンドリンのトリオでカフェ『エル パルケ』に出演デビューした。当時ガルデルの競争者のコルシー二と活躍し,サイネテの出し物歌を多く作曲している。また、ガルデルがパリでヒットさせた『ジャ ノ カンタ チンゴロ(チンゴロ鳥はもう歌わない)』も彼の作である。

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2010年11月5日金曜日

ガルデルとタンゴの詩人、作曲家達(1)

(7)『バンドネオン アラバレーロ(場末のバンドネオン)』、このタンゴは1928年にバンドネオン奏者バチーチャ{a}の曲にコントウルシが詞を付けたもの。まず初めにビアンコーバチーチャのオルケスタ{b}の演奏でホセ コーエンが歌い披露され、フランシスコ カナロはチャルロの歌で録音。同年の10月20日にガルデルはホセ リカルド、ギジェルモ バルビエリ、ホセ マリア アギラール達のギター三重伴奏でフランス オデオン レーベルに録音した。イルスタ‐フガソー‐デマ―レらのトリオ アルヘンティーノでスガソーの歌で録音。近年ではトロイロとロベルト ゴジャネチェ、エドアルド デル ピアノとアンヘル バルガス、フランシスコ ロッンドとフロレアル ルイス、ピアソラとネリー バスケス、サルガンとリべーロ、彼等達の有名オルケスタと有名歌手のコンビの録音など、オスバルド プグリエーセ、ラウル ガレーロ楽団らの名演奏がある。とこで、この『バンドネオン アラバレーロ』の詞を書いた主人公パスクアル コントウルシは1927年からのパリ滞在中に異常なまでの酒に溺れ、生活の荒れによる精神異常に侵された時期に、彼の最後のあがき的な彼自身の狂気のほの暗い心中を詩に托した作品である。



Bandoneon arrabalero
場末のバンドネオン
viejo fueye desinflado,
縮まつた古いジャバラ
te encontre como un pebete
餓鬼のように出遇した
que la madre abandono,
母さんに見捨てられ、
sin revoque en las paredes,
その壁には思切りも無く、
a la luz de un farolito
ガス灯の光に
que de noche te alumbro..
おまえを照らし...            

Bandoneon
バンドネオンよ
porque ves que estoy y cantar ya no puedo,
なぜおれがそして、もう歌えない
vos sabes
おまえは知っている
que yo llevo en el alma
俺が魂を引きずって
marcao un dolor.
痛み痛恨をとどめ

Te lleve para mi pieza
おまえを俺の部屋に運び込み
te acune en mi pecho frio…
おまえをわが冷えた胸にあやす...
Yo tambien abandonado
俺もまた捨てられた
me encontraba en el bulin…
貧しき部屋にいて...
Has querido consolarme
おまえは俺を慰めしようとし
con tu voz enroauecida
そのしわがれ声で
y tus notas doloridas
おまえの痛みの調べ
aumento mi berretin.
我が気紛れも増す、


エンリケ カディカモの話ではバチーチャはこのタンゴの作者では無く、オラシオ ペトロッシ{c}が1925年のパリでビアンコ‐バチーチャ楽団に参加していた時に作曲し、バチーチャに千フランで版権を売ったのだとか、、、ある夜のカフェ『パレルモ』の店終い時にギタを抱えたペトロッシは楽器をしまい帰り支度を済ましたバンドマスターのバチーチャに近ずき『今、作ったばかりのタンゴを披露しようと』徐にギターでインスピレーションの彷彿したテーマのメロディーを奏で、聞き手(バチーチャ)は真心賞賛の意で讃え。そこでぺトロッシー曰く、『この曲の感想は?』、

大あくびを抑えながら(もう、晩いんだからとばかりに,,,)
バチーチャ答えて『いい感じ、祝福するぜ!』、
ペトロッシー大声で『千フラン』、
仰天したバチ―チャは聞き返す『何の事?』、
ギター奏きは笑いながら『これ売るよ、今晩だけのチャンス』、
バチーチャは彼がボヘミアン上のやむ得なく使い果たす為の金と思い、千フラン取り出し、
借金の申し出と考え親切に受け容れたが、、、
ギター奏者は借金したことは直ぐに忘れるからと申し出を断り、『借金はだめ、、、千フラン早く、早く』この金額により、この作品『バンドネオン アラバレーロ』タイトルそのままに版権名義が変わる経緯である。そして、コントウルシ詩人登場で世に問われる事になる。

{a}バチーチャの本名はフアン バウティスタ デアンブロヒーオ、バンデオン奏者。1890年3月2日ラプラタ市に生れる。オルケスタビアンコ‐バチーチャでパリに乗り込む。

{b}ビアンコの本名はエドァルド ヴィセンテ ビアンコ、1892年6月28日生まれ、バイオリン弾き。1913年アルフレッド ゴビ(父)、タンゴダンサーと詩人でもあるエンリケ サボリード等達と『光』の都市パリにタンゴ普及活動の開拓者の役目を果たす。

{c}オラシオ ペトロッシは1896年10月21日生まれ、1915年ホセ リカルドとエリアス フィリピ‐フアン ゴンサレス カスティジョ劇団の出し物、題名「フアン モレイラ」劇中でガルデル‐ラサーノ二重唱が歌った『フェスタ クリオージョ』のギター伴奏に参加。                             
ガルデルとはこの時期から旧知の仲、1933年パリでかの有名曲『シレンシオ』の作曲に協力。同じ年後にガルデルの亜国地方、ウルグアイ巡業とレコード録音にバルビエリ、リベロール、ヴィバス等とギター四重奏に参加。

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2010年10月25日月曜日

ガルデルとタンゴの詩人、作曲家達(1)

ラ・クンパルシータの誕生の秘密
6)『シ・スピエラス(もし、知っていたならば)』この曲は世界中に史上最っも普及したタンゴである『ラ・クンパルータ』に作者ヘラルド・マトス・ロドリゲスに無断でパスクアル・コントウシがエンリケ・マロニと共作の詞を付けたものである。この詞の内容はある男が過去の愛の回想であるが、当時全っく忘れらて仕舞っていたこの曲を世に反響を及ぼし、一躍有名にしたのは他でもない、この『シ・スピエラス』の詞なのである。この『ラ・クパルシータ』は1917年にヘラルド・マトス・ロドリゲスが作曲、ロベルト・フイルポがモンテビデオにあったカフェ・ラ ・ヒラルドで初演奏し、一躍有名になつた様に思われているが。マトスの依頼でこの曲に手を加えた本人のロベルト・フィルポの証言を述べてみよう。時は1916年、『私はカフェ・ラ ・ヒラルドで演奏していたが、ある夜、数人の学生風の若者達が訪れ、学生仲間のマトスの依頼で来たと、私に一曲の『マルチータ(小マーチ)』の楽譜見せながら、その曲の編曲の依頼を申し出た。楽譜は第一譜の部分には他少のタンゴらしい2/4拍子があるが第二譜部分には何も無い。そこで1906年に作曲したが全くヒットしなかった自作タンゴ『ラ・ガウチャ・マヌエラ』と『クルダ・コンプレタ(完全な酔い)』、ギセップ・ベルディ作オペラ『ミセセレ』の一部を混ぜて挿入して『ラ・クンパルシータ』に仕上げ、その夜すぐにバンドネオン奏者バチチャ・デ・アンブロッシオとバイオリンのテット・ロカタグリアタッ達とトリオで演奏したところ、観衆にはまずまずの反応があった。しかし、私がこの曲の共同作者として登録する様に提案をしたのだが、マトスはそれを拒否した。マトスは礼讃され得意満悦に世を凱旋するが、やがて時が経ちこの曲は世の人達から全く存在を返り見られぬほど忘れ去られて行った』。しかしながら、フィルポの編曲はこの曲を世界的に普及させて、有名にさせた功労者と絶賛されるべきだろう。その後エラルド・マトス・ロドリゲスは、この曲『ラ・クンパルシータ』の版権をリカルディ社の代理店ブレジェール兄弟商会に売って仕舞う。そして、1924年6月6日にパスクア・ コントウルシとエンリケ・マロニの活動領域である旧アポロ劇場にてレオポルド・シマリ指揮下の劇団による出し物公演『キャバレー』演目の二幕目に歌手フアン・フェラーリがパスクアル・コントウルシとエンリケ・マロニらが共作した『シ・スピエラス』の詞が初めて、この『ラ・クンパルシータ』に盛装付された詞を歌う。だが、この新しいタンゴと女優ルイサ・ モロテッーの苦い風刺歌『ラ・ミーナ・デ・フォード(フォードの女)』{a}の歌を持っても月並みな出し物はこれらの救い手の差出しにも至らず、この劇は短期の内に終演となる。しかしながら、このタンゴ『シ・スピエラス』はあの魔術師である、タンゴカンシオンの最高表現者カルロス・ガルデルにより歌われ、以外な大ヒットとなる。ガルデルが歌った結果、この曲の音楽価値が再評価され、『ラ・クンパルシータ』は最高栄誉を獲得する踏み台に近ずく栄光の道を進むのである。一方のヘラルド・マトス・ロドリゲスはパリでカナロの口伝えによりこの事態を悟り、若いウルグアイ人弁護士カラタジュー氏の援助を介してブレジェール兄弟商会を相手取り、この曲のマトス・ ロドリゲス自身の作詞『ラ・クンパルシータ・デ・ミ・セリア・シン・フイン・デ・スフィラ…』{b}以外の曲の演奏権利無効施行の裁判を起こす。 この自作編は1926年11月9日モンテビデオ国立図書館に登録され、ロス・プロビンシーノス楽団により演奏、ロベルト・ディアス歌によりレコード化されたが全く普及なかった。パスクアル・コントウルシはパリから病身での帰国後、1932年3月16日に果かなく世を去る。彼の未亡人イルダ・ブリアーノとエンリケ・マロニーはヘラルド・マトスの版権独占に対して、この曲の共作権利の正当性と損害賠償訴訟を起こす。裁判は長引きマトスの・ロドリゲス死後、1948年9月10日、フランシスコ・ カナロは調停仲介者としての役を引き受け、双方の権利を裁可に委ねた。


『La cumparsita(ラ・クンパルシータ)』
作曲:ヘラルド マトス ロドリゲス
編曲:ロベルト フィルポ
『si supieras(シ スピエラ)』
作詞:パスクアル コントウルシ‐エンリケ マロニ

Si supieras,
もし、知っていたならば、
que aun dentro de mi alma,
まだ、俺の心中に、
conserve aquel carino
あの愛情を残しつつ
que tuve para ti…
あんたの為に...
Quien sabe si supieras
誰が知るだろう
que nunca te he olvidado,
俺はけして忘れない、
volviendo a tu pasado
あんたの過ぎ日に戻り
te acordaras de mi…
あんたは俺を想い出せるかい...

Los amigos ya no vienen
我が友達はもう来ない
ni siquiera a visitarme,
けして俺を訪れない、
nadie quiere consolarme
誰人も慰めもくれず
en mi aflicion…
俺の愛着に...
Desde el dia que te fuiste
あんたが去った時から
siento angustias en mi pecho,
我が胸は苦しみ抱き、
deci,percanta,que has hecho
なあ、魅惑な女、どうしてる
de mi pobre corazon?
我が悲しき心?

Sin embargo,
しかしながら、
yo siempre te recuerdo
俺はいつもあんたを思い出す
con el carino santo
清らかな慈愛と共に
que tuve para ti.
あんたゆえに。

Y estas en todos partes,
そして、いかなるところに、
pedazo de mi vida,
我が命の片がある、
y aquellos ojos que fueron mi alegria
そして、あの瞳は我の歓喜ゆえ
los busco por todas partes
全ての地を探しゆえ
y no los puedo hallar
そして、それらも見出せず

Al cotorro abandonado
身棄てられし部屋に
ya ni el sol de la manana
もう、朝日もとどきなく
asoma por la ventana
のぞく窓辺へにも
como cuando estabas vos,
あんたがそこにいた時、
y aquel perrito companero,
その伴侶犬、
que por tu ausencia no comida,
あんたの不在と食べ物もなし、
al verme solo el otro dia
あの日ただ遇う為に
tambien me dejo…
そう俺まで捨てていき...


注:{a}『ラ・クンパルシータ』ヘラルド・マトス・ロドリゲス自作詞曲編はこう始まるが、『つきること無く悲惨な行列が続く...』
{b}『ラ・ミーナ・デ・フォード(フォードの女)』
作曲:アントニオ・スカタソ-フィデル・デル・ネグロ
作詞:エンリケ・マロニ-パスクアル・コントウルシ
カルロス・ガルデルはこの曲を1924年にホセ・リカルドとギジェルモ・バルビエリ達のギター伴奏で録音している。

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2010年10月21日木曜日

ガルデルとタンゴの詩人、作曲家達(1)

(5)ポブレ パイカ(可愛そうな女)、このタンゴはフアン カルロス コビアンが1914年に作曲したタンゴ『エル モティーボ(動機)』にコントウルシが例の如く、コビアンに無断で詞を付けたもの。ガルデルは1920年9月26日にホセ リカルドのギター伴奏で録音した。ルンファルドではパイカとはグレラ(愛しい人)、ナイファ(乙女)、ミーナ(内縁妻)、パプーサ(魅惑な女)、ペルカンタ(愛人),ソファィファ(女)らの言葉の全部は女性の同異語になる。また、パイカ レトレチェラ(愛くるしい女)などと呼ばれる。普通、ブエノス アイレスではパイカなる女性はキャバレーに働き、客にカクテルをサービスしたり、世間話やタンゴダンスの相手もする。明け方のコリエンテスやコルドバ大通りのコンフェテリヤに店を跳ねた後で、二三人寄り添いテーブルを囲み、チューロ{a}と熱いチョコラテ{b}で朝食をとって居る彼女達の姿をよく見かける。タンゴのグアルディアビエハに登場する女性達も同じ様な姿であったろう。これらの主人公は大部分下町出身のヨーロッパからの移民者達や農場労働者達の娘で若い無邪気な乙女達であるが、最初憤例を重んじる慎みのある仕事に就くが、しかしながら、早熟の身でその状況を放棄すべく、やがて知りあった同じ身辺の若者達かヤクザ風伊達男か性質の悪い輩等に騙された挙句に身を崩して行く挫折への道を辿る。やがて夜の世界に入り込み、豪華華麗な容易な生活を知り魅惑された上に若さを過ぎ又はシャンパン溺れの果てなどによる、生活の乱れか病に冒された身の上。これはコントウルシがタンゴ界で最初に描いた詩の大まかな筋書きを形成する(後で彼の特許では無くなるが)。


注:{a} チューロとは小麦粉をドーナツ状にねり油で上げ砂糖をば撫した菓子風の食べ物
{b}チョコラテは棒状チョコレート(甘くない)をミルクと煮立てた熱い飲み物。
{c}ウイリアム音楽院はカルロス ディサルリの長兄ウイリアム ディサルリが設立した。コビアンとカルロスは同級生だった
{d}ガルデル‐フローレスの『マノ ア マノ』同名異曲だが前曲のヒットにより、コビアンは後に『ビエホ バンドネオン』と改名した













『El motiivo(動機)』
Mina que fue en otro tiempo
過ぎたあの時代には、ミーナは
la mas papa milonguera
稀な美貌のミロンゲーラ
y en esas noches tangueras
あの夜毎のタンゴ沙汰で
fue la reina del festin.
パティーの女王
Hoy no tiene pa ponerse
今日、身を寄せる場もなく
ni zapatos ni vestidos,
ドレスも無く、靴もなし、
anda enferma y el amigo
患いのみ、それに男達は
no aporto para el bulin.
逢引室にも姿みせず
Ya no tienen sus ojazos
それに、大きな瞳には
esos fuertes resplandores
その力ある煌めきもなく
y en su cara los colores
それに顔いろに
se le ven palidecsr.
浮かぶ蒼白さ
Esta en ferma,sufre y llora
病に倒れ、泣き、苦しみ
y manya con sentimiento
悲しみの上理解した...
de que asi,enferma y sin vento
こうして、病で銭もなし
mas nadie la va a querer.
誰人よりも恋焦がれ泣く...

Pobre paica que ha tenido
哀れな女は抱きつつ
a la gente rechiflada
人々を蔑みの
y supo con la Mirada
知り尽くし、まなざしで
conquistar una passion,
情熱を征服、
Hoy no tine quien se arrime
今日、誰人も寄り添うもの無く
por carino a su catrera.
寝床を慈愛ゆえ
Pobre paica arrabalera
可哀想な女、見捨てられて
que quedo sin Corazon!
心も失うありさまを!

Y cuando de los bandoneones
そしてバンドネオンが
se oyen las notas de un tango,
タンゴの旋律をかなでる、
pobre florecita de fango
哀れな泥濘の花
se siente en su alma vibrar
あんたの魂は打ち振るえ
las nostalgias de otro tiempos
あの過ぎしときに郷愁ゆえ
de placers y de amores,
愛と快楽、
hoy solo son sinsabores
今、ただ味も無く
que la invitan a llorar!
咽き泣きの誘惑のみ!
この曲の作曲者はフアン カロルス コビアンでピアニスト、多くの有名なタンゴを生み出している。1896年5月31日にブエノスアイレス州南部バイアブラカ近郊のビゲー生まれ、スペイン人マヌエル コビアンを父に、母シバナ コリア(亜国人)の間に誕生。幼少から姉ドロレースの影響によりピアノを習得。バイアブランカ市にあるウイリアム音楽院{c}に入り、ヌーマ ロソーティーに師事。ここでカルロス ディサルリと同級になる。コビアンは1913年にブエノスに上京、ビヤホールや無声映画館で演奏活動をした二番演した。その同年徴兵義務を無視したが、3年後に官警の逮捕下のもとに義務を強制される羽目になり、その状況化でかの有名な『ア パン イ アグア(パンと水の為に)』が誕生した。『サロメ』、『エル モティーボ』、『マノ ア マノ』{d}、『エル ボティーハ』、『エル カタンガ』など多数の曲を生み出した。そして、歩兵連隊を退役し夜の世界に返り咲く。その後オルケスタ アローラスに参加後、バンドネオン奏者リカルド ゴンサレスとバイオリン奏者 フリオ ドウトリーとトリオを結成。1922年オスバルド フレセド6重奏団い参加。アブルジャクラブであの華麗な『ミ レフヒオ(我が隠家)』を発表。このクラブの経営者に薦められ、ペドロ マフィア、ルイス ペトルチェリ(バンドネオン)、フリオ デカロ とアヘシラオ フェラッサーノ(バイオリン)、ウンベルト コスタンソ(バホ)等のメンバーでコビアン自身の6重奏を指揮するが、直ぐ後に意見のくい違いにより、デカロがマフィアとぺトルチェリを伴い脱団してこのコンフントは解散した。1923年コビアンはある一人の北米女性の後追いの末、アルゼンチンタンゴ界から姿を消す。北米において彼は仕方なくジャズバンド演奏する羽目になる。又、ロドルフォ バレンテイーノスタイルを生み出したアンディーバリェーのタンゴの二番煎じに甘える。後に『ノスタルヒアス』、『ロス マレアードス(酔いどれども)』、『ラ カシータ デ ミス ビエホス』などを発表。偽ウイスキーとガンガスターの世界とジャズとタンゴの交代に飽き飽きして1928年に帰国。フランシスコ フォレンティーノ伴奏、シリアコ オルティス,カジェタノ プグリッシらとティピカを組むが、再度北国に向い1943年まで滞在、帰国後ラヂオ エル ムンドにオルケスタを指揮した。1953年12月10日、57歳でこ世を後にした。

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2010年10月15日金曜日

ガルデルとタンゴの詩人、作曲家達(1 )

( 4 ) パスクアル コントウルシの5曲目に当たるタンゴ『ケ キエレス コネエサ カラ(その顔で何が欲しい)』はエドワルド アローラス{a}作曲の『ラ ギタリータ』にコントウルシ持ち前の技で、すでに発表されいる作品に付けた詞である。

ここで、この詞の内容に入る前に初期タンゴの頃に登場する女性達と男の典型的な姿を紹介しよう。まず登場するのは他でもない男達に心奥深く秘めた『母』の愛の願望に共通、そのものだが、ここでは主にプピーロ(瞳)即ち、『娼婦』達のミロンギータ,イベッテー、マルゴー、エステルシータ、など等で呼ばれる女性達。かの女等の共通は『美貌姿すべての魂胆は日々の糧を守り果たす』とビジョルドは『エル ポルテニート』で詠っているのだが、現象として当時のタンゴ世界の『ヒモ』と呼ばれるタイプの伊達男の存在。このカフェ コン レチェ(ミルクコーヒー)即ち、抱えられた愛くるしくも惚れた『娼婦』達。『ヒモ』の彼等にとっても目に入れても痛くない筈の愛する女を他の男に銭ゆえに売る、その行為に裏切られる。この心境は冷酷極まりない日本ヤクザとは違う、彼等ポルテーニョヤクザは愛の関係と商売を混ぜて仕舞いこれも複雑気まわり無いが、少しは心を救われる気もする。これらのタンゴの詞に登場する女性群と伊達男達(当然、並みの男達も含めて)は万人誰ゆえの共通な脆さと強さを交えた果かなさを秘めている。

注:{a}エドウァルド アローラス;1892年2月24日、ブエノスアイレス市バラッカ街に生まれ、紛れも無いタンゴ界の虎。最初ギターを習得、ラファエル イリアルテと二重奏を組む、後にバンドネオンをマエストロ ボンビッチに師事。楽譜音調を音楽院で学ぶ。ボーカ地区のカフェで演奏、後にアベジャネーダの有名なバー『ラ ブセカ』に出演。1913年あの有名な『アルノンビジェ』でロベルト フィルポ、ダビッ ティト ロカタッグリアタ、レオポルド トンプソン等とコンフントを組み、ガルデル‐ラサーノ二重唱と共演する。また、当時のフイルポ‐カナロのコンフントに参加した。タンゴの作曲は何れも群れを抜く優れた名曲が多く、いずれの曲も今日現在のタンゴ楽団にも取り上げ演奏されている。

1907年、ラファエル イリアルテと『コモ イル フォー』を共作。『デレーチョ ビエホ』は彼の作品で最も有名な曲である。カルロス ディサルリの名演奏で知られる『カチーラ』はアローラスが当時所持した有名なマイカーの名前を付けたタンゴ。彼の作品の中でも際立つメロディーの美しい『マイポー』、大1次大戦でドイツとフランスの戦場地をテーマにした『エル マルネー』など。カンシオン クリージャ『ラ リンダ ミ ガウチータ(我が華麗なガウチョに)』をガルデル‐ラサーノに捧げている。1916年に『ラ ギタリータ』を作曲。この曲は後にコントウルシが『ケ キエレス コネサ カラ(その顔で何が欲しい)』の詞を付ける。

ガルデルはこの曲をコントウルシの詞でホセ リカルドのギター伴奏で次の様に歌い、1920年にオデオンレコード録音した。

Que quieres con esa cara
その顔で何が欲しい
y esa mirada risuenas
そして、その爽快な眼差し
si hay que tenerte a la lena
炎のなかにくべたい衝動に、
porque naciste asi
なぜその様に生れたのかい.
yo no pude convencerte,
俺はあんたを説得できず、
yo te deje muy seguido
余りにも早く放ってしまい
por eso china te has ido
それだから乙女よあんたは去って
sin acordarte de mi.
俺を思い出ず。

Cuando yo te conoci
俺があんたを知その時に
te en gurpia la piu vela
ラ ピゥベラの中に騙しごとく
me la tire pamela de charoles y baston.
俺が投げた、エナメル帽子と杖、
Me contestaste por carta
俺に応えたあの手紙
toda adornada de flores
花飾り添えられた
y unimos nuestros amores
それゆえに我々の愛を分ちあう
tan solo en un Corazon
唯一つの心にて.

Luego te alquile un bulin
その後で逢引部屋を借り
que adrnaste con postales
飾り付けた描け絵と
cortina pa las cristales
ガラス窓にカーテンを
de la puerta te compre
買ってあげたそのドーアに.
Por vos deje mis amigos
あんたの為に友達等を遠のけて
deje el juego y la bebida
酒も博打おわずけだ
y empece una nueva vida
新しい人生の始まり
al laburo me entregue.
盗みも足あらい

Cuando ya comprendimos
もう分かち会った時
del amor que me tenias
愛ゆえにかち得た
con mi dicha y mi alegria
俺の幸福と喜び
te fuiste sin comprender
あんたはそれを理解もせず
que me dejaba llorando,
泣き嘆きに俺を負い落とす
que era triste mi destino;
俺の運命の悲しきはて
te cruzaste en mi camino
俺の行き道に横切った、あんた
para hacerme padecer.
苦しみ被せるために

Al piantate del bulin
逢引部屋から逃げ出した
me dejaste los postales
絵柄もそのまま
la Cortina en loa cristales,
ガラスのカーテンも
tus cartas y un almohadon
あんたの手紙類とクッション等も
y un corse que estaba roto,
コルセットの破れきぬ、
medejas te el sombrero
帽子までも置き去り
llevandote el Corazon
心までも引きずって.

この詞にはあまりルンファルドは出て来ない。
Piantate;逃げる、姿を消すbulin;逢引部屋、
laburo;trabajar,仕事をする、ここでは盗みごとをするの意味になる、
piu vela;ピゥ ベラ;固有名詞?



『バンデオンの虎』エドゥアルド(本名ロレンソ)アローラスは友人のバンドネオン奏者リカルド モティーラ ゴサレス、ラファエル トゥエゴルス、ティト ロカタッグリァタ、フリオ デカロ、レオポルド トンプソン、フアン カルロス コビアン、マヌエル ピサーロ、ヘナロ エスポシト、エンリケ デルフィーノ等の蒼々なる演奏家と共演した。1921年フランス、パリで凱旋的成功、23年にパリに舞い戻るが、滞在中酒に溺れとスカートの縺れ即ち、女性絡みなどによる生活の乱れにより肺病に犯され、24年9月29日朝方のパリにて32歳の若さで死に至る。









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2010年10月12日火曜日

ガルデルとタンゴの詩人、作曲家達(1)



(3)パスクアル コントウルシの4番目のタンゴ『イベッテー』


この不思議纏わるタンゴは例によって詞のないまま、初めセレスティーノ フェレール{a}により曲の楽団演奏のみで1918年8月16日にビクターレーベルに録音、レコード番号は72161-Aである。この曲の元楽譜には作曲者はコスタ‐ローカ{b}、ピアノ演奏用とあり、日付けも捧げ人の名もない、変ってコントウルシの作詞した楽譜には1919年2月28日、プレジェール兄弟社出版。ミジェへ、、『イベッテー』に捧げるとあり、説明には音楽はコスタ‐ローカ作、アゥグスト ベルト{c}の捺印がある。後にフリオ ローカは50ペソにて版権をアウグスト ベルトに譲るのだが、作曲者協会は『コスタ‐ローカ』お名義を残している。ところが本当の作曲者はキンテート フランシコ カナロのピアニスト、ホセ マルティーネス{d}だと言う説があり、随分ややこしい話である。種を明かすとエミリアーノ コスタとフリオ ローカはホセ マルティーネスが演奏活動していたコンフェテリーアの経営者達(反論もある)であったとか。又、コスタ(演奏楽器は不明)はマヌエル アロステギ{e}とオスバルド フレセドらとトリオを組んでいた。フリオ ローカの方は音楽家であっかどうかも不明だがバンドネオン奏者のガブリエル クラウシによる証言では彼は歴代大統領の同名の子息であるそうで、優れたアマチュアのタンゴダンサー(ミロンゲーロ)でポルテーニョの夜を優美に振舞い、万人の注目の的であったとか...

ところでカルロス ガルデルは『イベッテー』を1920年に4番目のタンゴとしてホセ リカルドのギター伴奏で録音した。この録音はwww.todotango.com.arで聞ける。

注:
{a}セレスティーノ フレール;1890年生まれ(日付け不明)、ギターからピアノ弾きになる。
1907年にアルフレッドゴビ夫妻、アンヘルビジョルドらとレコード録音する為にパリに渡航。1911年にエンリケ サボリードとパリに行きタンゴの普及に奨励する。
{b}コスタ‐ローカ;タンゴ『イベッテー』作曲版権所持者。
エミィアーノ コスタとフリオ ローカの両者。
{c}アグスト ペドロ ベルトはバンドネオン奏者、作曲家、楽団指揮、1889年2月4日、バイア ブランカ生、1953年4月29日没。古典タンゴの『フエジェーロ』先駆者的存在。幼年期にマンドリイン、ギターを習得、後にバイオリンに転向、バンドネオンはホセ ピアッサ「ぺピン」に師事。ビセンテ グレコ、フアン マグリオらとタンゴ初期に奨励する。
『ラ パジャンガ』、『ドン エステバン』、『ドンデ エスタ コラソン』ら、数々の作品がある。フルベルトは1953年にベルト追悼にタンゴ『ケハ デ バンドネオン』を捧げている。
{d}ホセ マルティーネスは『デ ブエルタ アル ブリン』の作曲者でもある。
{e}マヌエル アロステギ(1888年1月4日、モンテビデオ生―1938年11月14日没)、
ピアニスト、1913年『エル アパチェ アルヘンティーノ』を作曲する。


『Ivette』とは女性の名前、ではコントウルシの詞の内容は。
En puerta de un boliche
居酒屋の入り口にて
un bacan encurderado,
酔い潰れた伊達男
recordando su pasado
過去を回想して
que la china lo dejo,
去った可憐な乙女の、
entre los humos de cana
地酒のいきれ唯中で、
retoman a su memoria
記憶を呼び戻し
esas paginas de histria
その物語のページに
que su Corazon grabo,
心に刻まれた
Bulin que ya no te veo
もう、おまえの姿の無い部屋
catre que ya no apolillo,
俺の寝姿無いベット、
mina que de puro esquillo
怒りおぽい女 
con otro bacan se fue;
あの別の伊達男と去って
prenda que fuiste el encanto
魅力的だったあの装い姿
de toda la muchachada
全ての若者達にも
y que por una pavada
挙句の果てにあの愚か事のために
te acoplaste a un no seque
おまえの和解は引き起こせず

Que te ha de dar ese otro
あいつがおまえに施しに
que tu viejo no te ha dado
実の親父も与えられ無った物も
No te acordas que he robado
思い出さないかい、俺が盗んだ物を
pa que no falte el bullon?
喰い糧不足に成らない為に

No te acordas cuando en cana
思い出さないかい、あの時に俺が牢屋に居た時を
te mandaba en cuadernitos
おまえに届けた小ノート
aquellos lindos versitos
あの綺麗な散文
nacidos del corazon?
俺の芽生えた真心の?

No te acordas que conmigo
思い出さぬか、この俺と
usaste el primer sombrero
初めての帽子を使ったのを
y aquel cinturon de cuero
そしてあの時の皮ベルト
que a otra mina le saque?
あの女から取り上げた物
No te traje pa tu Santo
おまえを当惑させず、有益に
un par de zarzos de bute
幾つかの高級指輪と
que un anoche a un farabute
ある夜にあの悪党に
del cotorro le piante
逢引部屋から逃げ出して.

Y con ellos unas botas
そして彼らとあのブーツの
con las canas de gamuza
白セーム革が飾られた
y una pollera papusa
そして魅惑なスカート
hecha de seda crepe?
繊細な絹したての

No te acordas que traia
持ってきたのを思い出さないかい
aquella crema lechuga
あのレタスクリーム
que hasta la ultima verruga
最後の立ちはだかりの、おまえの表情しぐさゆえ
Y aquellos polvos rosados
あの頃のピンク化粧
que aumentaban tus colores
色ずき増しつつ
recordando sus amores
愛を回想した挙句
el pobre bacan lloro…
悲しき伊達男は涙ぐむ...

ルンファルドの解説:
Boliche;居酒屋、Bacan;伊達男、Encurderado;深酔い、
China;乙女、Cana;白髪、心労、牢屋、Bulin;逢引部屋、
Catre;Cama寝床、べット、Apolillo;寝る、Mina;女、
Esquillo;Rabieta;怒り,かんしゃく、Muchachada;幼稚な、腕白、若者仲間
Cuadernito;政治結社、Zarzo ;指輪,Bute;muy buena calidad;最上品質、上等な、高級な、Furabute;Picaro,悪党,ずる賢い、Fanfarron、虚勢はり、ほら吹き、
Piante;追い払う、Pollera;スカート、Papusa;魅惑女、
Verruga;Obstaculo;邪魔、障害
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2010年10月10日日曜日

ガルデルとタンゴの詩人、作曲家達(1 )


では、引き続きパスクアル コントウルシの3番目の作品で1917年に書かれた『デ ブエルタ アル ブリン』のルンファルドに満たされた作品を解説しましょう。作曲はホセ マルティネス、この詞もルンフアルド世界の表現により主人公はヒロインを若き悪女タイプの『没落女』とその騙され見捨てられた男(ヤクザ風の)を描き、この流儀は身持ちを崩した女の横顔を回帰し、センチメンタルに回想をした。かの偽の『裕福な乙女』と役立たずな、『esquenun』(抜け目の無い)を含めた姿は民衆的演劇の主題の背景にも相応しい。

それもコントウルシ以後、タンゴの詞の普遍なスタイルを形成する御手本的作品となる。
これらの舞台は当時の疫病と飢餓に襲われたヨーロッパ社会を逃げ出し、遥遥南米ラ プラタの新天地に移民として住み着くも貧困からは容易に這い出るのも儘ならず、こうした環境が打つ手付けに『タンゴのテーマ』に詠い取り入れた、パイオニア的人物が紛れも無くパスクアル コントウルシなのである。

その一つのタンゴ、『デ ブエルタ アル ブリン』を早々にガルデルはホセ リカルドのギター伴奏で1919年3月19日に録音した。レコード番号18020B。

『De vuelta al bulin』
逢引の部屋に戻りつつ

Percanta que arrepentida
後悔した魅惑女
de tu juida
逃げ出したあんたが
has vuelto al bulin,
逢引部屋にそのあんたは戻って来た
con todos los despechos
妬みの全てとともに
que vos me has hecho,te perdone….
あんたが俺にした事々を、俺は許した...

Cuantas veces contigo
あんたと幾たびか
y con mis amigos
そして俺の仲間等とともに
me en curdele,,
酔い潰れ明かし
y en una noche de atorro
あげくにある夜
en el cotorro no te encontre.
あの部屋にはあんたが居なった、
te busque por todo el cuarto,
部屋全てを探したが、
imaginando me,mi vida,
俺は思い描いた、我が愛しき人よ
que estuvieras escondida
あんたが何処かに隠ねていると
para darme un alegon
俺に抗議するために.
luego vi si del ropero
もしかと衣装タンスの中を覗いたが
la ropa ya habias quitado,
衣類はもう取り除かれ、
y al ver que la habias llevado
その上あんたが持ち出したと悟り
lagrimeo mi corazon.
我が心は涙ぐむ、

La carta de despedida
別離の手紙
que me dejaste al irte,
あんたが俺を置き去りし、
decia que ibas a unirte
他の男と同伴すると言ってたが、
con quien te diera otro amor.
あんたが与えた愛を別人と共に。

La repase varias veces
幾たびか行き来して
no podia conformarme
我慢できぬこと
de que fueras amurarme
そのうえ俺を身捨てるとは
por otro bacan mejor.
より好い成金男の許へ、

Recuerdo aquellos dias
あの日を思いつつ
cuando me decias
あんたが言う戯言を
mirandome
俺をみつめながら:
mi amor es sincero y puro,
純粋まことよ我が愛人と
y yo te juro
それ故に貴方に誓うわ
que te amare
愛そのままに....

Y que al dar te una brazo
そして、わが抱擁を受け止めてと
en tus ojazos
あんたの眼差しゆえ
lagrimas vi.
涙ぐみを見定めて...
yo no se,vida mia
我が愛しき女よ、不可解だ
como has podido engrupirme asi.
どうしてこの様に騙せるかと、

この詞に出てくるルンファルド
Percanta;魅惑女、Amante愛人、Querida愛しい女人、
Juida;ido,行ったhuido,逃走した,
Bulin;Cotorro,小部屋Habitacion,部屋Cuarto de soltero,独身者の部屋,
Para cita samorosas逢引に使う部屋,celda,牢獄
Encurdele;Encurda,Embriagado,酒に酔う
Atorro;Atorrante;Haragan,Vago,怠け者Descuidada,不主意者
Amurarme;捨てられたAbandonar,身捨てる
Dejar sin proteccion,保護を外すArrestar,逮捕する
Bacan;Hombre que mantiene a una mujer、愛人を囲う男
Individuo adinerado o que aparenta ser lo,金持ち或いはそれを装う男
Acaudalado;Pudiente,成金
Engrupirme;騙された,




このタンゴの作曲者は1911年からバンドネオン奏者アグスト ペドロ ベルトのピアニストを勤めるホセ マルティネス。1914年『キンテート アグスト』でフルート奏者ルイス テイセイレの参加でアトランタレコードに録音。





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2010年10月4日月曜日

ガルデルとタンゴの詩人、作曲家達(1)




















まず最初に紹介するパスクァル・コントゥルシはガルデルが初めて本格的歌唱タンゴ(タンゴ カンシオン)である『ミ ノチェ トリステ』なる詞をカストリオタ作曲の詞の無いまま作者自身により演奏されていた『リタ』に無断に付け、この作者といざかいを起こしたのは万人の知るところになる。彼は当時のブエノス アイレスとモンテビデオ市民 達の世間人情の悲哀をテーマに取り入れ普遍的に有効せしめセンチメンタルなノスタルジー溢れたタンゴ カンシオンを生み出した最初のタンゴ詩人であり、サイネテ{a}劇作家および歌い手でもあった。彼は1888年11月にブエノス アイレス州チビルコイ{b}生まれ、幼少時ブエノスに両親共に上京、青年期にモンテビデオとブエノスで芸能活道の後、1928年ごろパリへ渡るが病症の身になりガルデル等の援助に頼り帰国後1932年5月29日没。

ではこの『ミ・ノチェ・トリステ(我が悲しみの夜)』はコントゥルシが1914年頃からモンテビデオのキャバレー ムーラン ルージェ{c}にて自作自演により愛の失望をメランコリーに且つノスタルジックに詞に託し、ガルデルが最良の解釈力による(ある合意的な見解によるされる)最初の本格的歌唱タンゴ{d}として取り上げた曲にも拘らず直ぐには万人の知るに及ばず翌年のホセ ゴンサレス カスティジョ作のサイネテ劇題名『犬のキバ歯』の中でサルセローの父親を持つ女優娘,19歳マノリータ ポリがロベルト フィルポ楽団の伴奏で歌い、万丈喝才を受けたこの曲『ミ ノチェ トリステ』が相伴世に知れ渡り、一躍ヒット曲になった経緯がある。

では本題の『フロール・デ・ファンゴ、(泥濘の花)』はコントゥルシが1915年頃から書き始めたといわれており、 アグスト ヘンティレが1917年に作曲した曲『エル デサロホ、追い出し』に彼がもち舞いの得意の作曲家の無断で詞を付けて、キャバレーで自演発表して仕舞い。あの有名な『ミ ノチェ トリステ』より先に録音されたと言われているが、ガルデルが歌った2番目のタンゴとしてデータ上1918年8月に録音されたとして発表されている。1919年6月25日にアルベルト ノビオンス作のコミック風サイネテ劇『モンマルトルのキャバレー』に取り入られ、マリア ルイサ ノタルがロベルト フィルポ伴奏で披露した。詞のテーマはサムエル リンキイング作詞『ミロンギータ』を先駆した下町場末の娘の不幸に落ち込んで行く運命をエバリスト カリエーゴ好みのソナタを典型的ルンファルドで表現されている。

ガルデルは初めての歌唱タンゴであり、アンヘル ビジョルド風に模索ながら歌いスタイルは未完成である。そしてレコードも入手も難しい。

注:{a}1910年頃からブエノス庶民に人気の娯楽『軽喜劇』はタンゴ演奏と主題歌やタンゴダンスがあり今日のタンゴショウー前兆のような劇。サルセーロとはこの劇に出演する俳優。
{b}チリビコイ、首都ブエノスから西へ170kmほどの小都市。ガルデルは1912年にホセラサーノとフランシスコ マルティーノらとトリオを組み、この町を訪れている。
{c}キャバレー ムーラン ルージュは当時のモンテビデオで繁盛していた店.経営者はなんと驚く、クンパルシータの作者ヘラルド マトス ロドリゲスの父親、エミリオ マトス
ロドリゲスだそうです。なるほど息子に及ぼした環境があった理由ですね。
{d}『ミロンギータ』の曲はガルデルが1920年6月10日にタンゴの歌としては6番目に緑音している。

コントゥルシは『フロール デ ファンゴ(泥濘の花)』の主人公をこう詠う
Mina que te manyo de hace rato
御姐ちゃん...すこしの間にあんたの本性を身届けたぜ
perdoname si te bato
許しておくれ、俺があんたを暴露したのを
de que yo te vi nacer,
俺があんたの生まれを覗いた事を
Tu cuna fue un conventillo
あんたの揺り籠はあの長屋
alumbrao a querosen,
白灯ランプの炎が灯りがあてていた...
Justo a los catorce abriles
ちょうど14歳秋の時
Te entregaste a la farra,
お祭り騒ぎに身を捧げ
las delicias del gotan,
タンゴの快楽ゆえ...
te gustaban las alhajas,
あんたは気に入った宝石類、
los vestidos a la moda
流行モードの着飾り
y las farras de champan,
そしてシャンパンへうつつ抜かし...

Anduviste pelechada,
あんたは幸運の坂を上って来た、
de sirvienta acompanada
付き添いの女中から
pa`pasar por nina bien,
良家嬢装い澄まし、
y de muchas envidiada
そして、多勢のおんな勢に僻みされ
porque llevabas buen tren,
何故かと言えば贅沢品の着飾り、
y te hiciste chacadora,
やがて、あんたは悪鎖に手を染めた
luego fuiste la senora
その後で奥方に成りすまし
de un comerciante mishe
一人の成金商人の
que lo dejaste arruinado
挙句の果てに一文無し追い落とし...
sin el vento y amurado
銭無しに放り出し
en la puerta de un café,
カフェの扉まえに
des pues fuiste la amiguita
その後で懇ろ者に
de un viejito boticario,
老い扶けた薬剤師の...
y hijo de un comisario
それに、警察所長の倅が
todo el vento te chaco;
有り金全てを貢ぎ込み...
empezo tu decadencia,
それがあんたの身の破滅のいきすえ
las alhajas amuraste
手持ちの貴金属をも見捨てる破目
y bulincito alquilaste
四畳半部屋を借りた
en una casa`e pension,
安い間借り家

Te hiciste tonadillera,
あんたはこそ泥まがいに手出しして
pasaste ratos extanos
奇妙な一時をやりすごす
y a fuerza de desenganos
滅亡の力に
quedaste sin corazon,
心失い

Fue tu vida como un lirio…
あんたの人生はアヤメ花のよう
De congojas y martirios
多々な苦難と受難...
Solo un peso te agobio…..
唯押しかかりあんたを打ちのめした...
No tenia en el mundo ni un consuelo
この世であんたは慰めも
El amor de tu madre te falto,
母の愛が満ちたりきゆえ...

Fuiste papusa del fango
泥沼に生えた美貌の女
Y las delicias de un tango
一つのタンゴの無類快楽は
Te arrastraron del bulin
愛惜の四畳半部屋へとあんたを誘い込んだ
Los amigos te engrupieron
男仲間等があんたを惑わせ
Y ellos mismos te perdieron
同じ輩らがあんたをどん底に突き落とした
Noche a noche en el festin
踊り騒ぎ一夜ごと一夜ごと...

注:この詞に出てくるルファルドを以下に説明します。
Amurado,捨てられて、Manyo,理解した、(食べた、飲み込むからの意味)
Bato,見届ける、密告する(動詞batirからの一人称、本来の意味は打つ、負かす)
Bulincito,bulinから小部屋の意味,四帖半部屋
Chacadora,ChacaがCachaになり、おどけにdoraが付きおどけ者となる(Cachadoraの反対語)フランシコ ロムート作曲の同名曲があり、ガルデルも歌っている。
Engrupieron,彼らに騙された。Querosen,灯油、灯油ランプ。Conventillo,長屋と言うより多くの小部屋密集した集合住宅、(イタリー南部から建物様式が持ち込まれ建てられた)
Gotan,Tangoタンゴの逆さ言葉。Perechada,Mejorar situacion economicaとは経済的向上した状態の人物。ポルテーニョ的には『頭を上げた』、『立あがる』、『悪い状況から抜け出す』などと解釈される.又は衣装の品質や着付けが向上する、即ち高級品を身に付ける経済的によくなる、健康が良くなる等の意味に使われる。
Papusa,愛らしい女、Misiha,成り金者、金持ち、
Tonarillera,本来の意味は民謡歌い手だがこそ泥棒の意味。

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2010年9月26日日曜日

ガルデル出生の謎、続編(4)

若き日のマリア レリア(ガルデルの生母)

1905年:7月25日、ガルデルの生母であるマリア レリア オリバ デ エスカジョーラは35歳で死亡。
再びエステバン カポーの証言:ガルデルはその頃にブエノス市内、カンガージョとサルディ カルノ通りのパグリアー二 ボール紙製造所で働く(1904~6年11月頃まで)

1906年:ガルデルはこの年11月に再びモンテビデオに現れる。
下町の南側カマクアとブレチャ通のバーで歌う。
タクアレンボーにある、ウルグァイ土着民博物館創立及び館長ワシントン エスコバールがガルデルに何処から来たかと聞くと彼曰く“俺はここの生まれ者、余り来ないけれども”と応えたという。

『ガルデルは1933年ごろバルセローナの記者のひっこい質問に答えて“貴方は何が知りたいのか?、私がフランス生まれの存在を自慢するかつて、、、好感が持てるからかい、この様な質問には断定的に回答を控える。皆はこれで多分満足と悦にしたえるだろう!”

記者の質問:“しかし、貴方は本当にアルゼンチン人でしょう”
“同じ様にアルゼンチン人とフランス人です。まあ言えば、そんな事は絶対的に全然関係なし、本当はモンテビデオ出身、ウルグァイの首都。あそこで幼児期と青年期を過ごした。』
そして、付け加えて“最初二回のコンサートを同年輩のバンドネオンとギタートリオでモンテビデオのある場所で開いた事もある”それからブエノスに行き、アルゼンチン民謡のアマチュア歌手として自作曲をバー、カフェーなどで披露したと答えている。

1907年:タクアレンボー地方で人気のあつたギター奏者“エル サポ(カエル)”エクトール ベネビーデスと二重唱コンビを組む。その頃のタクアレンボーのカーニバルに“ロス 7 ロコス(7人の気違い)”流し音楽隊にも参加する。有名なタンゴ歌手のラファエル イリアルテはガルデルがアバスト街に現れる前に同僚“ドミンゲス”の家で行なわれた洗礼式を祝う会合の集会者の中に“エル モローチョ(当時のガルデル)”とあだ名指された青年歌手に会ったと証言している。又、この頃に南米大陸最南端の地ウスワィア刑務所に刑期服務していたらしい説を前編に記したが反論もある。ガルデルが友人に出した手紙(当時存在した?)のサインは彼の物であるとの確かな証拠たるものが無い、その当時は養母の姓を名乗っており、まだ“ガルデル”姓を名乗っていないなどの理由である。

1908~9年:幼児の頃住んだ近くのモンテビデオ市内ダイマン通1077番(現在のフリオ・エレーラとオベス通)コンベンティ―ジョに住み、リベルター広場のムトゥア建物建設現場(現オンダ社)で電気工として働く。又、中心地近くのソリアーノとイビクイ通にあった安食堂屋やパレルモ街、南街などのカフェティン(喫茶店の様な)で歌う。

1910年:当時7月にハリー彗星が見えたその頃、ガルデルはコリエンテス1557番のアナイスとベルタの家に舞い戻る。(隣人カローラ アンへリーニ嬢の証言による)。
バンドネオン奏者マヌエル ピサーロはまだ駆け出し15歳の頃にガルデルが歌っていたオ‘ロデンマンで彼のタンゴでは無い歌の伴奏をしたそうだが、ピサーロの当時の腕では可なり苦労したらしい。ここまで青年期に至るガルデルの生い立ちを追って来たがここで明白に判明された事実は彼の少年期、青年期の生地ウルグァイでの習慣や環境が強く影響されて成人になり偉大なタンゴ歌手として一躍有名に躍進の末でも、またアルゼンチン国民に帰化した後もウルグァイ訛が見え隠れだったとアストル ピアソラは少年期にニューヨークでガルデルに会った時の印象を彼の自伝で思い出を回想している。一方のベルタの実子であるシャルル ロムァルドは2歳半の時に母親ベルタと共にアルゼンチンに移住、当然フランス語は片言に話すまでに成長していたがガウルグァイの地では育っていないので当然この様な言葉の特長もなく、年齢もガルデルより3‐6歳年下であり、彼はガルデルとは全くの別人であるのは明白である。結論としてこの偉大なタンゴ歌手ガルデルはウルグァィ国タクアレンボー生まれで父親のカルロス エスカジョーラ氏の芸能才能と母方の様相を遺伝引き次、シャルル ロムァルド ガルデスに変身するのは不可能なのである。ここまで幾つかの解明されている数々の事実を説明したところでこの項は終わりとします。

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2010年9月25日土曜日

ガルデル出生の謎、続編(3】

ガルデル少年時代:15~6歳ごろ、タクアレンボー、モンテビデオ、タンボール地方を放浪。
1900年:11月カルロス・エスカジョーラの姉エロディーナ・エスカジョーラ死亡。
ガルデルは彼女の娘達マヌエラとアマンダの住むパイサンドゥーの近くのタンボールにいく。ここでフロクローレに接し、冒険的少年期を過ごす。

1901年:タクアレンボー地方の民謡歌マスター及びクリオージョ エリアス レグレス協会創立者のルイス ビジャルビは彼の住むエスパニョール ホテルの食堂の台所で働くガルデル少年を知ったと証言している。かの少年はウルグアイ人悲哀詩人エリアス レグレスの民謡風歌揺を歌いギターも奏でた。当然ながらこの人物ビジャルビがガルデル少年にギター演奏と歌の施しを教えた上に、彼を政治結社会合などの歌いに連れていっている。又、彼がガルデル少年の幼児時代の通称ガウチート デ エスカジョーラとの名ずけた人物である。
他方の、ベルタの実子フランス人シャルル ロムアルド ガルデス(10歳)はこの年4月にピオIX学校に寄宿生徒として入る。しかし、音楽演劇的な才能は見られず、当時の先生と同級生の誰も彼の印象も記憶の元に思いだされる事は無かった。ベルタはガルデルをこの寄宿学校に入れたと証言しているのだが根拠は無い。



ガルデル17歳頃、モンテビデオで撮影された
1902~3年:ガルデルは不分明にブエノスとモンテビデオに登場する。カフェ・“エル・クリオジ―ト”で彼が歌う場面をフアン カセス イリゴジェン氏が見かけている。幼児の頃からの知人エステバン カポーはアバスト地区のカンティーナ{a}やフォンダ(居酒屋)“エル パハリート(小鳥?){b}”に出没する11歳{c}になるガルデルを見かけたと後の雑誌のインタビューに語る。(注:ガルデルすでに16歳の時)“エル パハリート”を店じまいしたポデスタ兄弟はアナイス夫婦の住む殆んど前あたりのコリエンテ通1380‐88番にアポロ劇場を開き、マルティン コロナード作ロマン的ドラマ“ラ ピエドラ デル エスカンダロ(スキャンダルの石)”をアルトゥール デ ナバ出演の元に長期上演していた。当然のようにガルデルはこの劇場に出入りし“クラケーロ(さくら拍手役)を働き、俳優ポデスタやアルトゥール デ ナバトと知己になる。又、パジャドール、ベティノティにめぐり会うのもこの頃である。オペラ劇場でイタリー人オペラバリトン歌手『ティタ ルフォー』{d}に知り合い、バリトン歌手はガルデルにカント(歌い方)の手ほどきもし、又彼の歌をも褒めたと言われている。又その頃にもガルデルはビクトリア劇場の舞台裏方をしていたと言明している。フリオ デ カロの証言(偽の遺言状編を参照の事)によるとガルデル青年は競馬飼育舎経営バルダサーレ家の馬車御者として働いていた{e}。一方のシャルル ロムアルドは11歳になり、引き続きこの年12月末頃までピオIX学校の寮生徒であるが、当然に馬車の御者役を働ける年齢には足しっていない。

モンテビデオの戸籍登録所にカルロス エスカジョーラの名前で登録された二つの記録が在る。
その一つは1895年11月4日付、これはカルロス エスカジョーラ(父)大佐の二度目の婚姻クララとの息子カルロス(1895年当時21歳)であり、別の登録は1902年12月10日付、カルロス エスカジョーラの名前を使った登記。これは17歳になるカルロス ガルデルがバルダサーレ氏にモンテビデオに行くからと休暇願いを申し出た頃の時期にあたる。

1904年:カルロス デディコ、競馬好きな新聞記者及びガルデルが録音したタンゴ“パケティン パケトン”の作者は“クリティカ”紙に1904年当時あるクラブでコンスタンシオ トラベルソ{f}が同伴したガルデルを聞いたと証言している。
この年3月13日:社会主義党代議士アルフレッド パラシオのボカ第4選挙区に選出され、その選挙当選祝いにベティノティとアンブロシオ リオらのパジャドールが歌の即興をする。その会合の終わり彼らはジーノ ガルバルディに偶然に入ると、そこにはガルデルが出演中、彼らはそこで彼の歌う“エル モーロ”と“ラ マニャニータ(夜明け)”を聞く。

この年5月頃にベルタ ガルデスはアナイス ボー夫人の住まい、コリエンテス1557通りに住み込む。シャルル ロムアルド ガルデス(14歳)は成績優秀(全科目10点)で学校を卒業。不思議な事にこの人物『シャルル ロムアルド ガルデス』はこの時期から行方不明の霧に包まれた様に存在不可能になっている。実の母親が息子の行方を捜なかった事も不思議、トゥールーズに存在する戸籍には死亡届欄は空白のままである。当然ガルデルのフランス人としての死亡届はこの戸籍に明記されることも不可能であるからだ。(1935年6月24日に死亡した人物、ウルグァイ人タクアレンボー生まれ、アルゼンチン帰化市民カルロス ガルデルは絶対に法的権限上フランス人にすり替え登録は不可能なのだ。フランス法規はラ プラタ両国の様に容易な寛大ではなく、カルロス ガルデルの死亡届をシャルル ロムアルド ガルデスの戸籍に死亡の届け出は不受理のはずだ。)ベルタもディフィーノもこれらの手続きをした事実の可能性すらない。ベルタは1935年当時トゥールーズに住んでいたにも関わらずである。


注:{a}カンティーナ:酒場をさすが可なり妖しい雰囲気な営業の店
{b}居酒屋“エル パハリート”はポデスタとカロリの共同経営の店、場所はブエノス アイレス市ラバジェ通3102番、1896年のクラフト ガイドに記載あり、1903年のこのガイドには記載されていなく、消滅した可能性あり。
{c}ガルデルが11歳の時とはあくまでもシャルル ロムアルドの歳であり、その頃すでにガルデルは17歳に成長しており、余りにも辻じまが合わない。またまたエステバン カポーの偽りの証言である。
{d}ティタ ルフォの本名はルフォー カフィエロ ティタ。

1902年、オペラ劇場にイタリアーナ抒情詩劇団にてブエノス アイレス初公演、
レパートリは
5月21日:アイダ(4回公演)
6月8日:ラ アフリカーナ(2回公演)
7月17日:イル トロバトーレ(2回公演)
8月9日:ササ(2回公演)
8月13日:カバレリア ルスティカーナ(1回のみ公演)
ルフォーは1908年までブエノスには戻らない。5月30日から9月9日の3ヶ月新しいコロン劇場(現在の)に出演、10曲テーマのオペラを歌う。しかしながら、ガルデルはこの新しいオペラ劇場に出没したと言う事実はない。
{e}フリオ デ カロとバルダサール家の関係は“ガルデル出生の謎”前編を参照。
{f}コンスタンシオ トラベルゾ、アバストの政治ボスでガルデルが出入りしていたカフェ オ‘ロデマンの経営者

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2010年7月25日日曜日

ガルデル出生の謎、続編(2)

前項でガルデルの生まれた経緯とそのルーツを解明したが、それでもフランス人説を称える派は“ガルデル”は“シャルル・ロムアルド・ガルデス”と同一人物だとする“人物”の誕生。

1890年:この年初めごろ、ロムアルド・ロペス{a}の子供を身ごもったベルタ・ガルデスは、胎児の父親側親族に生れてくる子供を引き渡せと脅かされ、その事情でフランス、トゥールーズのベルタの母親エレーネの元に保護を求めに、6歳前後に成長したガルデルを彼の従姉マリア(ネグラ)・エスカジョーラと友人アナイスらに養育を託して帰郷してしまう。同年12月10日、旧市内サン・ピエレー教会を右側に見て、ガロンヌ川に架かるサン・ピエレー橋を渡った袂にあるグラーブ病院でシャルル・ロムアルドが誕生。不思議な事に旧市内カノン通り4番に誕生記念碑がある。翌11日に洗礼される(出生届#2481、洗礼届は存在する、あくまでもシャルル・ロムアルドの名の元で)。ここで一次世界大戦後にトゥールーズ生まれのフランス人パゥル・ラサレーという人物が父親だとして、ガルデルの前に現れたとあるが(ハイメ・リコ・サラサールの伝記より)。どうももっともらしく、フランス人説を強調するような評言である。理由を挙げれば、ベルタは17歳頃からウルグアイ地方に滞在しており、当時から1890年まで故郷にはもどっていない。
カルロス・エスカジョーラとマリア・レリア・オリバ夫妻は、この年7月15日にフアン・カルロスとフリオ・セサールの双子らの出生届けを約1年後にする。

下の写真:ガルデル(7~8歳位)

1891~92年:ガルデルは伯父クレリオ・オリバの保護の元に『ホセ・オリバ』の名前でドゥラスノ通337番27番小学校に入学する。

1893年:『ホセ・オリバ』こと幼児ガルデルはベルタにブエノス・アイレスに連れて行かれた為に、27番男子小学校を退学する。ベルタは2歳3ヶ月に成長したシャルル・ロムアルド及び8~9歳位に成長したガルデルと1893年3月9日にブエノス・アイレスに到着とAvilis{b}の伝記にあるが、この日付はベルタがボルドーからモンテビデオに入港した日と思われる。ここでガルデルを連れて、後日にブエノスに向ったと判断すべきだろう。エクトール・エルニエ氏による後年の調査では3月11日にブエノス入港した記録あるというが、これも正確では無いらしい。彼女達等がモンテビデオからブエノスに行く為にはドン・ペドロという夜行便船を利用した。この船は3月23日に入港と当時の新聞記事に記録されているという。そして、後年にパリシ氏の子孫の情報によると、この頃マテオ・パリシ(1886年に登場)はベルタに約束したガルデルへの養育及び教育費としての3千ペソを持参し彼女に手渡す。
左:ガルデル7歳の時と9歳位の時
右:シャルル・ロムアルド(6~8歳位?)
二人の写真を見比べて明らかに顔つきが可なり違うので明らかに別人と判断できるだろう。






左:フランチーニ家の娘と上の9歳ごろの時と同時期か?


1894~6年:ベルタ自身の言明によると、ブエノスに到着後直ぐにカルリート・ガルデルはロサ・コラード・デ・フランチーニ{c}に預けられる(この証言も信憑性が無い)。このフランチーニ婦人は架空の人物で本来はエステバン・カポーの母親{d}であるが、後年フランチーニの娘(?)とガルデル少年(9~10歳ぐらいか?)との1894~5年初めに写したといわれる写真が現れる。ベルタ・ガルデスはロサ・カロール・デ・バッカー夫人{e}に実子シャルル・ロムアルド・ガルデスの養育を委託する。実際にはこの頃からアナイスと夫フォルトナト・ムニスが幼児ガルデルの養育を引き受けていた(ガルデルの死後、この二人は彼の幼児期の真の評言者であるためにディフーノにより完全に言動を封じられて絶体にマスコミの前に現れないようにされた)。

1897年:シャルル・ロムアルド・ガルデスはタルカゥアーノ通678番の小学校に入学する。

1897年5月1日、ガルデルの祖母に当たる人フアナ・シジルラが死亡。

1898年:アナイスとフォルトナト夫妻はガルデル少年を同伴してコリエンテス1557番に引越す。この前にガルデルがその少年時代に出入りしたと言われるポリテアマ劇場があつた。
1898年8月30日、法規上結婚9年後にカルロス・エスカジョーラとマリア・レリア・オリバの宗教上の婚姻が認められる。ガルデルは14歳に成長していた。

1899年:ガルデル少年は家庭を抜け出しモンテビデオに行く。(実際にはタクアレンボーへ父母に会いに行くが父親のカルロスに面会拒絶され、近所に留まりパジャドールに知り会い歌を磨きつつも、空しくもモンテビデオに出る)。そこで印刷工として伯父のクレリオ・オリバの元で仕事をする。約5年間ガルデル少年はベルタの元から姿を隠す。当時彼はブエノスとモンテビデオの間を数回に渡り行き来していたらしい。(彼の回想より)そして、ブエノスに帰依るとアナイスのところに戻るのが常だった。彼は一生その恩を忘れずに、後年(1933年頃)ディフーノに手紙でアナイスとフォルトナト夫婦を経済的援助を充分する様に扱うように要請しているが、代理人ディフーノは彼の要請を反故にした扱いをしている。処でガルデルは数々のインタビューの返答を煙幕はり、はぐらかすのが得意だったらしい。例えば、生まれを問われてもウルグアイとかフランスとか、、、父親が誰だとの質問にものらりくらり、、、当然に答らる訳が無い、当たり前だが、、、先祖の職業は?応えて印刷業。これはまんざら嘘ではない。伯父のクレリオ・オリバの印刷場で少年時代に働いた経験があるからだ。モンテビデオ時代(1899年頃)は父親方の伯母に当たるエロディア・エスカジョーラの家、カジェ・セーロ(現在バルトロ・ミトレ)通23番に住む。
ベルタの実子シャルル・ロムアルドは8歳に成長、市6街区2番小学校2年に進級。

注:{a}ロムアルド・ロペスはクレリオ・オリバの印刷場で印刷活字工をしていた人物
{b}Avilisとは新聞記者、エラスモ・シルバ・カブレーラ氏をさし、彼はカルロス・ガルデルの伝記“エル・グラン・デスコノシード(偉大な知ざれ人)”で初めてガルデルはウルグアイ生まれと発表した人物
{c}、{d}、{e}フランチーニ夫人、エステバン・カポーの母親、カロール夫人らは全て同人物でベルタの出鱈目な証言か、ディフーノに指示されてその場ごとにあたかもこれら3人が存在すべく、別人名を挙げていたらしい。

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2010年7月20日火曜日

ガルデル出生の謎、続編(1)


小生のこのガルデル物語は昨年11月から、まず初めに彼の“出生の秘密”からスタートした。
今年の6月で75年目の追悼記念が世界中で行なわれて、依然として、カルロス・ガルデルの人気は衰えない。だが、未だにガルデルは1890年、フランス生まれとオウムの繰り返し沙汰である。
彼の歌は益々冴え、SPレコードは全790曲分50枚のCD化された。国籍や生まれが何処であるかどうかは彼の芸術と業績に関係は無いのだが、、、しかし、この辺で彼の真のルーツを数々のデータにより明白にするのも無駄ではないと思う。
右はウルグァイ東方共和国の郵便切手、2004年発行された物、上のガルデルの写真と比較ください。

上の写真は説明がない二人の人物もので、右が一目してカルロス・ガルデルであるとタンゴフアンなら判断できるでしょう。処で左の写真は誰でしょう?、人相学とかの専門知識の無い人でも、明らかにガルデルとこの人物がガルデルと瓜二つの様にあまりにも似ていると判断出来るでしょう、、、。では下中央の写真を見てください。実は上の写真と同じものですが、写真の下に説明文があり、左の方はクレリオ・オリバとあります。ではこの人物はいったい誰なのでしょうか、又ガルデルとの関係はあるのか無いのか疑問が沸いてくる所です。説明文には生母マリア・レリア・オリバの実兄に当たる人とあります。ということは紛れも無くガルデルの伯父に当たる人となります。もうご存知の通りガルデルは1890年12月11日(タンゴの日)にフランスのトゥールーズ生まれとされ、本名シャルル・ロムアルド・ガルデス、母親はベルタ・ガルデスと言う事になっています。今でもアルゼンチン、コロンビアでは多数の人がフランス人説を根拠もなく妄信的に唱えています。処で、オリバ苗字の人物達は何処の出身地でしょうか?それはアルゼンチンの隣国ウルグアイです。まさにこの両国はラ・プラタ地方の兄弟国といわれ、タンゴの発祥地そのものずばりの国。ですから、不動にカルロスかカルリートスの名を上げるとすると、私はカルロス・ガルデルがウルグアイ、タクアレンボー生まれを指し、そして言い加えればフランス人、シャルル・ロムアルドはベルタ・ガルデスの実息子である事は真実ですが、しかし、ガルデルとは全くの別人であり、彼の死後に偽の遺言状により偽作されたものと判断します。上の写真の説明文の彼の伯父が存在し、生母は彼の妹マリア・レリア・オリバであり、ベルタ・ガルデスではないとなります。と成れば、これは簡単にフランス人説を鵜呑みにするわけに行かないのです。すでに『ガルデル出生の謎編』でこの事に触れていますので重複するのですが、ガルデルの生れた経緯概要を簡単に説明するとします。

1882年:ベルタ・ガルデスは17歳前後にモンテビデオからタクアレンボー近郊のコラーレス鉱山に行き、3年ほどアイロンかけとして働く。又アルトゥーロ・サエンス(ピアニスト){a}
の評言によるとベルタ・ガルデスはモンテビデオのソリス劇場前のある家、“ラ・デモクラシア(デモクラシー)”紙のディレクター夫人フアナ・ヒル・デ・ダネリ経営の婦人仕立て業兼フランス人向け下宿のアイロンかけの仕事をしているのを見かけている。

1883年:この年のころ、カルロス・エスカジョーラ名誉大佐はブランカ・オリバと婚姻中であつたが、ブランカの末妹少女13歳のマリア・レリアをたぶらかしたか強姦する。

1884年:カルロス・ガルデルの誕生(11月21日説あり、タクアレンボー郡第二地区司法所の登録による)。この出生は隠蔽され、賄い婦マヌエラ・ベントス、又はカスコかモーラ{b}に預けられる。この女性は一生名の知れぬ存在(取るに足らない人物)扱いされた。

1886年:カルロス・エスカジョーラ氏はブランカ夫人の自殺により2度目の男鰥夫になる。
ベルタはエスカジョーラ氏の経営するキャバレー“ラ・ロサーダ”に踊り子として働いた過去があり、氏とは旧知であった。ガルデルが生まれた2~4年後の時にマテオ・パリッシ{c}に要請され、養母として国外に連れ出す様に高額の一次金(三千ペソ)と毎月の養育費を払う約束の上に依頼されるが、彼女はこの申し出を引き受けたが、直ぐにこの要求を実行せずにガルデルをモンテビデオの下町に連れて行く。場所は当時のイスラ・デ・フローレス通り、現在はカルロス・ガルデル通りと命名されている所。時はガルデル4歳、幼児の彼は従姉のマリア・エスカジョーラ{d}とアナイス・ベアー{e}らとコンペンティージョに住み、1893年ブエノス・アイレスに行くまでここに住み着く。

1887年:ベルタはクレリオ・オリバ氏の経営する新聞“エル・ヘラルド”の植字工ロムアルド・ロペスと後年関係を持ち身ごもる。(カルロス・ガルデルは後年、1887年12月11日と自己申告による出生届出す)

1888年:カルロス・エスカジョーラはマリア・レリアと教会の宗教上結婚の免除を受けることを前提に同棲を始める。

1889年:4月20日、マリアの妊娠の為に、カルロス・エスカジョーラとマリア・レリアは民法上の結婚手続を届ける。5月15日、オダリエ・ドゥカセ・デ・カポーと1882年1月23日生まれの7歳の息子ステハン(後にエステバン・カポーと名乗る)同伴でボルドーから客船コルドバでブエノス・アイレスに上陸。(シャルル・ロムアルド・ガルデスがトゥールーズで生まれる1年半前のこと)。『1935年6月28日、メデジンでの悲劇的事故の3日後にブエノス・アイレス市のクリティカ紙にベルタ・ガルデスの息子をトゥールーズで知っていたと(偽の)評言をする。この評言は明らかに歌手(ガルデル)とベルタ・ガルデスの息子と同一人として融合させる意図の証拠である』。ここまでのデータは『ガルデルのフランス人説派』は全く無視しています。要するにガルデルの幼児時代を抹殺しているわけです。
7月8日:マリア・レリア・オリバの父親フアン・バウティスタ・オリバはおそらく二女クララの自殺などの家庭スキャンダルに圧倒された上に精神異常で果かなく世を去る。カルロス・エスカジョーラはこの家庭の絶対権限を握る立場になる。11月21日ホセ・オリバ(幼児ガルデル)は満4歳に成長。
注:{a}アルトゥール・サンエンス:ウルグアイ人、タンゴのピアニスト、モンテビデオの下町の一通りを題名にしたタンゴ“イスラ・デ・フローレス(花々の島)”の作曲者。
{b}マヌエラ・モーラとしてAVILESの物語ではガルデルの生母として登場するが、これは何かの間違いだろう。
{c}マテオ・パリッシ、カルロス・エスカジョーラの先妻クララ(マリア・レリアの長姉)の娘婿。
{d}マリア・エスカジョーラはカルロス・エスカジョーラの妹エドナ・エスカジョーラの娘。
{e}アナイス・ベアーは1873年に父親マテオ・ベア-と母親ソフィア・エリザベス・ジャカウメ及び二人の兄弟アグスト、ヘンリらと共にブエノス・アイレス市のカタリナ岸壁に到着、家族のパスポートはフランス、ローネ発行とある。
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左の写真はオリバ家の女性達、前列右がマリア・レリア・オリバ、ガルデルの生母とされる人。