2009年11月26日木曜日

ガルデル出生の謎


前回で疑惑的な遺言状の解説をしましたが、皆さんにはガルデルの真実のルーツがウルグアイ国タクアレンボー郡であり、彼はこの偽造された遺言状によりフランス人に仕立て挙げられた経緯を理解されたでしよう。そこでガルデル出生の秘密を追いかけてみます。
ガルデル出生の秘密:


偉大なタンゴ歌手、カルロス・ガルデルの生まれは謎に包まれています。
前回で謎のひとつの“遺言状”の信憑性を明かす解説をしましたが、
もう一度ガルデル出生の秘密をたどる事にします。ホセ・ラサーノの
証言によりフランシスコ・ガルシア・ヒメネスが書いた有名な伝記物語
“カルロス・ガルデルの人生"はあの遺言書により『カルロス・ガルデル』
は1890年12月11日にフランス、トゥールーズ市のラ・グラーブ病院で生
まれたとされて、本名“シャルル・ロムアルド・ガルデス”に摺り返られて
しまう、功妙な手品を見せ付けられた訳です。
この手品を仕掛けた張本人はガルデルの財産管理代理人のアルマンド・
デフィーノであり、其の協力者はフランシスコ・ガルシア・ヒメネス、
ホセ・ラサーノ、イレネオ・レギサモ、エステバン・カポー、ベルタ・
ガルデスらの名前を挙げることが出来ます。
(1):以下で説明していきますが、ベルタ夫人が3歳の実子と8歳の
カルロスを連れてブエノス・アイレスに上陸した時から物語が始まるの
です。そして、事実は少しずつ解明されていく筈です。
ではまず、ガルデルの母親とされている、ベルタ・ガルデス夫人はどこ
から現れたのでしょうか。彼女の母はフランス人、エレーネ・ジネコンデ・
カマレス(1931年5月31日、トゥールーズ没)で、ベルタは私生児とし
て、スペインのバルセローナで1865年生れる。彼女は1884年(19歳)
ごろ二人の友人アナイス・ベアクス、オダリエ・デゥカセらとマルセーユ
港を出発しウルグアイ東方国モンテビデオに着き、タクアレンボー近郊に
ある金鉱サンタ・エルネスティーナの持ち主の同国人ビクトル・オリビエル
ーを辿りやって来る。彼女らはタクアレンボーでこの鉱山での洗濯物のアイ
ロンかけの仕事を得る。そして、エスカジョーラ氏に関係するキャバレーで
踊り子として舞台に出演する事もありましたので、エスカジョーラ氏とは顔
見知りの間でした。

(2):カルロス・ガルデルの生まれの本題に入りますが、ガルデル
よ、貴方はアルゼンチン人ではない、“偉大な秘密”ミルナ・ルグ
ノン、クレメンシア・グスマン共著からのデータと‘75年5月号
『中南米音楽誌』95ページで“思いの届く日”を書いた、高場将美
氏の記事(ウルグアイの記者:エラスモ・シルバ・カブレーラ氏の
原稿による)と対照しながら、物語を進めて行きます。
まず初めに高場氏の説明文は『』で囲みました。

(3):ガルデルの出生:
①:『1881~3年の間で生まれた、誕生日は不明。
1881年11月21日ではないか?』1881~4年の間に生まれる?
後年ガルデルが自己申告(1920年)で1887年12月11日出生と
届けを出してあるのですが、ガルデルの甥のひ孫、ゴンサロ・バ
スケス・ガボー氏の証言によると1884年生まれだそうです。
彼の誕生日を明確にした別の伝記は見当たらないのです。
②:『生地はウルグアイ国タクアレンボー郡、エデン渓谷のあたり』
*エデン渓谷、サンタ・ブランカ、ペドロ・エッチェガライ農園。



③:『母はマヌエラ・モーラ。ガルデルを生んだ頃まだ
13歳位で、後に精神に異常をきたした。15歳の時に
結婚、ガルデルの父とは別の人』
*実母はマリア・レリア・オリバでタクアレンボー郡
サン・フラクトーソ、1870年生れ。彼女の父親はフア
ン・オリーバ(イタリー領事)、母親はフアナ・スジル
ラ(アルゼンチン生れ)彼女は別に精神に異常も無
く、ガルデルの父と1889年20歳の時にカトリック教会
で正式に結婚する。



そして、ガルデルの実弟妹6人を授けています。
1889年5月にフアン・カルロス、フリオ・セサルの双子の誕生、
1891年にセリア、1899年にマリア・レリア、1901年にカルロス・
セグンドらが誕生している。
このガルデルの実母は1905年に病気のために35歳の若さで没した。

④:『父は同地方の名士であるフアン・エスカ
ジョーラ氏。結婚していたからガルデルを認知
しなかった』。父は同地方の名士で、名誉大佐
カルロス・エスカジョーラ・メディーナ氏。
マリアの姉ブランカと婚姻中だったから、教会へ
の手前や政治的地位を守るために、世間から
ガルデルの生まれをした隠にして、当然に認知
しなかった。
カルロス・フェリクッス・エスカジョーラ・メィディー
ナ氏は父、フアン・エスカジョーラ(ガルデルの
祖父に当たる人、スペイン・バルセローナ、サ
バデル出身)。母はウルグアイ、ミーナス出身の
ベニフェシア・メディーナの元に1845年10月23日
にモンテビデオに生まれる。彼はパイサンデゥーで幼年時代を過ごし、
モンテビデオで青年時代に軍隊生活おくる。そして、1865年にウルグ
アイ最大県、タクアレンボーにやって来る。
モンテビデオから400km離れたエデン渓谷に落ち着く。
1881年にマキシモ・サント将軍独裁大統領の元にタクアレンボー県の
政治首班に指名去れる。後年この独裁者による命令で1886年に大佐
に昇進する。其の上でオリバ‐スジルラ家族(イタリー領事を務める)と
知り合う。まず、この家族の長女クララと結婚する。彼は軍人に相応しく
高慢で、何時もお洒落でパジャドール並みに歌とギターを奏でる芸能
才能に優れ、女性たち注目の元であり、所謂は現代で称されるプレイ
ボーイだった。1871年に鰥夫になり2年後クララの妹ブランカと結婚する。
6人の子供を設ける。この家庭にはクララの末の妹、13歳になるマリア・
レリアが同居していた。そして、カルリートスの誕生に至るのです。
この子供の誕生はエスカジョーラ氏には政治的立場を脅かされる危険
になる原因にもなり、カトリック教会から掟をやぶった罪で教会司祭から
何らかの、仕置きを受ける破目になる筈の立場に追い込まれた訳です
から、カルリートの誕生を世間からの目を眩ます方法を選ぶのです。
彼は1915年、70歳で没。

⑤:『本名はわからない。ハシントという名前だと思われるが……
.カルロスの名は1913にベルタ夫人の養子となったときに付けられた』。
* 本名を明かした別の記録はない、ガルデルの父系はスペインとウ
ルグアイの血を、母系はイタリーとアルゼンチンの血を引くことに成る
わけです。もし認知されていればカルロス・ハシント(洗礼名)・エスカ
ジョーラ(父方の性)・オリーバ(母方の性)と呼ばれるはずでしたが。
幼年時代のモンテビデオの小学校の生徒名簿によると、カルロス・
ピタールガ(母系の祖父の苗字に当たる)の名前で登録されたのでは
ないかと仮定されています。当時ウルグアイでは日本の養子縁組の
戸籍に入る様な事も無く、1888~9年ごろにベルタ嬢が養育を斡旋さ
れたのを引き受け、ガルデルは4~5歳に成長していた。
ガルデル自身が出生届を出した時のカルロス(カルリートス)としておき
ましよう。1902年12月10日(17歳)にモンテビデオでカルロス・エスカジョ
ーラの名で戸籍登録したが、1885年生れのオリーバの姉に当たる子、
カルロス・エスカジョーラ(ガルデルの義弟に当たる)が登録されていて、
彼のこの姓名での登録が拒否された。タクアレンボーの教会に洗礼証書
を請求し、軍隊手帳を受けている。
18歳以上の男子は軍隊入隊検査を受ける義務を果たされるので、この時
に当然出生届、洗礼証書等の書類提出が必要になる。
ガルデルの死後これらの届け原本は何者かに破り剥ぎ取られた形跡があ
るのだそうです。 *印はカルロス・ガルデルに関した事項。

(4):では、再びベルタ・ガルデス嬢の登場です。
1886年、ガルデル『2歳ごろ』、ベルタ嬢はカルリートスの実母マリアから仲介
者マテオ・パリシ氏(エスカジョーラ氏の娘婿)を介して養育とウルグアイから
連れ出す条件を、養育費3千ペソで受け入れます。
1889年、ガルデル『5歳』そして、彼女は友人アナイス、フォルトナト夫妻と
カルリートスの従姉マリア・エスカジョーラらとモンテビデオ市の海岸南側の
パレルモ街イスラ・デ・フローレス通のコンペンティージョに住み込みます。
ここでカルリートスは近所のデゥラスノ通にあった27番小学校に入ります。
また、町を浮浪し始めるのです。一方のベルタ嬢はタクアレンボー時代に
知り会ったヘラルド紙の印刷工員ロムアルド・ロペスの子供を実ごみ、
カルリートスを友人アナイスに預けてフランス、トゥールーズに帰り、そこで
シャルル・ロムアルドを生みますが、母親エレーネの理解を得られずに
1893年ごろに再びモンテビデオに戻ります。
ガルデルの養育を引き受けた手前の約束道理と仲介者の催促により彼を
エスカジョーラ家系の目の届かない所から遠ざけねばならず、モンテビデオ
を後に3歳に成長した実子シャルルとカルリートス『8歳』を連れて、友人フォ
ルトナト・ムニス、アナイス夫妻、オダリエ・デ・カポーと其の息子エステバン
(ガルデル幼年期に親密な家族的環境で共に育つ、彼はガルデルの死後
に重要な嘘の証言をする)達を同伴してラ・プラタ川を船で一晩かかりで渡
り、ブエノス・アイレスに移民として入国します。
時は1893年3月9日、カルリートス、8歳ごろです。そして、アバスト街ウルグ
アイ通162番地のコンベンティージョに落ち着き、後にコリエンテス通1557
番地でアナイス夫人の元でアイロンかけの請け負いを始めますが、当時
亜国は不景気のどん底にあり、仕事も生活も儘ならず、ベルタ夫人はカル
リートスへの高額な養育費を受けていながらも、カルリートスの養育もせず、
其の上,実子シャルルをも友人ロサ・フランチーニ(真実はロサ・カロール・
バッカ夫人)に預けてしまう。その頃からカルリートスは完全に彼女の手
から離れて、学校にも行かず、アバスト街の市場などで放浪を始め素行
も悪くなり、ベルタ夫人は手を焼き挙句の果てに彼を孤児院に預けてしま
うが、そこを抜け出し、一時はラ・プラタ(首都から50km)に行き“ラ・レチュ
サ”と呼ばれた老女に保護される。












(5):では、簡単にカルリートスとシャルル・ロムアルドらの成長
を比較して見ます:1884年11月:*カルロス・ガルデル誕生『名
はハシント?』母マリア・レリア、オリーバ。ウルグアイ国タクア
レンボーバジェ・デ・エデン、サンタ・ブランカ、ペドロ・エチャガ
ライ農園。マヌエラ・モーラという女性に預けられます。
1887年:*カルリートスは2歳の時に教会で洗礼を受けています。
エスカジョーラのガウチート(可愛いガウチョ)と呼ばれていたよう
です。
1888~9年:*カルリートス『3~4歳』従姉マリア・エスカジョーラ、
アナイス、ベルタ嬢らとモンテビデオ市パレルモ街イスラ・デ・フロ
ーレス通に住む。
1890年12月11日:フランス、トゥールーズ、レ・グローブ病院でシャ
ルル・ロムアルド・ガルデス誕生、母ベルタ・ガルデス。
父はフランス、トゥールーズ出身のパウル・ラセレー(タクアレンボー
出身のロムアルド・ロペス氏のはずだが)。
父もフランス人とする説はシャルル・ロムアルドをガルデルに見立て、
彼をがフランス人である説を正当化したい魂胆が丸見えです。
*『しかし、カルロス・ガルデルは絶対にシャルル・ロムアルドと呼ば
れた事は無いのです』。
1891~3年:*カルリートス『6~8歳』モンテビデオ、イスラ・デ・フロー
レス通のあった27番小学校にはいる。
1893年3月9日:*カルリートス『8歳』、シャルル・ロムアルド(3歳)
二人共一諸にベルタ夫人に連れられ、アルゼンチンに移民として
入国、カルリートスは移民局に書類なしで入国、シャルルはフランス
人として外国人登録する。そして、一行はブエノス・アイレス、アバス
ト街ウルグアイ162番地に住みこむ。シャルル・ロムアルドはすぐに
ベルタ夫人の友人ロサ・カロール・バッカ夫人に預けられる。
1894~6年:*カルリートス『9~11歳』もベルタ夫人の評言によると
ロサ・コラール・バッカ家に預ける(カルリートスとシャルルとを同一
人物に認めるため)。         
1896年:*カルリートス『11歳』はフランセシートと呼ばれる。
アナイス夫人とムニェス氏はいつもガルデルを保護していたのだが、
そこを抜け出しラ・プラタに行く。そこで、“ラ・レチュサ”と呼ばれる
老婆に保護されていた。
1897~8年:*カルリートス『12~13歳』、タクアレンボの父母を訪
ねるが、父に拒絶されて、敷居を跨ぐ希望は空しく破れた。
童話“フランダースの犬と少年”の物語のように母を訪ねて、ブエノ
ス・アイレスからタクアレンボーへ500kmの距離を旅したのですから、
母を慕う心と信念の強さは並たいていではなかった。
もし、ベルタ夫人が実の母親であったならば、カルリートスのこうした
行動をとるだろうか疑問である。
シャルル・ロムアルド(6~7歳)はアバスト街のニコラス・アベジャネー
ダ小学校に入る。
1899年12月:*カルリートス『14歳』はタクアレンボーに残る。
シャルル・ロムアルドは実母ベルタ・ガルデスとフランス、トゥールーズ
へ行く。
1900年:*カルリートス『15歳』タクアレンボー、エスパニョール・ホテル
で料理助手として働く、その時、そこに住んでいたパジャドール、ビジャ
ルビに民謡の歌とギターを習う。その後モンテビデオのパレルモ街に
行きイスラ・デ・フローレス通のコンベンティージョ(幼年時代に住んで
いた所は別の場所)に住む。
シャルル・ロムアルド(9歳)、フランスからブエノスに戻る。
1901年4月:*カルリートス『16歳』、ピォXI養護学校で民芸講習の授業
を受ける。入学手続きした記録によると、生年月日、出生地の記入漏れ
があり、ベルタ夫人がそれらのデータを知らず(実母なら不可能)記入で
きなかった。別のデータではカルリートスはこの講習を受けていないと言
う。シャルル・ロムアルド(10歳』はこの学校に入った。
1902年12月:*カルリートス『17歳』“エル・メレーナス(長髪)”と呼ばれる。
パレルモ競馬場の競馬馬の持ち主ペドロ・バルダサレー家の馬車の御者
に雇われ、夜はアバストのカフエ・ロデルマンで民謡などを歌い出す。
しばらくして、休暇を申出して、モンテビデオへ行き役所に“カルロス・エス
カジョーラ”の名で戸籍登録し様としたが、1895年11月4日付でクララ(ガル
デルの実母の姉)の息子(義兄に当たる)に当たる同名が登録されていた
為に認可されず。それでも何とか12月10日付けで軍隊手帳を収得した後
にブエノス・アイレスに戻る。オペラ劇場で舞台道具方として働くうちに
その時にイタリー人オペラ歌手ティッタ・ルフホに知り合いオペラ歌唱
の初歩を教わる。
シャルル・ロムアルド(12歳)小学校4年生、成績良好。
1904年:*カルリートス『19歳』、この頃ボーカでアルトゥーロ・デ・ナヴァ、
ホセ・ベティノティーらに知り合う、歌唱及びギター奏法の技巧の手
ほどきを受ける。
シャルル・ロムアルド(13歳)学校の全過程の成績10点満点で卒業。
彼は未成年だから馬車の御者として働く事もその体力も持ち合わせても
居ないので、シャルル・ロムアルドはガルデルと同一人物でないことは至極
当然ですね。
1905年末:*カルリートス『20歳』、前年初めごろから起きたウルグアイの
内乱が落ち着いたので、モンテビデオにいく。
その後モンテビデオにもブエノス・アイレスにも姿が見えなくなる。
シャルル・ロムアルド(14歳)の存在も誰も追う者がいなくなる。
その後成長した後も消息がわからない(後年ベルタ夫人が故意に隠した
形跡がある)、早死にしたらしい。

(6):ここでガルデル幼年期を過ごしたモンテビデオ市南パレルモ街区”
イスラ・デ・フローレス”通り(現在カルロス・ガルデル通り)をずばりテーマ
にしたタンゴがありますから紹介します。

“Isla de Flores(イスラ・デ・フローレス、花の島)”作詞はRamon Machado
(ラモン・マチャード、タクアレンボー出身)、作曲はArturo Senez(アルトゥー
ロ・ セネス)。
録音は1927年7月22日、レコード番号18221B(A面はレギサモ、ソロ、レコー
ド番号18221A。ガルデルがこの曲を録音するにあたった次のエピソードが
ありますので紹介します。この曲はペローティー社が初めイグナシオ・コル
シーニに吹き込みをさせる同意が取り交わされていたようで、そこにホセ・
ラサーノの知る所となる。彼はこの曲を歌うに相応しいのはガルデル以外
には存在しないとコルシーニに交渉した挙句、彼は快く同意したうえでの
ガルデルの吹き込みが実現したのである。

Tango "Isla de Flores”
Isla de flores, tan angostita mi callecita
costa de mar en tus casuchas nacieron todos
los mas coperos del arrabal .
Y cuantas noches A mis oidos llegaron
ruidos del guitarrear
Y en las tenidas del conventillo
me hicieron rueda para tanguear
Calle, de mis primeros principios
fuiste donde comence a copar
calle, por ti me hice milonguero
me embriague con tu bullicio
y el tango ha sido mi vicio
en mi vida de arrabal

(7):1905~7年:ガルデル『21~23歳』はもう既に成人に育ち、
カフェーや劇場に入浸り、あの有名な巨匠小説家ボルへの描
いた“エスキーナ・デ・ロサーダ”のテーマに出てくるヤクザな
世界のそのままの放浪的な行動が過大な災難に彼の身に降り
架かるのです。
港町の歌と酒、おどけた騒ぎのある夜に危険なグループの喧嘩
に巻き込まれ、ナイフか拳銃の果てある一人が路上に崩れ落ち、
そのまま身動きも無く、死者が出たために、そこに居た彼も集団
逮捕されて、南米最南端の都市ウシュワイアの監獄に送られる
破目になるのです。
メンドサ、コルドバでイポリート・イリゴジェンが率いる左翼団体の
氾濫が失敗に終わり、保守派キンターナ大統領の後をしきずいた
フゲレー・アルコスタ大統領により革命参加者と共に特赦より釈放
されて、ウシュワイアから送還船でブエノス・アイレスの港に戻るの
です。1907年2月21日のことです。
1908~10年:数回目のタクアレンボーに舞い戻りそこで生母マリア・
レリアの臨終を悟り、父を尋ねるだが彼の過激な論争の果てに全く
の認知拒否に出会い、挙句の果てに拳銃で足を打たれ、モンテビ
デオの下町に在るマシエル病院に入院する事になる。
やがて回復後モンテビデオの嘗ての幼年時に住み慣れたパレルモ
街区のダイマン通り299番地(今はフリオ・エレーラとオベス1071番地)
のコンベンティ―ジョに身を寄せる。
そして、昼間はリベルター広場の建築現場に壁塗り労働者として働き、
夜は近くのカフェーで歌い始める生活をしていた。
パラナー支流川畔の都市パイサンドゥーにも行きここでもカフェー
(叔母の経営)で歌う。
やがて、住み慣れたブエノス・アイレス、アバスト街区アグエーロとウマ
ウカ通りにある青年期初期の保護者トラベルソ家経営のカフェー・オ
‘ロンデルマンに姿を現す。
そこで、トラベルソ兄弟の護衛を勤めながら、夜はこのカフェーで歌い
出す。又、賭博場にトランプの裁き役もこなしたりしているが、後年“
タンゴの魔法使い”と呼ばれる華々しい名誉ある歴史のページの始まり
が開かれようとする芸能生活にのめり込んで行くのである。





















*上の写真はガルデルと生母マリア・レリア・オリーバ(23才頃):  人気ブログランキングへ

2009年11月22日日曜日

ガルデルの遺言状



ガルデルが1935年6月24日に南米コロンビアのアンデス山地メデジンで飛行機墜落事故で昇天した直後にタイミングよく彼の自筆で書かれたと言われる謎の偽造臭い遺言状により、彼はベルタ夫人の息子シャルル・ロムアルド・ガルデスに摩り替えられたのである。ここにこの遺言状の内容を紹介し、疑いを解析していこうと思う。



       
 焼け残ったパスポート          
 上と下のサインがガルデル本人のもの、
 真ん中のサインは偽のサイン


ガルデルの遺言状:
(1):ご存知の通り、前編でガルデル出生の秘密の証を具体的に説明しましたが、ガルデルの死後あまりにもタイミングの良い“遺言状”の現れにより、巧妙に情報操作が行われマスコミをもこの情報操作にはぐらかされたため、その後数々の真実とかけ離れた伝説が生まれるのです。例えば、ガルデルの養母である筈のベルタ夫人の実子であるシャルル・ロムアルドをガルデル本人に摩り替えてしまい、彼女を実母に仕立てた巧妙な“遺言状”の疑問を解く前に。ガルデルの事故死の通知を受けた、代理人アルマンド・デフィーノ氏の素早い行動を追うことにします。1935年7月2日、客船“マシージャ”に乗船し、7月18日にフランス、ボルドー到着、直ぐにトゥ―ルーズに行きベルタ夫人を見つけ、7月3日に共に折り返し、ブエノス・アイレスに向います。8月12日にブエノスに着き、翌日13日にベルタ夫人とガルデルが自筆で書いたと言われる“遺言状”を裁判所に提出します。まず初めに1935年8月13日に法廷に出された、あの『遺言状』です。この書状を読んでみると。『これは私の遺言状です。1933年11月7日付:ブエノス・アイレス市にて、

私の死後を考慮して充分な知的権限を享受したと判断の上で、この自筆の遺言状で全財産を相続人に授与する』。では、次の手続きをとります:

第一:『私はフランス人、トゥールーズで1890年12月11日に生まれ、ベルテ・ガルデス(Berthe Gardes)の息子です』。
第二:『私の本名は苗字名前をガルデス・ロムアルド・シャルル(公式文書では苗字が先に来る)であることを私自身が明白に表明するもので、芸能人であるため“ガルデル”の苗字を採り入れ、何時もこの苗字を名乗り、私の存在はこの苗字で世間の知る所以ですが、同時にアルゼンチン国立銀行に口座を所持し、また其の他の不動産等の財産をも所持しています。それらの名義はすべて養子姓名にて登録され、すなわち“カルロス・ガルデル”です』。
第三:私は独身であり、私の血を引く私生児はいません。
第四:借金等は皆無、貸し金は取り立てを起こしません。私の死亡した当日付けに証書類等は有効になります。
第五:私が直接指名した母親ベルタ・ガルデスが世間で随一の全財産相続者です。
第六:私の友人アルマンド・デフィーノ氏を私の遺言による遺言施行人として指名して、私の遺言状の決済を行なう権限を与えます。指名した母にこの法的手続きの補助を与えること。私が自筆で書き上げたこの本状を随一の署名で残します。:

この遺言状の全文は1985年ガルデル追悼50年目に発刊されたハイメ・リコ・サラサール著書の48ページから概訳したものです。ところで、この遺言状を読んでみると、数々の疑問が見え隠れしています。

1)独身者が何故遺言利益を母親だけに与えようとするのか、論理的な立場のはずだが?
2)この遺言状は何故生存中に発表されていなかったのか?答えとして、遺言状は生前に発表するものではない。
3)この遺言状は何故検認されていないのか? 其の通り法的不備が見え隠れしている。
上記の疑問はあまり注意深く洞察した形跡が無く、前編“ガルデル出生の秘密”で明かした数々の事実を全く無視しています。①:本名、②:生年月日、③:国籍、④:生母では無い、この四題について重大な偽証があります。そして、この書状のサインすらガルデル本人の物であるかの疑いがあるのです。この『書類』は合法性を剥奪する多くの理由が集合されており、良く観察をすると明瞭な法的例外を指摘できますので以下に述べていきましょう。
4)自筆遺言状として処理してある。興味在ることには、公証人の前で法的手続き(二人の証人の氏名、著名が無い)この法的責任を満足した書類としての条件が形成されていない。
5)芸能経歴の人気絶大な頂点にいながら、何故、この遺言状を残したのか不思議である。
6)特異なことに丁度ニューヨークに映画撮影に出発するために乗船しようとした同じ日に、この遺言状を作った?
7)この書類はフランス人を申告していますが、何故名前をフランス語で書いて無いのか名は“カルロス・ロムアルド(Carlosr Romualdo)”で苗字は“ガルデス(Gardes)”、とスペイン語で書かれており、自称実母は“Berthe Gardes”とフランス語になっています。
8)1890年生まれとありますが、別の書類では1887年生まれと申告されおり、説明不可能なのは真実を隠してる様なのに、これが有効に受理されている事。
9)ウルグアイ国出生証明者、アルゼンチン帰化証明者、軍隊検査証、フランスで申告した証明書など常に携帯する諸書類にはウルグアイ生れと明記されている筈だが、それに其の年、1933年10月1日、4日と25日にモンテビデオの日刊紙三紙のそれぞれのインタビュ―には“私はウルグアイ生まれ”と声明していた筈だが、ここで如何にしてフランス生まれとは解せない。
10)何故ウルグアイでは法律上無効の自筆遺言を選んだのか?また、証人二人の氏名も著名がないこと。彼は既にカラースコ(モンテビデオ郊外)に高価な土地を入手しており、代理人ディフーノが証人として登記手続き行っている筈で、この登記にはウルグアイ人とある事。
11)ガルデルが友人などに書いた手紙のサイン、所持していたパスポートなどの書類のサインとこの遺言状の“サインの筆跡(写真を参照)”が微妙に違うこと。
12)さらに疑問を助長させる事項が発見されている。ガルデルは、この遺言状の18日前  
に三箇所の公証役場に出頭しているのだが。
①:10月20日、アルマンド・デフィーノに財産委任権を当てるためにハシント・フェルナンデス公証人に申請している。
②:10月31日、カラスコの土地購入手続きをブシュ・ブエロ公証人に申請している。
③:11月7日(遺言書が書かれた日?)、レギサモに自家用車を譲るために名義変更手続きをブルレッ・イバニェス公証人に申請している。
こうした、数回の公証役場に行く機会がありながら、何故、これらの公証役場で遺言の相談あるいは正規の手続きをしていないのか不思議である。
13)検討せねばならい司法上にそぐわない別の様相が見える。
a):この相続手続きは法律上不可欠な部分の正に必要な死亡通知状なしに、また死亡後三ヶ月の正式期間を待たず、平然とこの事情で遺言状が開封されている。
b):メデジンで1935年12月14日に死亡証明書交付を受けた時は裁判所に“遺言状“を提出してから4ヶ月目でこの遺言状が有効発行期間は6ヶ月以上後である筈であるが受理されている。
死亡証明書のデータと“遺言状”のソレと合致しない箇所がある。
死亡証明書は死亡者『カルロス・ガルデル、ウルグアイ人、48歳』、とあり。
遺言状は“シャルル・ロムアルド・ガルデス、フランス人、44歳”とある。
c):相続手続きは相続人が実母であれば“遺言状”に明記する必要は無いはず。  
実母の出生証明書を添えれば充分なはず。

これらの数々の偽証が見え隠れした書状を有効として、遺産相続は受理され、遺産はベルタ・ガルデス夫人に与えられ、夫人が1943年7月7日(没年77歳)に死亡するとアルマンド・デフィーノが引き続きこの遺産相続を受けて、後に1945年2月22日付けにホセ・ラサーノに3万ペソでこの遺産(レコード版権からの収入も含む)を売却してしまう。
それにしても、遺産はレコード版権やモンテビデオ郊外のカラスコの邸宅など膨大な価値のものをどう分配したのだろうか、当時のサダイクの理事長、フランシスコ・カナロも又歴代の理事長も何等かに関係していた噂がある。でこれらの相続人は50年間の遺産相続権が切れるまで、充分この恩恵を受けている。しかし、果たしてベルタ夫人はこの遺産相続を充分に満悦したのだろうか。彼女の生活は可なり質素なもので、ガルデルが生存前に借金に追われ抵当に入れた何ら飾り気の無いその家に死ぬまで住み着いていた。彼女は利用された被害者の一人で,けして高額遺産相続者の境遇に相応しい贅沢は見出せない生活をしていた。ではこの多額の遺産は誰かが横取りしたか上前をくすねた人物が存在する。誰だろう一番初めに疑いを懸けられても可笑しくない人物が居る。遺言状を偽造したらしい容疑がある、代理人アルマンド・デフィーノである。ではこの遺言執行人のアルマンド・デフィーノの経歴を述べてみます。彼は1914~5年ごろからすでにガルデルと親交があり、彼からホセ・ラサーノから引き受けてガルデルの全財産の委任管理を任されたのは1931年10月ガルデルがフランスへ行く直前の頃から始まります。また、彼は元公証人であり、こうした公文書の扱いに優れていた筈です。そして、あのガルデルのジェアン・ハゥレスの家にはベルタ夫人とアナイス、フォルトナト・ムニェス夫妻が住み込んでいたが、其処え代理人アルマンド・ディフーノ夫妻が乗り込み住み込み始め、ベルタ夫人のマスコミへの証言対策をし、又ムニェス夫妻(ガルデル幼年期の両親役をして面倒を見たのはこの夫妻であり、ベルタ夫人は養母失格であった)の口を塞ぎ完全なマスコミ対策の情報コントロール始める。挙句の果てにアナイス夫人が死亡すると、この家から其の夫フォルトナト・ムニェス氏を追い出す、彼は息子の所へ引きとられたが直ぐに傷心のまま死亡する。ガルデルはこの夫妻達を真の肉親の様に慕い、手紙でデフィーノに彼たちを温情に扱うよう依頼していた筈なのだが、この詐欺師も同然の人物はこの老人を酷い扱いまでした。

*下の文は遺言状の最後の部分で、矢印はガルデルの筆跡ではない事を指摘している。
ぼっとうのサインの比較を参照ください。サインのインク印は疑わしい部分。











(2):さて、ガルデル出生の秘密を証、遺言状の謎を解き明かしましたが、まだ不本意に同意できない人もいると思いますので、アルゼンチン人の中にも彼はウルグアイ人と素直に認めていた人物が居たのです。その人は1931年5月に撮影したパラマウント映画“ルセス・デ・ブエノス・アイレス”にガルデルと共演した、他でもないマエストロ・フリオ・デカロです。マエストロはガルデルの元パトロンのペドロ・バルデサ―レ氏の助言をこう評言しています。『ガルデルはウルグアイ人、そして、洗練されたレース模様に似た不思議なこの出生は本当に謎に包まれている』。ドン・ペドロが亡くなる直前の日に次のような引き合いを述べている。:

『バルデダサーレ氏の心からの証明の語りから:ほらデ・カロよ、君の友人の兄弟隣国ウルグアイ人の新聞記者を私に紹介してくれただろう。ただ知らせるだけでなくて、私の家庭では我が国アルゼンチンでは政治方針にしたがつて沈黙してきたが、カルロス・ガルデルのあらゆる種類の多くの苦悩について触れると、私がどれほど知り尽しているかは明かせないが、私の立場で貴方にこの真実を知ってほしいのです。貴方の友人AVLISはこの重要な事の自体のベールを取り除こうとしているのです。我々家族は軍人の出で、又兄弟に活動中の牧師も居ますので、この問題に直接の言動を避けます。しかし、私達はガルデルの父親がウルグアイ人であるのを既に承知しています。カルロスはベルタ夫人にとっては実子でも、我々には認められません。でもこの件は秘密で、是非多言をしないで欲しいのです。貴君の友人Avlisがこの情報を知りたがっているのも承知の上です。彼は彼自身の手で行動すれば良いのです』。エピローグで言い添え述べたように私もガルデルがウルグアイ人だと思う。書名:フリオ・デ・カロ


*右の写真の手紙はペドロ・バルダサーレ氏がフリオ・デ    
 カロに宛てた手紙

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