2015年7月10日金曜日

ガルデルの遺作



タンゴ「エボカシオン」
エボカシォンとは回想と訳すのだが.
若き日の苦き失恋の回想。
...
暖炉の炎のゆれと共に思い出した痛恨。
それを生々しく回想したタンゴ“エボカシオン”。

EVOCACION(回想)
La lama alientas en la chimenea /暖炉に鼓舞する金糸
y el crepitar de leÑas encendidas /火がついた薪がバチバチと音をたて
me atormentan con llagas de fuego /達する炎が俺を苦しめる
reabren en mi alma, hondas heridas /傷深く,わが心のなか再びあける
a llama loca corre y piruetea / 狂った炎は駆け回り,飛び跳ねる
y en el delirio de la noche oscura /そして,くらい夜の妄想に
reviven aÑos de intense amargura /強めた悲嘆は年々よみがえる 
que triste me acompaÑan en mi soledad /わが孤独に付きまわる悲しみ
Crepitan las leÑas, revive el pasado /過去が蘇えり,懲らしめがバチバチと音立てる
del fondo del tiempo como una vision /幻のような時の深みへ
y me trae el viejo perfume aÑorado /郷愁のふるき香りをもたらす
de la que fue un dia mi sola ilusion /影のみのわがある日がすぎ
crujen las leÑas, la llama agonize /きえうせかける炎,焚きつけが泣きわめく
mis manos persiguen aquella vision /幻のあれがわが腕を追う
en vano se alargan, no hay mas que cenizas /灰のみ残り,延びた空虚に
ceniza en las leÑas y en mi corazon/わが心にはまきの灰
Leve la estrella de tus claros ojos /きみのさわやかな瞳の輝やぎ微か
diafana luz de sempiterna andanza /旅の永遠の光は曇りなく
que en las rutas de mis aÑos mozos /わが若き年の道筋に
fue mi suspiro, fue mi esperanza /わがのぞみ,わがためいき過ぎて
ahora mi senda llena esta de abrojos /我の行く道は茨満ちた今
mi vida mustia ya no tiene llantos /もう涙撒かれて萎れるわが人生
y el corazon zozobra de quebrantos /そして,衰えの不安心
de verme indigno de tu inefable virtud /言葉絶する高潔な貴女の相応しからぬ眼差し
このタンゴはガルデルがビクターに最後の録音をした後に現われた曲で,彼はレコード録音しなかった。いや,ニューヨークに戻れぬ不可抗力により歌えなかったタンゴである。作詞は当然,アルフレッド・レペラ,作曲はカルロス・ガルデルでテリグ・トゥチィが協力参加している。この曲は1960年タンゴ歌手のアルベルト・バルディがロペス・バレート等とニューヨークを訪問した際にコロンビア・ブロードキャスティングのディレクターであったピアニストのマエストロ・テリグ・トゥチィに巡り会ったのだが,その時彼曰く「これは我々の幼稚な考えだが聴くに値する。この楽譜はバレートに託すのが相応しいと俺は確信するが,ガルデルもこうあって欲しいと思ったに違いない。」とそのタンゴの楽譜をラファエル・ブロウンに見せた。彼ブロウンは“この死後の作品”は本物かどうか疑わしいと考えた。ロペス・バレートはアルフレッド・レペラの弟ホセに聞けばと助言してくれたので,彼ホセに訊ねた所,彼は確かに兄とカルロスは何らかの作品の試案を持っていたらしいと言う答えであった。このタンゴ“レコルダンド(思い出す)”或いは“エボカシオン”は流布されていないと思われたがアグスティン・イルスタの歌う“エボカシオン”のタイトルの録音がデッカ・レベールに存在するのが判明している。
https://youtu.be/LVUL5bY9g-Q

ガルデルを助け様と

1935年6月21日、
ボゴタにて、
ガルデルへ旅立ちの前に
カリ行を止めろと忠告した
人物がいた。...
運命の預言者現れる。
(もう一人居たのだが)

では映像の説明に入ろう。
「この工場は
ナリーニョ劇場の後だが、
ガルデルが事故に巻き込まれる
3日前に歌たつたところだ。」
その劇場の前に、通りかかるガルデルの前に
突然現れた人物は…
ロベルト:おい、おまえは死ぬぞ、死ぬぞ!
カルロス、俺の忠告を聞いてくれ、
おまえさんに言いたくないのだが、
カルロス、カルロス、行くなよ!
ブエノスのみんながおまえを愛しがってるぜ!
俺とブエノスアイレスへ帰ろうよ!
カリには行くなよ。
事故に遇うからな。
カルロス:俺は行く、行くべきなんだよ。
俺は歌うべきなんだ! ぜつたいに歌うぞ!
以上が画像の会話の内容であるが、
”カリに行くな”と忠告している。
何故、メデジンではないのかと疑問が湧くが
ガルデル一行はボゴタからカリ市の
ホルへ・イサック劇場で公演する予定
だったのだ。
https://youtu.be/jdWNsvEEBP4

2015年6月24日水曜日

タンゴの日とカルロス・ガルデル

タンゴの日とカルロス・ガルデル
今日12月11日は「タンゴの日」
この日はタンゴ歌手界の最高峰人物である
カルロス・ガルデルの名誉を讃える日である。
...
「タンゴの日」は足で表現していた古きブエノスアイレスの
タンゴ時代に彗星のごとく現れた カルロス・ガルデルが
この単純な音楽に稀に見る美声を駆使し、歌に生命力を
与える解釈を付けた功績は高い。

 ところでいろいろな説があるが、世に知られている
生年月日は1890年12月11日とされているのだが、

この日はガルデルの本当の誕生日ではない。
彼ガルデルがコロンビアで魔訶不思議な飛行機事故で
命を落とした後にアルゼンチンからメデジンに来た
彼の財産管理人アルマンド・デフィーノなる人物が
偽造したガルデルの遺言書に書かれた日付けである。

 遺言書は手書きで書かれており、ガルデルの
サインまであるが一目見れば偽造されたと明白する。

 それは本人の筆跡とはまるで違う汚い殴り書き
の上にサインもガルデルの筆跡に似せているが
専門家でなくとも偽物と判明する。

 書かれた日付けは1933年11月7日とあるが、
不思議にもこの日はガルデルがフランスに旅立った日。

その前日にモンテヴィデオ郊外に購入した土地の
公正評書や自家用車を友人レギサモに譲る名義書き
換えにデフィーノと公評役場に届けをだしたにもかかわらず、

この遺言書には正規の手続きをした形跡がないのである。
さて、彼カルロス・ガルデルの生まれた日は自身が

ブエノスアイレス在ウルグアイ領事館に届けた日は
1887年年12月11日にしてある。

 1933年の誕生日に49歳になつたと友人達に白状して
いるので1884年生まれが正しいのではないか。
ウルグアイ人の伝記家は1881年11月21日生まれだと
記録を残している。

しかしながら、真実は誰も知る者はいない。

オラシオ・フェレール作詞
ファブラ・パラ・ガルデル(ガルデルの為の寓話)」
を追悼の意味でここに捧げる。

きのう、初めて...お前は俺に尋ねたよな、

わが子よ。誰だい、ガルデルて奴は、幽霊のようなあいつ。

頑固なまでに、

ほこりまみれのレコードにうずまる洞窟のなかのベールの淵に。

あまりにも気難しそうな奴。

俺の知る彼は、お前に語ろう。

お前の親父と少しばかり話そうと、

半きちがいの,

半おどけの、

お化け野郎が。

悲しみにあふれた夜の、お前の夢の中に、

隠れたあいつが、マテ茶を回す如きあらわれる。

あゝ、かすかなエレガントな幻覚な姿が見えればの話だが、

彼を知るためには、マント襟たて勇ましく、

羽根飾りネックと軽いネッカチーフをなびかせ、

彼の装いはスペイン・ギターの弦編み、

それは邪悪な魔女的ヒッピーが織り込んだ衣装をまとう。

ネクタイはかがやくカーネーション色、

鈴のような声で羽織り、

至極素敵な靴を履く、

それは靴ではなく旅する天国へ、

 

何処からこの世に来たのかい? 

でも、俺のはしらないぜー!

 誰かが語る故によると、

ともかく、

南に狙いつけた乙女ヴェレタによじ登り生まれたようだ。

そして、どんな詩人の,

そして、一輪の闘鶏、

そして、占い僧官、

教えられた生きる道と微笑み、

 

歌う、歌う、七色声で叫び歌う、永遠に歌う、
その喉で、二つの瞳、芸達者に、
見定めた男としての、持ち前の謙虚なスタイルで、
お前に言おう、彼の歌スタイルは、
どこからか湧き出る清い泉、
タンゴ野郎がまだ歌わない、
語りつががれた何もない過ぎ日のあのタンゴ時代、
ときはすぎ、

 

きのう、初めて...お前は俺に尋ねたよな、

わが子よ。誰だい、カルリートスて奴は、
幽霊のようなあいつ。

頑固なまでに、

ほこりまみれのレコードにうずまる洞窟のなかのベールの淵に。

あまりにも気難しそうな奴。

俺の知る彼は、お前に語ろう。

ガルデル、ガルデル、ガルデル...

 

 

2014年11月11日火曜日

ガルデルの遺体の行方


 前編では悲惨な事故の経過とその一年後にアギラールの告白によった真相を明かしたが、ガルデルの遺体の行方を追う事にしよう。
 カルロス・ガルデルの遺体はメデジン市内のサン・ペドロ墓地北側の回廊2番墓地に埋葬された。

 そうこうするうちにカルロス・ガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノはガルデルの手書きの遺言書(*)を持参して遥遥ブエノスアイレスから航路ニューヨーク経由バランキージャへ、そこから空路を使い長旅の果てにやつとメデジンに着いた。それは事故後二ヵ月にも成らない1935813日だった。 
 それにしても、数々の複雑な問題を如何に解決したか不明だが、結局は1211日にデフィーノは教会に遺言書(偽証)を見せて故人は亜国出身者と語り、カルロス・ガルデルの死亡証明書の入手した彼はサンペドロ墓地からガルデルの遺体を掘り出しに成功(?)する。
 
  彼デフィーノはボゴタの病院で火傷の治療の為に入院していたホセ・マリア・アギラールを苦労の末にみつけだした。そして事故原因や偽の遺言書を他人に明かさない様にと多額の金を払う約束を取りつけるのに成功した。
 

 彼はボゴタから空路カリへ、そこから鉄路ブエナべントゥラ港でガルデルの遺体を待つが、荷物は待てど暮らせど到着せず痺れを来たした彼は先に航路でニューヨークへ発ったのである。

 その年の1229日にガルデルの遺体は再び御棺に入れられた後、メデジンから鉄道を使い南の村落ラ・ピンターダまで行き、そこから馬車でバルパライソまで行く、先は道路が途切れているため、ロバ数頭を仕立て、カラマンタ、マルモトの村落を通過、スピーアで村民にガルデルの遺体であることが知れ渡り、村の中心広場の教会で追悼ミサが捧げられた。スピーアから馬車でリオスシオ、アンセルマと続きペレイラに到着した後。今度は鉄道でカリ市の近くの太平洋岸に在るブエナベントゥラ港へ到着した(この旅は5Km余りの行程を8日間費やした)。
そこからは汽船でパナマ運河を経由して、1936117日、ニューヨークに到着した。
 ここで壮大な通夜と葬儀が行われたのだが、葬儀礼拝に参加したガルデルの映画に共演した俳優がこの遺体はガルデル本人の物ではないと言い出しているのを代理人デフィーノは知る由も無く、1936125日、8日後に豪華船パンアメリカーナでブエノスアイレスに向かうべき出航した。
 

 途中モンテビデオに24日到着したガルデルの遺棺は旧友ホセ・ラサーノ、フランシスコ・カナロらに迎えられ、ブエノス・アイレスまで同行する。

  193625日、午前11時、ブエノス・アイレス到着。ダルセーナ北岸壁には三万人の群集が出迎える中を、ここでも旧友レギサモを初めにフランシスコ・マチオ、リベルター・ラマルケ、ソフィア・ボサンらが葬儀馬車まで御棺に付き添いルナパークへ向かう。   
 
 

 ルナパークではカトリック宗教上の習慣による祭壇が祭られ、フランシスコ・カナロとロベルト・フィルポのオルケスタの演奏でロベルト・マイダが“シレンシオ”を二回繰り返し歌う。
 

 翌6日に壮大な葬儀が行われ、ルナパークからチャカリータまでの道のりは別れの群集で渦リ、群集の中には葬儀馬車からガルデルの御棺を降ろし、彼等で肩に担ぎ行進を試みる輩さえ出る始末で、チャカリータ墓地への到着は非常に難儀を強いられた。

 当初、遺体はパンテオンに安息納骨収まれたが、翌年‘37117日に現在の募樟に祭られた。ただし、今日現在誰もこの遺体に疑問を持つ者はいない。

 チャカリータのガルデル墓地には彼の“本物の遺体”は無い。
それは未だにコロンビアのメデジンにある。

 

2014年10月10日金曜日

Enigmaの真相


「ガルデル一行が興行先のコロンビア、メデジンの飛行場で事故死した事件は多く語られているがほとんどが結末をぼかしている。小生は推理小説並みのとんでもない真相を見つけたのである」

  『事故原因の真相は』
 『フオードF-31機の搭乗は後ろの席からセレドニオ・パラシオ氏(プロモータ、バランキージャの映画館主)、その次はヘンリー・シュワルツ(コロンビア・ユニバサール・ピクチャーズのマネジャー)、アルフレッド・レ・ペラ、ギジェルモ・バルビエリ、コルパ・モレーノ、アンヘル・リベロール、ガルデルの英語教師兼マネージャー、ホセ・プラハ、前の席にカルロス・ガルデル、続いて私(ホセ・アギラール)、操縦席にエルネスト・サンペール(パイロット)と副操縦士ウイリアム・ホスター(18才)等の順で乗り込んだ。今思い出すが搭乗する瞬間に、カルロスが顔を振り向き際に-いいかい、インディオ、後1時間15分だ、その後、カリに着いたらこの奇怪な怪鳥を壊してやろう、もう絶対に乗るもんか-と私に言つた。可愛そうなカルリートス! ほんの瞬間の後に灰に変わる姿を夢にも想像できず !。最後にフリィンが搭乗する前に昨夜のガルデルの同時公演のフイルム12巻を持ち込み、彼が機のドアーを閉める。サンペール・パイロットはその運搬を頑固に拒否した。三発機に重量過剰だと言い切り強烈に反対したが、仕方なく決心をきめて持ち込ませた。運行係りフリィンは直ちに安全ベルトの装着を全員に課す。ただ一人私が抵抗したが;だから機から脱出に成功した。ガルデルの最後の言葉はキャラメルと耳につめる少しの綿を私に求めた。「おまえ何を噛んでいるだ」と警告気味に‐「インディオ、何を食べているんだ?」‐、私は‐チューインガム‐と答える。オーケー、それくれ。綿を持っているか?それを耳につける間もなく、飛行機は滑走路から動き初め、地面から中々離陸できず。ガルデルいわく、なんだブエノスを走るチンチン電車みたいだとつぶやいた。全員大惨事の虫の知らせを感じる不吉な予感がした。我々全員はお互い視線を合わした。』
 ここまではガルデルのギタリストの一人、ホセ・マリア・アギラールの回想である。

  エルネスト・サンペールは離陸するのに絶望的な努力したのだが、三発機F31は超大型飛行機マニサーレス号に向かい衝突した。衝撃音が耳を寸裂き、二機の“鳥類”は瞬間的に燃え上がった。
 ラ・プラジャー飛行場での自然現象の航空条件欠点として、午後に発生する瞬間的な南東向けの強い突風に巻き込まれたのか、サンペールパイロットが離陸待機中のライバルSCADTA社のマニサーレス号へ目掛けて急降下で脅かしアクロバット飛行を試み、下からの銃弾が彼の喉から脳天に到達したために操縦できなくなり墜落したとか、ガルデルとパイロットと口論のための喧嘩騒動があった説など、これ等は全部真相をそらす為の作り話だった。

 ところが1984年にオラシオ・フェレール氏がメデジンを訪問した際に、当時の現場に居たアントニオ・エナオ新聞記者のインタビューによると、
 『サンペール機は200m位の距離を滑走後右方向へ向かいマニサーレス号に直進の果てに衝突した』と語っている。 とするとSACO機は離陸できずにエンジンを全開待機していたマニサーレス機に直接正面衝突した事になる。(アギラールは衝突直前にサンペールの絶叫を聞いたと証言していた)パイロットに何かの不都合な事態が起きたのだ。機内騒動の疑いは誰かがパイロットに向け拳銃を発砲したらしい。その上に検死解剖で、ガルデルの肺に銃弾が発見されていたのは、メデジンの警察の正式な調査で公表されていた。アルゼンチンから態々事故処理に来たガルデルの財産管理人アルマンド・デフィーノは空港の事故の真相を闇に葬るために高額な金を使い警察を贈賄した。そうして証拠は焼却末殺されたのか、事件の真相は全て原因不明と処理された。そしてコロンビアでは迷宮入りとなった。
 サンペールの甥ダニエル(新聞記者)は“伯父がガルデル一行を地獄に落とした”と、ボゴタの有名紙に投稿している(*)

 そのうえ、ガルデル死後しばらくして伝記作者フランシスコ・ガルシーア・ヒメーネスが魔法使いのような巧みな文章を駆使して書かれた次の物語を小生はまんまと信じてしまい、次の様に書いたのである。「ガルデルから嫡出された銃弾は彼の青年時代のある夜に友人達と誕生日祝い後にキャバレー・パレー・ド・グラスを出た時に後を追いかけて来た人物にいきなり拳銃で撃たれた時の銃弾で、医者が摘出せず放置した為である」とガルデル物語(2012210日)の「パレー・ド・グラス」で詳しく書いたが、考えてみれば20年以上に亘り肺近くに異物が埋まる体であの声量と美声を保つなどはいかなる頑丈な肉体でも無理な話。この文は飛んでも無い捏造記事であつた。要するに事故の時に死体から発見された銃弾の証拠隠滅の為に一つの物語をデッチ上げたのである。

 ではガルデルの肺に食い込んでいた銃弾とサンペールにあつた銃弾貫通の痕をどう説明すれば良いのか。(銃弾はサンペールの喉から貫通していた説はマニサレース機から発砲された様に見せかける為と判断する)それは後部席から誰かが拳銃を発砲した殺人に由り起きた事故だったのである。一発はガルデルの肺に食い込み、ニ発目はサンペールのうなじに命中して脳天を貫通。では誰が犯人だろうか。生存者のホセ・プラハ、ホセ・マリア・アギラールとフリィンと三人居たがフリィンは無傷だったが行方をくらました。プラハは頑なに口をあけなかった。アギラールの証言はころころ変わり誰かに口封じされた疑いが見届けられた。

  ホセ・アギラールは事故直後、メデジンとボゴタの病院を転々とした後、長旅の果てに帰国したが、ショックで錯乱状態から抜けられなかった。いつも「奴は頭にきてる」といわれるタイプの輩で、目の前で殺人、そして事故という断末魔を見た為に、精神的にも肉体的にも、打ちのめされ、やけどの後遺症で手も不具になりはて、ギターもままにならず、ほとんど目も見えなくなっていた様だった。自宅に長い間隠れていたのだが、或る日、あのデフィーノが約束を果さないから「カンズメ(秘密)の蓋を」開けるぞとばかりに逆キレしたらしく、アギラールは興奮・混乱して、ガルデルの自称婚約者であるイサベル・デル・バージェにあの呪わしい事件の犯人を明かしていたのである。それは事故後一年目の19367月の雑誌にインタビュー記事として載つたのである。

 


イサベルが雑誌「カンシオン・モデルナ」に語ったアギラールの証言は:
『アルフレッド・レ・ペラはボゴタ最後の公演でカルロスをボリーバル広場の野外で歌わせた。音響装置の無い時代の事ゆえ、後方の観衆はガルデルの歌が良く聞こえず、騒ぎを呼び起こした。この出来事でガルデルはレ・ペラに悪感情をもった様で彼と訣別する決意をしたらしく、その事で機内で口論になった際にレ・ペラが行き成り拳銃を発射した。
銃弾はパイロットの後ろ首に命中。 機はコントロールを失い、右前に離陸待機中のマニサレース号に衝突炎上したのである』(*)。


参考データ:
(1) La Cancion Moderna Julio 1936
http://www.tangoreporter.com/nota-aquella-tarde.html
Tomado del libro “Repatriación de Gardel”, de Ricardo Ostuni
CAPITULO XX

(2) LA TRAGEDIA Y EL MITO
TANGO Reporter --- Nro 157 - Junio 2009.               
http://www.tangoreporter.com/nota-aquella-tarde.html
Aquella tarde de Junio
Por Ricardo Ostuni

2014年7月8日火曜日

謎の侵入者


時は1935623日深夜のボゴタ:

カルロス・ガルデル一行はコロンビア諸都市のバランキージャ、カルタヘナ、メデジン、ボゴタ公演を盛況な成功を飾り、その夜コロンビア映画会社社主二コラス・ディアスの招待による晩餐会のフレンチ料理のメインデッシュが終り、給仕が皿を片ずけ初め、最後のワインを支度し始めているほんの一瞬の出来事。

ニコラス・ディアスはそこに現れた少女にとっさに注意をはらった。彼女は香水の香りも身なりも垢抜けているわけでもない極質祖な容姿でガルデルの関心を引くにはほど遠かった。その神経質そうな様子は不帰知な予告すらした。興行師は近ずきながら彼女に向かい、

「お嬢さんすみませんが私的な会合なんですよ」

「旦那さん、貴方はお解かりじゃない、彼と話がしたいんです。
早急に言ずけしたいんですよ。お願い...」

ディアスが一瞬、躊躇した隙に彼女は脇をすり抜けガルデルがおいでと手振りするテーブルに近ずく瞬間に数人の同席人が遮るように引きとめた。

「お嬢さん、ご用件は?」とガルデルは丁寧に訊ねる。

「ガルデルさん、それは危険なんですよ! 旅立ちは控えて。」

「お嬢さん、心配下さるな、我々は旅馴れしているんです。」とガルデルは答えた。

「貴方はお分かりしてい無い。涙声で“貴方はあの飛行機には乗ってはいけません!”
私は貴方を助けに来たのよ」と、乙女は手こずらせる。

ガルデルはこんな事には慣れていた。他の国でもあつたことだから、(旅立ちの時前に災難を予告する新聞記事を見せられるなど)そして、その乙女に向かい邪魔者を追い払うようにいくばくかの札を感謝の気持として手渡そうとしたが、むっとした彼女に阻まれてしまう。そこへボーイが丁寧に出口まで送りだした。

.=遥か方なたのある夜の些細な出来事の後、何事も無かった如くガルデル一行はカジノに繰り出しトランプ賭けに没等した。その為に全員が朝寝坊してしまう有様。慌ててテチョ飛行場に駆けつけるが予定のカリ行き飛行は霧の発生で断念するとパイロットに告げられる。そして目的地をメデジンに変えざえられなくなったのだ。この進路変更が魔の事故に繫がる原因になるとは誰も知る由も無く…。

注記:(A PASIÓN SEGÚN GARDEL por Julian Barsky)による。

2014年7月5日土曜日

カルロス・ガルデル、ボゴタの公演








【19356月カルロス・ガルデルはボゴタにいた】

 1935年のボゴタ市は33万の人口を満たし、アルホンソ・ロペス・プマレホ大統領とホルへ・メルチャン市長の下に4百年誕生記念の用意に追われていた。当時は世界的経済不況の真只中であったがボゴタ市は多くの劇場で行なわれていた数々の音楽演劇興行や映画ロードショーがかかりメインストリーは市民が溢れていた。
 巷を流すサービスの良いタクシー、市電、バス等の市内交通網も完備されていた。新聞発行部数も多く、記載広告に溢れていた。市はオリンピア、レアル、ナリーニョ、落成真近のファエンサ(*)、その他アポロ、アルハンブラ、リヴォリ、ボゴタ、国立劇場コロン(*)などの数箇所の映画館や劇場を備え、映画“エクスタシス(恍惚)”、“ラ・ビウダ・アレグレ(嬉しそうな未亡人)などの常時ロードシヨー及び演劇興行で栄えていた。そこえコロンビア・ピクチャーの招弊により当時ニューヨークで大人気のタンゴ歌手カルロス・ガルデルがメデジン経由でドイツ系スカダタ航空に15人の乗客の一人として614日(金)にボゴタ市のテチョ空港に到着した。タンゴの王様ガルデルには主催者側から当時最新型の豪華乗用車「アーブルン」が手配されいたのだ。彼等ガルデル一行を迎えた群衆の数は凄まじく、3万人とも数えられた群衆野次馬群の一部は暴徒と化し滑走路に進入する有様だった。挙句の果てに一行の進行を阻むに及び市内までの数距離を行列行進を組んで市内中心地にある滞在先のグラナダホテルまで押し寄せた。

 ガルデルはコロンビア映画配給会社の専属興行によりレアル、ナリニョ、オリンピア映画館で当時の習慣であつた上映される映画の後で出演したのである。
カルロス・ガルデルが出演した劇場のスケジュールの記録を再現してみると:

614日夜1030; レアル劇場=タンゴの王様デビューする。映画“ラ・バタージャ(戦闘)”の後でガルデル登場。(入場料特別料金$1.43ペソ)
615日(土);レアル劇場=映画“ヘンテ・デ・アリ-バ(目上の人)”午後と夜間の部の二回興行。
616日(日);レアル劇場=映画“ヘンテ・デ・アリーバ”夕方6時、夜9:15、二回興行。
617日はガルデル休み
618日(火); サロン・オリンピア=映画“ヘンテ・デ・アリーバ”同時出演(上等席077ペソ、一般席0.33ペソ)
619日(水);ナリーニョ劇場=映画クリメン・デ・ヘレン・スタンレイ(~の犯罪)入場料が下がる0.75ペソ(ナリーニョ劇場の詳しいデータは残ってい無いく、当時の劇場で再現維持されている劇場はほとんど無く、21番通りの脇にあるファエンサ劇場だけが現存するがガルデルはこの劇場に出演してい無い)
620日(木);レアル劇場=映画“エル・レモリーノ(竜巻)”入場料上席075ペソ、サロン・オリンピア=映画パレン・ラ・プレンサ(印刷機よ停まれ)
621日夕方6時(金);何処の劇場でもガルデルの出演はなし。ボゴタ市公共劇場にてエリサ・ウルンチュルッー(ピアノ)指揮による子供達のタンゴコーラス演奏が招待されたガルデルに捧げられた。ガルデルへの敬意コンサートには彼はひごく感激の意を示した上にコンサート主催者一同を彼一行の宿泊先のグラナダホテルに感謝の礼を尽くす為に祝杯の場を設けた。
私のレパトリーを純真さと清く歌う子供達の姿に感嘆させられました。又子供達から受けた感想では先生の忍耐ある指導がにじみ出ている。それは芸術家本業の生活に稀に見られる様にアチーストへの憧れと献身的な作業です。先生と子供達のお蔭によりボゴタへ来た良い褒美を頂いた。感謝いたします。】カルロス・ガルデル 1935621日                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                             

622日(土);レアル劇場=映画“メロディア・エン・アスール(青にてのメロディー)”今日がガルデル最後の出演と告示されたが観衆の強い要求で翌日に特別興行を約束する。
623日(日);レアル劇場=映画“メロディア・エン・アスール(青にてのメロディー)”、入場料上等席0.75ペソ。ガルデルのボゴタ市公演は全部で12回。(グラナダホテル近隣にあつたレアル劇場9回、コルパトリア塔近くにあつたサロン・オリンピアで2回、大統領官邸の南にあつたナリーニョ劇場で1回、現在これ等の劇場は跡形も無い)。

623日午後1115ボリーバル広場の脇にあつた“Voz de victor(栄光の声)放送局のお別れ番組に出演、5千人の観衆が外にも溢れた。まずは“インソムミニォ(不眠)”から歌い始め、“クエスタ・アバホ(下り坂)"と"テンゴ・ミエド・デ・トゥス・オホス(お前の瞳が怖い)”を。そして、ホセ・アギラールのギターソロ(曲不明)"エル・カレーテロ(御者)”で一部を締めくくり。二部は“カタマルカ”、“メロディア・デ・アラバル(場末のメロディー)”、“アガラーラ・シ・ポデス(出来たら捕まえろよ)”、“テンタシォン(惑わせ)”、“シン・ソン(ソンも無く)、最後に“シレンシオ(静けさ)”、“ルモーレス(うわさ、コロンビア民謡)”、など数曲続けて歌い終わり、観衆に感謝とお別れのメセッージを告げて、最後に“トモ・イ・オブリゴ()を歌う。グラナダ・ホテルでの夜のお別れ晩餐会の席で、“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード(わが郷愁のブエノスアイレス)”を歌ったという記録もあるが確かではない。 

(ガルデルは各公演に備えて事前にプログラムを組む事をせず、その時の雰囲気で即座に閃きに任せてタンゴを歌う習慣だったそうです)

そして、ガルデルは次ぎのメッセージで観衆に別れを告げています。
 『最後のタンゴを歌う前に、貴方たち皆さんに絶大な感銘を受けた事を心に納めつつ、ボゴタの皆さんに別れを告げます。そして、私に向けた拍手の中に子供達の微笑み、(故郷の子供達の郷愁を誘います)と淑女達の心温かい眼差しの出会い。もしも、誰かに私のこの長い生存の内に最良の配慮を授けられた経験があるかと尋ねられたら、当然の事ながら忘れることなく必ず貴方達の名を指摘します。絶大な好意を感謝します。ありがとう!友人たちよ…、この地に戻る事はわかりません。人は希望を託し、神が運命を授けるからです。  私の友人たちよ、ごきげんよう!さようならとは言えません。何故ならこの魅力的な皆様の歓迎と貴方達の息子同然の別れの扱いを受け、言葉もありません』の言葉を最後に、“トモ・イ・オブリゴ”を歌う。この公演後グラナダ・ホテルでのお別れ晩餐会で“ミ・ブエノス・アイレス・ケリード”を歌ったとの記録があるが、この歌がガルデル生存最後のタンゴになったわけだ。

(ガルデルが“ビクターの声”で歌った曲で“テンゴ・ミエド・デ・ツゥス・オホス”は、ホセ・アギラールの作曲“テンゴ・ミエド”19281215日パリで録音と同曲ではないかと思われる、レコード番号は18934Aである) 
 (*)ファエンサ劇場は復元された、コロン国立劇場は今でも国内外の重要なアチーストの公演が行なわれている。

参考資料:
(1)「 Gardel en Bogota」EL Blog de GHNB
(2)「La vida y las canciones de Carlos Gardel 」
Jaime Rico Salazar